眼鏡夜話
灰崎千尋
或る夜
「キスするのに眼鏡が邪魔になることがあるなんて、知らなかった」
そう言って、彼はまた私の唇をむさぼった。
舌を絡ませ、鼻を擦りつけ、身体に指を這わせる中で、私の眼鏡と彼の眼鏡のフレームが重なってカチャリと音を立てる。
「外す?」
尋ねた私の頭を撫でながら、彼はゆるゆると首を横に振った。
「外したら見えないじゃん」
大事な夜なのに、と彼は付け加えた。
「相手が眼鏡なの、初めて?」
私の問いには答えず、首すじから胸、腹へと彼の舌がなぞっていく。そうして彼の冷たいメタルフレームがへその辺りの肌に触れ、思わず吐息を漏らしてしまう。
それに気づいた彼は、眼鏡の当たったところへキスマークを付けるように、強く吸った。
「あんたは、違うんだ」
その声音は少し拗ねている。
それがあんまり可愛らしいので、私がふふ、と笑うと、腹の肉を噛まれてしまった。
「私は眼鏡の似合う人しか好きになれない」
私が言うと、彼の目が眼鏡ごしに見上げてくる。
「俺、似合う人なの?」
「自覚ないんだ」
「ないよ、初めて言われた」
「みんな見る目がないなぁ」
「あんたが見てくれたからいい」
機嫌の直った様子の彼は、自分の噛んだ跡をぺろりと舐めた。
ベッドの上で二人、裸に眼鏡だけを身につけて肌を合わせる。
私たちは眼鏡無しには、愛し合う相手の顔すらはっきりと見ることができない。私はその不自由さすら愛おしい。
私は彼の熱を受け入れながら、彼の耳と眼鏡の蔓を、両手でそっと包み込んだ。私の身体の奥が疼いて、彼をぎゅうと締めつける。
レンズの向こうで彼の目がぎらりと光った。
「汚れちゃったね」
私が言うと、彼は戸惑いを浮かべた顔で私を見た。
「な、何が」
「眼鏡だよ」
私はその隙に、彼の眼鏡を両手で外して攫ってしまう。焦る彼に構わず、私は台所へ向かった。
シンクに置いてある眼鏡用洗剤を彼の眼鏡に吹きかけて、水洗いする。
「そんなの明日でよくない?」
目をしぱしぱさせながら、追いかけてきた彼が言った。
「だめ。起きてすぐかけた眼鏡が汚れてると、何だかげんなりするし」
「……あんまり気にしたことない」
「いいから。ほら、綺麗」
水気を拭き取った眼鏡を、そっと彼にかけてやる。
すると彼は何か思いついた顔をして、「じゃあ俺も」と私の眼鏡を外し、同じように洗った。そうして慎重に私にかけさせる。
「なんか、指輪交換みたいだよね」
まるで誓いのキスのように、彼は私に口付けた。二人の眼鏡がまたカチャリと音を立てた。
眼鏡夜話 灰崎千尋 @chat_gris
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