月夜のシンデレラ
入川 夏聞
本文
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「さあ、行こう」
月明かりとは、あんなにまぶしいものかしら。
窓から伸ばされる、その細い手。
彼のその言葉に、私の胸ははずんだ。
ついに来たんだ、と思った。
幼いころから、待ち続けていた、突然の変化、その予兆。
私の運命が、ようやくめぐり始める。
そう、思った。
「はやく抜け出そう、こんな町」
私は、彼の手をとり、そしてそのまま、窓のむこうへーー。
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朝、起きて、パジャマから制服に着替えて、はしごにつかまり、台所へとおりていく。
何も変わらない日常に、私はいる。
せまいアパートの台所には、当然、大きなテーブルがあるわけでもなく。
あるのは、家族三人がつましく囲めるほどの、小さく丸いちゃぶ台だ。
「おはよう、ミヤコ。ようやく、はしご降りてきたね。ほら、早くたべちゃいなねえ」
お母さんが、台所で洗い物をしながら声をかけてくる。お父さんはもう、出かけたらしい。
「おはよう。わかってるよ」
私はそのまま、つかんでいるはしごをおりて、ちゃぶ台に乗っている目玉焼きとお味噌汁という、いつもと代わり映えのしない朝食に、しっかりと両手を合わせた。
「いただきます」
普通の人にはちょっと信じられないかも知れないが、うちのアパートの部屋は、つくりが少し変わっている。
一見、せまい六畳一間の部屋に見えるが、部屋の真ん中、よりも少しだけ壁に近いところに、鉄のはしごがおりている。その上には、人が中腰でようやく動けるほどの四畳弱のスペースと、わりと大きな正方形の天窓が、天井の傾斜に合わせて斜めについている。いわゆるロフト、というやつだ。
そこが、私の部屋、みたいな空間になっている。両親が、年頃の私のために近所から引っ越してまで、ようやく用意してくれた、大切な空間。もちろん、着替えるときは座ったままでしなくてはいけないので、多少窮屈なのだが、別に、大したことはない。
「ほら、遅刻するよ。お寝坊さんね、良い夢でも見ていたの?」
お母さんが前掛けで手をふきながら、ちゃぶ台に座る。最近少し太ってきたようだから、ふうっ、と少しだけ息を吐いている。
「夢、ねえ。そんなの、忘れちゃったよ」
「あら、そうなの。まあ、そんなものよねえ」
特に深い意味もなさそうな様子を見せて、お母さんはテレビの方へ視線を向けた。
『シンデレラ症候群という心の病が、新たに意味を変えて、若者の間で広がりつつあるようです』
コメンテーターの言葉に興味を持てない私は、さらさらと味噌汁を飲み干した。
「あ、そういえば、今日クラス替えよねえ」
「うん、そうだよ。今年の適性検査の結果、この前、渡したでしょ?」
「ええ、そうねえ」
お母さんは肩肘をつきながら、退屈そうにテレビを見つめている。
「ねえ、ミヤコ。あなた、あの適性検査の結果、どう、思ってる?」
なんだか、さわりたくないものに近づくような、遠回りな物言いが、お母さんにしてはめずらしい。
「別に。どうでもいいや、て思ってる」
「そう……それ、お弁当ね。忘れないように」
わかった、と声をかけても、お母さんはずっとテレビをぼんやりと眺めていたので、私はちゃぶ台のはしに乗っていたお弁当を持って、家を出た。
お母さんがさっき言っていたとおり、今日は九月一日、クラス替えの日だ。
一ヶ月前に配られた適性検査の結果によって、クラスが振り分けられる。
私の高校は、ごく普通の公立高校なので、私立のような独自カリキュラムやらルールやらはなく、数十年前にお国が決めた、全国統一適性検査にしたがっている。
この結果によっては、飛び級で何人かは進学していくし、高校ともなると、進学可能な大学も、就職先も、絞られてくる。小学校や中学校までは、将来つくことができる基本職八百種それぞれについて、統計やAIで導かれた適性結果が、簡単な数値や機械的なコメントで表されているだけだった。
四月入学はそのままなのに、この時期にそうしたクラス替えが行われるのは、もともとは海外留学のためだの、九月入学が頓挫した苦し紛れだの、色んな理由があったらしい。
ともかくも、一年のうちの一大イベントであろうことはかわりない。
なにせ、将来がどんどんと、運命づけられていくのだから。
私の適性検査の結果は、就職だった。
そのうち、地元にある工場やホームセンターなどの会社名が載っていた。
その結果を受け取ったとき、私はどこかでとても納得したし、もう世界がどうなろうと関係ないとも思ったし、足元がゆらゆらとする、知らない町で置いてけぼりをくったみたいな感覚も味わった。
つまりは、うちのお父さん、お母さんと同じような結果だった、と、それだけのことで、特に驚くには当たらないが、それなりにガッカリ、というか、それなりにショッキングな内容ではあったのだ、私にとっては。
わかりきっていた結果が、いざ現実になってしまうと、人はつい、大昔に封印したはずの記憶まで、思い出してしまうものらしい。
そして、思い知る。やはり私には、つまらない未来しか、やっては来ないのだと。
私は本当は、画家になりたかった。
小学二年生のころ、県立の美術館への見学会があった。
私はそこで、自分の絵が飾られている光景を見た。たまたま図工の時間に描いたひまわりの絵が、県の展覧会で佳作になったのだ。
『あ、ミヤコちゃんの絵だ!』『すげえな!』『キレイねー!』
たくさんの飾られた絵の中に、私が描いた絵があって、それを周囲がほめてくれる。
それは、私にとって、とても幻想的な光景だった。同級生の指差すところに私の絵があるのに、その遠くにある絵は、確かに私の指先が生み出した、という確信的な感触がそばにあるのだ。私は何度も、その遠くに飾られた絵と、自分の指先を見つめては、この人生で、本当に、これから何かがはじまるのだという強く弾けるような予感に、酔いしれた。
そうして、私はその甘美な感覚のとりことなって、ひたすらに絵を描くようになった。
ノートの端や、テストのすみに。
誰かがまた、私の絵を、見つけてくれるように。
だが。
『画家どころか、漫画家にも、イラストレーターにも、なれないなあ。この適性結果では』
絵を描くことに夢を見いだしていた私が、中学生になったころ。
少しずつ、積み重ねた適性検査の結果から、ぼんやりとではあるが自分の夢が、ゆらゆらとはるか遠くに感じられてきた、そんなある日。
担任の教師から、はっきりといわれた。
『いまどきの画家は、肩書きが大事なんだ。手っ取り早いのは専門の大学を出ることだが、お前の成績では無理だ。また、漫画家やイラストレーターも、今や副業でやる者もいるほどの人気商売、なにせ、ネット上でいくらでも売買できる世の中になっているからなあ。それだけにライバルも多く、エンタメ系のコンテンツはあふれにあふれて、文字通り、掃いて捨てるほどある。まともに目指す職業ではないのが実情だ。それとも、お前、すでに何か、ネット上で話題になるような作品を残しているか? 最近ではなあ、少なくともお前くらいの年齢ならば、一角の才能を世に示していなきゃならんのが、こういった業界の現実なんだよ。悪いことは言わん。もっと地に足をつけて、物事を考えなさい。ほら、このお前の希望に対する、適性検査の結果欄を見てみろ』
そこには、こうあった。
ーーあなたの希望:画家、イラストレーター
ーーあなたの適性におけるアドバイス:あなたの国民生活管理システムからの行動記録および実際の希望職種についてる方の行動記録を照らし合わせたAI診断結果によると、あなたが希望の職種につける可能性は、限りなくゼロに近いものです。
あなたの普段の絵を描いている時間は、一日あたり平均、一時間十二分、でした。これは、希望職種についた方の、約五分の一の時間、にあたります。
あなたの現在の絵の質は、非常に低いです。現時点から、希望職種の一般的な質に到達するまでに必要な一日の練習量は、高校卒業時点までの場合、一日三十六時間、必要です。また、大学卒業時点までの場合、一日十二時間、必要です。
これらの結果から、あなたが希望の職種につくのは、とても残念ですが非常に難しいといえます。ぜひ、広い視野を持って、他の分野にも積極的に興味を持つことをおすすめします。
『高卒で画家になるのに、一日三十六時間などと、イカれた数字が出てしまっている。また、大卒でも毎日十二時間だ。事実上は不可能な数字だし、ましてや、お前の適性検査では大学には進学できん。昔のように、たくさん大学があった時代とは、もう違うのだからな。あきらめろ、幸い、普通の公立高校までは進学しても大丈夫なようだから……』
それから、中学の担任はしきりに、いまどきのクリエイター志望はとにかくネット上に作品を載せ続けるているのが普通であり、各家庭に配られた公式タブコンだけできちんとしたパソコンも持っていないお前は話にならない、だけでなく、それではそもそもがろくな職業にもつけない、などと、一心不乱に、結局は私の夢をあきらめるよう、まくし立てていた。
私はその日、泣きながら帰った。
お母さんにパソコンを買ってくれるようお願いしたかったが、泣きべそで帰ってきた私を心配そうに抱きしめながらも、『そっか。適性検査の、季節だものねえ』とさみしそうにつぶやくお母さんの声が、私にいろいろなことを理解させた。
そもそも、我が家はせまいアパート暮らしで、お父さんもお母さんも高卒で、それはきっと、今日の私のような経験を、何度もなんども味わってきたに、違いなかったのだ。
私はそうして、いつしか夢を見ることを、忘れてしまっていたのだった。
「えー、君たちCクラス担任のフカガワです。高校生活最後の適性検査結果でこのクラスにきた君たちは、全員が就職予定となります。年明けには面接試験がありますが、それまでは適性検査で内示の出た企業での実習含む、就職に向けた授業が、これから始まります」
座りなれない椅子の感触がする、新しい教室で、クラス替え後のオリエンテーションが始まっている。
夏の暑さがじっとりと残っているはずの教室内は、それでも、前のクラスよりも人が少ないからか、どこかしんみりとした静けさに付随する涼しさのようなものが感じられる。
私のとなりの席には、誰もいない。
「よし。山田」名簿を見ながら、フカガワ先生が呼ぶと、「はい」と落ち着いた声で、アキヒロが立ち上がる。
「山田。お前が、このクラスの学級委員だ。しっかり、やれ」
「はい、わかりました」
特に何の感慨もなさそうな様子で、アキヒロは答えていた。
小学校から彼とは一緒だったが、ついに最後まで、彼と同じ“クラス”で、私の青春は終わるのだ。昔から、にこにこと愛想笑いと良い返事だけで自分の主張がなく、いざという時にはいつも曖昧な態度で逃げていくような、気持ちの悪いやつだった。スポーツも勉強も冴えない帰宅部の彼が、その従順な態度をおそらくは適正検査で評価され、遂にはクラスのトップの座についた。つまりは、“就職”とは、そういうことなのだ。そして、私はいまや、彼以下の存在として、こうして息をひそめている。
そう思うと、もうこのオリエンテーションも無機質な雑音にしか聞こえず、私は外の景色に目を向けた。
昼間だというのに、どこかで、ひぐらしが哭いている。
数日後、私は適性検査で示されたホームセンターで、インターンと称するアルバイトをしていた。
朝の八時半から、夜の十八時まで、正社員と全く同じ時間で、労働をする。
もともとがアルバイトもしたことのない私には初めてのことばかりであったが、なんとか初日は無難に過ごしたつもりだ。
「よし、橘さん。初日でお話することは一通りできたから、残り三十分は売り場を自由に見てきて。いきなり全部とはいわないけれど、理想としては、どの商品がどこにあるか、すべて把握してもらえるに越したことはないからね。時間になったら、今日はおしまいだから、また事務所にきてね」
「はい、わかりました」
先輩の社員さんから優しく促され、私は愛想を保ち返事を返す。
だが、いつの間にか、あのアキヒロと同じ返事をしている自分に気がついて、少しおでこのあたりがモヤモヤとした。
深緑色のエプロンをつけた姿で、店内を歩く。
何度か訪れたことのある、平凡なホームセンター。まさか、自分がこの姿で歩きまわる日がくるとは思わなかった。
見上げるほど高いパイプや木材が並ぶ一角から、銀色に光る水道の蛇口が並ぶ一角、様々なケーブルや工具が並ぶ一角、そして、日用品……。
なにも考えずに歩きまわるにはとても広い店内で、私は一体、なにを求めて歩きまわっているのだろう。
何とはなしにしゃがみこんで商品を見る。手に取る。時々、お客さんが私のうしろを通り過ぎていく。
その度に、胸が締めつけられる。息が、つまる。私に、この無知な私に、どうぞ話しかけないでください、と、祈りの姿をした悲しげな逃げ口上が脳裏に浮かぶ。
「あー、すみません」
若い男性が、話かけてきた、らしい。私はしゃがみ込んだまま、お客さんに背を向けたまま、手に持った売り物のスポンジをにぎにぎとしつつ、まるで在庫でも調べてるようなそぶりで、聞こえないふりをした。
「……えっと、ミヤコ、だよね?」
「……」
どうしよう。どうにも、無視を通せない質問を、背後から投げかけられている。しかも、この声には、覚えがある。そして、私の予想どおりなら、こいつは、私を絶対に、逃がさない。
「をーいっ!」男が私のとなりに、飛び込むようにしてしゃがみ込んできた。
「ひえっ」と変な言葉を発した私は、手に持ったスポンジを取り落す。
「ほーら、やっぱり、ミヤコだ」
若い男……ダイチは、にっこりと屈託ない笑顔をして、「ひさしぶり!」といった。
「う、うん。ひさ、しぶりーー」
まさか、高校一年の頃に飛び級していった近所の幼馴染にこんなところで会うとは、思わなかった。
中学まで一緒だったが、このダイチという男はスポーツも勉強も絵に描いたように優秀で、うわさで聞いたその飛び級の話も、しごく当然のことのように近所では受けとめられていた。たしか、東京の大学に進学していった、はずだ。
「なーにやってんの、こんなところで。バイト?」
「えーと。まあ、そんなとこ」
「ふーん。結構、似合ってるよ、そのエプロン」
「あ、そう……」
ダイチは、にこにことしている。薄茶色に脱色された細い髪の毛が、長いまつ毛のあたりまでかかり、無邪気に揺れている。さすがに大学生ともなると多少は垢ぬけるものなのかも知れないが、好奇心にあふれたその目元の印象は、昔と変わらない。
“似合っている”という彼の言葉に、きっと、裏はないのだろうけれど。
「そういえば、まだ絵、書いてるの?」
「いや、今は、もうーー。最後のコンクールの締切は、もう終わっちゃったし」
美術部で描いた最後の絵も、結局は入選を果たせずに終わった。最後の最後で描いたのは、ひまわり畑に立つ白いワンピース姿の少女だったが、実際に描いてみると、自分でもおかしくなるくらいありきたりな絵が出来上がっており、“わー、先輩さっすがー”という乾いた感想をもらう程度の作品を残して、私は部室を去ったのだった。
やれやれ、イヤなことを、思い出させてくれる。
昔から、ずけずけと、自分の好きなように生きている人間なのだ。このダイチという男は。その証拠に、暗い顔をしたはずの私との間にできた、この気まずい空気をものともせず、彼はむしろ退屈そうな表情さえ、浮かべている。
「ふうん。ノートの端絵は?」
「はあ? そんなもの、とっくに描いてなんかいないわよ」
「えぇ、なんで?」
「なんでもへったくれも、ないの。いつまでも子供じゃないんだから」
ダイチが昔からよく、私の端絵を盗み見ていたことを思い出した。その度に、私は不平を鳴らしながらノートを隠していた。
絵のことは、もういい。話題を変えて、この場を退散しよう。
「そんなことより、ダイチ、いつ帰ってきてたの。たしか、東京の大学に進学したと思ったけど」
ちらばったスポンジを整えて、私が立ち上がると、彼も同じように立ち上がる。
わざとらしく腰のあたりをパンパンと叩いて、さも忙しいというように、私は歩き出す。すると、やはり彼も、歩き出す。
「あー、今はアメリカの大学に籍をおいてるんだ」
「はあ? まあ、さすがは秀才さんね。うちらとはデキが違うわ。それならさぞかし、忙しいんでしょうね」
「いや、今期から休学したんだ。それで、ひさしぶりにこっちへ帰ってきた」
「へー。それって、ずっと毎日お休みってこと?」
「まあね。そういう考え方もできるなあ」
なにを、にやついてやがる。
胸の中を、何か大きな手で握りつぶされる不快感が広がって、足どりが少し、早くなる。
日用品コーナーを抜けて、園芸品が並ぶ倉庫の方へ足を向ける。ちらりと館内の時計を見やると、そろそろ就業時間が終わるころだった。
ダイチはなにやら、世界のあり方はどうだとか、日本人は視野がせまいだとか、よく意味のわからない自慢めいた話をしている。ようは、遊びほうけているのだろう。金と暇がある人間が、好きそうな話だ。
すたすたと目の前だけを見て歩いていると、ふと、下手な考えが脳裏をよぎる。
私はずっと、こうして時間に縛りつけられたままの人生なのか。いつか、何か奇跡のようなことが起こって、私をこの窮状から救い出してくれる。人生とは、そういうものでは、ないのだろうか。毎年、適正検査で当たりを引いて、どんどんと人が選ばれていく。私は、その抽選から、本当に漏れてしまったのだろうか。
いけないね。いけないなとは、思いつつ。
それが人生における負け組の思考パターンなのだということを頭では理解していながらも、私はまだ、“負け犬”にまで身をやつすには、修行が足りないようだ。お父さんやお母さんのように、きちんとそれを受けとめて生きていけるようになるには、いったいあと何年、私はこの息苦しい思いを続けていかねばならないのだろう。
「……っていう研究もある。やっぱり、“アマテラス”みたいな国民生活管理システムに依存した社会体制は、もう限界なんだよ。ミヤコは、今何年生なの?」
「はあ? 普通に、高校三年生だよ」
「今年の適性検査、なんていわれた?」
「……あんたに、それ、関係あるの?」
「いや、ないね。それどころか、“適性検査”なんて、ミヤコ自身にも、関係ないはずなんだ」
「なに、それ。ちょっと、意味わかんない」
「例えば、進学とか、就職とか、適正検査なんかで決められるのはおかしい、ていう意味さ」
「ふうん。その適性検査でうまいこと選ばれて、飛び級で海外にまで行っちゃった人のお言葉とは思えませんね」
園芸売り場に並ぶ鉢やプランターをけらないよう、つかつかと靴音を響かせて通り過ぎる。
いま、どこへ向かっているのだったっけ。ああ、そうそう。事務所に向かっているんだった。
「俺は、自分がしたい、と思ったから海外留学したんだ。適性検査に従ったことなんか、一度もないよ」
「へー。でも、その適性検査に選ばれなければ、飛び級も、大学や海外留学なんかも、できないでしょうよ」
「そんなのは、コツだよ。ネットで調べればすぐにわかる。例えば、大学に行きたいなら勉強もあるけれど、家の机に毎日一時間以上座って勉強をするとか、週に三日以上は図書館へ足を運び、希望する進路に関する資料をたくさん借りるとか。そうしていれば、少なくとも入試を受ける許可くらいは判定されるさ。あんなもの、所詮はただのAIなんだから」
「そうなんだ、コツなんだ。じゃあ、私はそんなコツなんてもの、全然知らないで今まで生きてきたんだね。誰も教えてくれなかったよ、そんなこと。お父さんも、お母さんも。学校の先生だって、そんなことは教えてくれなかった」
「そりゃそうだよ、大人だもの。変なことを吹き込んで子供がおかしな行動をしたら、適性検査にどんな悪影響があるかわからない。そう、思い込んでいるんだ。自分の将来にかかわる問題に立ち向かえるのは、結局のところ、自分だけなんだ」
「ごめんね、そろそろ、いいかな」
事務所のそばについた私は、ダイチの方へ向きなおる。彼が思いのほか、真剣そうなまなざしを私へ向けていたので、そのとき、思わず目を床の方へ流してしまった。灰色のつるつるとした床の表面に、天井からの照明の白が、ゆらゆらと映っている。
「私、一旦事務所にもどらないといけないの。それに、ダイチのいっていること聞いてると、なんだか全部アホらしく思えてくる。適性検査にうまいこと選ばれたあんたに、選ばれなかった私について、何をいう権利があるの? 適性検査をうまく、そのコツとやらでかいくぐって好き勝手やってる人が、私みたいに真面目に適性検査に従って、こうして働き出している人間に、何かいう資格があるの?」
「そうか、ミヤコ。“就職組”、なのか」
彼のその言葉を聞いて、一瞬、息がつまるような胸の痛みが走った。しまった、と思った。内心は気にしていないつもりで、つい口をついて働いていることを口走ってしまったが、いざ、このインテリ人間から“就職組”などといわれると、たとえようのない悲しみがうずをまいて身体の中をのたうちまわる。しかも、ダイチの今の顔は、さもそのことに関心しているかのように、一切の哀れみがみられない、気持ちがいいほどの透きとおる表情なのだ。
「そうよ。悪い?」
「いや、全然悪くなんかない、けれど」
「なに?」といってにらむ私に、彼ははじめて、憂いを帯びた表情を浮かべはじめた。
「ミヤコ。就職って、ここで働くの?」
「さあ、知らない。他には、隣町の工場も候補にあがってるみたい。ここのインターンが終わったら、次はそこで働いて、そのうち面接受けて、内定した方に勤めるんじゃない? 今の段階じゃ、そんなのわかんないよ」
「……どっちに、ミヤコは就職したいの」ダイチの表情は、どんどん険しくなっていくような気がした。私の小さな胸には、何かに追い立てられている薄汚い野良猫の心象が浮かんできて、呼吸が少し、早くなる。
「どっちって……知らないよ、そんなの」
「もしかして、就職、したくないの」
「……」
それ以上、私は何もいえなかった。伸ばした片腕をかかえて、たたずむ私の視線が床に沈み込んでいる様子は、きっと口で伝えるよりも雄弁に、私の答えをダイチに伝えたのだろう。
「わかった、ミヤコ。まだ、中学のときに引っ越した、あのアパートに住んでいる?」
「ええ、まあね。うちはどうせ、遠くに引っ越すお金なんか、昔から持ち合わせてはいないし」
「それじゃあ、今夜、迎えに行くよ。あの天窓、叩くから」
「はあ、何をいってーー」
「ほら、六時になるよ。シンデレラはもうそろそろ、帰らなくちゃね」
いたずらっぽい笑顔は、昔のままだ。これまでの様子から、私が十八時あがりであろうことも推察していたようだ。彼には昔からそうやって、へんに気のつくところがある。
一度家に帰らなければいけないといって、彼はそのまま去っていった。あきれたことに、まだ実家には顔を出していなかったらしい。ということは、今日、こちらに帰ってきたのだろうか。
「……なにが、シンデレラよ。気持ちのわるい」
その下手な冗談に不思議とどこか浮かされながら、私は事務所で一通りの挨拶と着替えをして、家路についたのだった。
今夜は、天窓からよく月が見える。まんまるに見えるけれど、そうでないようにも見える。輪郭のはっきりしない様は、私の進路のようで、なんともいえない。
ロフトに敷いたふとんの中で、私は天窓からのぞく夜空をながめていた。
ダイチは、本当に来るのだろうか。いや、期待しない。期待に胸をふくらませるだけ、損なのだ。そのように、人生はできているのだ。
そういえば、今夜のお母さんとお父さんは、どこか上機嫌だった。
「今日ね、あのダイチ君。訪ねてきたのよ」
「ほお、そうかあ。ひさしぶりだなあ、彼も立派になっただろお」
「そうなのよ、おしゃれになっちゃって。ミヤコ、職場で会わなかった?」
午後八時を過ぎた遅い夕食時、仕事から帰ったお父さんも交えた家族三人でちゃぶ台を囲んでいると、そんな話題になった。
「“職場”っていわないで。まだ決まってないんだから」
「はいはい、そうだったわね。ごめんね。それで、ダイチ君は?」
「別に。たしかに会いはしたけど。なんで?」
「彼ね、夕方うちを訪ねてきて、あなたがどこにいるか、聞いていったのよ」
「ふうん。そうなんだ」味噌汁へ箸をつけて、私はくるりと一度、かき混ぜた。透き通った上澄みが、じわりと濁っていく。今夜のものは、すこし良いにおいが、する。
「わざわざ訪ねてくれるなんて、偉いもんだなあ。関心だなあ」
「そうねえ、私も偉いわあって思っちゃった」
お父さんとお母さんがそうやって平和ボケした会話をしている中で、私はたしかに少し、そわそわとしていた自覚がある。
いや、誰だって、“今夜、迎えにいくよ”なんていわれたら、それを考えずにはいられないのではないか。
かつて、自分の絵が佳作に選ばれて美術館にかざられると知らされたときも、やはりそわそわと浮足立つ感覚を覚えたものだ。
誰かに、自分が選ばれる。そんな奇跡を、人は誰でも、待っているものなのではないか。
(別に、ダイチとどうこうなりたい、なんて、全然、思わないけれど)
そんな夢見る年頃ではない、と自分では思っている。それこそ、ダイチがいっていた“シンデレラ”などという冗談を本気にするほど、私は愚かではない。
恋に恋するような、暇人の人生など、私にはそもそも用意されていなかったし、恋愛などというものが、私のつまらない日常をどうこうできるようなものでないことは、よくわかっている。
いまどきはやろうと思えば、相手の情報などネット上から自由に得られる。パソコンは持っていないが、普通にネットを使うのなら、スマホで十分だ。
お父さんもお母さんも、公共のお見合いサービスから相性診断で選ばれたカップルだと聞いている。つまり、適齢期になれば、適当にこういったサービスを使って簡単にパートナーは選択されるのだ。そんなもの、タブコンからいつでも“アマテラス”にアクセスすればいい。
ときどき、きちんとした恋愛を通じてパートナーを見つけたいという輩がいるが、その多くは適齢期を過ぎても結婚ができないことを、私は知っている。それでは、本末転倒ではないか。
普通の人、少なくとも私のような人間は、“お姫様”などではないのだ。
誰かに特別に選ばれることなんてないし、それを乗り越えられるような奇跡も起きることは決して、ない。事実、なかった。
それならば、それに応じた、賢い生き方、考え方、というものがある。
(だから、今夜だって、私は期待しない。ダイチが来ようが、来なかろうが、私には一切、関係ない)
コン、と、屋根のどこかで、音がした。私の鼓動は、それよりも大きな音を刻みはじめた。
私がガタガタと震えながら、ふとんのすそをつかみ、天窓を凝視していると、果たしてダイチの顔がのぞいた。そのときは、本当に、息が止まった。
彼は私が起きていることを確認すると、ちょいちょいと手招きをした。
それに導かれるように、ゆっくりと、私は天窓の下枠についたレバーに手をかける。
震えているのが、わかる。そのまま、レバーをひねり、押していく。
ぶわっ、と風が入り、すぐに静かになった。外側に開いた天窓は、そのままダイチが持ち上げて、ちょうど人がひとり通れるほどの隙間を開けて、カチりと留め具が鳴った。
「さあ、行こう」
月明りが、煌々とあたりを照らしていた。豊かな青白い光は、天窓や、屋根の塗装に反射して、ダイチの顔を照らし出していた。
彼がこちらへ伸ばしたその細い腕からのぞく素肌は白く、ふれたら何かが台無しになってしまいそうで、私は一瞬、その手を取ることを躊躇した。
が、彼はさらに腕を伸ばして私のしおれた花弁のようになった手先をつかむと、もの凄い力でこちらを引っ張り上げた。私の身体はいとも簡単に、月明りの下までひきずり出されてしまった。
「どこに、行くの」いまさらのようにぼんやりと聞いた私の質問に、彼はそっけなく答えた。
「別に。どこも行かないよ」
「それじゃあ、何をしにきたの」
「ちょっと、話をしたかったんだ。ミヤコの“シンデレラ症候群”を、何とかしたくてね」
「んなっ……!」
きっと、私の顔は耳まで真っ赤になったのだろう。待って、話を聞いて、とダイチはいった。
「せっかく月がこんなに綺麗なんだから。あそこで少し、話をしよう」
指さす方は、屋根の頂上だった。私はだまって、彼のあとに続いた。
「俺はさ、今度の休学で、一度世界中を旅してまわろうと思うんだ」
屋根の上で腰をおろして、ダイチと私は月をながめていた。
「中国の徹底した監視社会というのも体感したいと思うし、インドのベンガルールに友人がいるから、彼と一緒に最先端のソーシャル・サービスについて議論したいとも思っている。ユーロ圏は国の垣根を超えて統一化された生活管理の仕組みが整っているから、そちらでも生の声や雰囲気を感じてみたい」
「ふうん」
「いま、この世界の人々の多くは、行き過ぎた監視社会に疲弊して、そこから逃げ出したいと強く思っている。そうした議論が、あちこちのネット・サロン上でなされているんだ。ミヤコは、どう思う?」
「え、私?」
しばらく、私は考えた。でも、彼のようなインテリを満足させるような言葉は、到底思い浮かばなかった。
「ごめん、正直、どうでもいい、と思ってる」
「……」
呆れられるかと思ったが、ダイチは意外にも真剣な顔で次の言葉を待っているように私には思えたので、そのまま続けた。
「その、ネット・サロンとかって、大金払って、頭のいい人たちが群れてるグループチャットみたいなものでしょ。そんなところの議論なんて、私は知らないし、興味もない」
「でも、大切なことを、みんな話し合っているよ」
「それじゃあ、なんで有料にして、仲間うちだけで盛り上がってるの。そんなに大切なことなら、みんなに知らせなければいけないんじゃないの?」
「有料だからこそ、みんな真剣な議論ができるんだよ。それに、情報を発信するときには、きちんとしたメディアに対して寄稿している。議論の段階では、世間に広めることが有益な情報ばかりではないからね。それらを、信頼できる仲間たちと精査する。それが、サロンの良いところさ」
「どちらにしろ、私のような大したことのない人間は、かやの外なのね」
「いや、そんなことないよ。どのサロンでも、常に人を募集している」
「ちがうの。そういう意味じゃなくて。私には、この世界について議論すべき、何ものもない、ていっているの」
「それは、なぜ?」
「なぜ……って」
大きく一度、私はため息をついた。そして、屋根から見下ろせる限りの景色を見渡した。川が近いこのあたりは、昔から民家も少なく、周囲はうちのアパート前の古びた街灯を除けば、本当にまっくらだ。少し先の方に視線を向ければ、ひときわ暗闇が深くなるところに川が隠されており、その対岸と思われる方角に、ちらほらと、小さな民家から漏れ出る光がうっすらと見えるのみだった。だから、いまの私たちはちょうど月明りのスポットライトに照らし出されているようで、私はどこか、落ちつかない。
「なぜって、私はもう、残りの人生は決まっているもの。適性検査に従った、決まりきった人生。就職して、お見合いして、結婚して、つましい家庭を営む、私のお父さん、お母さんと同じような人生」
「そんなこと、まだわからないだろ」
「わかるよ。わかる。昔は、私もそれがわかっていなくて、どこかで誰かが私を選んでくれて、なにかとてつもないことが起こって、私の運命が劇的に変わって……なんて、思ってた。でも、そんなことは、全然、起きなかった」
「ミヤコ。それが……」彼の言葉を遮って、私は続ける。
「だから、この世界への議論もなにも、私にはそんなことへ参加する意味がない。興味もない」
「……」ダイチは、ゆっくりと立ち上がった。今夜は柔らかで涼しい風が微かにあるだけだが、細い彼の髪は、それでもよく揺れていた。
「ミヤコ。俺と一緒に、この町を抜け出そう」
「え……?」
「こんなところにいつまでも閉じこもっているから、君はいつまでも何か、外からの“奇跡”が起こることをねだって、それが起こらないことに絶望して、いつしかそんな状況を“運命”だなんて、とんでもない勘違いをしてしまっているんだ」
私はぽかんとして、座ったまま、彼の表情をしばらく見上げることしかできなかった。
「はやく抜け出そう、こんな町」
そういって、彼はとても真剣な表情をして、私に手を差し出してきた。あの、天窓から差し込まれたのと同じ、白く細い腕で。
「ふっ。あは。あははは……」
「ん。なにか、おかしかったかな」
どうにも、私はこらえきれなくなってしまった。不思議そうな表情で首をかしげるダイチを放って、私はその場でひとしきり、声を立てて笑った。
「おかしく、ないよ、あはは……おかしいのは、私。だって、なんか。ときめいちゃったから」
「え?」月明りの陰になって顔色はよくわからないが、きっとダイチの顔は、真っ赤なのだろう。今だけは、そう、思いたい。
「あはは……あー、おかしい。私ね、なんか、ずっと、誰かにそうやって、どこか私の知らない新天地へ連れて行ってもらいたかったんだって。実は、心の底ではそう思ってたんだって、いま、突然、気がついちゃった」
「うん、ミヤコ。それが……」
「“シンデレラ症候群”だって、そう、いいたいんでしょ?」
多少、ダイチは驚いた表情を見せたようだった。月明りに隠れていても、それくらいは、なんとなくわかる。
「昔は、違う意味だったみたいだけど。いまは、私みたいにありもしない“奇跡”が起こることを期待しながら、適性検査の結果に無気力に従うだけの若者のことを、“シンデレラ症候群”、なんていうんだよね。まるで物語の“シンデレラ”のように、灰かむりの身から奇跡的に、魔女やら王子様やらがある日突然あらわれて、人生が救われる。現実にはそんなこと、決して起こりはしないのに、適性検査の結果だけに縛られて、そのうち奇跡を願うだけになる。そうしていつしか自分からは行動しなくなって、活力を失ってしまう現代の病」
「よく、知ってるね」
「あれだけテレビで話題になっていれば、イヤでも知ってるよ」
そうか、とダイチは呟いて、また私のとなりに腰をおろした。
「ミヤコはさ、奇跡をずっと、待ってたの?」
「……そうみたい。おかしいね、奇跡なんて、とうに起こらないって、思い知っていたはずなのに」
いまは、何時だろう。あたりの暗闇はとても深く、しんと静かな夜なのに、空に浮かぶ月のまわりはいよいよ青白く、輝きを増しているかのように見える。
「……誰かに、手をさしのべられるだけで、こんなにも胸がはずむなんて……」
月を見上げながらゆるやかに放たれた私のつぶやきは、そのまま青白い空気の中にとけ込んでいった。
ダイチが、となりで何かをいおうとしていて、私はそれに、答えてはやらないと決めて、立ち上がる。
「ダイチ。今夜は、ありがとう。私、あなたがいっていたことのほとんどがまだ全然、わからないけれど……それでも、自分自身とは、やっと少し、向き合えたような気がする」
「うん、そっか」屋根の上を二、三歩進んで振り向いた私に、良かったな、と彼はいってくれた。
「なあ、ミヤコ。良かったら、本当に、俺と一緒に……」
私はそういいかけたダイチからまた目線を反らして、川向こうの小さな灯りの方を向いた。
「また、帰ってきてね」
「え……」
「世界を眺めてきたら、また、こうやって帰ってきて、お話を聞かせてよ。私はどこにも行かずに、この町で働いていると、思うから」
「ああ、わかったよ」
最後に見せたダイチの笑顔は、彼が私の端絵をのぞき込んでいたころの無邪気で明るい昔の表情、そのままだった。
ーー必ず、帰ってくる。また、ここで再会しよう。
そう約束を交わして、私とダイチは別れた。
また明日からは、適性検査によってはじき出された、それぞれの人生へと戻るのだ。
“シンデレラ”は、もういない。
私は、その夜から日記をつけることにした。誰に見せるでもない、自分だけの日記を。
余っていたキャンパスノートの最初のページ、その端には小さく絵を描いた。
まるい月と、しかくい天窓。
その窓の外から、手をさしのべる華奢な王子様と、それをつかもうと手を伸ばす、灰色の少女。
書き出しには、こう書いた。
「さあ、行こう」
(了)
月夜のシンデレラ 入川 夏聞 @jkl94992000
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