青い春

オトブミ

青い春(ワタリドリ side B)

熱気のこもる体育館。フローリングのワックスがやけに黄色く光っている。


軽い音を立てて、バレーボールが高く宙を舞った。


伊吹いぶき、いったぞー」

「はーい」


名前を呼ばれた俺は、軽く手をあげて仲間から託されたボールに向かって走る。足に力を入れて跳躍しようとした、その時。


右足のかかとを後ろから誰かに思い切り蹴られたような衝撃を感じた。一瞬遅れて、ばちん、と何かが弾けるような音が響く。


状況が理解できないまま、俺は自分が地面に倒れる音を聞いていた。


*


昔から走ることが大好きだった。肌で風の鋭さを感じるのがたまらなく心地よかったし、糸のように細くなる景色の変化を色で楽しむのも好きだった。


「伊吹くんは足が本当に速いね」


周りの人にそう言われるのは素直に嬉しかった。彼らに勧められるがままに入った陸上部で表彰されるようになると、走るということは自分の存在意義だと思うようになっていった。


マグロは泳ぐのを止めると死んでしまうというが、俺も似たようなものだ。少しでも走れない日が続くと、息苦しいような感覚すら覚えた。


だけど、どうやらアキレス腱を切ったらしい。痛みはないが全然うまく歩けない。当然走るなんてもってのほかだ。


体育教師で陸上部顧問である松田に連れて来られた病院で正式に右足アキレス腱断裂と診断された俺は、もれなく半年間の運動禁止令を食らうこととなった。


「先生、伊吹の足はもう元通りにはならないんですか」


陸上部顧問の悲壮な声が横で聞こえる。


「完全に元通りというのは難しいかもしれませんが、リハビリを一緒に続けていけば元通りに近い状態まで回復できると思いますよ」


「でも伊吹ほどの選手が半年も走れないなんて…酷すぎる」


松田が茫然と呟いた。


彼が今、俺以上に辛そうな顔をしているのは俺の未来を憂いているわけでは決してない。部の戦力を失うことを恐れているだけだ。


周りの大人たちが俺に期待しているのは走りだけだというのは随分前からわかっていた。俺は陸上というフィールドの上で踊らされていただけ。


競技という型にはめ込まれた窮屈さには嫌気が差していた頃だった。しばらく走れなくなることを考えると胃が締め付けられるような思いがするけれど、ここらで早めに「陸上選手」という肩書を外しておくのは悪くない選択かもしれない。


俺はその日のうちに陸上部を辞めることを松田に告げた。


*


整形外科医の笹木ささき先生はすごく感じの良い人だった。綺麗な白髪の持ち主で、俺の話をいつもにこにこと笑って聞いてくれた。リハビリを続けるうちに俺はこのおじいちゃん先生のことがどんどん好きになった。


走ることはもちろん、立つことすらまともにできず、叫び出しそうになると俺は、決まって笹木先生のところへ向かうようになった。


「伊吹くん、こんにちは。体の調子はいかがですか」


「まあまあかな。でも先生、1人でいると俺、すごいもやもやしてきちゃうんだ。話、聞いてくれる?」


診察室でそう泣きつくと、笹木先生は優しく頷いてくれた。


「俺、別に陸上を続けたかったわけじゃないんだ。タイムを縮めることがそんなに重要だってあんまり思えないから、俺」


俺は右足に視線を落として続けた。


「ただ、俺から走りを取ったらきっと何にも残らない。それが怖い」


これまでしがみついてきたものを急に失って、俺はたぶん迷子になっている。次はどこに行けばいいのか、何をすればいいのか。わからなくなってしまった。


すると笹木先生は、にこやかな笑みを浮かべたままこう言った。


「伊吹くんは面白いことを心配しますね。君はまだ17歳です。青春の真ん中にいながら、自分の価値に見切りをつけるのはあまりに時期尚早ですよ」


しわくちゃの手でそっと俺の両手を包んで、暖かい目線を投げてくる。


「会って日が浅いわたしでも伊吹くんが素敵な人間だということはわかります。何にもないなんて、笑止千万です。それに、何かを無くしたらまた始めれば良いんですよ」


先生の手から伝わる温度が、俺の全身の血を巡らせる。先生の言葉が、俺の凝り固まった頭を優しくほぐしていく。


俺、まだ自分のこと、信じてていいのか。

そう思うと、一気に気持ちが軽くなった。


*

「伊吹くん、本当にお疲れ様でした。完治おめでとう」


笹木先生から花束を渡された日には雪が降っていた。


「ありがとう。笹木先生のおかげだよ」


今の俺は、雪の積もった不安定な地面でも、しっかり踏み締めて立っていられる。


今日は感謝のほかにも、先生に伝えたいことがもう一つあった。


「先生、俺、整形外科医になることにしたんだ」


俺がそう告げると、笹木先生は驚いたようだった。


「足動かせない間、ずっと勉強してたんだ。こんなにちゃんと勉強したこと、今までなかったよ」


俺は鞄から分厚い参考書を出して見せると、先生は目を細めた。


「わたしも大昔、この出版社の参考書を使っていましたよ。懐かしいです。伊吹くんならきっと、素敵な医者になりますね」


「先生、俺、先生を超える医者になるよ。一回つまずいても、転んでも、何かをなくしても、大丈夫なんだって、また走り出せるんだって、元気をわけてあげられるようになりたいんだ。先生が俺にしてくれたみたいに」


そして、例え這いつくばってでも、俺は、走ることをやめない。俺は俺が走りたいと思う限り、死ぬまでずっと走り続ける。


理想の未来なんて都合よく用意されていない。待っていても来ない。だったら、自分で迎えに行くしかない。


簡単な道じゃないのはわかってる。それでも、俺は進んでいきたい。俺が羽ばたけるステージはきっと別のところにもあるって気づけたから。


「じゃあ先生、またいつかね」


先生に向かって手を振り、病院を背にする。


ああ、早く走りたくてたまらない。はやる気持ちを抑えきれず、俺は雪道を駆け出した。


体を突き刺していく冷たい空気が信じられないほど気持ちよかった。

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青い春 オトブミ @otobumi

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