寒い。

 電車を降りて、まずそう思った。別に手足や胴体は寒くないのだが、耳と指がとにかく寒かった。

 足早に駅のホームを進み、こちらを見て静かに待っている人影のもとへ向かう。

「……どうも」

「はい」

 僕が挨拶をすると、彼女は小さく答えた。

 無言のまま改札を抜け、外に出る。朝は薄く積っていた雪も、もう融けてアスファルトを濡らしているだけだ。


「雪が融けた後の景色って、なんか寂しいですよね」

「ああ、そうですね。たいてい曇ってて」


 どうでもいい話をする。ここ数日はこんな感じだった。


「あ、そういえば新作書いてるので、また読んでください」

「ええ、是非」

「へへ」


 彼女は、僕の左側で嬉しそうに笑う。丁度最近、面白い小説に飢えていたので、新作は大歓迎だ。


「短編の賞に出す予定で」


 彼女は静かに説明する。


「ジャンルは?」

「……恋愛」

「へ、え」

「違うんです! 応募要項でジャンル決まってて、だからしょうがないんです……」


 彼女は恥ずかしそうに頬を上気させ、弁解をする。今まで彼女の作品を二作読んだが、どちらもシリアスな内容だったので少し意外だった。


「でもでも……私、恋をしたことがないので分からなくて」

「想像でいいんじゃないですか」

「そんな……」


 僕は適当なアドバイスをして、少しだけ話題を変える。


「物語が書けるなんて、葉月さんはすごいですよね。僕にはどうやったって出来そうにないです」

「そんなことないですよ。ただ発想さえあればね」

「まあ、ね。それは」


 声を出すたびに、口から白い息がこぼれて、空に上がっていった。


「でも、比喩とか、何かを遠回しに伝えようというのは、なんか……難しいですよ?」

「例えば?」

「……恥ずかしくて言えません」

「そうですか」


 僕は少し笑いながら、彼女に問う。


「それは、有名なので言うと『月が綺麗ですね』みたいな?」

「ああ、えーと……まあそんな感じです」


 彼女は、少し意外そうな顔をして笑った。


「夏目漱石、読むんですか?」

「ええ、結構好きです」

「最近の男子はみんなラノベ読んでますよね。だから意外です」

「まあ、僕もラノベは読みますよ? 半々くらいかな」

「ふうん……」


 彼女は、意味もなく空を見上げると「ああ、そういえば」と思い出したように言う。


「あれは夏目漱石が本当に言ったのか分からないらしいです」

「……?」

「ええと『月が綺麗ですね』って後世の人の創作かもしれないらしいです。漱石伝説、みたいな?」

「へえ……そうなんですか。なんかつまらないですね」

「ええ、まあ」


 彼女は曖昧に答えると、そっと息を吐いた。


「今日の夜は満月ですね」

「ああ、そうでしたか?」

「はい。私は満月が好きなんです」

「僕は……満月も嫌いじゃありませんが、月はちょっと欠けてるくらいの方が好きですね」

「何故?」


 不思議そうに首を傾げる彼女に、大した理由はないんです、と断りを入れてから僕は続ける。


「なんか、何でも中途半端なのって良くないですか?」

「うーん? ああ、何でもいいから反抗したいみたいな? 反抗期ですか?」

「……違いますよ。だいたい何に反抗してるのかよくわからないし」

  

 横断歩道をゆっくりと渡り、一瞬、彼女の方を窺う。


「じゃあ、また」

「はい、また」


 ***


「書けない?」

「はい……」


 曇天の下、私は重い気持ちで楓夏くんに話す。彼は表情の読めない目で、ピンク色のノートの、半ページも埋まっていないプロットを眺めていた。


「やっぱり私には恋愛のことなんて書けないんです……」

「経験がないから?」

「そうです……」


 明らかに意気消沈している私に、彼は明らかに苦笑していた。


「まあ、あんまり無理せずに。別に、その賞にわざわざ応募する必要はないですよ」

「でも、悔しいんです。一度書きかけた物をやめるのは」


 私は、何か始めたことは最後まで諦めずにやり遂げたい人間だった。


「楓夏くんはないんですか?」

「ん?」

「恋」

「何故僕?」

「だって、私は楓夏くんに小説を無償で提供してるんだから、見返りとして、ネタになりそうな話を聞かせてください」


 困ったような表情の彼を見ながら、詭弁だったなぁ、と思う。だって、楓夏くんに自分の作品を読んでもらい、批評をしてもらっている時点で、それは見返りとしては十分すぎる程なのだから。


「僕も生憎、人を好きになったことが無いもんでね」


 彼は静かに言う。


「友達に聞けば良いんじゃないですか?」

「それは……だめです。あの人たちは、簡単に人を好きになって、でも数週間で『幻滅したわー』とか言ってまた別の人を好きになって」


 違うはずだ。私は呟く。


「あれを恋とは言いません。たぶん」

「わかりませんよ。人を好きになるってそんなもんなのかも。……じゃあ、それを皮肉にして書けば?」

「それじゃあ絶対に受賞しませんよ」


 私は少しだけ笑った。


 一瞬立ち止まり、車が止まったのを確認してから、横断歩道を渡る。


「じゃあ、ノート、返してください」

「ああ、ちょっと待って」


 いつも通りの場所で別れようとすると、彼は少し控えめに、私を引き止めた。


 楓夏くんは、鞄からペンを取り出すと、ノートのページに、素早く何かを書き付けている。


「まだ見ないでください」


 彼は恥ずかしそうな笑みを浮かべながら、閉じたノートをこちらに差し出した。


「或いは、アドバイスにはならないかもしれませんが。……まあ、それは葉月さん次第です」

「……?」


 彼は、いつも通り「じゃあ、また」と別れの挨拶を告げ、ゆっくりと去っていった。最後に「今日は、夜の十時から晴れです」と意味不明なことを呟いて。


「見ても、良いのかな」


 百メートルほど進んだ後、薄暗い裏道、街灯の下でそっと、ノートのページを繰る。

 もう書いてあるページから、数ページほど後に。薄い字で書き殴られたそれを読んだ瞬間、心拍数が上がり、顔が熱くなるのを感じた。


「今日は月が綺麗なはずです」


 なぜか出てきた涙を服の袖で拭い、鼻をすする。真っ赤になっているであろう顔を隠そうと試みるが、耳までは隠せなかった。


「今日は月が綺麗なはずです」


 私はまだ、この言葉の意味も、この気持ちの意味も、何も知らない。


 

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満月と、少し欠けた月 @UzuraRui

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