満月と、少し欠けた月
鶉
落とし物
今日も疲れた。
流れていく景色を見ながら、そんなことを思った。
今日は金曜日。
長い長い一週間をやりきったことに少々の達成感を覚える。
やっぱり学校は嫌いだ。友人は休みがちの僕を笑うが、僕にとって学校がどれだけ居辛い環境なのかあいつらには理解できないだろう。頭悪そうだし。
女性の声でアナウンスが流れる。続いて、どこか違和感を感じる英語のアナウンス。
別にいじめられているわけでも、嫌な教師がいるわけでも、勉強がわからないわけでもない。ただ、ただただ……まあ、強いて言えば、人間が嫌いなのだ。
それでも僕が完全に不登校にならないのは、この時間のためかもしれない。本当は乗ってはいけない、学校で指定されたものより一本早い電車に駆け込み、ガラガラの車内で一人、移り行く景色を眺める。そう、例えるなら、仮病で早退した時のような、背徳感。学校に行って得られるものといえば、そのくらいだろう。
哀しげな唸り声をあげて減速していく三両編成の電車は、やがてホームに進入し、ややオーバーラン気味で停止する。まあ、田舎の私鉄だから。この程度は許容範囲だ。
がらがらと、騒々しい音を立てて開いたドアからゆっくりと降りる。
唐突に冷気が僕の体を刺す。もうすぐ……いや、もうすでに冬だった。
朝、道の水溜まりが凍っていたことを思い出す。
慌てて学ランのポケットに、手を突っ込んだ。
別に、この電車に乗っているうちの学校の生徒は、僕だけじゃない。各クラスの僕みたいな人間が、無言で各車両に数人ずつ乗車していた。二つ向こうのドアから降りた女子もその一人。名前は知らない。クラスも。知っているのは、同じ学年だということだけだった。
彼女は膝丈のスカートから覗く白い足を寒そうに忙しく動かしながら、改札まで小走りで進んで行く。下がスカートだけの割には、上はセーターにブレザーと、暖かそうな格好だ。それなら下もズボンにすればいいのに、と思うが、昨日は比較的暖かかったから、油断したのだろう。多分。
僕も、ゆっくりとホームを歩き、改札で眼鏡の駅員に定期券を見せる。田舎の私鉄に自動改札機なんてハイテクな物は無くて、切符だって駅員が受け取ってカゴに集めるだけだった。
そのまま改札を抜け、県道を下っていく。横断歩道は、四十メートルほど下った場所にあった。交通量が少ない日は適当なところで横断するのだが、今日は多いので仕方がない。
丁度、例の女子が横断歩道を渡ろうとしているのが見えた。車が止まり、彼女は駆け足で横断する。渡りきるかと思った時、彼女は転んだ。おそらく、歩道と車道との段差に、氷が張っていたのだろう。足が滑って、尻餅をつく。その勢いで、ファスナーの開いていたサブバッグから、何かが勢いよく飛び出した。腰を押さえながら起き上がった彼女は、よほど恥ずかしかったのか、顔をうつむかせながら、足早に去っていく。落し物に気がつかないまま。停車していた車がそのことを知らせようとクラクションを鳴らすが、笑われている、とでも勘違いしたのか、彼女は歩調を早めただけだった。
僕は、少し遅れて横断歩道にたどり着くと、自分も転ばないように気をつけて、落とし物を拾った。ピンク色の表紙のA6のノート。微妙に開いたページからは、整った文字の羅列と、繰り返される鉤括弧が見えた。
少し進んで、彼女が入って行ったはずの裏道を覗くが、もうそこに姿は見えなかった。
随分と薄暗くなった帰路を、左手に落とし物を持ちながら歩く。
女子のノートを、拾ったとはいえ家に持って帰るのに罪悪感を感じ、あの後もしばらく探したのだが結局彼女は見つからなかった。まあ、月曜日に渡せばいいだろう。
親に見つかったらどうしようと、どうでもいいことを考える。どう弁解しようか。いや、僕はいいことをしたのだから弁解する必要などないのだが、なぜか後ろめたさを感じてしまうのが人間というもので。表紙のピンクと、描かれた黒いネコのシルエットがそれを助長していた。
読んでもいいものだろうか。僕は思う。先ほど、ちらりと見えたページから察するに、これはいわゆる自作小説というものだろう。散々迷った挙句、無機質な光を放つ電灯の下で、僕は思い切ってノートを開いた。小説とは読むためにあるのだ、と適当な言い訳をして。
***
月曜日、念のため探したが無かった。ノートが。
私は暗い気持ちのまま、帰りの電車に乗る。金曜日、帰宅してからノートがないことに気づいた私は、どこかに置いてきてしまったことに気づく。もしかしたら、学校に忘れてきたのかも、と期待していたが、引出しにも、ロッカーにも、どこにも無かった。まあ、それはそうだろう。金曜日の帰宅時に、電車の中で開いた記憶があるのだから。車内に置き忘れたか、サブのファスナーが開いていたから、歩いている時に落としたのかもしれない。あ、もしかしたら、滑って転んだ時か。
誰かが拾ってくれたらいいな、と思う。いや、やっぱりダメだ。あんなもの。もし読まれたりしたら、私は恥ずかしくて死ぬかもしれない。せめて、誰にも拾われずに、そのまま朽ちていって欲しいと思う。見つからないのなら。
電車に揺られながら、そんなことを考えた。
停車した車両から降り、ゆっくりと改札に向かって歩く。今日はずっとノートのことが気になって、妙な緊張感が、腹の中に居座り続けていた。なんとなく書き溜めてあったプロットはともかく、二十ページほどの短編は読まれたくない。別に、恥ずかしいことが書いてあるわけでも、超駄作なわけでもない。正直、あれは今までの中で結構気に入っている作品だ。親にノートパソコンを没収されて手書きで苦労して書いたぶん、愛着もある。それでも読まれたくないのは、そう、なんか、こう……。
私は肩を落としながら、改札で眼鏡の駅員さんに定期を見せると、数歩進んで、定期をブレザーのポケットに仕舞った。
「あの」
すぐ後ろで声。私を呼んでいるのだろうか。右肩越しに後ろを伺うと、丁度定期券をズボンの尻のポケットに仕舞いながら、一人の男子生徒が近づいてきた。
「これ、あなたのですよね」
彼の手には、見覚えのあるピンクのノート。
「え……あ、はい!」
あった。
喜びというよりも、安堵が私の体を急速に支配する。だらんと、緊張が解け、自然に口角が上がってしまった。
よかった。
これは喜びだ。
「あの、どこにありましたか?」
私は、差し出されたノートを礼を言って両手で受け取り、中のページを確認のためにパラパラと捲りながら問う。
「ああ、えと……あの横断歩道で、あなたが滑った時に」
彼は、ポケットに突っ込んだ手を再び冷気に晒すと、控えめに腰の高さで指し示す。
「ああ、やっぱり……ごめんなさい。ありがとうございます」
「……いえ、べつに」
彼は苦笑すると、小さく首を横に振った。
「あの、僕も少し謝らなければいけなくて」
彼は、ポケットから手を出すと、静かに言った。
「すみません。その小説、勝手に読んでしまって」
「……え」
まずい。読まれたのか。頬から耳にかけて、どんどんと熱くなっていくのを感じる。
「読んだん……ですか」
「すみません」
彼は申し訳なさそうに頭をさげると、少し笑みを浮かべる。
「でも、面白かったです。すごく」
「え」
「本当に。久しぶりに面白いものを読みました」
「え?」
私は、驚いて彼の顔を見つめる。
「本当ですか」
「ええ」
「お世辞じゃなく?」
「本当に。本当に。すごく、とても」
彼は、ゆっくりと歩き出す。私も、自然と横についてしまった。
「すみませんね。初めて話す人にこんなこと言うのも変ですが、本当に、本当に面白かったので」
私は小さく笑う。
「作家ですか?」
「え?」
「将来の夢は」
「ええと、まあ……」
曖昧に返事をする。私は、友達にも小説を書いていることは話していない。いつまでも夢を追い続けるイタい奴、と思われるのは嫌だった。
「いいですね」
彼はそれだけ言うと、あとは無言で、道を下っていく。
やがて横断歩道に着くと、車が止まるのを待ってから、急ぎ足で渡る。ここに信号機は無い。
「じゃあ、僕はこっちなので」
「あ、ちょっと待って」
「はい……?」
私は、方向転換をしようと微妙に斜めを向いた彼を呼び止める。
「あの、私、
「ああ……え、と……
そのまま、暫く無言のまま時が過ぎる。彼は意味もなく腕時計を見ると、少し困ったように顔を上げた。
「じゃあ、また」
「あ、はい。さようなら」
軽く会釈をしながら去っていく背中に、私は小さく手を振る。
変わった人だと思う。なんとなく。
でも、まあ。初めて話した人に「面白かった」と褒められるくらいで喜んでしまう自分も、やはり変人なのだろう。
「ふ、う、か」
私は、自分の作品の初めての読者の名前を、息を吐くように小さく呟いた。
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