―2.日記―

「おはよう。今日は、いい日だね」


 突然声をかけられて、私は狼狽した。

 声をかけたのは、隣の個室のおじさんだった。空気を入れ替えるために窓を開けて顔を出していたら、彼も同じように隣の窓を開けて、窓越しに私に話しかけたのだった。

「おはようございます。ええ、青空が気持ちいい」

「どう?列車にはいい加減慣れた?僕は慣れたけど、ベッドが少し窮屈で肩がこるのと、少し長めに飽きてきたところかなあ」

 苦笑気味におじさんは言う。

「ええ、まあ、」

 私は曖昧に答えた。

「前もそんな感じだったよ」

「…すみません」

「あはは」

 しばらく窓を開けて風を顔に当てていると、何だか喉の渇きを覚えた。

「私、食堂車にコーヒーをもらいに行ってきます」

「おう」

 私は少し身を乗り出し前方にいるおじさんに向かって会釈をすると、自分の個室を出て朝のコーヒーをもらいに食堂車に向かった。




『私の過去の記憶は、だんだん失われている。しかも日々の新しい記憶すら留まらなくなっている』―

 首から下げていた手帳の最初の表紙の裏のページには、そんなことが書かれていた。

 その手帳は私の手のひらと同じか少し小さめで、薄く、濃い緑色のカバーがついていた。

 そしてそれはどうやら日記であるらしかった。


「5月18日 晴れ

 バラン駅から旅に出る。トランク一つ、衣類、洗面用具、本数冊、スケッチブック。手提げバッグ一つ、渡航許可証、旅券、切符、財布、文房具、そしてこの日記。許可証と旅券と切符はポーチの中に入っている。コート一着。防寒帽はいらないと思って持ってこなかったけど、失敗したかも。

 ハルモニからバラン港につくまでに五千マイル、遠かった。もうしばらくは馬も自分の足も自動車も使わなくていいから楽だ。ロロにはおよそ4ヶ月後につくらしい。ずっと水の上ではなく、途中の湖島にしばらく停泊して食材を補給することもあるらしい。素敵な民芸品のお土産を母さんに買って帰りたいけれど、その頃までに私の記憶はどのくらい抜け落ちているのだろう」



「6月3日 雨

 ものすごい大雨。起きたら隣の個室にいるというおじさんが心配して私に声をかけてきてくれた。昨日のジル駅から乗ってきたらしいが(昨日に書いてある)、突然の大雨でびっくりしたと言っていた。私は昨日会っているはずなのに言われるまで忘れていた。

 車体が揺れるので、とてもゆっくりしか進まない。窓の外は大粒の雨が叩きつけて視界が悪い。湖面は激しく波打っている。次の駅につくのが遅くなる見通しだと、回ってきた車掌に言われた。大丈夫ですかと聞くと、車体の方は頑丈だからレールから外れません、となぜかニコニコして言っていた」



「6月25日 曇り

 読んでいた本を読み終わった。静かな文章で好みだった。けれどこの本はもう何回も読んであるらしく、表紙が少し毛羽立っていてページもところどころ折れて、紙のヘリは黄ばんでいる。初めて読んだ気もするし、もう何回も読んだことのあるような、何だか不思議な感じだ。そしてそのうち忘れて、私はまたこれを新たに読むのだと思う。昼間の、白身魚のムニエルが美味しかった。何かに残しておきたいけれど、どうすればよかったのだろう」



「7月16日 晴れ

 久しぶりに晴れた。ずっと本を読んでいた。すれ違って通過する列車に警笛を鳴らしていたのが聞こえた。ふと本に挟まった押し花の栞が気になっていたら、私の個室のカーテンの隙間から、女の子が覗いていた。女の子は私に月の花を取ってきてあげると言って、消えていった。いつ読んだものかわからないけど、昔、本に「海には神様がいる」とかかれてあったのを思い出した。あの子はかみさまなんだとなんとなく思った。彼女がくれた花は、今私のポケットに咲いている」



 私は日記の手帳を閉じた。カレンダーを見ると、ええとさっきめくって、今日は7月21日だ。

 さっき書いてあったバランという街。の、港。思い出せるような思い出せないような。

 ハルモニは分かる。私の故郷だ。けれどそもそも、なぜ私はこの列車に乗って旅をしているんだろうか。ハルモニを出た時のこと、気持ち、あれ、前は覚えていた気がするのに。

 ぼろぼろ、なにか大切なものを失っていくように思う。そしてたぶん毎日そう思っている。

 昨日もこうやって考えていた気がする。思い出せるところ、思い出せないこと、ぽつりぽつりあるけれど、全部に靄がかかっているようで気持ちが悪い。明日もまた考えているだろうか。

 すっかり冷めてしまったコーヒーをベッドの脇の小さな棚に置いて、私はベッドに寝転んだ。胸元の花びらがしゃら、と揺れた。



 いつの間にかうたた寝をしてしまったようだった。

 私はゆっくりと身体を起こした。時間はおそらく夕刻より少し前。随分寝てしまったようである。

 ふと、個室の入り口のカーテンの下辺りに、小さな紙切れがあるのを見つけた。

 そこには文字が書かれていた。

『今日は昼間中ハザネに停まるから、一緒に買物に行くか聞こうと思ったんだけど寝てたから起こせなかった、ごめんね。

 あと、僕に丁寧語じゃなくていいよ。今更だけど。笑 

 夕方には帰ってくるから食事でもどう?』

 察するに、隣の部屋のおじさんである。何だか良くしてもらってありがたいな、けれど申し訳ないとも思いながら私は日記を開いて今日の欄のところに紙切れを糊で貼り付けた。

 普通に、しゃべる、明日も覚えてるといい。目覚まし時計のところには起きたら日記を見るってこの前書いたから大丈夫だと思う、けれど。

 窓の外には湖島の一つであるハザネ島の停車駅と、ホームを行き交う人々と、駅の壁の向こうに広がる街が少しだけ見えた。もうすぐ出発するだろう。

 私は窓を開けて、少し遠くの、夕方の街の匂いを運んできた風を室内に入れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

湖面電車 なとり @natoringo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る