湖面電車

なとり

―1.月光花―

「帰れ。帰れよ、帰れったら。」

 なんだか動詞の活用みたいに繰り返される音の波形を、ゆらゆらとゆれる電車の中で聞いている。

 さっきまでの囂しかった警笛はどこへやら、遠くに小さな赤い光の点点が見え始めて、夕刻、確実に違った空気を含ませ始めた。世界が、入れ替わっていく。


 もはや会うことなどないだろう。

 ほう、と、誰に向けたのでもないため息を一つついて、読みかけだった本を閉じた。小さなしおり、押し花の挟まれたやつ、誰から貰ったのかも覚えていない。

 いつか全て飲み込まれてしまうのだろうか、私の記憶は。



「だあれ。」

 不意に、個室の入り口のカーテンから覗いている瞳が見えて、私はそれに声をかけた。驚かなかったのは、それが子供だと分かっていたから。髪の毛も目の色も、色素が薄くて、ふんわりとしたワンピースを着ている。

 彼女、は、遠慮がちに私のほうへと寄ってきて、

「…あのね、」

 ちょこんと私の隣に座った少女は、何か一生懸命に伝えようとしているらしく、私は彼女の頭をそっとなでた。子供特有の、柔らかくてしなやかな毛がさらりと手に心地いい。


「大丈夫、私もちょうど誰かとおしゃべりしたいと思ってたところなの。あなたのお話、何か聞かせて。」



「…あのね、海の底にまあるいお月様があるでしょう?」

 少女は安心したのか、ぽつぽつとその唇から物語を紡きだした。

「そうね、それから?」「それがね、今夜、小さな花を咲かせるの。誰も見たことがないんだけど、何よりもきれいなのよ」

 大事なものをそっと抱えて抱きしめるように、少女の語り口はとても繊細だった。

「確かに、今夜の海は特別凪いだ水面だもの、きっと綺麗にお月様は花を咲かせるんでしょうね。」

 彼女がそういうなら、きっとそうなのだろう。嘘を知らないだろうから。

 そして彼女は、金色の瞳で私を見つめ、


「取ってきてあげる」


 そういった。

「ありがとう、嬉しい。でも、どうして、初めて会った私にくれるのかしら?私なんかよりボーイフレンドとか、お友達に、」

「もう、ずうっと前から、いないの」

「…そう。月のお花をもらえるなんて、とても光栄。ずっと胸に付けてるわ」

 少女は、

「内緒ね。」

 にっこりと微笑んだ。そしてそのまま、私の目の前で、すうっと、溶けるように、闇に紛れていった。


「…ありがとう。素敵なお話だったわ」

 私は、誰もいない空間に、もう一度つぶやいた。



 月のまあるい夜、まして水面の静かなときは、別段珍しくないのだ、海のかみさまが線を描くように滑る湖面電車に乗ることなんて。

 だってほら、その証拠に、私の記憶は曖昧じゃない、さっきのこと一語一句鮮明に覚えているし、ほら。


 毛布代わりに肩にかけていたコートの胸元に、薄く白く透明に光る、華奢な花。


 きっと月光花は、押し花のようには色褪せない。



 窓際のカーテンを閉め、穏やかな気持ちで私は眠りについた。

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