第2話

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 大学病院に所属する精神科医・羽生巌はぶいわおは心身ともに疲弊していた。


 精神科医は心に不安を抱える患者に対して、まずは話を聞き、適切な心理療法や投薬を提案することで病を改善していく。患者に信頼され、二人三脚で治療を勧めていくのが精神科医の使命だ。羽生にとってその仕事はもちろんやりがいがあったが、それと同じくらいのストレスに苛まれていた。患者の精神を自分が握っているという恐怖、自分が不安でも患者の前では人当たりよく振る舞わないといけないというプレッシャー。それらに押しつぶされ、睡眠薬なしでは眠れない日々が続いた。


 さらに、所属する大学病院の精神科では臨床的な診察・治療と並行して学術的な研究や調査も行っているのだが、こちらも思うように結果が出ない。何よりテーマが退屈だった。わかりきった実験をして、わかりきったデータを取って、論文にまとめる。「選択と集中」の名のもとに、挑戦的な研究には予算が降りなくなり、無難な、臨床ですぐに役立ちそうな研究ばかりを強いられるようになった。羽生にはそれがどうにも肌に合わない。

 診察でも研究でも、羽生は行き場のない苦痛を感じ始めていた。


 武藤憂と出会ったのは、そんな精神的に鬱屈し始めていた頃だった。


 彼女は都内の高校に通う一年生で、パッチリとした目の上で切りそろえたショートヘアに、高校指定の紺のブレザーを着て診察室にやってきた。問診票を見ると、「悩み」の欄は空白だった。

「医師の羽生です。今日はよろしくお願いします」

 羽生はにこりと笑った。

「よ、よろしくお願いします」

 一見特に変わった様子のない普通の女子高生に見えるが、不安を抱える患者が必ずしもそれを表に出すとは限らない。慎重に話を聞いていく。

「今日はどんなお悩みでいらしたのか、簡単に聞かせて頂けますか」

 武藤憂はしばし目を泳がせてから言った。

「えー……実は私、人の記憶を操れるみたいで……」

「なるほど」

 カルテに「妄想症状の疑い」と書き込む。

「あっ、いや、こんなこと言うと頭おかしいみたいですよね! ヤバいこと言ってるのは自覚してるんです!」

 どうやら、自分が何を言っているのかは俯瞰できているらしかった。

「詳しく聞かせてください」


 武藤憂が説明するにはこうだ。ある日彼女が友人と学校の先生について雑談をしていたとき、ふざけて真剣な表情をしながら「あの先生、実は宇宙人らしいよ」と冗談を言った。友人は笑ってくれると思ったが、その予想は外れた。「そうだよね~」と、あたかもそれが当たり前であるかのように振る舞ったのだ。それだけならまだからかっているだけかも知れないが、その後も似たようなことが連続して起こり、憂は疑念を抱いたらしい。それからいろんな人間に少しずつ実験をして、結果「目を見て言った言葉を相手に信じ込ませることができる」能力があるという結論に至ったようだ。


「実験って、どんな……」

「例えば、カレーを作り始めた母親に『今日の夕飯はハンバーグだよね』と言ったら、その場でバラ肉を刻みはじめて、夕飯はハンバーグになりました」

「なるほど……」

 流石にこの話を聞いただけ信じるわけには行かなかった。もう少し話を聞いていく。

「その能力は高校に入ってから気づいたんですか?」

「はい。実は、中学校の頃は人と話すのが怖くて、人と目を合わせることもほとんどなかったんです。でも高校で自分を変えようと思って、前髪も切って人の目を見て話すようにしました。そしたらこの能力に気づいたんです」

「……ちなみに、それって私に試してみることもできますか?」

「えっ」

 やはり証拠をこの目で見ない限り判断は下せない。患者を信頼するのも精神科医の仕事なのだ。憂は一瞬戸惑ったが

「やってみましょう」

 と言って、かばんから紙を取り出した。高校のプリントの裏紙だ。

「じゃあ先生、この紙に適当な漢字を書いてみてください」

 特に思いつかなかったので、適当に「中」と書いた。

「『中』ですね。覚えましたか?」

「覚えた」

「じゃあ、紙を伏せて、私の目を見てください」

 言われたとおり紙を伏せ、羽生は憂の大きな瞳を見た。なんだか、マジックの舞台に上げられた一般人のような気分になってくる。

「じゃあえーと……」

 憂はしばし考え、こう言った。

「紙には"肉"って書いてましたよね?」

 羽生は脳裏に先程の紙を思い浮かべる。確かに「肉」と書いてある。

「ああ。肉だった」

 そして紙を開けると、そこには「中」の文字。一瞬事態が飲み込めず、羽生はクラクラした。確かに「肉」と書いた記憶が、鮮明に残っているのだ。

 何回やっても結果は同じだった。どうやら、憂の言葉がそのまま自らの記憶に置き換わっているようだ。憂の言ったことは本当だった。

「驚いたな、これは……」

 混乱する頭で、羽生は事態を整理した。

 人間は自分の認識、記憶、感情を正確なものと思い込んでいるが、実際それらはとても不安定なものだ。質問の仕方を変えるだけで証言が変わってしまったり、信じたいふうに情報を捻じ曲げて記憶してしまうことも少なくない。憂の能力は人間のそのような傾向を先鋭化させる、いわゆる催眠や暗示の類なのだろう。それにしてもここまで強力な例は見たことがない。

「これは……すごく面白いよ!」

 興奮して、思わず素が出てしまったことに気づき、羽生は赤面した。

「そんな、もっと気持ち悪がられるかと思ってました……」

 憂は自嘲気味に笑う。

「とんでもない……これは心理学の歴史が変わってしまうかも……」

 羽生はそう呟きながら、ふと考え込んだ。万が一この能力が世間に広まるとどうなる?なにか混乱を招くことは間違いないし、憂の身に危険が降りかかる可能性もある。

 また、この能力を上に伝えるのも得策ではないと考えた。特にうちの診療部長は頭が固い。こんな奇妙な診断がバレたらそれこそ狂人扱いされかねない。憂のカルテは一旦「社交不安障害」という体で記録することにした。

「ちょっとこの事例はあまりにも特殊だから、一旦私と武藤さんの間の秘密……ということにしてもいいかな?  武藤さんのその体質の原因は、私が必ず突き止めるから」

 憂は「はい」と頷き、こう続けた。

「こんな変なこと、誰にも相談できなくて……一か八かでここに来たんですが、真剣に聞いてもらえて、本当によかったです。ありがとうございます!」

 憂はその大きな目を細め、とびっきりの笑顔で笑いかけた。


 それから羽生は「診察」という体で憂と接触し、密かに実験を重ねた。もちろん実験体は羽生である。実験の過程で危うく羽生の好物がセミになったり、名字がパブロフになりかけたりしたが、その甲斐あっていろいろなことがわかってきた。

 例えば、「既存の記憶と矛盾するような記憶」は定着しないことがわかった。そのような記憶を定着させたい場合は、偽の記憶を”作り込む”必要があるということだ。つまり、こうだ。「朝食はパンだった」を「朝食はバナナだった」とする上書きは、他の記憶と矛盾が生じないため定着しやすい。一方で、「あなたには弟がいる」といった記憶は、他の多くの思い出と整合性が取れなくなるため、それ単体では定着しない。定着させるためにはそれと関連する記憶もまとめて上書きする必要があるのだ。つまり、一文程度では大きな記憶の改竄は起こせない。

 このことを憂に伝えると、彼女は安堵した様子だった。

「正直、怖かったんです。この能力も、こんな能力を持ってしまった自分も」

憂はまたその大きな瞳で笑いかけた。

 羽生はいつしか憂との時間を楽しみにしている自分がいることに気づいた。憂には人を惹きつける魅力がある。独身で長らく彼女もおらず、それでいて仕事面でストレスを抱えていた羽生にとって、憂はまさしく心のオアシスだった。憂も羽生のことを信頼してくれているようで、そのことも一層羽生を奮い立たせた。


 その日、5回目になる憂との”診察”を終えた羽生がその日の書類をまとめていると、そこに診療部長が入ってきた。

「羽生じゃないか」

 羽生は診療部長が苦手だった。曖昧な笑顔のまま軽く会釈する。部長は絵に描いたような堅物で、男性医師と女性患者が少し仲良くしているだけで詰ってくる。患者と信頼関係を築くのも医師の仕事じゃないか、と羽生は日頃から愚痴っていた

「そういえば、例の女子高生に随分ご執心のようだが」

 内心を見透かされたようで、羽生はドキッとした。いざ自分に矛先が向くとどうしても焦ってしまう。

「い、いや……ちょっと変わった子で、研究対象として面白いだけですよ!」

 ついムキになって心にもないことを言ってしまった。いや、研究対象として興味深いのは事実だ。嘘は言っていない。

 その場をなんとかやり過ごそうと、羽生はそそくさと部屋をあとにする。

 すると、ドアの前に誰かが立っていた。憂だ。

「あ……」

 羽生は動揺した。なぜまだここに? さっきの話は聞かれたか?とっさに弁明しようとしたが、遅かった。憂は俯きながら走り去り、病院をあとにした。憂のいた場所に一滴の雫が落ちていた。


 その2日後。羽生が出勤すると、すぐさま診療部長に呼び出された。部長の表情は険しい。

「君にセクハラ、恫喝の疑いがあると、警察から連絡が来た」

 羽生は動揺した。被害者はあの武藤憂だという。

 なにせ診察室という密室で起きたことだ。それが起きた証拠もないが、無実を証明するのも難しい。憂は精神鑑定を受けたが異常はなく、嘘をついているふうでもなかったという。ただ、心的外傷で誰とも目を合わせない極度の人見知りになってしまったと、両親が証言している。

 まさか……。

 羽生は全てを理解した。憂は自分を信頼し、自分だけに秘密を打ち明けてくれた。しかし、私は憂を裏切ってしまった。憂は絶望したに違いない。憂は能力を誰かと分かち合うことを諦めたのだろう。そしてそれは、本当の自分を誰かに見せることを諦めるということだ。


 結果、上の判断で私は地方の大学病院へ転勤することが決まった。事実上の左遷である。おそらく、羽生が都内に戻って来ることはもうほぼ無いだろう。

 羽生の経歴はここで行き止まりとなった。しかし羽生にとってそんなことはもうどうでも良かった。

 羽生の心に空いた裂け目は、決して閉じることはない。

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