追憶
フロクロ
第1話
1
「ちゃんとやれるかなぁ……」
短く切り揃えられた前髪を玄関の鏡の前でいじりながら、私はそう呟いた。
憂の通うことになった学校は、都心からほど近い住宅地に位置する、いわゆる「進学校」だ。今年で創立90年になる由緒ある高校だが、去年全面的に改築がなされボロかった校舎は見違えるようにきれいになった。
そして憂はそんな新しい舞台で密かに「高校デビュー」を目論んでいた。高校で、私は新しく生まれ変わるのだ。
憂の中学校での生活は決して明るいものとは言えなかった。人の動きを過度に気にしてしまう憂は、些細な言葉や行動もすべてネガティブに捉えてしまう。遠くで会話しているグループがちらりとこちらを見遣っただけで「悪口を言われている」と勝手に妄想し、勝手に落ち込む。人に話しかけようとするも「嫌われるんじゃないか」という考えが脳裏をよぎり、手に悪い汗が滲み出て、結局話しかけられない。憂の胸の内には常に孤独感が付き纏っていた。
高校という節目で、そんな自分とすっぱり絶縁したい。憂には強い覚悟があった。
まずは形から。内向的だった憂は自分を覆い隠すように髪を伸ばしていて、暗い印象を与えていた。そこで近所の美容室に行き、目にかかっていた長い前髪をばっさり切り揃えてもらったのだ。鏡を見ると黒髪のショートカットに生まれ変わった私がいた。慣れない自分にどぎまぎする憂をよそに、美容室のお姉さんは屈託のない笑顔で褒めちぎってくる。
「きゃ~~~すっごくかわいいですよぉ! お人形さんみたぁい! 持ち帰ってもいいですかぁ?」
「あはは。だめです」
美容室のお姉さんはもうはちゃめちゃに明るくて、拓けたばかりの憂の視界にはすこし眩しかった。そう言いつつも、鏡の中の自分がすでに自信ありげな表情をしているのに気づき、憂は思わずはにかんだ。
かくして、憂の高校デビュー戦はスタートした。不安まみれの登校初日。古本屋で買った『高校デビュー指南』という本に書かれた「操るのではなく、惹きつける!」「笑顔で、相手の目を見て話す」「政治・宗教・野球の話はしない」などの言葉に蛍光ペンを引き、10回復唱。蛍光ペンの言葉を胸に脳内で自己紹介を100回シミュレートする。うん。大丈夫。やれる。
始業前、少し早めについた教室に入ると、もうすでに生徒がまばらに座っていた。黒板の張り紙で座席を確認する。窓際の真ん中だ。自分の前の席にはすでに女子が座っていて、気怠げにスマホをいじっていた。よく見ると、爪にはネイルが塗ってある。高校ってネイルOKなんだっけ?しかもさらによく見ると、その顔はばっちりメイクを決めてるし、スマホケースの裏には何枚ものプリクラが挟んであるのも見える。
憂は察知した。
こいつは「日向人間」だ。
「日向人間」。憂が最も苦手とする人種をそう呼んでいた。毎日「ズッ友」と「プリ」を撮りに行き、「あざまる水産」で「タピる」のが日向人間の生態だと聞く。憂のような日陰者が日向人間に迂闊に近寄ると、触れた箇所から灰になってしまうと固く信じていた。
勇み足で横を通り過ぎ、恐る恐る後ろの席に座る。席の後ろでは早くも話が弾んでいる生徒がいた。彼らは中学からの知り合いなのだろうか。憂は内心焦りながら、目のやり場に困りひと通り教室を舐める。そしてふと前の席に目を戻すと、あるものが目に留まった。例の日向人間の筆箱に、憂が愛読している漫画『青空スパイク』のキャラクターのラバーストラップがぶら下がっていたのだ。
『青空スパイク』はいわゆる青春スポーツ漫画で、高校ビーチバレーに命を懸ける男たちの友情物語だ。少年誌で連載しているが熱烈な女性ファンも多いことで知られている。まさか、この陽の者が、『青スパ』を。しかし、人気作なので読んでいてもおかしくはない。何より、憂はこの『青スパ』について拳を交えることのできる友人を持ち合わせていなかったので、にわかに話しかけたい気持ちがふつふつと湧いてきた。憂、行け、恐れるな。自分で自分を叱咤激励する。
「あの、そのストラップ『青空スパイク』ですよね?」
突然話しかけられ振り向いた彼女は、一瞬少し驚いた表情をしたが、すぐにパッと笑顔を輝かせた。
「もしかして、あなたも『青スパ』読んでるの!?」
さらさらの長髪がなびく。声から素直な性格がにじみ出ていた。
「実は……」
そう言いながら憂はスマホについているストラップを見せた。『青スパ』の別のキャラクターだ。そこからは一瞬だった。ふたりは推しキャラ、推し回、推し台詞の話でひとしきり盛り上がり、LINEも交換した。ギャルの名前は
明るい気質の持ち主であるひなは、すぐに他の生徒とも打ち解けた。ひな経由で私もすぐにクラスのみんなと友達になり、授業のことや部活選びのことなど、他愛のない話をする仲になった。
しかし、明るいひなに照らされることによって、憂の中の「影」は大きくなっていった。
「お前はひなとは違う」
「今日も会話に失敗した」
「また誰かに嫌われた」
すべて妄想で、事実無根。脳内で生まれた虚構であることはわかっていた。しかし、どこかでそれらが本当なんじゃないか、という考えもまたちらついた。どんなに悩んでも結論は出ず、影は膨らむばかり。それはヘドロのように憂にまとわりついて、心が重くなっていくのを感じた。
もう、憂の意思ではどうにもならない。このままでは中学の自分に逆戻りだ。そう感じた憂はその影を今度こそ完全に消し去るために、大学病院の精神科にかかることを決意した。
これがすべての過ちの始まりだった。
その大学病院は学校から3つ隣の駅に位置していた。国立大学に併設された大学病院で、病院の周りには憂よりひと周り背の高い大学生が行き交っている。
受付で予約した名前を告げ、問診票を書いて待つ。名前が呼ばれ診察室に向かうと、そこには、20代後半か、30代前半くらい見える好青年ふうの医者が座っていた。175はある長身を白衣で包み、天然パーマっぽい前髪がメガネにかぶっている。
「医師の
羽生はにこりと笑った。
「よ、よろしくお願いします」
憂は羽生のやさしい笑顔に早くも心が穏やかになっていた。
「今日はどんなお悩みでいらしたのか、簡単に聞かせて頂けますか」
そこで憂は自分の悩みを洗いざらい話した。羽生は憂を否定することなく、その一字一句を真摯に受け止めてくれた。自分の症状は「社交不安障害」というものらしい。現状は軽度なものなので投薬も必要なく、いくつかのテストと私生活へのアドバイスを受けて終わった。
憂は自分の心がみるみる軽くなっていくのを感じた。それがカウンセリングだけの効果でないことは明らかだった。
「また来てもいいですか?」
「もちろん、気になることがありましたら、是非またお越しください」
こうして憂は羽生のもとに通うようになった。羽生は憂のどんな悩みごとでも真剣に聴いてくれたし、憂は羽生を信頼して彼のアドバイスをすべて受け入れた。憂はこの空間に居心地の良さを感じていた。ずっとこれが続けばいいとさえ思った。
しかし、決して長くは続かなかった。それは5回目の診察の日だった。
その日の憂は気分が沈んでいた。珍しくひなと喧嘩し、気持ちがぎくしゃくしていたのだ。
羽生と話せば気分も晴れるかと思ったが、彼の言葉はなぜかその日の憂には響かない。そしてついに、憂ははじめて羽生に口答えしてしまったのだ。むしゃくしゃした気持ちが抑えられず、ほとんど発作的なものだった。
羽生が豹変したのはその時だった。
「何だその態度は」
「えっ」
何が起きたのかわからなかった。
「先生、なんか変ですよ」
憂はキャスター付きの椅子に座ったまま後退りし、目をそらしながら言った。
すると羽生はゆらりと憂に迫ってきて、あろうことか両手で顔を掴んでぐいっと自身のほうに向けた。
「俺の目を見て話せ」
瞳孔が開いている。腕に血管が浮いているのが見えた。
怖い。
とっさにそう思った私は、力ずくで羽生の手を振り払い、自分の荷物を抱え慌てて診察室を出た。動悸が嫌なほどうるさい。指先の感覚がない。わけもわからず駅まで走り、汗まみれになりながら電車に駆け込んだ。回らない頭で考える。羽生はきっと、「従順で気の弱い私」が好きだったのだ。女性の心の弱さにつけ込んで、自分の意見に従わせるのが好きだった。だからそこに反旗を翻した私が許せなかったのだ。羽生のやさしい表情を信じた私が愚かだったのだ。あんな男に多少なりとも気を許した自分が許せない。
それ以降、私は人の目を見て話すのが恐れるようになった。目にはその人の本心が現れる。私はもう、人の心に触れる勇気など到底持ち合わせていない。裏切られるくらいなら、自分の中に閉じこもっていたほうがずっとマシだ。人を信じようとして悩むなら、最初から人を信じないほうがずっと楽じゃないか。
こうして私は、誰とも目を合わせられない、無力な私に戻っていく……
私は鏡を見つめたままそう呟き、静かに目を閉じた。
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