ウーアの住む駅

竹尾 錬二

第1話

 ウーアはいつも駅のプラットホーム下の薄汚れた通路に座っていた。

 誰もウーアの本名など知らなかった。

 ウーアはちょっと頭のおかしいホームレスで、高架上の線路を電車が通り過ぎる度に両手を挙げて「うあ~、あ~、きゃ~」と奇声を上げる。電車が通り過ぎる度に何度も、何度も、飽きもせず。だからみんなウーアと呼んでいる。

 俺たちの地元は九州の片田舎の寂れた町で、道を歩いている人間は七割が爺さんか婆さんで、ウーアも例に漏れず、汚らしい胡麻塩斑の髭を生やした老人だった。俺は隣の部落から、通学のために毎日毎日このウーアの駅まで自転車で通わなければならない。俺の町に駅が無いのは、昭和初期に駅の建設計画が立った時に、余所者が駅から出入りするのは好かんと、住民の猛反対で潰したからだそうだ。プラカードを持って駅建設反対と叫んだ日々の事を、死んだジジイは若き日の勲章のように何度も俺に語って聞かせたものだ。

 汚らしい町に住んでいるのは、姿も性根も汚らしい老人だらけだ。

 俺たちの地元の訛りは粗野で泥臭く、テレビやYouTubeの有名人のトークのような洒脱さは微塵もない。

 ずっと、この町から出ていきたくてたまらなかった。

 テストでいい点取って、推薦でどこか遠くの大学に行く。それだけが俺の望みだった。


「ねえ、帰ったなら、裕二を汽車見に連れて行きよいって


 家に帰ると母親が、一回離れた弟の裕二を俺の方に押し出した。

 

「きちゃー!」


 まだ五歳の弟が歓声を上げた。

 母は鉄道の事を、未だに汽車という。昭和前期を暮らした爺婆の言葉を、平成生まれの弟までが引き継いでいる。

 親父は母が二人目の子どもを妊娠した事を知って、家から姿を消した。今だからこそ分かるが、裕二はきっと避妊の失敗で身籠った子供で、親父の明るい家族計画には含まれないイレギュラーだったのだろう。親父には禄な思い出が無い。覚えているのはテレビの前でパンツ一丁で寝転がって野球を見ている時の汚いケツと、機嫌が悪い時に理不尽に殴られた時の痛みだけだ。

 消えてくれて清々したが、親父が居なくなった経済的負担は確実に我が家にのし掛かり、歳の離れた弟の裕二の世話がプライベートを圧迫した。


「にーちゃん、きちゃ見、きちゃ見に行こー!」


 裕二は今五歳。だが、こいつが普通の子どもとちょっと違っているのではないかという危惧を抱いたのは四つの頃だ。誰から見ても、裕二はちょっと子供だった。歩きは同年代の他の幼稚園児よりもよたつき、物事の飲み込みは遅く、些細な事でむずがり、ちょっと待っとけと言えば「ちょっとってどんだけ?」と聞き返すような、少し子どもだった。

 少し町よりにできた病院で、弟は


『裕二君は、発達障碍の疑いがあります』


 という診断を貰った。薬の一つも出さない癖に、診断料ばかり馬鹿高い病院で、母は二度と連れて行くかと憤っていた。

 発達障害というのがどういうものか良く知らないが、要は、弟は軽いガイジなのだと俺は理解した。

 あの、ウーアのように。

 だって。弟は、何よりも鉄道に電車が通り過ぎるのを眺めるのが好きで、飽きずに幾度となく喜色満面に飛び跳ねるのだ。

 両手を挙げて「う~、きゃあ~」とウーアのような叫び声を上げながら。

 

 

   ◆



「おう、勉強の調子はどげえか?」


 教室で雄彦たけひこが俺の頭を無遠慮に叩いた。

 雄彦たけひこは典型的なイキった田舎の高校生で、出来れば近づきたくない人種の男だった。

 何故俺と縁があるかというと、ウーアの居る、あの駅で乗り降りをする数少ない生徒だからだ。

 雄彦と、その彼女の歩美あゆみという女、そして俺は、幼馴染みの三人組としてクラスの皆からは認知されているようだ。幼稚園から高校まで、学び舎を同じくした俺たちは、確かに幼馴染と言えなくもない。しかし、そんなただ枠に嵌められた関係にうんざりしていたし、事あるごとに雄彦が俺を見下し、マウントを取ってくることも気に食わなかった。

 中学の半ば頃、雄彦と歩美は付き合うようになり、雄彦は俺に己の性体験を自慢話のように語った。

 俺が歩美に対して仄かな恋心を抱いていたのは事実だったし、中学の自分はそれなりの衝撃も受けた。だが、雄彦の猥談が続く日々の中、歩美の評価は俺の中で下がり続け、雄彦のような男に股を開いている馬鹿女という評価に落ち着いた。

 歩美も雄彦に便乗して、上から目線で俺に物を言うのは気に食わなかったが、どうせ大学へ行くまでの短い付き合いだ、と我慢してやっている。


「ねえ、あんたの誕生日何日やったけ? 今日の運勢、知りたい?」


 歩美は占いやオカルトの話が好きで、取り巻きの運勢やら守護霊やらを毎日のように占って遊んでいた。取り巻きは既に一周終えたらしい。俺にずい、と身を乗り出してきた彼女に、俺は雄彦に調子を合わせて軽く応じる。


「何や、今日は何の占いをやりよんやってるの?」


 ……認めたくはないが、本音を言えば、俺は雄彦にハブられるのが怖い。学校には、雄彦達以外に友人と呼べる人間は居ないのだ。学校の中で上の方にいる雄彦が俺を友人扱いするので、俺もある程度は上の方の人間と思われている。だが、その本質は蛭だ。ただ勉強するしか能の無い俺は、学校という社会の中で、雄彦にぶら下がっているだけの屑だった。


   ◆



「ほーら、ウーア、チョコの残りあげる。スーパーで安かったけんから買ったんやけど、マズかったけん。じゃあけんだからあげる」


 帰り道、歩美がチョコレートの箱の中身をウーアの前に置かれた皿に落とす。その表情は、まるっきり野良犬に餌を与える子どものそれだ。

 彼女がウーアに食べかけのスナック菓子や口に合わなかったパンなどを与えるのはいつもの事だった。


「かまうなよ、汚ねえ」


 雄彦は、そんな歩美が気に入らないようだった。


「なんでそげな事言うん? ウーアっち、臭いけどキモ可愛いやん」

「あげな格好でしゃがむなよ。パンツ見えるやろうが」

「そげな事考えよんのは、タケちゃんがエロいけんやろうが。あんだけヤッてまだヌキ足りんの?」


 自分たちの性事情を開けっぴろげに語りながら、歩美がからからと笑う。

 雄彦は不機嫌そうに顔を歪めた。

 同性ということもあるだろうが、歩美より雄彦の方がまだウーアを人間として見ている事は確実だった。幾ら優しい言葉をかけようが、菓子を分け与えようが、歩美はウーアのことを野良犬か何かのようにしか見ていないのは明白だった。

 吐き捨てられたガムが黒くへばりつき、まだらが続く駅の一階。壁の至る所は、スプレー缶による卑猥な落書きに彩られている。

 中には、雄彦の書いた


『祝! 初体験! 生●●●サイコー!』


 という落書きもある筈だが、改めて探す気にはならなかった。

 こんな汚らしい駅に一日中体を横たえているウーアがまっとうな衛生感覚など持たない頭のおかしい人間なのは間違いないだろう。

 時折、ウーアが茣蓙ござやブルーシートを引きずって歩く姿を目にしたこともある。ウーアは片足が不自由で、禿かかった蓬髪の下の瞳は、片方が潰れて白濁していた。

 こんな風にはなりたくない。俺の地元はそう思わされる人間に溢れているが、ウーアはその極北だった。どれだけ落ちぶれようが、自分がこんな風になるなんて想像もできない。こんな汚らしい虫のような生き物に成り下がるなら、俺はきっと、その前に己の尊厳を守るために命を絶つだろう。


「ウーアは心が綺麗やけんね。エロいことなんて考えんの。ね、ウーア」


 歩美がそう言って、ウーアに笑いかけた。


「う~」


 ウーアも、黄色い歯と黒ずんだ歯茎を剥き出しにして歩美に笑みを返した。餌付けをしている歩美や、俺たちの事を見分けるぐらいの知能は残っているらしい。


「バイバーイ」


 歩美が手を振ると、ブンブンと、ウーアも子供ように手を振って返した。

 確かに歩美の言う通りなのだろう。ウーアには、人間らしい性欲を持ち合わせるような頭があるとは到底思えない――そう思っていた、あの日までは。




  ◆


 

 薄暗い駅の中に歩美の悲鳴が響いたのは、陽も落ちて終電近くなった駅の構内だった。

 この駅は随分前から自動券売機と自動改札だけの無人駅と化していて、駆けつけてくるような駅員は居なかった。

 遅くなったことに、別段の理由は無い。家に帰って弟の世話をするのが嫌で、雄彦達とカラオケで盛り上がっていただけだ。

 いつもと同じ返り道、歩美だけがそれに気付いた。

 ウーアが、汚れたズボンのジッパーを開き、己の股間を握り締めていた。

 茣蓙に寝転がったウーアは、斑に汚れた床の上から、見上げるように歩美のスカートの中を覗き込み、股間を握った右手を上下させた。


「ヤダヤダヤダ、何コレキモイ! キモイキモイ! やだぁっ!」


 襟首にゴキブリでも入りこんだような、痙攣的な悲鳴。 

 歩美はウーアに性の対象として見られたことが余程不快だったのか、涙さえ浮かべながら、キモイ、キモイ、と繰り返した。

 雄彦の動きは迅速だった。薄ら笑みを浮かべたウーアの顔面を、サッカーボールのように蹴りつけたのだ。ウーアの黄ばんだ歯が床に飛び散る。所詮は過疎地の田舎ヤンキーの雄彦は、粗暴な言葉を口にする事はあっても、実際に殴り合いの喧嘩を経験した事などなく、故にその暴力は身を以て学ぶ仁義を知らず、一切の呵責が存在しなかった。


「気グルの分際でキメエんじゃ! 何マスかきよんのかオラ!」

 

 雄彦の暴力は、普段から抱えていたウーアに対する蔑意、同じ雌をねらわれた雄としてのマウンティング、自分の女の前で格好をつけたいという青臭い衝動、様々な要素が交じり合ったものだろうが、どう見ても女を泣かされただけの意趣返しには度が過ぎていて、雄彦が勢いをつけてウーアの腹に飛び乗って踏みつけた頃には完全に俺の頭は冷めていた。


「もうやめろって。頭おかしいジジイやぞ。死ぬるぞ」


 背中から羽交い絞めにした俺の顔面を、雄彦は裏拳で殴りつけて唾を吐いた。

 

「死んでも誰も気にせんやろうが、こんな気グルジジイ」


 ウーアは体を丸め、死にかけた魚のように痙攣させていたが、壁に体重を預けるようにして、ゆっくりと上体を起こした。


「……この糞ガキども」


 ウーアの口から漏れた声は、普段の狂態からは想像しようもなく、低く、落ち着いて、闇を孕んでいた。

 残されたウーアの右目が、切れかけた駅の蛍光灯の点滅に合わせて光を返す。

 普段の濁った狂人の瞳ではない。正気の目だった。


「こんな事が、許されると思ってるのか、糞ガキども。俺を、一体誰だと思ってる。

 絶対に許さないからな。呪ってやる。貴様ら全員呪ってやる。呪って――」


 言葉の途中で、ウーアは倒れて、動かなくなった。

 ウーアの言葉使い。訛りに塗れた、地元の人間の喋り方ではなかった。その綽名の通り、『うー』か『あー』ぐらいしか喋れない狂人ではなかったのか。

 では、一体、今喋っていたのは、誰だ?

 雄彦も歩美も、言葉一つ発せず、崩れ落ちたウーアの背中を見つめている。

 静寂を破ったのは、またも歩美の泣き声だった。


「もうヤダ、ワケわからん! 帰ろう、もう帰ろうよう!」


 俺たちはその言葉に従うように、駅構内を後にした。

 ウーアの容態とか、救急車とか、そういった思いは全て俺の脳裏から抜け落ちてしまっていた。

 ただ、にかわのようにねっとりとこびりつく恐怖から逃げ出したくて、俺たちは駅を走り去った。


「雄彦」


 僅かに残った俺の理性の破片が、崩れ落ちて微動だにしないウーアの背中に、警鐘を鳴らし続けていた。


「何や?」


 振り向いた雄彦に、最悪を想定してただ一言告げる。


「今履いちょんてる靴、帰ったらすぐに捨てろ。ズボンと靴下もじゃ。明日の朝が燃えるゴミの日やけんだから、全部丸めて押し込こむんや。絶対やぞ!」


 雄彦は青ざめた顔で頷いた。



 翌日の朝。

 駅構内で、市内在住の無職、赤松大樹38歳の変死体が発見された事を、ニュースが繰り返し報じていた。



   ◆



「ウーアが38歳っち、マジか。うちの母ちゃんより若いやんか……」


 放課後、俺たちは幼い頃に遊んだ淵の傍に集まり、今後の対策を講じる事にした。

 令和の世とはいえ、この田舎町には誰の耳目も届かない寂れた場所が山のようにある。


「なあ、どげえすればいいと思う?」

「うちら、捕まるんかな?」


 雄彦と歩美が、縋るような瞳で俺を見上げてくる。

 少しだけ、優越感で胸が疼いた。


「死んだのは、ウーア本人で間違いないと思うで。近所のおいさんおじさんも朝そう話しよった」

「ねえ、テレビは!? テレビは何ち言いよったん?

 うち、見きらんくなって途中で消したけん、分からんのよ」

「テレビでは、事件と事故の両面から調査するっち言いよった。

 まだ、うちらの事はバレちょらんと思う。

 ウーア、いっつもビッコ引いて歩きよったけん、変なコケ方したんやないか、って思っちょるんじゃないかなあ」


 そう言うと、歩美は露骨に安堵の表情を浮かべた。

 勿論、彼女に言ったのは半分以上が嘘だ。警察は暴行致死、及び殺人の容疑で捜査を開始してるし、俺はどうやればコイツらを出来るだけ自然にかばかり考えていた。


「雄彦、靴とズボンは……」

「ああ、言われた通り、ゴミに出しといたで。マジ助かったわ。あれが無かったら、本気で捕まっちょったかもしれんけんなあ」


 胸中で舌打ちをする。

 昨日、雄彦にズボンと靴を捨てるように言ったのは間違いなく悪手だった。

 雄彦が捕まった時に当日の靴の行方を聞かれれば、確実に俺の名前も出すだろう。

 犯人隠匿を共謀したと疑われてもおかしくない。

 俺は昨日、雄彦達から別れてから、徒歩で学校近くの街まで向かい、スマホで家に電話して、終電逃したからネット喫茶に泊まる旨の連絡を入れてある。アリバイは少しでも多い方がいい。

 ウーアの死体が朝早くに発見されたせいで、いつもの駅は使えなかった。

 雄彦も歩美も一駅歩き、学校へ来たのだという。


『呪ってやる。貴様ら全員呪ってやる。呪って――』


 不意にウーアの残した最後の呪詛が蘇った。

 誰しもが、口を噤む。合理的な世界観を信じている俺でも、あの最後の呪詛を筋道立てて説明することはできなかった。


「……手を出しちゃ、いけんやったんや」


 歩美が漏らすように呟いた。


「覚えちょるやろ、ウーアの歩き方。片足ビッコで、片目が見えちょらんやった。

 昔、本で読んだことがあるんや。

 片目片足の人間は、あの世とこの世を繋ぐ為の依り代になる。

 精神に障害がある人間は、霊界と繋がることがあるんや、って。

 ウーアは依り代やったんや! やけんだから、ウーアに憑いちょった何かに、うちらは呪われたんや!

 タケちゃんがウーアを殴ったけん、ウーアに『降りてきた』んや!

 うちら、みんなウーアに呪われちょるんや!」


 歩美は歯の根の合わない口調でどんどん早口になり、安いオカルト本で仕入れた浅薄な知識の断片の稚拙な組み合わせで、ウーアの最後に残した言葉を解釈しようとしたようだ。

 何を馬鹿なことを、と言おうとしたが、それを否定できる根拠が、何一つ自分の中に存在しない事に気付いた。歩美は己の言葉で己が憐情を煽り、ついには雄彦を指さして非難を始めた。

 

「タケちゃんがみんな悪いんやない! タケちゃんのせいでウーアに呪われたんや!」

「歩美! お前がウーアをキモイっちゅうから、俺が代わりにボコってやったんやないか! 俺のせいにすんな!」

「うちはウーア殺してなんて言うちょらん、全部タケちゃんのせいやんか――」


 言葉を遮るように、雄彦が歩美の頬を拳で殴りつけた。

 雄彦の中で、己が暴力がウーアを死に至らしめたという事実は、どうしても直視に堪えないものとなっているようだった。

 すとん、と草叢に腰を落とした歩美は、


「ぶった、タケちゃんがぶったぁぁ!」


 と火がついたように泣き始めた。

 雄彦はしまった、と一瞬後悔したような顔を見せたが、


「知るかボケ」

 

 と言い捨てて去って行った。俺は、子供のように泣きわめく歩美を宥めるのに、二時間をかけた。



  ◆



 翌日の朝、近所の神社の石段の下で、雄彦の死体が発見された。

 死因は頸椎損傷、神社の石段を踏み外して転落し、後頭部を強くぶつけたものと報じられた。

 

  ◆


 小さな町での二日連続での不審死の発見は、部落全体に重い影を落としていた。

 雄彦が死んでいた神社は地元の人間でも滅多に通わないほど寂れた場所にあり、俺たちの感覚ではオカルトスポットに近かった。

 そんな場所に、陽もくれた後に何故高校生が一人で登ったのか?

 町のあちこちの集会所で、老人は勝手気ままに想像を膨らませ、方言交じりのしゃがれ声のざわめきの中で『憑き物』や『祟り』という言葉を幾つも耳にした。

 昨日の夕方、ウーアの事件の捜査をしていた刑事が雄彦の家を訪ねていた事も、噂に悪趣味な尾鰭を付け足す結果となった。


『駅に棲んでいたホームレスの赤松氏を暴行し、死に至らしめたのはあの家の雄彦で、彼はそれを悔いて神社に向かい、赤松氏の祟りで転落死した』


 細かいフレーバーを除けば、流言飛語は真実に限りなく近いだろう。

 昨日の雄彦の顔には恐怖と後悔の色がありありと浮かんでいたし、歩美を殴った後に神社を登ったのは、歩美の話を聞いて憑いているモノを落としたかったからだろう、と俺でさえ思う。

 ただ、雄彦が転落死したのが、ウーアの呪いか偶然かは、俺には判断することが出来なかった。

 しかし、歩美は確実に呪いだと信じていたし、一日中、俺の服の裾を握って離そうとしなかった。

 歩美は酷い顔をしていた。目は泣き腫らして充血し、通販で買った化粧品で彩っているアイラインもチークも、涙でぐしゃぐしゃに乱れている。


「うちにも、警察が来たの。あの時間帯で駅使っちょん人っち、殆どおらんのやって」

「ああ、それならうちにも来たよ。きっと総当たりで捜査しよんやろうから、心配することないで」

 

 これは、半ば以上嘘だった。俺は当日外泊して家に帰らなかった事を母親は証言し、使用したネット喫茶のレシートまで渡した。

 警察も馬鹿じゃない。既にウーア暴行の犯人は雄彦と狙いを定めていたことだろう。

 歩美が家に帰れば、再び家の前にパトカーが停まっているのを目にすることになるのは間違いない。


「ウーアの呪いや。きっと、次に死ぬるのはうちや。タケちゃんも死んで、もうどうしたらいいかわからん!」

 

 彼女はそう言って俺に抱き着いてさめざめと泣いた。

 その体の柔らかさに、体の奥の欲望が疼く。今の歩美なら、絆してしまって自分の女に出来るのではないかという考えが頭を過る。

 そんな邪念を、俺は努めて押し殺した。

 どの道、今日で警察に連れてかれる女だ。大切なのは、いかに俺の人生から安全に切り離すか、だと。

 何より、散々雄彦に抱かれた女を、お下がりのように抱くことはプライドが許さなかった。


「俺も、どげえしたらいいか何て分からん! それに、歩美、そもそも悪いんはお前やないんか! いっつも犬か猫に餌付けするみたいにウーアにしよったやろうが! ウーアが依り代やったなら『冒涜された』っち思ってたんやないか!?」


 俺自身は歩美のオカルト話に興味など欠片も無かった。

 だが、あんまり歩美がウザいので、彼女自身の言葉を使って、彼女の胸を刺した。

 それは、思いの他深く彼女の心を貫いたらしい。


「そうやね。そうなら、タケちゃんも、うちのせいで死んだんやね……」


 歩美は、しゃくり上げるようにして泣いた。心の弱い歩美は、きっと警察に洗いざらい全てを話してしまうだろう。雄彦の暴行のことも、俺がその場にいたことも。ただ、おそらく歩美は、俺が雄彦に靴を捨てろと指示した事は知らない筈だ。


『居合わせたが、雄彦が怖くてどうすることもできなかった。殴られた後も何事なく喋っていたので、ウーアの怪我は大したことないと思って気分転換にネット喫茶に行くことにした』


 これだ、そうしよう。

 自分のなかで、つらつらと最も「それらしい」言い訳が湧いてくるのを頭の中で纒め、説得力ありげな一連の流れを組み立てる。

 

「じゃあな、歩美。気をつけて帰れよ」


 しかし、歩美が警察に全てを打ち明けるのではないかという俺の心配は杞憂だった。

 歩美は家には帰らず、そのまま近所の納屋で首を吊って自殺した。



   ◆




 不審死が三日続けて出るなど、この小さな町では初めてのことだった。

 部落全体が葬式のような暗い雰囲気に包まれている。

 俺も、雄彦と歩美の共通の友人として警察の取り調べを受けることになった。

 取り調べのプロに対しては、嘘よりも、本音を。

 

「君、お友達が二人も亡くなったのに、しっかりしてるね」


 疑惑の混じった調べ官の言葉に、俺は答えた。本音を言えば自分を見下してくれる雄彦と歩美が嫌いだったこと。

 そんな二人が死んでせいせいすると心の中では思っていること。

 それらの嘘偽りなき胸中を語り、


「友達が死んだっていうのに、こんな考え方って、間違ってますよね!?」


 と涙と鼻水交じりの顔で調べ官に尋ねたのだ。

 鼻水が出るほど泣いたのは本当だ。これでしくじったら、俺の人生は台無しになる。

 そう考えると、怖くて溜まらなかったからだ。

 調べ官は、優しく薬も毒にもならないような説諭を語ってくれた。


 そうして、小さな町の大きな事件は、幕を閉じた。



  ◆


 

 町は、僅か数日で普段通りの――鄙びた腐れ田舎の様相を取り戻した。

 駅も運行を再開した。ウーアの座っていた茣蓙には、花束と線香が置かれている。

 生きている時はどうしようない気グルとみんなが見下していたのに、死んだ後のウーアは、


『子ども達の登下校を優しく見守っていた聖者』


 などとテレビで語られていて、俺は噴き出してしまった。

 ウーアの呪いは、今も俺の脳裏に焼き付いている。

 だが、歩美のパンツを覗き込んでマスをかいていたあの姿。あいつは自分の本能も抑えらなれない、知恵の足りない屑だったのだ。


「ねえ、裕二を汽車見に連れて行ってよ」


 母に頼まれて、俺は発達障害の弟を自転車のケツに乗せて、ウーアの居た駅に向かう。

 あの辺りには、弟の好みの『汽車見』スポットが多いのだ。


「ねえ兄ちゃん、『キハ147がた』がとおったよ。きょうは『にちりん787けい』もみれるかな。

 たのしみ。きちゃ!」

「おう、そうだな」


 この弟、頭は一本足りない癖に、電車の型番だの時刻表には、異常な記憶力と関心を示す。

 その頭をもっと普通の所に使ってくれればいいのに。


 自転車を停めて、裕二を下すと、駅にこの辺りでは見慣れない、垢ぬけた服装の婦人を見かけた。

 爺婆の言うところの、余所者だ。

 黒い服を着た中年の女性。その右手には、ぞんざいに小さな桐箱が抱えられていた。

 見覚えがある。あれは――骨壺だ。


 女は、ウーアに備えられた花束眺めてケラケラと笑うと、不意に白菊を蹴散らし、線香を踏みにじった。

 良くわからないが、近づかない方が良さそうだ。


 と、人の気配を捉えたのか女性が不意にこちらを振り向き、しっかりと視線が交わった。

 訝しむような気配。

 足元には「きちゃ~」と寄声を上げる裕二。

 すっ、と女性の瞳が細まった。


「犯人は現場に戻るって言うけど、コイツ殺ってくれたのあんた?」

「えっ!? なっ!?」


 狼狽える俺に「まあ、どうでもいいけど」と呟き。


「ここで死んだコイツ、知ってたの?」

「ええ。登下校をいつも見守って頂いていました」


 問いには、教科書通りの嘘で答えた。


「なら、コイツの屑っぷりは知ってたワケだ。

 ねえ、ちょっとオバサンの愚痴に付き合ってくんない? 

 オヤツ奢るからさ。おチビちゃんも、アイス食べさせてあげる」


 俺は、困惑を隠せずにいた。



   ◆



 近くの喫茶店で、女性は赤松公子と名乗った。あのウーアの実母だそうだ。

 明らかにウーアよりも、一回りは若く見えた。

 ――いや、ウーアが老けて見えすぎていたのか、あの姿で、まだ四十に達していなかったのだから。


「いや、コイツったら、産んだものの本当に屑でさ。どうしてアタシからこんなに出来の悪い子が産まれてきたのか、って感じ」


 そう言って、公子はウーアの骨壺を叩いた。


「ガキの頃はさ、ちょっと勉強できたから、友達の一人も連れて来ないような奴でも、何とかなるかな、って思ってたの」


 大学も結構いい所に行ったしさ――そう公子が挙げたウーアの出身校は、俺が目指す志望校だった。俺は、ウーアの後輩となる事を目指して努力していたというのか。

 ウーアの本名は、確か……


「大樹さんは、事故か何かに合われたんですか? それで、あんな事に……」


 公子の語る赤松大樹の姿は、余りに俺の知っているウーアとかけ離れていた。 

 病気か事故で正気を失ったのだろうか? それが、最期に雄彦の蹴りで一瞬だけ正気に戻った?

 それなら、公子は保護責任者か何かの義務を放棄していたのだろうか?

 脳内でぐるぐる回る問を、公子は一笑に付した。


「違う違う、アイツがただ屑だっただけ。要領悪い子だったけど、勉強も人並み以上に出来てたんだよね。

 それが大学卒業して社会に出たらクビになって、どこに行っても務まらなくて、バイトすら出来なくて自棄ヤケになっただけ。

 もっと障害が重くなれば、国が一生食わせてくれてる、って言って、普段からうーあー言って気狂いの真似したり、ガラスの破片で片目潰したりして、障害年金でギリ食えるぐらいに障害認定重くしたの。

 そんな事してどうする、真面目に働け、って言ったんだけどね。

 その頃から、近所の小さい女の子に痴漢みたいな真似して何度も捕まってるんだけど、もう近所でも有名な気グルで通ってたからね。警察も渋々釈放しての繰り返しで……頭を下げるのは、いつもアタシだった。

 出ていってくれた時は、本当に清々したもんだよ。探す気も湧かなかった。

 碌な死に方しないだろと思ってたけど――こんな所で、おっ死んでたとはねえ……」


 押さえきれない怒りと、僅かな悲しみを混ぜて、公子は骨壺を叩いた。 

 公子の言葉が染み込むにつれ、俺の中に、どうしようもない怒りが沸々と湧き上がるのを感じていた。 

 ウーアは、気が狂ってなど居なかった。

 その根性が気に食わない。気ぶれたフリさえすれば、世間に蛭のように寄生して行けるだろうと企んだ、怠惰で卑怯なだけの男だった。

 気ぶれたフリをするならするで、最期まで貫いてくれれば――あの二人は死ななかったかもしれないのに。

 ホームレスだと思っていたが、ウーアはこの町に小さなアパートを借りていたらしい。

 ゴミ屋敷も同然になっていて、片付けるのに手間がかかった、とタバコの煙をふかしながら公子は語った。

 しかし……己の目を潰し、一日中狂人の真似をして、ただ電車の通過音に聞き惚れるだけの毎日を、俺は過ごせるだろうか。正気の人間は到底真似出来るとは思えない。

 やっぱり、ウーアは狂っていたのだ。俺の思っていた方向とは少し違うけれど。

 そう、自分を納得させることにした。


 高級パフェを代価に三十分程愚痴を聞かされて、俺は公子と別れた。

 もう二度と、会うことは無いないだろう。

 別れ際に、公子はアイスクリームで口の周りを汚した裕二が、電車の通過に合わせて飛び跳ねるのを見て、スッと瞳を細めた。


「ねえ、その子はあんたの弟だよね」

「ええ、そうですが」

「気をつけた方がいいよ。その子、小さな頃のアイツにそっくりでさ。

 子どもの頃は何とか育てられたんだよ。ちょっと所があったって、やっぱり子どもは可愛いからさ。――でも、大人になったら、何の取り柄もない――いいや、違うか。世間様に迷惑をかけるだけの屑になっちゃった。無理せず産まずに、堕ろしとけば良かったよ。

 じゃあね、あんたも気をつけて」


 その言葉は、ウーアの最期の言葉以上の呪詛のように、俺には聞こえた。



   ◆




「うあぁ! きちゃ! きちゃあ! 147がたぁ!」


 通り過ぎる電車に、弟の裕二が喜色満面飛び跳ねる。

 あのウーアにも、こんな幼く無垢な時期もあったのだろう。

 それが、障害者のフリをして国から金をせびり、女児にイタズラをしては狂人のフリで責任逃れをするような人蛭に成り果てたのだ。

 この先、大学に行っても、就職をしても、この一回り歳の離れた弟は、俺の人生の重荷として付きまとう……

 それは、分かっていた事だった。覚悟していた事だった。 

 歳の離れた弟が産まれた時、まだ小学生だった俺は、心の底からの喜びを感じた。少し足りなくとも無垢な裕二は、本当に可愛かった。しかし、未来のビジョンからは、ずっと目を逸らし続けてきた。

 もし――この弟が、成長してもあのウーアのような人間になるだけだというのなら。

 その責を、母に代わって全て俺が負うようになるというのなら。

 いっそ、もう。


「もう少し、近くで汽車見るか?」

「みる~!」 

 

 あどけない声で、弟が俺の足についてくる。

 俺は踏切へと近づいた。いつもは、もしもの事があってはいけないから近づかない場所だ。

 警報機がけたたましく鳴り出す。スズメバチの色をした遮断器が、交差するように降りてくる。


「くる、くるよ」


 裕二が顔を紅潮させて、電車の接近を待ち構える。

 俺は、そっとその背中側に回りこむ。

 周囲には、車も人影もない。電車に乗っているのは、半分眠ったような爺婆だけだ。

 小さな背中が、すぐ目の前に。


「うーあー!」


 弟が、両腕を広げて歓声を上げた。




 

 終


 

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