その夢は露草に似た

一枝 唯

その夢は露草に似た


 信じられなかった。


 無神経な誰かの悪戯じゃないかって思った。


 それでも足を向けずにはいられなかったんだ。


 もしかしたら。




跡野アトノカイサマ』


 癖のある字で綴られた手紙。手書きの手紙だってさ、この時代に。


『夏祭りに行こう』


『待ち合わせの時間と場所は――』


 野中ノナカ亜希菜アキナ、という署名を穴の開くほど見つめた。


 生憎と僕は、彼女の筆跡なんて知らない。文章の特徴なら少しは判るけど、LINEでつながってた仲間なら真似ることも難しくないだろう。


 彼女が夏祭りに誘ってきたなんて半信半疑、いや、有り得ないと知っていながらも、指定された日時、僕はその場所に行かずにはいられなかった。夢を抱かずにはいられなかった。


 でも。


「……こんな場所?」


 手紙の住所に到着した僕は、「悪戯だ」との確信を更に強めた。何しろそこは、もう何十年も人が住んでいなさそうな空き家に見えたのだ。


「この裏庭にこい、って?」


 悪戯だ。いくら空き家でも勝手に入るのは多分、不法侵入。そもそも草ぼうぼうで、裏に入り込むのは容易じゃない。誰かが踏み分けた跡もないし、行ってもどうせ誰もいない。せいぜい、どこかのぞける場所から犯人が「ほんとにきたよ」と嘲笑うだけ。


 理性はそう思っているのに、気づけば僕は犬走りに足を踏み入れ、手紙の指示通りに空き家の裏へ回った。この様子からすると、裏庭も相当の草むらであるはずだ。


 と、思ったんだけど。


「あれ」


 意外にも、表からの印象とはかけ離れた空間がそこにあった。


 よく手入れのされた庭園、と言うのはきっとこういう感じなのだろう。緩やかにカーブして設置された敷石。低木に沿う形で小川のような流れが作られているところを見ると日本庭園風だが、少し離れたところにはアーチがあって薔薇の花が咲いている。これはいかにも西洋風で、ちぐはぐだ。


「コンセプト不明」


 思わずぼそりと呟いた。


「いろんな人が使うから、仕方ないんだよね」


 許してやってよ、と言って笑う声。僕はドキッとして振り向いた。


 まさか。


「やっ」


 そこには、浴衣姿の女子が一人。


「え……」


 僕はぽかんとしてしまった。


「……本当、に?」


「なーにその顔。あ、浴衣に驚いた? へへっ、サプライズ成功ー」


 亜希菜だ。間違いない。野中亜希菜。まさか、本当に。彼女が。


「呆然としすぎ。ほらほら、早く行こう? 夏の夜は短いんだぜ!」




 白地に青い花模様の柄。何となく見覚えがある花だ。だが花の名を考えようとは思わなかった。


 アップにした髪型が大人びて見える。こんな彼女は初めてだ。


(うん、夢だな)


 僕は確信した。


「ここから行くのが便利なんだよ」


「行くってどこに?」


 僕はそれだけを尋ねた。


 せっかくのいい夢だ。いったい何故――なんて、水を差すのはもったいない。


「あの裏門から抜けると、神社までの近道。知らなかったでしょ」


「知らなかった。ってか、ここ、人んち……まあいいか」


 夢だしな。


「ん? 神社って言った?」


「だよ。夏祭りだもん」


「そうか」


 うなずきながら僕は考える。確かに、地元の神社でのお祭りには毎年のようにみんなで集まってたっけな。でも、こっちに神社なんかあったか?


(まあ、いいか)


 夢に整合性を求めても仕方ない。僕は「まあいいか」を繰り返しながら亜希菜について行くことにした。


「秘密の小道。いいねー、あたしこういう雰囲気大好き」


 人一人がかろうじて通れるような、これは道と言うよりただの「建物の間」だと思うが、やはり余計な突っ込みは控えることにした。無粋な発言は、もったいない。


「見てみて、小っちゃい青い花。かーわいーい」


 道ばたの花を指して、亜希菜がはしゃぐ。


「ああ、これなら判る。露草だ」


「へえ、よく知ってるね」


 そこで、ふと気づく。彼女の浴衣の柄は、まさに露草じゃないか。どうして気づかなかったんだろう。


「最近、何かで見たんだ。ええと、朝に咲いて朝露に濡れるからとか何とか」


 たまたま解説が書かれている記事を見た覚えがある。もう少し情報があったような気もするが、詳しくは思い出せなかった。


「今なら夜露だねえ」


 どうでもいい返事。こんなやり取りがひどく心を弾ませた。


 このまま、ずっといられたら。


「そこ曲がったら神社だよ」


 亜希菜が指し、ぱっと駆け出す。


「ま、待てよ」


 僕は慌てて追いかけた。亜希菜が笑ってる。


 笑ってる。


「お祭り! 夏! 夜店だー!」


 角の向こうには確かに屋台が所狭しと店を出していた。自粛やらディスタンスやらのこのご時世、夏祭りをやるだけでも珍しいのに、こんなに店が出てるなんて。


(いや、夢なんだから問題ないな)


 僕はそう思っていた。


 そう思おうとしていた、と言うのが正しかったのかもしれない。


「ねね、海。ヤキソバ食べよーよ、ヤキソバ」


「はいはい、僕が出せばいいんだね」


「やー、悪いねー」


 ちっとも悪く思っていない表情。でも腹は立たない。こんなことで笑ってもらえるなら、いくらでも。


「おじさーん、おハシふたつね」


 図々しくも一人前に二人分のハシをつけてもらった亜希菜は、ピースなどしてくる。


「あとね、あっちのポテト! あ、串焼きもおいしそー」


「ほんっと食い気だらけだな、亜希菜は」


 浴衣なんて着ても、色気より食い気。


 彼女らしいし、色気なんて出されても、正直困ってしまうが。


「いいよ、何でも買いましょう。ああ、飲み物もいるか。お茶でいい?」


「おー、気が利くね! ありがと!」


 二人分の腕では持てる数が限られている。結局僕らはペットボトル一本ずつとヤキソバ、あと唐揚げを買って、適当な石段に腰を下ろした。


「つめたー」


 よく冷えたペットボトルはすぐに結露して、亜希菜の手のひらをぬらしたようだ。彼女がペットボトルを石の上に置いて手をぶんぶんと振ると、その水しぶきが僕にかかる。


「まるで、波打ち際で水かけ合うみたいになったね」


 謝るどころか、亜希菜はそんなことを言い出した。


「一方的にかけられたんだが」


「プールとかもいいね、水着新調したかったし……あ、今何かそーぞーしたでしょ。やらしー」


「勝手に提議して即座に貶めるなよ」


 僕は苦情を続けたが、何も怒ったわけじゃない。こんなのは何でもないやり取り。


 何でもない。まるで日常の。


「ねー、ヤキソバのここ、食べて」


「何?」


「紅ショウガのとこ」


「嫌いだっけ?」


「この、色がついてるところが怖い」


「怖い?」


 思いがけない言葉に、僕は首をかしげた。


「それは、人工着色料反対、的な?」


「うんとね、紅ショウガにヤキソバが侵食されてるみたいだから」


「あー、判らないでもない」


 言いながら僕は紅ショウガに侵食されたヤキソバを食べた。


「あっ、残り全部食べる気!?」


「依頼に応じた報酬」


「ぐぬぬ」


「気遣いでもあります。甘いものも食べるんだろ?」


 僕は空いた手で夜店群を指した。


「ジェラート、かき氷、バナナジュース、わらびもち、わたあめ、りんご飴、よりどりみどり」


「りんご飴って、食べたこと、ないんだよね」


 ぽつりと、呟きがきた。


「へえ、じゃあ買ってこようか」


「――いい」


「何で?」


 拒否されるとは思わなくて、立ち上がりかけた僕は中途半端な姿勢で止まってしまった。


「りんごが嫌い? それとも好きすぎて、りんごが加工されてるのが許せないタイプ?」


「そんな人いる?」


 亜希菜はぷっと吹き出した。


「やー、楽しいね!」


 それから、急に明るい声を出す。わざとらしく感じた。


「食べ歩きが楽しいのかな? それともお祭りだから?」


「両方じゃないか?」


「そっか、それもそうだ」


 うんうんと彼女は大げさにうなずく。


「ねね、今度食い倒れ旅行とかどう? あたしさ、神戸行ってみたいんだよね、神戸。美味しいって言うじゃん」


 突然そんなことを言い出した亜希菜は、どこからか取り出した地図をばっと開く。


「えっと、神戸ってどこだっけ」


「兵庫県」


「ヒョーゴってどこだっけ」


 冗談か本気か判らないが、僕は指し示した。「ここかー」などと彼女は感心している。


「中華街あるんだよね? 肉まん食べたいな。関西だと豚まんって言うんだっけ。あと焼き小籠包! 前に食べて美味しかった。それからあの時食べた……」


 亜希菜はあれが美味しかったの何だのと連発する。本当に食いしん坊だな、と僕は苦笑した。


「美味しいもの食べてさ、あとは夜景でも見に行こうよ」


「へえ、そんな、とってつけたような――」


 僕は言いよどんだ。ずいっと亜希菜がのぞき込んでくる。


「『デートコース』!」


「……」


 黙ってしまった僕に、亜希菜はケラケラ笑う。


「ね、もーちょっと静かなとこ、行こ」


 人の返事を待たず、彼女は立ち上がると歩き出した。僕は黙ったまま、それについて行く。ヤキソバやペットボトルは、いつの間にか消えていた。


「この神社さ、猫がいるんだよね」


「……猫?」


「そう。黒いのとブチのと白いのと、あと他にももっといる」


「へえ……」


「こんな騒ぎの時にはどこかに隠れてるのかな。静かな場所知ってそう」


 彼女がそう言った時だ。まるで「呼ばれたのできました」とでも言うように白い仔猫がふらっと現れ、先導するみたいに彼女の少し先を走って消えていった。


「あっちだって」


「は?」


「いい場所あるってさ」


 冗談か本気か。首をひねりながら僕は引き続き彼女の後ろを歩いた。


 少し坂を登った。角をいくつか曲がった。階段を上った。そうしてたどり着いたのは小高い丘の上、神社の賑わいを裏から眺められる見晴台だった。


「へえ、こんなところがあったんだ」


 ない。


 こんな場所は。


 ない。


 あんな神社も。


 でも僕は、そう言わなかった。


「いいね、静かで、景色もいい」


「ね。やっぱり猫はいいとこ知ってんね」


 亜希菜は感心したように言った。本当に猫から教わったとでも言うようだ。


 ――そういうことも、あるのかもしれない。


「コーベ。ホッカイドー。オキナワ」


 不意に彼女はぽつりぽつりと適当な地名を挙げながら、さっきの地図を空中に放った。それはふわりと宙を舞ってキラキラした輝きに変化したかと思うと、夜空に日本列島の幻を一瞬だけ映し出す。


「あたしの分も、行ってきて」


「……僕一人で?」


「誰かとでもいーよ。女子ならあたしの知らない子にして」


「……一人で行くよ」


「そーだ、旅行記書いて? そんで、あの神社に持ってきて。あそこからなら届くから」


「……印刷でもいいか。字に自信がないんだ」


「えー、ノートがいいけどな。へへ、交換日記みたいじゃん。ノートに鉛筆、書いては消し書いては消しした痕、セーシュンのロマン!」


「女子はそういうの、好きだよな」


「ごまかさなーい。やって?」


 身体を斜めにして、亜希菜がのぞき込んでくる。僕はつい、目を逸らした。


「……印刷でいいなら」


「えー、ロマンチックじゃない」


 ブツブツ言ったあと、仕方ないなあとお許しが出た。


「あっ、何もこの夏で急いであちこち行かなくていいからね。コロナだっけ? 今年は大変なんでしょ、世界中」


「まあそれはあるけど。そもそもカネがないので。バイトして稼いでからかな」


「バイト! 何すんの?」


「まだ決めてねーよ」


「肉体労働はやめときな? 海、頭脳派だし」


「『ヒョロい』を優しく言い換えてくれてありがとう」


 礼を言うと亜希菜は笑った。


 彼女の笑顔。


 夢よ、覚めないでくれ。


「――ああ、そろそろ、時間かな」


 す、と亜希菜は顔を上げてどこかを見た。僕はドキリとする。


「じゃあ、もう行く、ね」


「ま、待てよ」


 覚めないで。


「そうだ、甘いもの。食べてないだろ。りんご飴、食べてみたらいいじゃないか」


 引き留めた。格好悪く。


「ダメ、なんだ。食べたことないものは」


 向こうを向いた彼女の表情は見えない。


「生前、食べたことのないものは、この境界で行われるお祭りでも食べることができないんだ」


「……そう、なのか」


 僕は何の意味も持たない相槌しか持てなかった。


 これは夢。


 それとも。


「味を思い出せないとダメってことみたい。あーあ、食べときゃよかった!」


 振り返った彼女の笑顔は屈託なく、まるで記憶にあるままで。


「旅行、一緒に行けない」


「……」


「夏祭りも。行くって言ってたのに、こんなになっちゃって」


「来れたじゃないか、こうやって。一緒に」


 僕は、何でもない調子で言おうとした。


 うまくできたかは、判らない。


「……約束、もっといっぱい、したかったな」


「そう、だな」


「怒ったり、怒られたりしたかった」


「……約束破るの、前提なのかよ」


「守れなくなるくらいたくさんしたかった、ってこと」


 おかしなカウントの仕方だと思ったが、言わないでおいた。


 余計なことを言うのは、無粋で――。


「今日は来てくれて本当にありがと。また会えて良かった」


 そう告げる亜希菜の笑顔が薄れる。


 姿も。


 浴衣の模様も、もう、見えなくなる。


「また! 手紙、くれよ! そっちこそさ、便せんでも何でも使って! 裏庭でもどこでも行くから!」


 覚めるな、夢よ。


 消えるな、幻よ。


 もう会えないのか? あの突然の事故の報からもう一度だけ話したいとずっと願っていた。


 夢でもいいからと。


 そうだ、僕も知ってる。


 夢は、必ず、覚めるもの。


 やがて彼女のいない現実が、猛暑の太陽のように容赦なく照りつける。


 判っている。仕方ない。判っている。でも。


「また、会えるよな!?」




 叫んで、僕は、飛び起きた。


 ああ、目覚めてしまったんだ。


 僕はベッドの上で顔を覆った。酷く消耗している気分だった。


 そのまま何分かじっとしていたが、生憎、いつまでもそうしてはいられない。僕はゆっくりと起き上がり、掃き出し窓のカーテンを開けた。恨めしいような、いい天気だ。


 そのままベランダに出て、ふと地上を見下ろした。すると、道の向こうに青い小さな花が見えた。


 露草。


 そうだ、思い出した。


 朝に咲いて昼にはしおれてしまう――儚い夢のような。


 溶け消える、それは夢の露。


「ウニャ」


「うわ!?」


 その瞬間、僕は飛び上がった。近隣で飼ってでもいるのだろうか、ベランダに白い仔猫の姿があったのだ。


 いや、この仔猫には見覚えがある、ような。


 薄暗い坂道が、脳裏に浮かんで消えた。


「……あの夢は、お前の仕業?」


 僕は愚にもつかないことを尋ねた。


「だとしたら、また今度、僕を神社に連れて行ってくれ」


 ウニャ、と猫はまた鳴いた。


 それが返事なのかどうか、僕には知る由もない。


―了―

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その夢は露草に似た 一枝 唯 @y_ichieda

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ