第12話
殴打、殴打、そして殴打。
岩のように固い拳が顎に当たり、ローランドはとうとう崩れ落ちた。切れた口内に鉄臭い液体が溢れていくのを感じる。
立ち上がらなければ次は蹴りが入るだろう。そう頭では理解していても揺れる視界のせいで上半身を起こすこともままならない。
予想通り次の瞬間には固いブーツのつま先が腹をえぐった。
「げえっ」
身体が浮き、嫌な音が喉の奥から漏れ出る。腹部を押さえてうつ伏せになると、今度は背中を踏みつけるような蹴りの雨が降り注いだ。口の端から垂れた血が古いラグに赤黒い染みを作っていく。
アヘンのにおいがくすぶる部屋の中、ローランドは敬愛する兄貴分からの暴行をひたすらに耐えていた。傍らでは二人の男が無味乾燥な目つきで見ている。一人は一目でそれなりの社会的地位、あるいは金銭的余裕がある立場にいるであろうことが分かる服装をしており、それに伴する小さな男は魂を失ったような無表情を貫いていた。
床には分解された義足が無機質に転がっており、まるでローランドの行く末を暗示しているかのようだった。
「それぐらいにしておいたらどうですか、グリバさん? 吐かれても困ります」
「は」
身なりの良い男が声を上げると、グリバは暴行の勢いを緩めた。そしてローランドのくしゃくしゃになった頭にかかとを乗せ、ぞっとするような低い声で尋ねた。
「おい、ローランドよ。手前ェ自分のした事分かってんだろうな?
「すいませ……アニキ……」
えずきながら謝罪するローランド。その言葉を無視し、彼の頭部を靴でえぐりながらグリバは続ける。
「
「分かり、ません……俺は、ちゃんと……痛ッ」
「お前、俺を馬鹿にしてんのか?」
そう言うと、グリバは解体された義足のそばに落ちていた菓子の袋を手に取り、中身をローランドの頭上にぶちまけた。
「なんだこれ? まさか本気でビスケットの交換に来たと思ってんのか、ええ? 俺を馬鹿にしてんのか? 拾ってやった恩を忘れてよ」
「違いま、ぐっ」
「じゃあどこにあるんだよ」
「……分からない、です」
古いアヘン窟の床を舐めながらローランドは言った。
ローランドは地味で目立たないながらも組織に忠実に仕事を行ってきた。特に敬愛する兄貴分のグリバに対しては、ちょっとした小間使いでもそれこそ献身的にこなした。それが認められて、今回初めて麻薬の取引にまで立ち会わせてもらえることになったのだ。
しかしここにあって彼は初めて、そして恐らく最後となるミスを犯してしまったのだ。
ローランドは用意した麻薬をミリアに命じて義足の中に隠させた。これならどこかで警察の取り調べを受けてもまず見つかる事はない。彼女の仕事は完璧だ。この方法にしてからこれまで一度も検挙されたことがないとグリバも言っていた。
グリバと合流後、指定されたパブに赴き、予約されていた部屋に入って取引相手と会った。名乗りもしない取引相手はまず商品を確認させろと言い、その催促に応じたグリバが義足を破壊(この光景はローランドとしてはあまり気持ちの良いものではなかった)したところ、出てきたのは麻薬の袋とよく似た包装がされた菓子だったのだ。
「……当ては、あります」
恐らくミリアが義足に細工をした際に取り間違えたのだろう。あのテントに戻ればすぐ見つかるはずだ。ローランドはそう予想していた。
「すみません。俺が、すぐに取ってきます。俺のミスなので」
しかしその提案はグリバに足蹴にされた。
「んな事ァ聞いてねえ! どこにあるのかをさっさと言えってんだ」
「うぁ! い、いえ、俺が取りに」
「それは手前ェが決める事じゃねえっての」
それでもローランドは自身の予想をグリバ達に言わない。
もし言ってしまえば、最悪ローランドは失敗の罰として即座に処分されるかもしれない、そう思ったのだ。それだけならまだしも、ミリアも彼に関わったとして危害が及ぶ可能性が高い。ローランドが麻薬を組織から「奪った」と判断されてしまえばなおさら危険だ。
ギャングの世界はしばしば事実よりも恣意的な解釈の方が重視される。目が合って愛想笑いを浮かべただけでも、コケにされた、舐めやがって――と、受け取り手の態度如何でどうとでも話が転がる。
また厄介な点が、そうして発生したいざこざに対して彼らは割と直接的な解決方法を好むのだ。つまり暴力か金か、である。
結果としてギャングは血の気の多い荒くれ者か血も涙もない切れ者達が上位を占め、その下には野心ある若者が面従腹背で集うという組織構造を呈している。同じ反社会勢力であってもそれなりの仲間意識で繋がりを持つマフィアとはこの点が異なっている。
ローランドはグリバを慕っていたが、同時にそんなギャングの非情さもよく理解していた。いや、グリバに殴られている間にそれを思い出したという方が正しい。そんなわけで自分とミリアを守る為にとっさに黙することを選んだのだ。
「まあまあ、グリバさん」
取引相手の男が再びグリバをやんわりと制した。
「きっと何かの手違いです。すぐに見つけてくれるでしょう。そこまで叩かれたのですから、彼の罰は十分ですよ」
その言葉を聞いたグリバは少し荒くなった息を整え、男に向かって深々と頭を下げた。
「すいません。しかし、わざわざ来て下さったあなたに申し訳がない」
「そうですね」
男の声からすっと温かさが抜け落ちた気がしてローランドの背筋に悪寒が走った。それに気づかぬグリバは頭を上げて安堵の表情を浮かべている。
「今回の詫びはまた――」
「その責任はあなたに取ってもらいましょう、グリバさん」
「は? それは」
グリバの顔色が曇るのとほぼ同時に胸元に銃が突きつけられた。
銃声が鳴り、グリバは声もなくその場にれた。
「アニキ!?」
ローランドが叫び、
男はグリバの体に向かって言う。
「取引の品を持ってこなかったのは彼のミスかもしれませんが、その責任は貴方にあります。私は貴方と取引をしていたのですからね」
そして今度はローランドを見て笑った。
「そう思いませんか、ローランド君」
「ひっ」
ローランドの全身が引きつる。自身の物ではない濃い血のにおいとアヘンの甘ったるい香りが混じった物が鼻腔を刺激してきて、思わず吐きそうになった。
男は穏やかな笑みを崩さぬまま言葉を続ける。
「安心してください、君まで殺したりしませんよ。取引ができなくなりますからね。むしろ君の忍耐力は気に入りました。ギャングの小物にしておくには惜しい、私の部下にしてあげましょう」
「あ、あなたは……」
「私の名前はどうでもよろしい……と言いたいところですが、今しがたあなたの上司を撃ちましたからね。信用を得るために少し自己紹介しておきましょう」
礼儀正しい口調とは裏腹に、男の瞳は他者をねじ伏せる力強さがあった。
「私の名前はウォーカー。私は帝国の未来のために働いています。私の目的は吸血鬼カリラの討伐です」
ウォーカーはそこで返答を促すように間を置いた。ローランドが返事に窮していると、部屋のドアが乱暴にノックされ、ドア越しに声が聞こえた。店の主人のようだ。
「
「ええ、問題ありませんよ。ありがとう」
ウォーカーが何事もなかったかのように返事をした。ドア越しの声は分かりました、と返した上でさらに言った。
「実は先ほどから警官が何人か来ています。もしかしたら今ので
「そうですか、分かりました」
ウォーカーは落ち着き払って言った。彼が傍らの男に目配せすると、男はすぐに床のラグを引っぺがした。その下には小さな扉があった。
ウォーカーは呆然とするローランドのそばにかがみ込むと、柔和な笑みを浮かべたまま持っていた銃をローランドの手に優しく握らせた。
「では、そういう事なので。今日持ってこれなかった“商品”は『真夜中倶楽部』まで持って来て下さい。なるべく早くお願いしますね。代金は先に渡しておきましょう」
そう言ってローランドの手をポンポンと叩いた。見ると、拳銃の上に小さな鍵が乗っていた。
「それでは、また会いましょう。ローランド・ローズバンク君」
そう言い残すと、ウォーカーは開けられた扉の中へと消えていった。連れの男がそれに続く。
「ラグをひいておけ」
男はしゃがれた低い声でローランドに言うと、扉を閉めた。そしてガチャリと錠を掛けた音がした。
その様子を見詰めながら、銃と鍵を渡されたローランドは放心していた。
傍らには瀕死のグリバが転がっており、今もゆっくりとラグを血で赤黒く染めている。
いつの間にかドアの向こうは喧騒が支配していた。喚き声と物を倒す音、男女の悲鳴、そして銃声。
「アニキ……」
ぼんやりとグリバの顔を見る。閉じた目の瞼が僅かに痙攣していた。血の気のない顔は真っ白で、もうどうにもできない状態なのはローランドにもはっきりわかった。
ローランドは呟いた。
「すみません、俺のせいで……仇は、俺が討ちます……」
『私の名前はウォーカー。私は帝国の未来のために働いています』
何が帝国だ。そんなもの、ぶち壊してやる。黒い炎に胸を燃やしながら、ローランドは固く誓った。
その直後、扉の向こうから男の声がした。
「誰かいるか!? 警察と店が撃ち合いをしてるんだ! おいレイチェル、しっかりしろ! 悪いが開けるぞ!」
我に返ったローランドが返事をする間もなく、扉は乱暴に開かれた。そして小柄な少女を抱えた若い男が飛び込んできた。
男の表情が固まる。その視線は床に倒れたグリバに生き、ローランドの手の拳銃に行き、そしてローランドの顔で止まった。
「嘘だろ」
○○○
蒸気の帝国 山田(肉球) @nigirikobushi
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