皮膚を剥ぐ

江川太洋

皮膚を剥ぐ

 夏美なつみにとって校内は檻だった。防護用の笑みもひび割れて血を噴きそうだった。全員が強制的に着席する授業中は退屈なだけで済んだが、耐え難いのは自由時間だった。全員が孤立しない為だけに固まった、容子ようこを中心にした小グループに夏美も属していた。このグループ間には打算と無駄話だけがあり、放課後の交流など皆無だった。この崩壊間際のグループでさえ夏美は孤立しかけていた。無駄話に飽和した夏美が唾液で滑った容子の唇を眺めていると、まるでカメラでズームするように徐々に肥大して映るようになってきた。そのうち皺の一つ一つまで鮮明に見極められるようになって吐き気を催した夏美は、トイレと言って席を立った。堪え性のなさが集団内の反発を招いていることは夏美も自覚していたが、それでも身体が拒絶するのだった。奥の個室に籠った夏美は、両膝に乗せた両手で頭を抱えた。ここは自分の居場所ではないという違和感が最近では、この身体は本当の自分の身体ではないという齟齬感そごかんに変質しつつあった。この感覚が行き着いたら戻れなくなるという怯えが、絶えず夏美を圧迫した。夏美は両腕をきつく抱いて必死に抗ったが耐え切れず、ブラウスの胸ポケに常備している小さなケースから剃刀の刃を取り出してスカートを捲った。目に付き易いし、どうしようもなくなった時の為に手首は大事に取ってあった。普段は人に見られない腹部や太腿の内側が、夏美が自らを切るのに主に用いる場所だった。夏美の太腿は左右とも、真横に走る細かな傷跡にびっしり覆われて皮膚に凹凸が生じていた。塞がって盛り上がった傷跡をまた切るので、皮膚が硬化してできた白い筋が幾つもあった。股間近くの左太腿の白く盛り上がった一角に刃を押し当てると、皮膚を裂く痛みがとっくに滲み付いた身体が条件反射でわななき、胸の閊えが揺らいだ。息を詰めて夏美はゆっくりと突き立てた刃先を肉に潜り込ませた。これだけで太腿にぴりっと痛みが疾り、裂けた皮膚からぷつぷつと滲んできた血玉の赤が夏美の目を灼いた。痛みは絶対に自分を裏切らない。だから信頼できた。切れば確実に痛み、沸騰しそうになる頭を満たしてくれた。一気に横に引くと痛みが長続きしないので、夏美は痛みを長引かせたくてじわじわと刃を引く方を好んだ。ゆっくり刃を引いて肉が裂ける度に拡がる痛みに、夏美は唇を噛んで堪えた。夏美は震える手で剃刀をもう一度同じ個所に当て、血溜まりの中に沈む刃先をもう一度滑らせた。痛む箇所に新たな痛みが混じり、夏美は思わず貧乏揺すりをした。太腿を伝った血が糸を引いて白い便器の水に落ち、水面に拡がっていった。血はなかなか止まらず、力を入れ過ぎたと夏美は思った。トイレットペーパーで血を拭ううちにチャイムが鳴ったが、夏美は常習犯なので慌てなかった。手と剃刀を洗ってから無人の廊下を歩いていると、先日世界史の授業を受け持った、菅野すげのという教育実習生の若い男が廊下の反対側から歩いてくるのが見えた。太腿の痛みを顔に出さないように夏美がすれ違おうとすると、明らかに夏美を見て動揺した菅野の足が一瞬止まった。菅野の視線を辿って自らの足元を見下ろした夏美は、スカートから覗く白い左足を伝っていく一筋の血に気が付いた。経血を連想したのか菅野は頬を赤くして、夏美と視線が合うとそこに怯えが加わった。その慌てぶりが可笑しくて、夏美は足を伝う血を指で拭うと菅野に向かって微笑んだ。


 父も母も本物ではなく、偽物だった。夏美の本当の両親は自分一人を残してさっさとこの世を去った。両親は揃って他に係累がなかった。施設育ちの夏美は四歳の頃に引き取られた里親の家で、彼らの子供のけんと一緒に育てられた。里親は一つ下で血の繋がりのない健を弟と思い、自分たちを両親と思うようにと夏美を育てた。夏美は自分が健と隔てない愛を受けて育ったことを感じながら、この両親が本物ではないという疎外感を払拭できなかった。幼い健が屈託なく二人を、お父さん、お母さんと呼び、甘える姿を見る度に夏美の胸が軋んだ。本当の両親は乳児だった夏美を家に置き去りにして、丹沢たんざわの山中深くに停めた車中でガソリンを撒いて火を付け、僅かな歯型以外に身元を割り出せないほど炭化した焼死体となって発見されたことを、夏美は小学校に上がった年に里親から聞いた。それを聞いた時は現実感に乏しくて人の身の上話のように感じたが、初潮を迎えて女になり始めた頃から、夏美は時折全く記憶にない両親の夢を見るようになった。梢から零れた青い月光以外は完全な闇に包まれた夜の森に、両親の黒いシルエットが無言で並んで立つ夢だった。その二人の影に、今までどの他人にも感じなかった同じ血肉の脈動を肌で感じ、その度に夏美は両親と同じ場所に行きたいと痛切に願った。健と変わらず骨張って扁平だった自身の身体が、日々丸みを帯びて変質してゆく感覚は疎ましく、むしろ絶えず濡れた衣類を纏っているような窮屈さが増していった。齟齬感が強まる度に、夏美は頻繁に両親の夢を見た。夏美は夢の中でその森が心中の現場で、二人が生まれた場所でもあることが何故か理解できた。その森はこの世とは異なる境界にあるらしかった。手を伸ばせば届くほど近くにいながら、そこがしきいであるのと同じように届かない両親の存在が、自分だけがこの世に放逐されたような哀しみを夏美に募らせた。幾度も夢を見るうちに、次第に夏美は閾に立ち続ける両親が、時が至るのをじっと待っていることに気付き始めた。それに気付くと両親が自分に向かって微笑みかけているように、夏美には感じられてきた。夏美は初めて、お父さん、お母さん、と声に出して二人に呼びかけた。二人がその呼びかけに知覚したことを感じた夏美の中で、初めて存在が認められたという思いが膨らんだ。私の本当の居場所はあの閾の向こう側にあると、その時夏美ははっきり悟った。


 健は他の子供より親への依存が強かった。まだ子供のままでいたいという内なる願望と、徐々に雄の本能を蓄えていく身体の間で煩悶しているようだった。その煩悶が大人しかった健の性質を、徐々に粗暴なものに変えていった。粗暴さが拳となって他人に降りかかるようになったのは中二の時からで、その時点で百八十センチに達した健は里親を見下ろすようになっていた。喉仏が突き出て声変わりした健が里親に声を荒げる姿は、夏美から見れば構って欲しくて喚く子供そのものだった。里親が理性的に宥めるほど健は激し、暗に抱擁を求めて校内で暴力を繰り返した。健の苦しみは自らの苦しみに近く、夏美は幼い頃には疎ましさしか感じなかった健を初めて身近に感じた。健は鈍感ではなかった。自身への夏美の印象の変化も敏感に嗅ぎ分けた。二人は里親が起きている間は没交渉の姿勢を貫いたが、深夜になると互いの部屋を行き来したり、屋根に上って座ったりして話すことが増えた。二人は里親についてかなり突っ込んだ話をした。健は親の胸に包まれたい願望をぽつぽつと吐露した。夏美が自傷行為について打ち明けたのは健だけだった。夏美が高二の夏休みのその晩、二人は夏美の部屋のベッドに腰かけて喋っていた。夏美は傷を見たがる健を何度も断ったが、健は執拗だった。根負けした夏美がハーフパンツを捲って無数の傷跡が走る右の太腿を晒すと、健のまとう空気がはっきりと変わった。それまで姉と弟として接していたのに、急に二人が他人同士なのを思い出したようだった。健の目が粘付いてきたのに気付いてハーフパンツを降ろしかけた夏美を健は制して、傷口に触りたいと懇願してきた。夏美には幼い健に施しを与えようという驕りがまだあった。太腿に置かれた健の掌は温かく、くすぐったかった。じゃれ合ううちに健の掌に獰猛な力がみなぎり、夏美の中途な笑顔が凍り付いた。夏美が本能で危険を察するより一瞬早く、健が夏美を組み敷いた。夏美は両手で健の頬を張ったが、健は全く痛痒に感じていないらしかった。健は叫びかけた夏美の口をグローブのような左手で覆うと、お願いだから、お願いだからと、何度も夏美の耳元で囁いた。目が据わった健は生き急ぐかのように性急だった。下半身を剥かれた夏美は、健が押し入った瞬間に全身を貫いた激痛に硬直した。それは太腿を薄く裂く剃刀の比ではなかった。膜を破って捻じ込まれた杭が頭部まで突き抜けたかのようだった。夏美は健の顔面に爪を立てたが、額から血を滲ませても健は律動を止めなかった。夏美の頬に健の荒い鼻息がかかり、たちまち健は上り詰めた。腰を引いた健が腹に放った飛沫の生温さを感じた夏美は悲鳴を上げた。その悲鳴で我に返ったらしき健の顔色は、みるみる蒼白になった。両手で顔を覆って夏美が泣き始めると、健は夏美の血に汚れた下半身も拭わずに慌ただしくパンツを履いて、夏美の部屋を逃げ出した。夏美は血と精液で汚れた下腹を晒してベッドにぐったりと横たわり、こっそりと汚れを洗うつもりらしい、慎重に階段を降りる健の微かな足音を聴いた。


 夏美と健は同じ屋根の下で変わらぬ没交渉を保ったが、二人が永久に断絶したことに里親は全く気付かなかった。健は夏美に視線を注がれる度に怯えを滲ませた。自らの理想以外に何も見えていない里親は、健よりも遥かに罪深いと夏美は思った。健にけがされて信じ難いほど匂うようになった身体が心から厭わしく、こんな臭い身体に閉じ込められることが限界に達しつつあった。自傷行為も以前ほど効かなくなり、血に塗れるほど太腿を刻んでも麻酔をされたように痛みを遠くに感じるばかりだった。夢で遭遇する両親との距離が徐々に近くなっていた。夏美は両親に、もう少しだからと諭されているように感じられた。あともう少しだけ耐えれば、自分だけが把握できる何かのしるしが訪れることが夏美には理解できた。午後の授業中、堪え切れなくなった夏美が机の下で剃刀をそっと両足の間に差し入れ、健に押し入られた核に刃先を突き立てた瞬間に視界が真っ白く発光し、夜の森深くに停車した両親の車がはっきりと見えた。車を降りた父がトランクから出したガソリン缶を抱えて運転席に戻り、助手席の母にガソリンを注ぎ始めると母が微笑んだ。後部座席やダッシュボードにもガソリンを撒いた父は、残りのガソリンを自らの頭に注いだ。これでやっと還れる、と父は言った。父が胸ポケから銀のジッポを取り出した。視線を交わし合い、母が頷くのを見た父は開いたジッポの石を擦った。瞬時に車中はだいだい色の炎に呑まれ、生きた火柱と化した父と母は絶叫しながら座席をのたうち回った。二人の身体から無数の触手が迸って宙をのたくり、炎から逃れようとするかのように身体が捻じれて膨れ上がったが、その身体ごと炎に飲み尽くされた。両親の動きは次第に緩慢になり、車体と共に黒焦げに炭化して動かなくなった。一部始終をその目で見た夏美は、これが両親の真の姿なのだと知った。両親は閾の向こうの存在だったが、彼らの主成分である細胞核を備えた粒子は、ごく稀に閾をまたいで他の種族の体内で発生し、新たに宿された命に吸い上げられてそこで細胞分裂し始める場合があった。他の種族の血肉に自らを縛られる苦しみを生きる彼らは、借り物の身体の中で粒子の成長を辛抱強く待たねばならなかった。その血肉に刻印された記憶が徴であることを発見した興奮に我を忘れた夏美は、いきなり立ち上がって叫んだ。

「来たー!」

 突然の夏美の奇行に、教室中が凍り付いた。夏美は驚愕する彼らを尻目に、夢遊病者のような足取りで教室を後にした。向かう先は自宅だった。自らを穢した健の部屋で手首を切ることに前から夏美は決めていた。両親が共働きの家は無人だった。整頓された健の部屋のベッドに腰かけると、夏美は左の手首に静かに剃刀の刃を押し当てた。今まではずっと引く力を加減してきたが、もう遠慮の必要がないことに夏美は高揚した。笑顔を浮かべた夏美は一切の躊躇なく、剃刀の刃を一気に真横に凪いだ。肉を断ち割った刃先が骨に達して引っかかる感触があり、皮膚に埋もれた静脈が悉く断ち切られた。夏美は手首全体を覆った熱さを感じただけで、すぐには痛みを知覚できなかった。そう思った瞬間、白い骨が覗く大きな裂け目から呆然とする勢いで血が迸り、夏美の両膝やベッドがたちまち血に塗れた。きひいいい、と夏美の口から雄叫びが迸ったが、それは悲鳴ではなく嬌声だった。その直後に手首に鉈が突き立ったような激痛が脳髄を貫き、夏美の喜悦の雄叫びは甲高い絶叫に変わった。激痛に反応したのか、ぱっくり開いた夏美の傷口から飛び出した血塗れの触手の束が出鱈目に宙をのたくり回った。夏美が纏めて摑んだ触手を渾身の力で引っ張ると、触手が次々と肉を裂いて引き摺り出てくる激痛に夏美は失神しかけた。それでも血で滑る触手を引っ張ると、引き摺り出された触手の束が二の腕にまで達した。縦にぎざぎざに裂けた夏美の左腕から、洪水のように鮮血が溢れ出た。触手はまだ体内で繋がっていた。肩から鎖骨に達した触手を一気に引くと、肉の間から飛び出した触手が顔面を縦に引き裂いて、それが頭蓋の中にまで達した。気道に流れ込んだ血をごぼごぼと泡立たせながら、夏美は右手でぐるぐる巻きにして手頃な短さにした触手の束を引っ張った。頭の奥深くで結び目がずるっと解けたような感触がしたかと思うと、急に身体中を覆っていた皮膚の締め付けが緩んだのが分かった。全身を貫く激痛にのたうち回りながら夏美は、ようやく汚らわしい皮膚を脱ぎ棄てられる解放感に咆哮した。夏美が身を捩らせると、全身を覆う皮膚が葡萄の皮を剥くように、頭頂から頭髪ごと綺麗に剥けて布団の上に落ちていった。剥けた皮膚の奥から紫と橙色の混じり合った毒々しい鱗が覗き、裏面に吸盤の並ぶ太い触手の束がのたくり出てきた。それぞれの触手の先端からは、包丁ほどもある鉤爪が突き出ていた。窓ガラスに新たな自身の姿が映っていた。繊毛状の触手が密集して流線形に変じた頭部には、一対の黒い眼球と横に裂けた口蓋が認められ、かろうじて残った人間らしさが根源的な不快感を掻き立てたが、既に人間の感覚を喪失しつつあった夏美はそれを自然に認知しただけだった。橙と紫が混じったヒトデ状の頭部と四肢を備え、四肢の間に半透明の膜のような羽を張ったそれは、未だに血塗れの制服を纏っていた。かつての自らの残滓が脱ぎ捨てられた血塗れのベッドにうずくまって、夏美は健の帰りを待った。その姿勢で半ば眠りを彷徨っているとドアの鍵が開く音がして、込み上がる喜びに夏美は全身を震わせた。家に入った健は真っ直ぐ階段を上り始めた。夏美は四つん這いでドアに向かって身構えた。何も知らない健がドアを開けて入室すると、夏美は四肢を拡げて一気に飛びかかった。健の瞼が驚愕に見開かれた直後、夏美はフロアに押し倒した健の胴体に鉤爪を突き立てて縦に捌いていた。その直後に夏美が健の喉を突いたので、健は悲鳴すら上げられなかった。縦に裂けた健の腹部を二本の触手で横に押し広げると、腸内の排泄物の激臭と共に内臓の塊が一斉に飛び出てきた。赤い肉塊を吸盤で掬って引き千切ると、口から盛大に血を噴き上げた健が夏美の身体の下でがくがくと痙攣し始めた。夏美は健の口を鉤爪で貫いて、健の頭部を殆ど真横に両断した。たったこれだけで健の肉体は魂を喪い、残された身体がふいに魂を喪って戸惑ったかのように見苦しく痙攣し始めた。驚愕の表情に凝固した健の顔面は血だるまになり、瞼の窪みには並々と血が溜まっていた。あまりにもあっけない死に憤った夏美が、怒りに任せて健の鼻筋に鉤爪を突き立てると、その勢いで鼻から頭頂までが真っ二つに裂けて豆腐のような脳漿が床中に跳ね散った。夏美はその裂け目を触手で左右に押し広げて、顔面を縦に両断して投げ捨てた。夏美は首を失った健の遺体に思うさま鉤爪を振るって、胴体を輪切りにし、四肢を切断した。数分後には健は人間の形状を留めぬ血塗れの肉塊と化して部屋中に四散し、室内は天井まで真っ赤な飛沫に埋め尽くされた。空腹を覚えた夏美は隅に転がっていた健の左側の頭部を摑むと、ベッドの上でごりごりと骨を砕きながら咀嚼した。脳味噌のえも言われぬコク深さに、勝手に夏美の身体が煽動した。人間のような食物が腹部に蓄積される感触とはまるで異なる、栄養成分が即座に分解されて全身を循環する感覚に包まれ、夏美は強い眠気に襲われた。眠りも人間より機能的で、即座に自律系以外の全細胞が機能を遮断したが、残された自律系の感覚はより研ぎ澄まされて閾の向こう側と繋がる感覚が増していった。閾の感覚に心を彷徨わせながら、夏美はじっとベッドにうずくまって里親の帰りを待った。帰宅した里親を平らげたら、両親が自らを解き放った生誕の地である丹沢まで闇に紛れて飛ぶつもりだった。夏美は眠りの底で、先に生誕の地に到達した両親が自分との再会を待ち詫びていることをはっきり感じた。

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