皮膚を剥ぐ
江川太洋
皮膚を剥ぐ
父も母も本物ではなく、偽物だった。夏美の本当の両親は自分一人を残してさっさとこの世を去った。両親は揃って他に係累がなかった。施設育ちの夏美は四歳の頃に引き取られた里親の家で、彼らの子供の
健は他の子供より親への依存が強かった。まだ子供のままでいたいという内なる願望と、徐々に雄の本能を蓄えていく身体の間で煩悶しているようだった。その煩悶が大人しかった健の性質を、徐々に粗暴なものに変えていった。粗暴さが拳となって他人に降りかかるようになったのは中二の時からで、その時点で百八十センチに達した健は里親を見下ろすようになっていた。喉仏が突き出て声変わりした健が里親に声を荒げる姿は、夏美から見れば構って欲しくて喚く子供そのものだった。里親が理性的に宥めるほど健は激し、暗に抱擁を求めて校内で暴力を繰り返した。健の苦しみは自らの苦しみに近く、夏美は幼い頃には疎ましさしか感じなかった健を初めて身近に感じた。健は鈍感ではなかった。自身への夏美の印象の変化も敏感に嗅ぎ分けた。二人は里親が起きている間は没交渉の姿勢を貫いたが、深夜になると互いの部屋を行き来したり、屋根に上って座ったりして話すことが増えた。二人は里親についてかなり突っ込んだ話をした。健は親の胸に包まれたい願望をぽつぽつと吐露した。夏美が自傷行為について打ち明けたのは健だけだった。夏美が高二の夏休みのその晩、二人は夏美の部屋のベッドに腰かけて喋っていた。夏美は傷を見たがる健を何度も断ったが、健は執拗だった。根負けした夏美がハーフパンツを捲って無数の傷跡が走る右の太腿を晒すと、健の
夏美と健は同じ屋根の下で変わらぬ没交渉を保ったが、二人が永久に断絶したことに里親は全く気付かなかった。健は夏美に視線を注がれる度に怯えを滲ませた。自らの理想以外に何も見えていない里親は、健よりも遥かに罪深いと夏美は思った。健に
「来たー!」
突然の夏美の奇行に、教室中が凍り付いた。夏美は驚愕する彼らを尻目に、夢遊病者のような足取りで教室を後にした。向かう先は自宅だった。自らを穢した健の部屋で手首を切ることに前から夏美は決めていた。両親が共働きの家は無人だった。整頓された健の部屋のベッドに腰かけると、夏美は左の手首に静かに剃刀の刃を押し当てた。今まではずっと引く力を加減してきたが、もう遠慮の必要がないことに夏美は高揚した。笑顔を浮かべた夏美は一切の躊躇なく、剃刀の刃を一気に真横に凪いだ。肉を断ち割った刃先が骨に達して引っかかる感触があり、皮膚に埋もれた静脈が悉く断ち切られた。夏美は手首全体を覆った熱さを感じただけで、すぐには痛みを知覚できなかった。そう思った瞬間、白い骨が覗く大きな裂け目から呆然とする勢いで血が迸り、夏美の両膝やベッドがたちまち血に塗れた。きひいいい、と夏美の口から雄叫びが迸ったが、それは悲鳴ではなく嬌声だった。その直後に手首に鉈が突き立ったような激痛が脳髄を貫き、夏美の喜悦の雄叫びは甲高い絶叫に変わった。激痛に反応したのか、ぱっくり開いた夏美の傷口から飛び出した血塗れの触手の束が出鱈目に宙をのたくり回った。夏美が纏めて摑んだ触手を渾身の力で引っ張ると、触手が次々と肉を裂いて引き摺り出てくる激痛に夏美は失神しかけた。それでも血で滑る触手を引っ張ると、引き摺り出された触手の束が二の腕にまで達した。縦にぎざぎざに裂けた夏美の左腕から、洪水のように鮮血が溢れ出た。触手はまだ体内で繋がっていた。肩から鎖骨に達した触手を一気に引くと、肉の間から飛び出した触手が顔面を縦に引き裂いて、それが頭蓋の中にまで達した。気道に流れ込んだ血をごぼごぼと泡立たせながら、夏美は右手でぐるぐる巻きにして手頃な短さにした触手の束を引っ張った。頭の奥深くで結び目がずるっと解けたような感触がしたかと思うと、急に身体中を覆っていた皮膚の締め付けが緩んだのが分かった。全身を貫く激痛にのたうち回りながら夏美は、ようやく汚らわしい皮膚を脱ぎ棄てられる解放感に咆哮した。夏美が身を捩らせると、全身を覆う皮膚が葡萄の皮を剥くように、頭頂から頭髪ごと綺麗に剥けて布団の上に落ちていった。剥けた皮膚の奥から紫と橙色の混じり合った毒々しい鱗が覗き、裏面に吸盤の並ぶ太い触手の束がのたくり出てきた。それぞれの触手の先端からは、包丁ほどもある鉤爪が突き出ていた。窓ガラスに新たな自身の姿が映っていた。繊毛状の触手が密集して流線形に変じた頭部には、一対の黒い眼球と横に裂けた口蓋が認められ、かろうじて残った人間らしさが根源的な不快感を掻き立てたが、既に人間の感覚を喪失しつつあった夏美はそれを自然に認知しただけだった。橙と紫が混じったヒトデ状の頭部と四肢を備え、四肢の間に半透明の膜のような羽を張ったそれは、未だに血塗れの制服を纏っていた。かつての自らの残滓が脱ぎ捨てられた血塗れのベッドにうずくまって、夏美は健の帰りを待った。その姿勢で半ば眠りを彷徨っているとドアの鍵が開く音がして、込み上がる喜びに夏美は全身を震わせた。家に入った健は真っ直ぐ階段を上り始めた。夏美は四つん這いでドアに向かって身構えた。何も知らない健がドアを開けて入室すると、夏美は四肢を拡げて一気に飛びかかった。健の瞼が驚愕に見開かれた直後、夏美はフロアに押し倒した健の胴体に鉤爪を突き立てて縦に捌いていた。その直後に夏美が健の喉を突いたので、健は悲鳴すら上げられなかった。縦に裂けた健の腹部を二本の触手で横に押し広げると、腸内の排泄物の激臭と共に内臓の塊が一斉に飛び出てきた。赤い肉塊を吸盤で掬って引き千切ると、口から盛大に血を噴き上げた健が夏美の身体の下でがくがくと痙攣し始めた。夏美は健の口を鉤爪で貫いて、健の頭部を殆ど真横に両断した。たったこれだけで健の肉体は魂を喪い、残された身体がふいに魂を喪って戸惑ったかのように見苦しく痙攣し始めた。驚愕の表情に凝固した健の顔面は血だるまになり、瞼の窪みには並々と血が溜まっていた。あまりにもあっけない死に憤った夏美が、怒りに任せて健の鼻筋に鉤爪を突き立てると、その勢いで鼻から頭頂までが真っ二つに裂けて豆腐のような脳漿が床中に跳ね散った。夏美はその裂け目を触手で左右に押し広げて、顔面を縦に両断して投げ捨てた。夏美は首を失った健の遺体に思うさま鉤爪を振るって、胴体を輪切りにし、四肢を切断した。数分後には健は人間の形状を留めぬ血塗れの肉塊と化して部屋中に四散し、室内は天井まで真っ赤な飛沫に埋め尽くされた。空腹を覚えた夏美は隅に転がっていた健の左側の頭部を摑むと、ベッドの上でごりごりと骨を砕きながら咀嚼した。脳味噌のえも言われぬコク深さに、勝手に夏美の身体が煽動した。人間のような食物が腹部に蓄積される感触とはまるで異なる、栄養成分が即座に分解されて全身を循環する感覚に包まれ、夏美は強い眠気に襲われた。眠りも人間より機能的で、即座に自律系以外の全細胞が機能を遮断したが、残された自律系の感覚はより研ぎ澄まされて閾の向こう側と繋がる感覚が増していった。閾の感覚に心を彷徨わせながら、夏美はじっとベッドにうずくまって里親の帰りを待った。帰宅した里親を平らげたら、両親が自らを解き放った生誕の地である丹沢まで闇に紛れて飛ぶつもりだった。夏美は眠りの底で、先に生誕の地に到達した両親が自分との再会を待ち詫びていることをはっきり感じた。
皮膚を剥ぐ 江川太洋 @WorrdBeans
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