一気見用「悪魔のレクイエム」

 その人は願ったのだ。

 自分の夢を犠牲にしてでも、願いを叶えてほしいと。


 ピントの外れた意識がゆるやかに覚醒していく。

 彼女は霧の中に立ち尽くしていた。

「あれ…? ここは、どこ…?」

 彼女の意識の目覚めに合わせるように、霧がうすれていった。

 やがて、空はどこまでも見渡せそうなくらい、澄み切っていく。温暖な気候だと分かる空だ。少女がいるのは、丘陵のなだらかな丘の上だった。

 立ち尽くす一人の少女。ハーフアップされた明るい茶色の髪と大きな青い瞳。歳は十九。名前はマリア。

 彼女は、家族とはぐれた迷子の王女だった。

「わたくし…」

 曖昧な意識を呼び覚まそうと首を振る。ふ と、視界のすみをなにかが横切った。

「なに、あれ…」

 それは、空を飛んでいた。

 悠々と空を泳ぎまわる生物。鳥ではない。姿形はどちらかというと、トカゲに似ていた。ただし、翼が生えている。それは、マリアが書物で知る空想上の生き物によく似ていた。

「ドラゴン…?」

 その生き物は身をくねらせ、どこまでも自由に空を泳ぎ回っていた。

 結構距離は離れているが、マリアにはその体のツルツルとした緑色のウロコや、翼の力強さが感じ取れるような気がした。

 マリアはドラゴンがやがて点となって見えなくなるまで、いつまでも空を見上げていた。

「わたくし…、どこに来ちゃったのかしら?」

 呆然と彼女がつぶやく。


 ひとまずマリアは丘を下り、人を探すことにした。

 どうか人間が存在していますように、その人がわたくしを助けてくれますように、と祈りながら。

 移動はたいへんだった。なにせ、貴重品を縫い付けたドレスが重い。

 幸い、マリアの足でも移動できる距離、つまり丘の麓にはちいさな街があった。

 街外れの果樹園と思しき場所を通りかかり、農夫が荷馬車にりんごを積んでいるのが見えた。

「あの、…ごめんなさい」

 おそるおそるマリアが声をかける。

 麦わら帽をかぶった農夫が、マリアをしげしげと見つめると、ぶっきらぼうに返事をした。

「なんだい、あんた。この辺じゃあちょっと見ないような上等な身なりをしてるなあ。どこから来たんだ」

「あの…、それがわたくしにも分からないの。ここはいったい、どこかしら?」

 農夫がゲラゲラと笑う。

「どこだって? おかしなことを聞くなあ。サン・ジェルマンじゃないか! この辺りでも一等、大きな街だよ」

 サン・ジェルマン。

「まあ、まるでフランス語のようだわ」

 マリアは頬に手を当てる。

 もっとちゃんと勉強しておくんだった!

「フランス語? なんだいそりゃあ。どこの言葉だい?」

 フランス語を喋れなくても、フランスを知らない人間はそうはいない。

 やっぱりここはわたくし違う世界に来ちゃったんだわ、とマリアは納得した。

「あ、あの、わたくし、元いた場所に戻りたいのだけど…」

 マリアの言葉に農夫は怪訝な顔をする。

「あんた、なんだ。これか?」

 指で頭を突いた。

「ちがうわ!」

 たぶん。

 マリアは自分でもなにがなんだか分からなくなっていた。いろんな事が怪しかった。

「まあ、あれだ。困ってんなら街の賢者さまのとこでもに行くがいいさ。きっと助けてくれる」

 後から分かることだけど、これは非常に有用な意見だった。

 農夫の言葉に、マリアは主教さまのようなものかしら、と納得する。

「わかりました。ご忠告に従うわ。ありがとう、そしてごきげんよう」

 そうして感謝をこめて、お辞儀をしてみせたのだった。


「おぬしのような人間を、稀人という」

 メルキオールと名乗った白ひげをたくわえた老人は、『賢者』と街の人間から呼ばれているらしい。脚立のてっぺんに座り、そこからマリアを見下ろしていた。

 街に降りてまずマリアが思ったことは、「街までおとぎ話のようね」ということだった。住民でさえも、あまりにもそれっぽい街はうつくしく、そしてどこか懐かしさも感じさせたので、マリアは困ってしまった。だからしょうがなく自分に言い聞かせた。「わたくしは、故郷に帰らなきゃいけないのよ。たとえ多少汚くてもね」

 人々に尋ねたら、すぐに賢者の場所はわかった。街の中心にある『書物庫』という場所にいると、皆、口を揃えて言ったのだ。困ったら賢者さまに助けを求めればいい、というところまで異口同音だったので、マリアは思わず笑みをこぼしてしまった。

 そうして『賢者』と名乗るこの老人との面会をこぎつけ、マリアは自らの窮状を訴えた。

「稀人とは時を定め、他界より来たる来訪者のこと。しばしばこの世界に訪れよる」

 自らの背丈よりうず高く積まれた本に囲まれて、賢者は言う。皺の間から覗くその目は、経験を積んだ老人が孫を見る目で、やさしくマリアに言い聞かせた。

「賢者さま。元いた場所に帰る方法はないのかしら」

 メルキオールは首を傾げた。

「帰りたいのか?」

「わたくし、家族に会いたいの」

 マリアは両親と姉たち、妹、それから弟を思い浮かべて寂しい気持ちになった。大家族で賑やかだったのに、突然、ひとりぼっちになってしまった。彼らはどこに行ってしまったのだろう?

「道がないこともなかろう」

 賢者が頷く。

「この世界で『トカゲネコの尻尾』、『人魚の歌声』、それから『月のしずく』を集めた勇者には願いがかなえられるという。古より伝わる伝説で、ことの真偽はわからんが」

「わかったわ。その三つを探せばいいのね!」

 マリアは身を乗り出して話に聞き入った。

 動いた拍子に本の山が一つ、崩れ落ちる。

「どうしても帰りたいのか?」

 メルキオールはふたたび、問いかけた。

「そうしなきゃいけないの、きっと」

「なるほど、それもまた道なのだろう」

 賢者まるで酔うように宙を注視して、それから嘆息した。

「この世界のことも知っておくといい、お嬢さん。この国は、イル・ド・エスポワールと言う。民草が日々の生活を営み、また稀人の御霊を鎮める場所だ」

 賢者の教示にマリアはもはや驚かなかった。

「それから、もう一つ忠告を与えよう。悪魔にはくれぐれも注意することだ。やつらは悪運を招き寄せる」

 枯れ枝のように細い腕が、蔵書の一つを無造作にひっつかむと、パラパラと開き、あるページを指し示してみせた。

 赤毛に黒い翼を持つ悪魔がそこにはいた。


 賢者の勧めでマリアは重いドレスを脱ぎ、男の格好をして、街を歩いていた。女が乗馬でもないのにズボンなんてと尻込みしたものの、慣れれば案外過ごしやすい。

 当分は持っている宝石の一つを売り払って、街の宿屋で休息をとればいい、というのも賢者の助言で、それに従ってマリアはすでに換金を終え、宿の手配も済んでいた。

 街を散策するマリアは、重苦しく沈む気持ちと裏腹に自分がわくわくしていることにも気がついた。

 こんなおかしなところに来たって知ったら、きっとナースチャは羨むわね、仲のいいおてんばな妹の顔を思い浮かべ、笑みをこぼす。

 実際、街は奇妙な場所だった。

 ネコ人間としかいいようのない人もいれば、ドラキュラまでいる。子供たちはシャボン玉の泡に乗って空中で遊び、ピエロはその歩く跡に花を咲かせていた。

 店の方も、気球屋、マンボウ植物店、モシモシ屋など、見たこともないようなものが、通りに軒を連ねている。

 街の中心の大きな噴水までたどり着き、マリアは腰を下ろした。

 広場となっているその場所では、カフェのテラス席が道に乗り出しており、人々がそこでくつろいでいる。

「これから、どうなるのかなあ…」

 地面に敷き詰められたレンガを見つめる。

 ぼんやりとした思考に陥っていた意識は、ヒュンというなにかが鋭く跳躍する音、それから押し殺したうめき声によって引き戻された。

 音の方を見ると、ちいさな人だかりができている。

 なにごとだろう、と囃し立てる人の輪から、騒ぎの中心に顔をのぞかせ、マリアはひゅっと息を飲んだ。

 両手を左右別々の柱に拘束された上半身裸の大柄な男が、息も絶え絶えに、背を鞭打たれていた。

「なんなの、これ…」

 絶句するマリアに、隣で囃し立てていた若い男が陽気に答える。

「悪魔の奴隷だってよ。珍しいよな!」

 悪魔という言葉に反応して、マリアは鞭打たれる男を見つめた。

 燃えるような赤毛。額のあたりからは、黒いツノが二本、生えている。俯いていて顔はよく見えない。ブロックの溝に、流れ出た血が伝っていた。

 マリアは自分の父親を思い出して悲しくなった。やさしくて、家族思いの、だいすきなお父さま。

「彼は、なにをしたの?」

 震える声でマリアは尋ねる。

「さあな、でも悪魔だってだけで罰を受ける理由になるだろ」

「今日、アイボリーの旦那は虫の居所がわるかったんだよ。その憂さ晴らしさ!」

「ああ、どうりで。なるほどな!」

 それきり青年ももう一人も狂乱の輪に戻ってしまった。

 マリアは悪魔に視線を戻す。

 悪魔は自分の父親と同じくらいの歳に見えた。本当なら、きっと自分の父親と同じように、妻を愛し、子供に囲まれて仲睦まじく過ごす年齢なのだ。

 それなのに、この人は、ただ奴隷だから鞭打たれているのか。

 生まれが他とちがったから。

 マリアは混乱した。

 混乱して、輪を突っ切って、中心へ躍り出た。

「やめて!」

 甲高い声で叫ぶ。

 群衆は悲鳴にしん、と静まり返った。

「この人を傷つけないで」

 マリアの懇願にだれかが誹謗する。

「おいおい、嬢ちゃんも悪魔の仲間なのかい。それとも、悪魔を咥え込んだ娼婦かい?」

 下品な言葉にマリアの頬がカッと熱くなった。

 怒りを抑え、声のした方に向き直る。

「あなたは自分で自分の品位を貶めていることに気づかないの? そのような恥ずべき言葉は慎むべきよ。あなたの振る舞いでは、女性の心を掴む事もできないわ」

 毅然と言い放ったマリアの言葉に、途端、他の方向からヤジが飛んできた。

「まったくその通りだ、お嬢さん! なんてたって、そいつは自分の女房に逃げられてる!」

「うるさいやい」

 声の応酬に群衆から笑いが湧いた。

「お嬢さん、よそ者だな?」

 悪魔を鞭打っていた中年男が近寄ってきて、マリアに問う。

 マリアの顔に影ができた。

「ええ、そうよ。でもそれは慈悲の心を願ってはいけない理由にはならないわ。一体、彼がなにをしたというの」

 マリアは上目遣いで睨みつける。

「よそ者はこれだから、なんにも知らねえ。悪魔がどんだけ恐ろしいものか分かっちゃいねえ。こいつらは、痛めつけてやっと言うことを聞く生き物さ、じゃないと人を誘惑して、堕落させちまう」

「人はいつだって誘惑に打ち勝てるはずよ。本気でそう願っているのなら」

「それはどうかな」

 男は皮肉な笑みを浮かべて、毛むくじゃらの腕を組んだ。

「こいつのせいで今日の儲けは半分飛んだ。どうしたってむしゃくしゃするってもんだ。俺の気晴らしをジャマしたが、このツケをどう払ってくれるんだい、べっぴんさん?」

 マリアの目が赤毛を捉える。それから、少しの間考え込み、ニッコリ笑ってみせた。

「手っ取り早くお金で解決してしまうというのはいかがかしら」


「ベッドを取られちゃったわ」

 マリアはため息をついた。

 悪魔はとても重かった。

 マリアは悪魔を買い取った。しかし、気を失った悪魔を運ぶことができず人夫に宿まで運んでもらったのだった。

 マリアの寝床となるはずだった寝台では、包帯だらけの悪魔がうつ伏せになって、眠りについている。もしかしたら気絶しているのかもしれない。傷が深かったから。

 燃えるような赤い髪に、口元を覆うもじゃもじゃの赤ヒゲ。眉はいかめしく顰められていた。

「悪魔でも悪夢って見るのかしら…」

 額から生えた二本のツノを見つめながら、マリアがつぶやく。

 しん、と静かな室内で、マリアは少し怖くなった。

 彼女は死にゆく人たちを見てきた。誰かを愛して、誰かに愛されて、必要とされていたのに、死んでしまった人たち。もっと、もっとマリアにできることはあったのかもしれないのに。

「ねえ、悪魔さん。わたくし、神に祈りませんわ。だから、貴方は貴方の力でここに戻ってくるのよ」

 マリアは祈るように、悪魔に囁いた。

 マリアがベッドを譲ってまる二日、悪魔は眠り続けた。

 その間、彼女はかいがいしく白湯をうめき声を上げる口元に持っていったり、汗をぬぐってやったりしたのだった。時々、うすく目を開ける悪魔に「大丈夫よ」と声をかけたりもした。

 悪魔が完全に目を覚ました時、マリアは枕元のスツールの上でうたた寝をしていた。

 悪魔は自分が寝ているのが、上等な寝台の上だと悟り、すぐにそこから退こうとしたが、その拍子に、背中の傷口が痛んだらしく、うめき声をあげた。

 微かなその音に、マリアの瞼が持ち上がる。上体を起こして寝床から降りようとする悪魔と目が合った。

「目が覚めたのね、悪魔さん」

 マリアは頬にかかった髪を掻き上げながら、微笑む。

「お、おれ…。申し訳ありません」

 しどろもどろに悪魔が謝罪をする。

 あら、案外若いのかしら、声つきがマリアにそう思わせる。

「あら、どうして謝るの?」

「こんな上等な寝床を…」

「たしかに、あなたのせいで背中がいたいわ」

 マリアが快活にからから笑う。

 しかし、悪魔の方はそれを、大きな罪と認識したらしい。顔面蒼白にマリアの足元に這いつくばった。

「どうぞお許しください」

 マリアは床に跪くと、悪魔の肩にそっと手を触れる。悪魔は体をブルリと震わせた。

「わたくし、怒っていないわ。それに、硬い床で寝るのは、慣れているのよ」

 柔らかい声は、しかし、悪魔の緊張を解かなかった。

 無言のまま、その姿から動かない。

 マリアは、別の意味でこれは手強いかも、と言葉を重ねた。

「相手が許すと言っているのだもの。そのままでいることはないわ。ほら、ベッドに座ってちょうだい?」

 その言葉に、悪魔はゆるゆると従い、寝台の端に浅く腰かけたのだった。拳を握りしめて膝の上でにおき、身を固くしている。

 日に焼けて赤くなった白い肌。マリアは悪魔の瞳の色がまるでエメラルドのような透き通った緑に、黄色や青が入り混じっていることを初めて知った。

「まるで宝石のような綺麗な目の色ね」

 ほう、と見惚れたマリアに悪魔はやはり無言だった。困惑している。

「うらやましいわ」

「…目は、取り出したら腐ります」

 身を強張らせた悪魔に、手を口元に上品に当てて、マリアはまたくすくす笑う。

「そんなことしないわ」

 ひとしきり笑った後、

「お腹が空いたでしょう。なにか食べるものをもらってくるわね」

 と部屋を出ていった。


 マリアがポリッジが入った椀を手渡すと、悪魔はおそるおそる食事を始めた。それから、また休息させたり、悪魔の身だしなみを整えてやったりしているうちに更に一日が過ぎた。

 彼らがようやくゆっくり会話ができるようになったのは、それからだった。無理やり悪魔を寝台に寝かせながら、彼らは会話をする。

「…あなた、名前は何ていうの?」

「エスと呼ばれていました」

「そう」

 ふう、とマリアはため息をつく。

 まったく、混ぜこぜだわ。

「あなたは、新しい名前が欲しい?」

 マリアの言葉に、悪魔は小さく首を横に振る。

「あの…」

 悪魔は言葉を発して、それから言い淀んだ。

「なあに?」

 マリアが微笑む。

「新しいご主人様ですよね」

「分かるの?」

「はい、魔法のつながりを感じます」

 悪魔を買い取った時に、譲渡魔法をかけてやる、と言われたことをマリアは思い出した。ほんとうに魔法まであるのね、とマリアは感心した。

「あの、どうして、おれなんかを買ったんですか?」

 どうしてかしら、マリアにも分からなかった。身の回りのことは、すべて自分でできる自信があった。それなのに、どうして?

「あなた…エスには、家族がいるの?」

「いいえ、ご主人様。悪魔は悪運をもたらすものとして、嫌悪され、憎悪されています。娼婦の母は、おれがまだ赤子だった時に裏路地に捨てました。おれは孤児院で大きくなり、そこを出て以来、一人です」

 マリアは疑問を抱いた。

 あまりにもエスが淀みなく語ったからだ。その疑問を、エスの方も敏感に察したようだった。

「…何代か前のご主人様の訓練だったんです。おれがどのようにして生まれたかを鏡の前で繰り返し言うことで、悪魔が存在することがどんなに悪いかを理解するための」

「そう」

 なんだか悲しいことばかりの連続のような心持ちがした。

 誰からも疎まれて、蔑まれて。

 この人はもしかしたら生まれない方が幸せだったと思っているかもしれないわ。だって、まるでいいことなんてない人生。そんな環境にあるのが当然で、人生の全てを諦めるようなそんな生き方。

「どうして、奴隷になったの?」

「おれは生まれつき魔法が得意で、悪魔だということを隠して、魔術師として働いていたんです。十八の時に協会にそれがバレてしまい、異端として捕まりました」

「…ねえ、あなた、いくつなの?」

 実のところ、マリアはずっとそのことが気になっていた。

 ヒゲを剃り落とした悪魔は、マリアが思っていた以上に若かったのだ。父親世代だと思っていたのに、むしろマリアの方に年齢が近そうだ。無骨ながらも整った顔立ちは、どこかずる賢そうな印象を与えるもので、それは、まさしく悪魔だった。

「三十二になりました。ご主人様」

「そうなのね」

 マリアは微笑んだ。

「わたくし、あなたと対等なお友達になりたいの」

「友達…ですか?」

「ええ、だってわたくし、ひとりぼっちで寂しかったのだもの」

 マリアの言葉にエスは困惑したようだった。

「あなたは、奴隷として買い取ったわたくしを恨んでいるかもしれないけれど」

「…いいえ、ご主人様。恨んでなど、おりません。買っていただき、ありがとうございます」

「そう?」

「…」

「だから、そうね…。わたくし、対等な友達としてあなたに取引を持ちかけるわ」

 にこ、とマリアは笑いかけた。

「わたくし、叶えなければならないことがあるの。それが達成できた暁には、あなたを奴隷から解放すると誓うわ、どう? たぶん、それだけの資産はあるはずよ」

 悪魔は、合点がゆかない様子で、頷いた。

「はい、ご主人様」

 マリアはなおも笑いかける。

「あら、お友達なんだから、マリアって呼んでくれてもいいのよ」


 なにもかも奪われて、上から押さえつけられて。もし、なに者かが慈しみの心でもって彼を癒したら、彼はその反動で世界をひどく憎むようになるんだろうか、マリアは不思議だった。だとしたら、その巻き添えを真っ先に食らいそうねと、ふっと、笑う。

 人がこんな風に奴隷に貶められていい理由なんてない。

 彼は不当に扱われている。声を上げる機会すら与えられず。彼がこんな人生を送らなければいけない理由なんてないのだ。けれど、その彼を『奴隷』として扱っているのは、そう思っている当のマリアだ。

「わたくし、ここではない世界から来たの。そして願いを叶えるために、『トカゲネコの尻尾』、『人魚の歌声』、それから『月のしずく』を手に入れなくてはならないの」

「ご主人様は、」

 マリアがすかさず遮る。

「マリアよ」

「…マリア、さまは、稀人ですか?」

「そうなの。だから、わたくしを助けて、そして教えて?」

「教える?」

「そう、わたくし、なにもかも、知らないの。だから、あなたの世界のことを教えて欲しいわ」

 エスは呆然と頷いた。

「承りました、マリアさま」

 マリアが右手を差し出し、エスはそれをおそるおそる受け取った。

 悪魔にとってこの上なく甘美な契約がなされた瞬間だった。

 ふと、まだマリアに家庭教師がいた頃、退屈なフランス語のレッスンの一環として「せむし男」の話を読んだ時のことを思い出す。それはその時のマリアが珍しく興味を惹かれた話だった。

 その時、マリアは思ったものだ。

 かわいそうなカジモド。

 優しくして、一瞬でも期待させておいて、結局、彼の大切なエスメラルダは美しくて地位のある騎士に行ってしまう。彼にとってエスメラルダはたった一つの希望だったのに。エスメラルダは、なんて残酷なことをするのだろう。どうせ捨ててしまうのなら、最初から優しくしなければよかったのに。でも、彼女は親切にせずにはいられない性格で、ついでに運命は彼らを引き合わせてしまったのだ。

 マリアは、エスメラルダのように関わってしまったら、せむし男を疎まずに、いられるかしら?


 冒険への出発は、エスの傷が癒えるのを待つことにした。

 ある日、マリアは一般的な金の扱い方をエスに教わり、市場に食料の調達に出ることにした。

「あの、マリア…さま。おれが護衛としてついていきます」

 そう言って譲らないエスを説き伏せ、マリアは胸を張ってみせる。

「わたくし、買い物くらいできるわ! ちゃんとここに戻ってくるから安心してちょうだい!」

 それでも心配そうな顔をするので、マリアはなおも言葉を重ねなければならなかった。

「わたくし、子供じゃないのよ。買い物くらいできるに決まってるじゃない!」

✳︎

 マリアが子供のような主張をして、外に出て行ってしまったので、一人取り残されたエスは、寝床の上で眠りにつく事も出来ないまま、考え事をしていた。その念頭にあるのは、どうにかしてこの新しい主人に取り入らなければならない、という事だった。

 エスはもう三十二歳で、いろんな事において下り坂だった。いくら珍しい悪魔でも、それより若く体力のある人間の方に高音がつく。エスはマリアがいくら払ったのか知らなかったが、アイボリーはエスを値段が下がりきる前に売り払ってしまいたかったのだろう。もしまた売られるようなことがあれば、さらに安値になる。その連鎖の先にあるゴールは、廃棄しかない。

 生きたいのならば、縋り付くしかなかった。

 それにエスは、蹴られるのも、殴られるのも、食事を抜かれるのも嫌いだった。そういう荒事を知らない純真そうな新しい主人は、多少危機感に疎かろうが、マシなのかもしれない。彼女はエスの瞳を『きれい』だと言ったのだ。そんなことは言われたことがなかった。気に入られる目は、あるということだ。

 エスは生きていたかった。

 道の隅で蹲るところから記憶が始まる、そんな楽しいことがなにもない人生でも、それでも生きていたかった。その生に対する執着心が荒くれた彼の人生の中で、彼を生かしていたのかもしれない。

 エスは他人に優しくする方法が分からなかった。

 どうすれば好かれるのかも分からなかった。

 それでも生きるために行動する決意を、新たにした。

 考え事で頭を満たし、それにも飽きて、ウトウトと微睡み始めたころ、彼の主人は帰ってきた。荒々しく扉を閉める音に、エスは飛び起きた。

「ご主人様、どうかされましたか?」

 扉に背を預けて、ずるずると床に座り込んだ主人に駆け寄った。一瞬、動いたことを罰せられるかもしれないという考えが頭をよぎった。

 マリアは蒼白な顔をしながら、その青い瞳をエスに向けた。腕の中に抱え込んだ袋から、パンやハムがこぼれ落ちる。

「この国にも銃はあるのね…。ちょっとびっくりしちゃっただけ」

 彼の主人はそうして青い顔のまま微笑んだのだった。 


 エスの傷に関して厳格な判定を下していたマリアがようやく首を縦に動かしたとき、彼らは出発前に荷物を買い込む事にした。

 エスはもともと着ていた襤褸を捨て、質素で真新しい綿の服を着た。

「似合ってるわ」

 昔した着せ替え人形みたいだわ、と心の中で思いながら、マリアは笑顔で頷く。

「あの、スカーフで頭を隠してもいいですか?」

 おずおずと躊躇いがちに願うエスに、

「そのツノ、素敵なのに」

 そう考えなしに発言してから、先ほどの広場での様子を思い出し、いやな思い出があるのかもしれない、と思い至った。

「もちろん、好きにすればいいわ」

 それから彼らは街に出て、露商や商店で買い物をした。マリアは街に出るのが好きだった。古くさくて、理想的で、かわいらしい街。最初は人の奇抜さに注意を引かれて、あまり気をつけていなかったけれど、たくさんの女性がパンツ姿で出歩いている。鞭打ちなんてなければ、本当に夢の世界だと信じていたかもしれない。

「トカゲネコの尻尾ってなあに?」

 マリアはエスがなにに使うのか分からない鈍い色の石ころを一つ一つ確かめているのを眺めながら、尋ねた。

 エスは手を止めて、マリアに向く。

「南には大きな砂漠地帯があります。そこにトカゲネコという希少動物がいます。その尻尾のことじゃないでしょうか」

「トカゲネコ?」

「背中に大きなトゲを生やしたネコによく似た生物です。とても臆病な性質だと聞いたことがあります」

「ネコじゃないのかしら?」

「申し訳ありません。わかりません」

 エスの謝罪にマリアは少し唇を尖らせた。

「あなたは砂漠に行ったことはある?」

「はい、魔術師だった頃に」

 マリアは薄く微笑んだ。

「わたくし、砂漠を見たことないの。どんなところなのかしら」

 旅の準備を終えた二人が砂漠めがけて出発したのは、それからさらに二日後の事だった。すっかり男装にも慣れたマリアは、自分の五倍ほどもの大きさの鳥に乗って移動すると聞いて、心を躍らせた。

 街の郊外の牧場で借り受けた長距離移動用の旅行鳥を前に、マリアは両手を広げて芝の上で小躍りする。大人しく騎乗されるのを待つ鳥の手綱をエスが抑えている。

「ねえ、ねえ。エス、見て。すごいわ。大きな鳥よ」

 エスがあまりのはしゃぎように思わず微笑んだのを見て、ますますマリアは喜ぶ。

「エスも嬉しいのね。初めてあなたの笑顔を見たわ! すごい、今日はいい日ね」

 そんなマリアにエスは思わずからかいを口にしていた。

「そんなにちょこまか動いていると餌だと勘違いされますよ」

 その途端、ぴたりと動きを止めた少女に、エスはふふっと息を吐き出して笑った。その反応にウソだと気付いたマリアが少しむくれて、やっぱり笑った。

「ひどいわ」

 ゴーグルを装着して、荷物ともども二人が鳥の背に乗り込むと、鳥が翼を広げて、滑走を初め、それからふわっと空へ浮き上がった。上昇気流とともに、彼らは高く高く舞い上がる。

 やがて高度が安定し、それに伴い飛行も安定した。

「すごいわ!」

 その日、何度目か分からないほど繰り返された言葉。風を物ともせずに、マリアが笑う。

「マリア…さまは、空を飛ぶのは初めてですか?」

「そうなの! アメリカで十年前に航空機の飛行に成功したって聞いて夢のようだなって思っていたのよ」

「夢…ですか?」

「人はずっと空飛ぶことを夢見てきたのだもの。空をはばたける翼は自由を意味するのよ」

 ふいに、マリアは賢者の書物庫で見た悪魔の絵を思い出した。あの絵の悪魔にもたしか、羽が生えていた。

「エス、あなたに翼はないの?」

 マリアのはずんだ声に、エスは意表を突かれたようだった。

「おれ、ですか? ありません」

「あら、どうして?」

「どうしてと言われても…」

 心底困ったような様子は、本当に心当たりがないようだった。どうやら元からないらしい。

 マリアの歓声は、彼女が疲れて眠りに落ちるまで続いた。


 辿り着いた砂漠地帯。

 辺り一面、砂だらけだ。近くにあるのは、枯れた井戸が一つだけ。遠くの方には地べたに這いつくばるようにして生えている低木が散見される。

 吹き付けてくる乾燥した風は、体温を下げるどころか、肌を苛む地獄の送り風のようだ。

 砂漠にパラソルを突き立て、二人はその陰で涼もうとしていた。

「あ、あついわ…」

 北国育ちのマリアは着いて早々、気が遠くなっている。

「だいじょうぶですか?」

 心配そうな面持ちで、顔全体に巻きつけたスカーフの合間から、エスが尋ねる。マリアも目だけで頷いた。

「近くに住んでいる人たちは、夜になればトカゲネコが出てくるって言っていたけれど、…ほんとうかしら」

 見渡す限り、生き物なんて見当たらない。こんな灼熱地獄で生きていけるのかしら、とマリアは唇を尖らせた。スカーフの合間から髪の毛に手を伸ばすと、隙間から入ってきた砂が絡みついていた。ため息をつく。

「雪とどっちがいいのかしらね」

 マリアはエスが背中の荷物から例の拳大の茶色い石を取り出し、なにかをしているのが見えた。エスの手元を覗き込む。

「それ、なあに?」

 突然近づいたマリアに、エスは体を強張らせながら、手の中にあるそれを見せる。

「呪いを込めていたんです」

「呪い?」

「この石は冷却石と言って、魔力を込めると触っている人間の体温を低める効果があるんです」

 それから呪文と口の中で唱えると、薄い水色の煙がその石から流れ出て、やってきた風にさらわれ空中に消えてしまった。エスがマリアに石を手渡す。

「すごい!」

 ひんやりとした気持ちよさに、マリアは幸せになる。

「あなたは使わないの?」

 マリアはエスが他の石を使わないでいるのを見てとって、伺った。

「いえ、おれは…」

 今までの経験からエスが遠慮しているのだと理解すると、マリアは片方の手でエスの手を取って、もう片方の手の中にある石の上にかぶせた。まるで石を介して手を繋いでいるような形になる。

「これで一緒に使えるわね」

 マリアが癖で髪をかきあげようとして、スカーフを触り、微笑んだ。

 こわばっていたエスの手の力が抜けるくらいの時間が経ったころ、ようやく陽が暮れはじめ、辺り一面、砂はオレンジに染まった。このころになると気温も下がり始め、だんだんと過ごしやすくなってくる。砂漠の美しさに見とれたマリアは、パラソルから抜け出すと素足で歩き回って遊んだ。

 日も後数分で完全にくれようかという時、旅人が一人通りかかった。

 ラクダに乗って、白装束にターバンを巻いた、浅黒い肌の商人風の男だ。腰にサーベルを指している。

「おや、お嬢さん。こんなところでなにをしているんだい?」

 ベルベットのような声が、ラクダの上からマリアを見下ろす。

 彼女を守ろうと背の後ろにかばい、懐に手を伸ばしたエスの脇から、マリアが顔を出した。

「冒険よ、商人さん」

 マリアの言葉に商人は笑みをこぼす。

「さて、商人だと名乗ったかな」

「あら、ちがうのかしら」

「相違ない。…この辺りは夜、とても冷える。気をつけるといい」

 なんだか水にたゆたうような不思議な気持ち、マリアは思う。彼の声の持つ不思議な雰囲気に呑み込まれて、マリアは気がついたら零していた。

「ねえ、商人さん。この世界にわたくしの家族はいるのかしら」

「それを、ここでそれを知ってしまっていいのかな?」

 彼の夜空のような瞳が、マリアの青い瞳を試すように見つめる。

「ええ、知りたいの」

「君の、名前は?」

「…マリアと言うのよ、商人さん」

 商人はふっと息を吐いた。

「なるほど、君はここの世界に住民ではないのだね。この世界にいる稀人は現在、君だけだ」

「そう、じゃあ、家族に会うには、元の世界に帰らなければならないのね」

「そうなるね。それから、君はあまり良くないものに取り憑かれているようだから、気をつけるんだよ」

「それは、なんだ?」

 低い声でエスが尋ねた。

 商人は静かな声で応える。

「それはわたしにも分からない。この世界のものではないから」

 マリアは素直に礼を告げた。

「そうなのね、ありがとう。商人さん。気をつけるわ」

「わたしの名前はラダ…いや、かの、という。もし次に会うときに君が覚えているかは分からないけれど、告げておこう」

「かの、ね。きっと覚えておくわ」

「それじゃあ、わたしは行くことにしよう。ここは寒いけれど、星空が綺麗だ。楽しむといいよ」

 のっぽの足をラクダが動かし、商人は去っていった。そして、まるで蜃気楼のように消えてしまった。

「なんだったのかしら…」

 呆然とマリアがつぶやく。

「もしかしたら、砂の精霊だったのかもしれません」

 どうにも釈然としない様子でエスが応えた。


 完全に夜の帳が下りた。

 しかし、決して暗くはない。商人の言う通り、空は星で埋め尽くされ、それが照明の代わりになって砂漠の砂を白く照らしていた。

「きれいね、エス」

「…はい」 

 二人は並んで景色を眺める。

 マリアは砂が動いているのに気がついた。風ではない、内側から静かに緩やかに動いている。マリアがエスの方を見ると、彼も抜き身のナイフを片手に砂を見つめていた。

 ポコ、と軽妙な音がして、小さな生き物が砂から頭を出した。それも、一頭ではなく、たくさん。

「まあ」

 マリアが囁いた。

 その生き物はたしかにネコの姿にそっくりだった。そしてたしかに背中に棘がある。

「かわいい」

 トカゲネコの中の一匹が穴から滑り出ると、ぴょこぴょこと二足歩行で近づいてきた。

「また僕たちを乱獲しに来たの?」

 無邪気な瞳で見つめられて、マリアはたじろいだ。

 ネコの口がまるで笑っているように見える。

「まあ、ねこさん。違うわ。ただ、『トカゲネコの尻尾』を分けてもらいに来たのよ」

「そうなの?」

 トカゲネコが首を傾げる。

「ええ。そうよ」

トカゲネコがピュイ、と甲高い鳴き声をあげると、あちこちにいた彼の仲間も同じように鳴き返す。

「試練を受ける? そしたら、あげる」

 マリアは少しの間、思い悩み、自分に他に方法がないことに思い至り、頷いた。

「わかったわ」

 トカゲネコは自分の尻尾を前肢で掴んで毛づくろいをする。

「じゃあ、その隣にいる悪魔を殺して」

 とんでもないことを言うトカゲネコに、

「それはムリよ」

 とマリアは即答した。

「わたくしの友達を殺すなんてできないわ」

 ピュイピュイとトカゲネコが笑い声をあげる。

「冗談だよ」

 エスがホッと息を吐き出した。

「朝は四本足、昼は二本足、夜になると三本足。知ってる?」

 マリアは喜んだ。

「有名ななぞなぞじゃない、エジプトのねこさん。人間のことでしょう?」

「その通り」

 しゅるり、とトカゲネコは前足を上品に舐めて、それからヒゲをピクピクさせた。

「ついてきて」

 トカゲネコはしゅるりしゅるりと移動すると、地面に開いた穴隙を指し示した。

「夜のさらにその先に進む覚悟があるものだけが、ここに手を突っ込める」

 陰影に阻まれて中を伺うことはできない。

 マリアはゴクリと喉を鳴らした。

「時間は朝までだよ」

 それきり、そのトカゲネコは体をくねらせて砂に潜ってしまった。

 きっと朝が訪れれば、この穴は消えてしまうのだろう。

 エスの命を捧げろとトカゲネコは言った。この穴の供物にしろいうことだったのだろうか。

「マリアさま。おれがやります」

 なぞなぞの意味を理解しなかったのか、袖捲りをしたエスが穴に手を突っ込もうとする。それを、マリアは抱きついて止めた。

「だめよ、エス。そんなことをさせるわけにはいかないわ」

 エスは主人の命令に逆らい切ることができずに、硬直した。

 その隙にマリアは中に手を突っ込む。

 柔らかい毛皮の感触がした。

 それをそのまま引っ張り出す。

 出てきたのは、トカゲネコの死骸だった。

「あげるよ」

 近くにいた生きたトカゲネコが言う。

「尻尾の中、空洞があって、そこに丸い石が入っているんだ。君たちが求めていたものはそれだよ」

 ピュイ、と鳴くと、彼らは一斉に砂に潜った。

「もう来ないで」

 それが彼らの最後の言葉だった。


 マリアとエスは身体中に細かい砂を纏わり付かせたまま、夜明け直後、サン・ジェルマンに戻ってきた。

「シャワーを浴びたいわ」

 宿へ戻る道中、石畳の道をフラフラ歩きながら、マリアは手の内にある小さい石ころを見つめる。

「それが、本当に願いを叶えるのに必要な宝物なんでしょうか?」

 エスも不可解な面持ちでそれを見つめる。

「きれいな石ね」

 マリアは微笑む。

 石の向こう側、通りの向こう側から『賢者』のメルキオールが歩いてこちらに向かってきているのが目に入る。親切なこの賢者に好意を持っていたマリアは笑顔で駆け寄る。

「賢者様!」

 嬉しそうに駆け寄るマリアに、賢者も目を細めた。

「おお、稀人の子」

「見て、トカゲネコの石。いただけました」

 両手を広げて見せると、メルキオールの白い髭に縁取られた顔も破顔した。

「おおそうか、そうか。辛辣なあいつらがのお」

 慈しみを込められた声が、マリアの後ろでエスが所在なさげにしているのを目に留めると、険しいものに変化した。

「お嬢さん、悪魔には気をつけるように言ったと思うが」

 攻める響きのある言葉に、マリアは少しの間逡巡し、困惑もあらわに恐る恐る返事をした。

「でも賢者様。エスは悪い人ではないわ。ひどいことをおっしゃらないで」

「悪魔に善良なものはおらん! こいつらは、恐ろしい力を持っている。その力が真に解放されたとき、被害を被るのはお嬢さんだぞ」

「で、でも…」

 なおも言い募ろうとするマリアに、賢者はしびれを切らしたように叫び声をあげた。

「ならん! 悪魔はすべて焼き殺せ!」

 その言葉に、エスは諦めたように脱力した。

 ただ辛い嵐が過ぎ去るのを待ち、耐え忍ぶその顔を見て、マリアは頭がすっと冷える。

「…星を読み、人を導く、この世でもっとも博識な賢者の一人であるメルキオール様。わたくし、そんな高邁なあなたにお会いできたこと、先ほどまでとっても誇りに思っていたわ」

 マリアの言葉に、

「なんですと?」

 ぶす、と眉間にしわを寄せて、賢者がふてくされたように返事をする。

「でも、こんな風に取り乱すお姿はまったく賢者らしく見えないわ。一体、彼があなたになにをしたと言うの? ただ、悪魔だというだけじゃない」

「お嬢さんはご存知ないかもしれないがね、古来より人を誘惑し、悪の道に貶めるのは決まって悪魔なんだ」

「どうして? いい悪魔もいるかもしれないじゃない。堕天使となった天使がいるように、やさしい悪魔がいたっておかしくないわ」

「いない者の証明なんてできるものか! お嬢さんも禁忌をそそのかされる前に、その奴隷を売り払ってしまうがいい」

 その言葉にマリアの堪忍袋の尾が切れる。

「賢者さま、うるさい! ばか! エスはそんなことしないわ!」

 マリアは立ち尽くしたエスの手首を掴むと、そのまま彼を引きずるように駆け出した。通りを駆け抜け、宿まで辿り着いた時には、マリアは砂と汗でおそろしいほど汚れていた。

 部屋に戻って、やっとマリアはエスの手を離す。

「あの人、きっと、歳とって気が短くなっているのだわ。気にくわないものを何でも攻撃するの。気にすることはないわ」

 マリアが怒りを口にしながら、ぽろぽろ涙をこぼす。そして気を紛らわせるために枕をぽかぽか殴りつけた。エスは顔を強張らせたまま、マリアの細い背中をぼうと見つめる。

「賢者樣の言うことが間違っているなんてありえるでしょうか? …どうしてご主人樣はおれにこんなによくしてくれるんですか?」

 マリアはカッとなってエスの方を振り向いた。

「あのね、エス! イヤだったら怒るべきなのよ! カジモドですら反抗したわ! あなただって焼かれたくはないでしょう!」

 マリアはその大きな目でエスを見据えたが、なにかに気がついたように見開くと、肩を垂らして力なく呟いた。

「でも、だからみんな死んだのだわ…」

 大粒の涙が絶え間なく溢れ、頬を伝って、絨毯を濡らしていく。

 エスは、そんなマリアを見て、訳がわからないという顔をした。マリアの顔ほどもある大きな手を、そっと彼女の頬に伸ばしかけ、それからどうしていいか分からずに宙で止った。

「おれは、怒り方がわかりません」

 エスの手を涙が濡らす。

「どうしてマリアが泣くんですか」

 マリアはしゃくり声を上げながら、エスの手を取った。彼女の細い両手でエスの手を握りしめる。

「悲しいからよ。う、うわああああん」

 その日、マリアは異世界に来て初めて、泣いた。


 次の日、マリアが目を覚ますと、朝食の用意がすべて終わっていた。テーブルの上にはほかほかのクロワッサンと並んだボウルからは甘いチョコレートの香りがした。エスが朝、買い出しに出かけたのだと分かる。

 彼女の泣き腫らして真っ赤になった目を見て、エスは気まずそうな顔をした。

「…あの、だいじょうぶですか?」

 冷たい水に浸したタオルを手渡す。

「あなた、昨日わたくしのことを初めて、マリアって呼んだわね」

 それを目に充てながら、マリアはにや、と笑ってみせた。

 エスは疲れたように遠くを見つめ、ふう、と息を吐き出す。

「お腹は空いていませんか?」

 話を逸らしたエスにマリアは慈悲の心で乗っかってあげることにした。

 お父さまも、男心はむずかしいんだぞ、って言っていたもの!

「ええ、もうぺこぺこよ! もちろん、あなたも一緒に食べてくれるんでしょう、エス?」

 髪の毛を搔き上げる。

「………はい」

 二人は、マリアの住んでいた頃の城に比べると、十分の一も、いや百分の一も小さいテーブルで一緒に食事をとる。小さいテーブルでも、楽しさはそんなに変わらないような、マリアはそんな気がした。

 和気藹々と食事が進む。

「次は『人魚の歌声』ですね」

「人魚と言ったら、やっぱり海なのかしら」

 ここは気候が暖かいし楽しみだわ、とマリアが微笑む。

 そんなマリアを見て、エスはぽつりと零した。

「マリアは、物事を楽しむ天才ですね。いつでも楽しそうに見えます」

「まあ、どういうこと?」

 それじゃあまるで何も考えていない人みたい、とマリアは内心思っていると、

「まっすぐで、強い。おれは、あなたみたいになれない」

 寂しそうに、ボウルの底に溜まったチョコレートをティースプーンでかき混ぜた。マリアはエスの意図を測りかねた。

「それは、もちろん…。あなたとわたくしは違う人間だもの。当然じゃない」

「そうですね、…いいえ。なんでもないんです」

 無骨な男が浮かべる笑みの儚さに、「なんだか、すごく悪魔っぽい顔ね」と心の中で独り言を言った。

「人魚っているの?」

「はい。北の海に王国を作っています。人間は立ち入れませんが」

「ここから人魚がいる海へ行くにはどのくらいかかるの?」

 鳥か、今度は亀か、とマリアは想像する。

 ところが、想像に反して、エスの口から出てきたのは、文明の利器だった。

「列車…ですかね」

 マリアは久しぶりに聞く文明に、瞳を輝かせた。

「わたくし、列車の旅が大好きなの」

 首にかけたロケットペンダントがマリアの喜びを表すように、シャラリと揺れる。

 のんびりと食事を終えた二人は、街へと遊びに出かけることにした。マリアはどれを着ようかとトランクに入った自分の洋服を見回す。自分がもとの世界から持ってきた唯一の白いブラウスと濃い灰色のスカートを見るが、気が滅入ってしまい、トランクの蓋を閉じた。

 結局、いつも通りの男物の服を着て、街に繰り出す。

 暖かい気候に晴れた空。

 この陽気で帽子をかぶったままでいられるなんてエスはすごいわ。

 マリアは鼻歌を歌う。

「ここはやっぱりどこかフランス風の街なのね」

「フランス?」

 並んで歩くエスが聞きなれない発音を繰り返した。

 それからしばらく黙り込むと、思い出したことがあるらしい。

「そういえば…、この街に、今から百三十年ほど前に稀人が現れたそうです。当時少年だった稀人は、やがてこの街の町長を務めることになり、立派な町長に感謝した街の住人たちが彼の故郷を再現しようとしたんだそうですよ」

 今から百三十年も前。

 たった一人現れた少年。

「その人の名前は、なんだったの?」

 マリアは、その同胞の名前をなんとなく知りたくなった。

「この街の女性と結婚して、彼女の姓を名乗ったようで…たしか、ルイ・ボンゾだったような」

 マリアはそうなのね、と静かに答えた。

 ルイなんて名前、たくさんいるわ。


 翌朝、二人は市街地と中心街のちょうど境目にある長距離用専用の駅にやってきて、目当ての地方へ出発する列車に乗り込む。蒸気機関ではなく理解を超えた動力で移動するこの乗り物に、マリアは狂喜した。

「すごいわ。見て、ものすごく速い。わたくしの知っている汽車とは倍も速度が違うわ!」

 窓から子供のように身を乗り出して外を眺めるマリアに、ボックス席の向かい側に座ったエスが微笑む。

「これでも、中継地点での休憩を入れると、丸一日かかるそうですね」

 受付でチケットを買った時に言われたことだった。

 マリアは上機嫌でそれに応えた。

「丸一日なんて大したことないわ。一週間も移動する列車があるんだもの」

「そうなんですか」

 ややするとはしゃぎ疲れたように窓にもたれかかって眠り始めた少女を、エスは奇妙な感情とともに見守る。

 一緒に過ごすにつれて、エスにはこの少女がびっくりするくらいに綺麗なことに気がついた。愛されて育ってきたのだと分かる。傷なんてほとんどないような魂のあり方は、エスの感情をざわつかせるとともに、ひどく微笑ましいものにも思えた。

 マリアは、ひどく優しい少女だった。

 誰にでも親切であろうとし、稀人でこの世界のことを知らないから悪魔であるエスにも対等でありたいと言ってくれる。本質的に柔軟で、慈悲の心を知っている。エスは不思議だった。エスも誰かに愛してもらえたら、彼女のようになれたのだろうか。

 最初の頃は心の余裕がなくて気がつけなかったことでも、時が経てば見えてくることがある。

 彼女は最初から、エスに優しかった。

 エスを嘲笑う観衆に割って入って鞭に打たれているのを止めてくれたのも、呻いているエスの額の汗を拭って「大丈夫」と言ってくれたのもマリアだった。賢者の言葉を否定すらした。思えば、自分の体のパーツがきれいだと言われたのは、生まれて初めてだったかもしれない。

 じわじわとスポンジが水を吸い上げるようにゆっくりとエスはマリアの優しさを理解した。

 時折、エスはマリアといるのがひどくつらい。

 ある時、マリアにも苦手なものがあることに気がついた。銃火器や大声を上げる大人、暴力というもの全般を恐怖している。

 いつか、マリアに嫌われたら、恐怖されたら。エスはどうしたらいいか分からない。エスとマリアはあまりにもちがった。エスはきれいな人生を歩んでいない。奴隷になる前の自由だった時、ひもじい思いから逃れたくて、盗みを働いたことだってある。暴力に頼ったことだって一度や二度ではない。自分を所有する主人だからというだけではなく、この無邪気な存在に嫌悪されることに耐えきれる自信がなかった。いつの間にか変化してしまった自分に愕然とする。

 そして、この無邪気な子供の善意を利用してまで、自分が生きようとしていいのか、エスには分からなかった。


 マリアが眠りから目を覚ますと、すでに列車は港町にたどり着いていた。エスが積荷を下ろし、肩に担ぐ。列車を降りると、潮の匂いが漂っていることに気がついた。サン・ジェルマンよりいくらか冷えるようで、風が冷たかった。

 駅を出ると、立て看板に人魚の街への方向が示してあったらしく、エスがこちらだと手招きした。マリアは素直に後をついていく。すぐに海辺に到着する。

 そこは真珠のような形の丸い砂が辺り一面敷き詰められた、広い砂浜だった。海鳥が空を旋回している。

 保養地ではないのだろう、海の家の類は一軒もたっていない。

 ただ、桟橋が一本、海へつなげられていた。

 一緒に列車から降りた人間たちが、その先端から順番に水に飛び込んで行っている。マリアは気のせいかと思おうとして、目を瞬いてみたが、それは現実だということを再確認することにしかならなかった。

「…ねえ、エス。ここからどうすればいいのかしら」

 広い砂浜に仁王立ちして、困った風にマリアは尋ねた。

 目は死体が上がってくるのではないかと皿にして、水面を見つめている。あいにく、まだ一つも見つかっていなかった。

 最近、マリアは困ったことがあれば、なんとなくエスを頼ればいいような気になってしまう。でもそれじゃあ、だめだわ、とそのたびに頬をつねる。ところが頼れる友のエスはマリアのそんな態度を易々と許してしまうのだから困ったものだ。

 案の定、

「シャボン屋を知ってますか?」

 とどこかで聞いたことのある名前だ、と思い、それが街で見かけた商店の一つであることにマリアは気がついた。なにを売っているのかは知らなかったので首を横にふる。

「そこで売っているシャボン玉を買うと、普通の人間でも水の中で呼吸ができるようになるんです。準備しておきました」

 と、荷物の中から用意周到に容器を取り出して見せる。

「どのくらい持つの?」

「だいたい半日程度でしょうか」

 と首を傾げる。

 それからまるで子供のようにシャボン玉を作ると、それをマリアに吹きかけ、それから自分にも同じようにする。泡はすぐに割れて、なにも残らなかったが、

「これで海の中に入れますよ」

 と言われマリアは迷うことなく、荷物を掴み、桟橋の上から海へダイブする。一瞬のことにあっけに取られたエスが慌てて後を追った。

 マリアは海の中で無意識に口元に手を当てていた。

 どんどん、沈んでいく。終わりなんてないのではないか、と思った瞬間、海底に足がついた。

 周囲の気泡が消えた時、いよいよ息が続かなくなって、そっと手を離す。それから恐る恐る息を吸い込む。

「息ができるわ…」

 水に反響して声が耳に届くのが、不思議だった。

 喜びを共有したくて後ろを振り向くと、エスもマリアをじっと見ていた。マリアは嬉しくなってエスに飛びついた。

「うわ」

 思わず仰け反るエスの口から気泡が漏れる。

 子犬のように飛びついたマリアは我に帰り、エスから離れると、今度は海の中を観察した。そして、すぐに思っていたのと違うことに気がつく。

「人魚、いないのね」

 思っていたような街も、人魚もそこにはいなかった。

 ただ、あちこちを陸の上の生き物が散策している。

「人魚は慎しみ深いと言われていますから…」

 エスが苦笑しながら返事をする。

 二人は他の人間と同じように、しばらく海底を散策する。海の底は太陽光がほとんど入らず薄暗い。その代わり、一箇所、強く発光している方向がある。あたりにいる人間はみんなそっちに向かっている。

 小さな魚や、タコとすれ違いながら、二人も同じ方向に進んだ。

 マリアは薄暗い水の中で、ハデスとペルセポネの神話を思い出していた。マリアの好みで言うなら、どちらかというと筋肉質で力強いポセイドンの方が好みで、それに海の神なのに、とマリアは内心首を傾げる。


 途中、二人はカメとクラゲが会話をしているのに出くわした。

「いやあ、メルキオールにも困ったもんじゃなあ」

 カメが言う。

 知り合いの名前が出てきたマリアは思わず、耳を澄ませてしまう。

「まあ、しょうがない。我々もよく見守るしかあるまいのお」

 クラゲをよく見ると、クラゲはクラゲではなくて、真っ白いドレスを幾重にも重ねて着てる小人のようなサイズの人だった。マリアは好奇心に負けて、声をかける。

「あの、こんにちは」

 柔らかい声に、二人(?)は振り向き、それぞれ挨拶を返す。

「お嬢さん、こんなところでどうしたのかな?」

「おや、お嬢さん。稀人だな。匂いが違う」

 カメの方が鼻をヒクヒクと動かして、反応する。

「ええ、そうなんです。賢者さまのお名前が聞こえたからつい、…」

 今度は白い小人(?)の方がエスに反応する。

「おや、こやつは悪魔だぞ。これは面白い組み合わせじゃなあ」

 そう言って、ひらひら笑った。

 カメが言う。

「じゃあ、お嬢さんたちだろう。メルキオールに啖呵を切ったって言うのは」

 マリアは元の世界で家庭教師に怒られる時にして見せたように、ことさら殊勝に頷いて見せる。

「そうなんです。その、わたくしたち、ちょっと意見の食い違いがあったの…」

「ほうほう」

 からからとカメが笑い、カメの方がバルタザールで、クラゲの格好をした小人の方がジャスパーだと名乗る。

「我々はメルキオールと合わせて『三賢者』と呼ばれてたりしておるよ」

「…まあ! そうではないかと思っていたわ。わたくしは、マリア」

「おれは、エスだ」

 マリアが目線を向けると、エスが低く自己紹介をした。

 カメのバルタザールが器用に頭を下に下げて、二人に謝罪する。

「メルキオール、あいつはまだまだ青いのう。いや、歳かのう。頭に血が上ると周りが見えなくなるんじゃ。失礼なことを言ったこと、許してやっておくれ」

「気にしていない」

 エスが短く返事をする。

 マリアはこのまま殊勝な生徒の態度でいようかしら、と一瞬迷い、

「わたくしも、気にしていないわ。でも、許すか許さないかは後で決めるわ」

 と、正直に答えた。

 この答えに、今度はクラゲのジャスパーが笑う。

「ホッホッホ。口の達者なお嬢さんよの。もちろん、その通り。自由にするといい」

 ジャスパーとバルタザールの寛容さを見て、「ほら、やっぱり間違っていたのはメルキオールさまの方じゃない」とマリアは心の中で舌を出した。

 バルタザールがヒレを動かし、マリアの目を覗き込むと、そっと助言をした。

「稀人のお嬢さん。迷い彷徨う哀れな魂。メルキオールの言うことは正しい。確かに、悪魔は惑わすものだ」

 マリアはじっと賢者の目を見つめ返し、きっぱりと言い返した。

「エスはそんなことしないわ」

 カメは今度はエスに目を向ける。エスは淡々と語った。

「おれはマリアを傷つける気も、惑わす気もない。おれがそうしない、と言ったところで、それを証明する手立てがない。ないものは証明しようがない」

 カメの鼻から気泡がブクブクと漏れる。

「はっ。やる前からへこたれてどうする! わしよりざっと二千歳は若いくせに、青さがまったくないではないか!」

「じゃあ、どうしろって言うんだ?」

 それに答えたのは、ジャスパーの方だった。

「お主たち、ここに『人魚の声』を取りに来たのだろう? 我々はまだしばらくここにいる予定だから、帰りにここにまた寄るがよい」

「それが何の証明になる?」

「そう急かすな。その時にお主らが、二人ともかける事なく『人魚の声』を持っていたら、我々は悪魔であるお主を認めよう」

 ジャスパーはさらさらと笑う。

「まあ、我々に認められることに意味なんてまるでないがな」

 賢者たちがそれもそうじゃと揃って笑うが、その横でマリアはやる気を出した。

「行きましょ、エス。絶対に手に入れてここに戻ってくるのよ!」


 エスとマリアは一際光っている方に向かってふわりふわりと水中を進む。

「ぜったいに、認めてもらいましょう。エス」

「…はい」

 エスが自分よりやる気のマリアに、苦笑まじりに返事をする。

 先を行くマリアはくるりと振り向いて、エスに向き直った。髪の毛が水に持ち上げられてふわりと舞い上がる。

「…なにか?」

 戸惑うエスに、マリアは彼の顔をまじまじと見つめると、にこと笑った。

「あなた、そういうふうに笑うと悪魔みたいでミステリアスで、とっても素敵よ」

 ぽかんとする悪魔をよそに、踵を返してまたスタスタと歩き始める。

「わたくし、魔僧と呼ばれる人とお友達だったけれど、とってもいい人だったわ。あなたもいい人だっていうのもちゃんと知っているんだから」

 そうして歩きながらぶつぶつと文句を言うのだった。

 やがて二人は砂でできた背の高い塔に到着した。強く光っているのはこの塔の壁面に埋め込まれた珊瑚が一斉に光を発しているからだ。気がつけば、辺りに人がいなくなっている。

 塔には円形の扉が一つ、ついている。扉には桜色の貝殻の取っ手がついていた。

 ここに何かあるのかしら、とマリアが塔の扉に手をかけようとしたその瞬間、エスがマリアのもう片方の手を強く引いて、マリアを扉からひき剥がした。

「エス…?」

「なにか嫌な予感がします」

 エスは近くに落ちている拳大の貝を拾うと、先ほどマリアが掴もうとした扉に向かって投げつける。その途端、扉だと思っていたものが大きく開き、その貝を噛み砕いた。

「これは、…大きな貝だ」

「え…?」

「この城を根城にしているんだと思います」

 扉部分がムシャムシャと貝を咀嚼する。

『なにをする?』

 それから低く重々しい声が、二人を詰問した。

 エスが答える。

「ここに『人魚の歌声』を探しに来た。なにか知らないか?」

 大きな口が不快そうに聞き返した。

『魂の安穏を奪うつもりか?』

「どういう意味だ?」

『分かっていないのか…。食事の邪魔をするお前になど教えるものか』

 それきり、口は開かなくなってしまった。

 どうやら不興を買ってしまったらしい。エスは近くから石を拾うと、立て続けに投げかけた。貝は三発目まで耐え、四発目でとうとう海底を揺らすような大声を上げる。

『しつこいな! 人魚に聞け! 人魚たちなら、この近くの海藻の森にいるはずだ』

 しょうがないからエスとマリアは、周囲を探すことにした。貝の示唆した方へ移動すれば、程なくして、いつもマリアを見下ろしているエスの身長を優に越す海藻がたくさん生えている場所へたどり着いた。

「人魚さん」

 揺蕩う森の前で、マリアが声を上げると、ひょいと出てきた者がある。海藻のように長い緑の髪をした、下半身が魚の女性だ。マリアは昔絵本で見た人魚にそっくりだと、その美しさに見とれた。

「陸のお客人。何か御用?」

 くるくるとマリアとエスの周りを回る。

 ひらひらと動くヒレを見て、やっぱり魚のようにぬるぬるしているのかしら、とマリアは興味を持った。

「『人魚の歌声』を分けてもらいたい」

 エスの言葉に、人魚の動きがピタリと止まる。

「どうして?」

「必要なんだ」

 人魚はしばらく考え込んだ後、「いいよ」とあっさり言った。

「ほんとうに?」

 目を見開いたマリアに「ちょっと待ってて」と言うと、森に引き返し、しばらくしたら手に剥き出しのナイフを掴んで戻ってきた。マリアは人魚が無造作に刃の部分を掴んでいるのを見て、自分のことのようにハラハラする。

「ほら、これ」

 それは、真珠層でできた細身の小型剣だった。

 人魚から受け取ってマリアはホッと息をつく。

「でも、頼みごとを聞いてくれない?」

「なにをすればいいの?」

 人魚は長いまつ毛を瞬かせると言った。

「こっちについてきて」

 長い尻尾をはためかせて、森の中へと進んでいく。マリアとエスは顔を見合わせ、ついていくことにした。海藻をかき分け、前へ進む。

 やがて、ぽっかりとなにも生えていない砂地の場所に出た。

 そこには難破船が転がっており、そこのマストの部分に一人の人間が縛り付けられていた。人魚がその人影を指し示して言う。

「この亡霊をその剣で刺して」

「人殺しなんてできないわ!」

 マリアが抗議すると、人魚は不満そうにくるくると回る。

「人殺しじゃないよ。生きてないもん。だいたい、こいつ、外から来たんだよ。君たちが連れ込んだんだろ」

「だからって、刺すわけがないでしょう!」

「刺したって死なないよ、亡霊は。ただ、この場所に入ってこれなくなるだけ」

「もう、聞いてられない。解放するわ!」

 マリアは難破船を駆け上る。水の中だからこそ、簡単に体が跳躍する。この哀れな囚人を解放しようと思ったのだ。ところが、マストに縛り付けられ気絶した男の顔を見て、戦慄した。手の中からナイフが滑り落ちる。

「ヤコフ…!」

 思わず後ろに退こうとして滑り落ちたマリアを、追いついたエスが受け止める。

「大丈夫ですか?」

 覗き込んでくる顔に安心して、マリアはエスにしがみついた。

「わたくし…、どうしたら」

「マリア、マリア? どうしたんですか?」

 エスがマリアの肩を軽く揺さぶるが、マリアの唇は真っ青になり、声は形にならない。下に俯くと、段差の途中でナイフが引っかかっているのが見えた。マリアはエスの手をおろすと、そのナイフを拾い、戻ってくる。

「マリア?」

 マリアは両手でそのナイフを握りしめながら、ジリジリと気を失っている男に近づいた。

「ダメよ」

「え?」

「あ…、あ…この人は、生きていてはいけないの」

 両手を頭上に持ち上げて振りかざしたマリアを止めたのは、エスだった。彼は片手でマリアの動きを止めると、もう片方の手でナイフを抜き取る。

 それから優しく、

「だめですよ」

 と諭した。

「で、でも。このひとを殺さないと、み、みんなが…」

 震えるマリアをそっと押しとどめる。

「そのために、おれがいるんです」

 さらりと言い、放心するマリアを放し、捕らわれた男の首すじを掻き切った。水の中に濃い赤がぼやけて混ざり合い、広がっていく。その一端がマリアの鼻先に触れそうになり、マリアは慄いた。

「い、いやあああ」

 それからパタリと気絶したのだった。


 マリアが目を覚ました時、そこには異世界も、賢者も、ツノの生えた悪魔もいなかった。

 柔らかい朝の日差しが窓からさんさんと入り込んできている。少し寒い、夏も近いある朝。幼い頃から育ってきた宮殿の私室だ。隣では妹がまだ寝ている。

 少し寝ぼけながらも、化粧台の前に座り、髪を梳く。長く艶のある茶色の髪の毛からは、昨晩入浴するのに使用した香水のいい香りがした。

 もうすぐお父さまがボートで晩餐会を開くとおっしゃっていたわ。

 と、少し先の予定を思い出し、マリアは微笑む。

 優秀な士官とおしゃべりできるあの時間が、マリアはとっても好きだった。マリアには同じ年頃の士官がとてもかっこよく見えた。将来は、きっと彼らのうちの誰かと結婚するにちがいないわ、と心を踊らせる。

 それだけではない。単純に家族と楽しい時間を過ごせるあの空間がマリアは好きなのだ。マリアにとって、あんなにリラックスして家族で過ごせる場所は、他にない。

 ふと、夢の中で見た光景を思い出した。

 マストにつながれた虜囚。

 彼は、一体だれだったのだろう?

 髭面の、ひどく怖い男性だった。

 マリアはだんだん不安になってきた。まるで、彼が夢から這い出て来て、みんなを食べてしまいそうに感じられた。

「そんなの、ウソよ…」

 ふと、あの、どこか寂しそうな、そしてちょっとずる賢そうな顔をした、男のひとが光明のように浮かぶ。彼は、わたくしをなんて呼んでいたっけ?

「マリア!」

 エスの呼び声でマリアは覚醒した。

 砂の上から飛び起きる。

「…水の、中」

 そう、そうだった。マリアの現実は、今はこちらだったのだ、と急速に目が覚めていく。同時にあの恐ろしい髭面のことも思い出した。

「あの人は、だれ…?」

 体を腕で抱え込むようにして、ガタガタ震えた。

「大丈夫ですか?」

 気がかりそうに、エスが問いかける。マリアは風邪を引いた時のように、早くその気持ち悪さが無くなるのを祈りながら、無言で頷いた。

「ねえ、エス。あの後どうなったの?」

 朧な記憶を補強しようとする。

「あの繋がれていた男は、まるで塵のように消えてなくなってしまいました。人魚の言う通り、本当に亡霊だったみたいです。あの男を、ご存知なんですか?」

 マリアは首を振って否定する。

「覚えてないの。でも、あの人を見たら、なにかわたくしの大切なものが奪われるような気がして…」

「…」

 エスは何かを考え込み、それから気遣わしげに言った。

「『人魚の歌声』は手に入りました。そろそろ、陸に戻りましょう、マリア」

 頷くマリアに手を差し伸べようとして、ハッと気が付いて引っ込める。その仕草を奇妙に思ったマリアは無言のままエスを見上げた。

「申し訳ありません」

「なんで、謝るの?」

 エスは暗い顔で、つまり例の悪魔っぽい顔で、微笑んだ。

「おれが、怖いでしょう? おれは、人を、」

「ねえ、エス」

 自分で言った言葉に自分で傷ついているエスの様子に、マリアがどこか投げやりに言う。

「はい」

「わたくしたち、お友達よね?」

「………」

「わたくしは、お友達だと思っているわ」

 エスは困惑して、言葉少なに告げた。

「友達がどういう存在なのか、分かりません。けど、マリアのことは大切に思っているつもりです」

「たとえ、わたくしが元の世界に戻っても?」

「…はい」

 マリアは両手をそっと広げた。

「ねえ、エス。抱きしめて」

「…は?」

「抱きしめてくれるまで、一歩も動かない」

 梃子でも動かない様子のマリアに、エスは困ったように、

「子供のようですね」

 そう言いながらも、砂に膝をつき、そっとマリアを抱きしめた。マリアはこそっと言い返す。

「子供じゃないもん。十九歳よ」


 砂の上でポーカーをしていたカメのバルタザールと小人のジャスパーがエスとマリアを見つけると、彼らは陽気に笑い声をあげた。

「おや、戻って来よった。亡霊には会ったかの?」

「知っていて、言わなかったんだな」

 エスの咎めるような強い口調にジャスパーは動じた様子がない。

「知っていたに決まっておるわい。でなきゃ、こんなところにわざわざ来るものか」

「お主、それを住んでいる住人の前で言うか」

 バルタザールに白い目を向けられて、ジャスパーはこほんと咳払いを一つすると、ごまかすように「悪魔よ、少しあちらで話そうではないか」とエスを少し離れたところに連れて行こうとする。

「ねえ、賢者さま方。ちゃんと、エスのこと認めてくれるのでしょう?」

 慌ててマリアが問いかけるが、

「そんなもん、初めから認めておるわい」

 とエスを引っ張っていってしまう。エスの大柄な体躯を顔ほどの大きさの小人が引っ張れるわけもないので、エスも力を抜いているのだろう。残ったマリアは暇になり、バルタザールとジャスパーが散らかしたカードの絵柄を一枚一枚見ていた。

「お嬢さん。あの悪魔は孤独だ。その孤独な悪魔を放って元の世界に戻ってもいいのかい?」

 バルタザールがマリアに問いかける。暇つぶしなのだろう。

「わたくし、この世界の住人ではないのだもの」

「住めば都、とも言う」

「そうかしら?」

「そうだとも」

「でも、わたくし。家族に会いたいわ」

「そうかい。それもまた、道だな」

「賢者様はわたくしにここに残って欲しいの?」

 引き止められたらどうしようと、引き止められなかったらどうしよう。両方一緒にマリアは思う。ところが賢者は、マリアの求めていて、求めていない答えをくれなかった。

「それを決めるのはお嬢さんだよ。お嬢さんの人生がどんな終わり方を迎えようと、お嬢さんの後悔するような生き方をしてはいけない」

「できるかしら?」

「できるとも。お前さんはずっと、そうして来た」

 そんな会話をマリアとバルタザールが交わしている一方。ジャスパーがエスに単刀直入に会話を切り出していた。マリアがこの会話を聞くことはなかったのは、幸いだったかもしれない。

「悪魔よ。このままだとあのお嬢さんは亡霊に取り憑かれて死ぬぞ」


 …海から上がった二人は、並んで砂浜に座り、海に日が潜っていくのを眺めていた。

「ねえ、エス」

 マリアが海に小石を投げ込みながら、話しかける。

「愚かな夢追い人、ドン・キホーテのお話は知ってる?」

 これはもちろん、エスが知らないことを理解した上での問いかけだった。マリアは返事を待たずに続ける。

「騎士になりたいと願う男性が主人公なの。現実なんかちっとも見ないで、カビの生えかけた古臭い夢を追い続ける愚かな人。誰にも理解されなくて、ばかにされる。でも、それでも彼の隣には、いつだって友人の従者がいるわ。サンチョ・パンサ。彼は呆れた顔をしながらも主人のそばにいて、主人が間違った方向に行きそうになったら諌める度量もある。…ねえ、」

「……おれでよければ、そばにいます」

 エスの言葉にとうとうマリアは膝に顔を埋めて泣き出した。

「でも、わたくし、元の世界に戻らなきゃいけないのよ」

「いいんですよ、それで」

 エスは鼻歌でも歌うように軽く言い、それからマリアの頭を優しく撫でたのだった。


 宝物の残る最後の一つ、『月のしずく』は下弦の月の時に妖精の森に現れる光の粒なのだと言う。西にある妖精の森は、サン・ジェルマンにほど近く、下弦の月まで一週間ほどの時間があった。

 その間、二人はサン・ジェルマンの街で骨を休めることにした。

 ある日、二人が中心街を散策していると、真昼間だと言うのに、酒屋の戸が開いていた。中で飲むのが嫌いな人間が、正路の脇に並べられた店のハイテーブルで酒盛りをしている。内からは、何やら騒々しい音がしていた。

「おじさま方、なにかあったの?」

 マリアが声をかけると、すでに顔を赤らめた中年男が陽気にジョッキを掲げてみせる。

「この街に移動式の音楽隊がやってきたのさ! いま、中で演奏してるよ!」

 マリアはその言葉に心が躍った。街に出かけても、お母さまは、こういう、ちょっと危なそうなところには立ち入らせてくれなかったのだ。ちら、ちら、とエスを見上げる。

「ね、ねえ。ちょっと入ってみるのも、いいんじゃないかしら。ど、どう、思う?」

 伺うような視線に、エスはマリアがまるでこういう所に来たことがないのだと読みとった。

「いいんじゃないでしょうか。この店にタチの悪い連中はいないはずです。ただ、興味ない人に絡まれないように注意して」

「わ、わかったわ」

 マリアは頷いて、一歩踏み出した。

「さあ、行きましょう」

 エスは面食らったようで、うろたえた。

「おれも?」

「そうよ、一人で行ったってなにも楽しくないじゃない!」

 そう言って、ぐいぐいとエスの腕を引っ張る。一人で入るのが不安だから、離そうとしない。

「しかし、街の住人はおれの顔を知っています。そっちの方が楽しくないと思うし、…それにそれだと、男が寄ってきませんよ」

 酒屋というのはそういう遊びをする場所では、という疑問を発する前にエスが口をつぐんだのは賢明だった。エスの腕を掴んだまま、その間にぽすりと収まったマリアが不思議そうにエスを見上げたからだ。

「音楽を聴くのに、男性は必要ないわ。それに、エスも男性じゃない」

「…そうですね」

 エスは不承不承頷く。

 あいにくマリアの中に『一夜遊び』の概念はなかった。彼女の夢は小さい時から変わらず『お嫁さんになること』だったので、そんな過程は必要なかったのだ。

 マリアに腕を引っ張られる形で、二人は、薄暗い店内に足を踏み入れる。まばらに人が入った、そこまで広くない店内の一番奥は一際明るく照らされており、そこで音楽団と思わしき面々が、ヴァイオリンやヴィオラ、トランペットの調弦をしている。

「暗いわ…」

 マリアは不安の呟きを漏らし、ぎゅっとエスの手を握った。エスが少し手に力を込めて握り返してくれたので、少しだけ不安が薄れた気がした。

「なにか、飲み物をとってきましょうか?」

「じゃあ、なにか果汁が飲みたいわ。もちろん、あなたの分も」

「…すぐに戻ってきます」

 エスがマリアの側を離れた。マリアはキョロキョロ辺りを見回す。

「お、この間のべっぴんの嬢ちゃんじゃねえか。こんな怪しい所に来ていいのかい?」

 テーブルで飲んでいるひょろりと長ネギのように細い男がマリアに声をかける。

「だって友人もここにいるもの」

 マリアは朗らかに返す。そして、相手とどこで会ったのか思い出せず、

「お会いするのは、初めてじゃなかったかしら」

 と尋ねた。男は頬をぽりぽりと掻くと、ティエリーと名乗り、

「この前、広場にいた一人さ。お嬢ちゃんみたいな綺麗な人があんな風に啖呵切るんだから、驚いたぜ」

 と笑う。

「まあ、その悪魔を俺に近づけないで欲しいもんだが、お嬢さんとはぜひとも仲良くなりたいね」

「わたくし、エスにひどい態度とる人とは仲良くしないわ」

「へえ、随分奴隷となかよくなったもんだ」

「イヤな人!」

 マリアはティエリーを睨みつけると、ティエリーは両手を上げてみせた。

「おやおや。町役人の俺と仲良くなっておいて損はないと思うけどなあ」

「あなたがその態度を改めるなら、いくらでも仲良くするわ」

 マリアは冷淡に返して、そっぽを向き、エスを探しに行くことにした。カウンターのところで、エスがボーイと話をしているのを見て近寄ろうとするが、剣呑な様子に足を止める。

「だから、飲み物は売れねえって言ってるだろ」

 グラスを磨きながらぞんざいに言うボーイに、エスはあくまでも淡々と言葉を返す。

「どうしてだ。金は払う」

「金さえ払えばなんでも手に入ると思ってんのか。これだから悪しき者は!」

「…主人が待っているんだ。どうか、売ってくれないか」

「お前、アイボリーの旦那の元を離れて、調子に乗っているんじゃないか? 何かが欲しいなら、奴隷らしく頭を下げろ」

 マリアがエスの元に駆け寄ろうとした時、細い腕がマリアの肩にかかる。

「どうだ。あれが悪魔だよ、お嬢さん。あんなのやめて、俺にしたら?」

「あなたなんて、なんど死んでもありえない」

 マリアはその手を振り払い、今まさに頭を下げようとするエスの元に踏み出す。

 マリアはわがままな少女だった。頭を下げればそれがいつか輪に認められることに繋がるのかもしれないが、彼女の友人がそんな屈辱的なことをさせられる姿を見たくなかった。

 そっと、彼の腕をとると、腕を絡ませた。元の世界で淑女が紳士にそうしたように。

「エス。喉が渇いちゃったわ」

「マリア。申し訳ありません」

「いいのよ。他の場所に行きましょうよ。だって、ここ、ジュースすら置いていないのだもの」

 そうして、カウンターに身を乗り出した。

「ねえ、ボーイさん。いつかここでジュースを売ることになったら、招待してちょうだい」

「来ないでくれ」

 マリアは決意を込めて返事をする。

「いいえ、来るわ。だって、わたくし、ジュースが飲みたいもの」

 音楽を聴くこともなく外に出た二人は、街の中心を通る川に突き当たり、その川に沿って、無言で歩いた。いくつかの橋の下を通り抜け、街路樹の下に腰を落ち着ける。そのとき、初めてエスは口をきいた。

「申し訳ありません」

「どうして謝るの? エスはなにも悪いことをしていないわ」

 疲れたようにぼんやりとしたエスの目が、ゆっくりと川の流れに向けられる。

「おれは、あなたと出会って、なんだか許された気がしていたんです。この世界に」

「世界は、あなたにあまりにも辛辣だわ」

 マリアの言葉にぽつりとエスが呟いた。

「あんたには家族がいたんだろう。愛されてさえいた。いつだって人気者のあんたに、俺の気持ちなんて分かるはずがない」

 あまりにも静かな口調が、却って傷の深さを浮き彫りにしていた。マリアは、静かな口調で、

「そうかもね」

 と返し、肩を竦める。

 マリアはよく痛みに泣いていた体の弱い弟を思い出して、エスをぎゅっと抱きしめた。硬い赤毛がマリアの頬に触れる。それから、

「世界があなたを祝福しないなら、わたくしがあなたに祝福を贈るわ。だって、祝福を受けなくていい人間なんて、この世に一人もいていいはずがないもの」

 弟をそうして宥めたように、瞼や頬や鼻先にキスの雨を降らせたのだった。

 エスは最初訳がわからないというように呆然とキスを受け止めると、すぐに真っ赤になった。

「前から思っていたが、人との距離が近すぎます」

「そうかしら?」

「そうですよ! この世界の人間は、そんな風に引っ付いたりしないんです」

「そうなの?」

 マリアは微笑んでみせたが、心の中は、少し、不満だった。文句を言うくせに、エスはちっとも避けないではないか、と思ったからだった。


 雲の合間に月が顔をのぞかせて、月の光が妖精の森に降りそそいだ。エスとマリアは森の奥へ奥へと進む。森の一番深遠には湖があり、下弦の月の時にはそこで妖精たちが集会をすると言われていることから、彼らがいる森は『妖精の森』と呼ばれていた。

 フクロウの低い囁き声や、虫たちの歌が静かな森に深深と響く。

 マリアはなにか話したくなった。他の人間でもなくエスにマリアのことを知ってもらいたい気分になった。

「わたくし、夢があったの。かっこいい兵士のお嫁さんになりたかった。でも、あんまり欲張りだったから、バチが当たっちゃった」

 先を進むエスがひっそりと返事をする。

「マリアは若い。夢を叶えるには、まだたくさんの時間があるでしょう」

 マリアは微笑んだ。

 月の光がマリアの中に眠る記憶を呼び覚ましていくようだ。

「到着するまで、わたくしの世界のおとぎ話をしてあげる」

 マリアは細い指先で、自分の唇を撫でた。自分の口が紡ぐのが、叫び声ではなく、物語であることを幸運に思いながら。

「むかし、むかし。あるところに、お姫さまがいました」

「…あなたのような?」

「そう。ところが、ある時、彼女の暮らす王国に暗雲が立ち込め、国からは食料がまるでなにもなくなってしまいました。民草は怒り、王様を許さず、革命を起こしました。館に閉じ込められたお姫さまの命もいよいよ危うくなった時、料理人見習いの少年が助けてくれましたが、彼女は両親とも、三人の姉と弟ともはぐれ、記憶もすべて失ってしまいます。そして国の端にある孤児院で迷子として育つことになりました」

「王女さまが孤児院に?」

 エスはおとぎ話らしい話に微笑んだ。

 かさかさと草同士が擦れ合う音がする。

「そうよ。時間が経って、大人の女性になったこのお姫さまは、記憶の深いところに眠る家族というものに会いたいと、旅に出かけるのよ。そうして、一人、初めて見たはずなのに、懐かしい感じがある寂れた宮殿にたどり着くの」

「…そこには、なにがあるんです?」

「なにもないわ」

 マリアは遠くを見るような目で、笑う。

「そこは、ただの廃墟なのに、そのお姫さまには別の光景が見えるのよ。いつの日か、そこで開かれた豪華絢爛なパーティ。彼女の祖母と語り合ったこと、彼女の父親と踊りを踊ったこと。だから彼女は、誰もいなくなった館で一人、ワルツを踊るの」

 二人はやがて、湖にたどり着く。

 湖面は月の光を反射してキラキラ煌めき、草花の香りが辺りを満たしていた。まるで世界にはエスとマリアの二人しかいないと思わせるような場所だった。

「その、踊りは、どうやって、踊るんですか?」

 躊躇いがちなエスの言葉に、マリアは彼に向かって手を伸ばす。エスもその手を受け取り、マリアがリードする形で、芝の上をゆっくりと動き始める。

 右、左、右。

 右、左、右。

「想像してみて。ここは廃墟の宮殿の中なの」

 マリアがそっと目を閉じる。

 くるり、と二人はターンする。

「崩れかけた壁。シャンデリア。赤い絨毯のひかれた大きな階段。お姫さまに着いてきたジョイとジミーっていう犬が心配そうに彼女を見つめている。踊る、この女の子を」

 それから、マリアは動けなくなった。

「ナースチャは生きてるの。彼女は、生き延びたの。彼女は、前へ進むわ。おばあちゃんになるまで。それは、幻想じゃないの…………それだけじゃない。みんな、みんな、生き延びるのよ」

 彼女の閉じた瞳から涙がこぼれ落ちる。

「ねえ、エス」

 マリアがエスの胸にもたれかかる。

「ナースチャは十七だったわ。弟はたった十四歳だった。あなたが悪魔というだけでこの世から憎まれるなら、わたくしたちは王族だったから殺されたのよ」

「マリア、…あなたは」

 マリアの頭が押し付けられたエスの服が、水分で湿る。

 エスが辛そうに言葉を呑み込む。

「………ごめんなさい」

 マリアは震える両手で、ぎゅっとエスを一回だけ抱きしめ、それから離れた。彼女は微笑んで、言う。

「『月のしずく』を探しましょう」


 誰もいない湖のそばで、二人は妖精探しをする。エスもマリアも言葉を発さなかった。エスはこういう時になにを喋ればマリアの気持ちがラクになるのか知らなかったし、マリアはとても空虚な気持ちだった。

 マリアは水面を見つめたり、草をかき分けてみたりする。

「なにしてるの?」

 甲高い子供のかわいらしい声が聞こえた。

 マリアが声のした方を見ると、中指ほどの大きさの薄い羽を生やした、小さな人間が、枝の間から、マリアを不思議そうに覗き込んでいた。

「今日の集会に人間が入り込んでいるってみんな騒いでる。ねえ、キミ、どうして泣いているの?」

「どうしてかしら?」

 涙は流れていないのに、妖精は人の気持ちを読み取るらしい。マリア目尻を触って確かめる。

「ふうん、そう」

 移り気な軽さで、小さな妖精があっけらかんと舞う。

「泣けるっていいことだよ!」

「そうね」

 マリアはこの無邪気な妖精に微笑んだ。

「ねえ、妖精さん。『月のしずく』を知らない?」

 妖精は細い首をひねる。

「知らないなあ。なにそれ?」

 妖精は内緒話をするようにマリアの肩にとまると、その耳に囁いた。

「キミに会いたい人がいるんだ。着いてきてよ」

 マリアは少し離れたところにいるエスに声をかけようとして、妖精に止められた。

「ダメだよ! 一人でっていう約束なんだ!」

 マリアが逡巡すると、

「お願い。約束しちゃったんだ」

 と妖精が泣きつく。

 その様子にマリアはほだされてしまった。

「わるい人ではないんでしょうね?」

「もちろん!わるい人じゃないよ!」

 その言葉にマリアは着いていく決心をした。

「いいわ。案内してちょうだい」

「うん。任せて!」

 小さな羽音をさせて妖精が森の方へと飛び立つ。

 マリアはエスを少しみて、どうせすぐ戻ってくるのだから、と妖精の後に続く。マリアは安心しきっていたのだ。この世界には、まだ、マリア自身を傷つけようとする人間がいなかったから。

 しかし、それはすぐに間違いだったことに気がついた。

 男の持つ猟銃の銃口が、マリアに向けられた。


 エスはマリアがいなくなったことに気がついていた。

 妖精探しを放り投げて、マリアを探し始めたエスは、鈍い銃声の音が聞こえるとともに、その方向に駆け出す。森の中に分け入ったエスの目に飛び込んできたのは、エスが首を掻き切ったはずのヤコフという名の男がマリアに猟銃を突きつけている光景だった。マリアの大腿部が血で濡れている。 

 二人の距離は離れていない。

 撃たれたら、まず間違いなく当たるだろう。

「ごめんよう。まさかこんな奴だと思わなかったんだあ」

 マリアの肩で妖精が泣いていて、マリアは青い顔で唇をパクパクと動かしている。

「やめろ!」

 獲物を追い詰めるようにじりじりとマリアに近づくヤコフに、ナイフを取り出したエスが叫ぶ。

 エスはマリアを失うわけにはいかなかった。

「近づくな!」

 ヤコフが威嚇するように空に一発射撃する。

「お前もそこに並べ」

「こ、こないで。エス。…逃げて」

 エスが震える声のマリアをかばうように、彼女の前に移動する。

「どうして彼女を狙う?」

 ヤコフが猟銃を構え直す。

「それが俺の使命だからだ。一人残らず殺さねばならん」

「お前はもう死んでいる。亡霊なんだ。なぜ彼女を狙う?」

「これが、俺の名誉に関わることだからだ。皇族殺害は、救済だ。さあ、最後の別れは済んだか?」

 エスは、マリアを振り返った。

「エス、エス…逃げて! みんな殺されるわ。彼が家族を皆殺しにしたのよ」

 マリアはエスのシャツに掴みかかって懇願する。

 エスはパニックで怯えた彼女の頭を両手で包み、人生でとびきりの微笑みを浮かべ、彼女を諭す。

「大丈夫ですよ、マリア。おれが、あなたを守ります。落ち着いて」

 それから彼女の髪の毛を優しく撫でると、ずっと焦がれてきた願いを口にする。

「あなたを、愛しています。口づけを許して貰えませんか?」

 マリアが大きく目を見開いた拍子に、涙が一筋流れ落ちる。そして、こくりと頷いた。エスは彼女の顔を網膜に焼き付ける。

「あなたは、よく泣くなあ」

 そっと、エスの顔がマリアのそれに近づく。

 エスの唇に柔らかく暖かいものが触れた。

 それは、エスが人生で初めて、条件なしに、生きることを許された瞬間だった。

「おれを信じて、くれますか?」

「え、ええ。もちろん」

「…おれは、どうしてもこの場所を譲りたくないんだ。合図をしたら、湖に走って」

 エスがマリアに囁き、そしてヤコフに向き直る。

「亡者に悪魔は殺せない」

「なに?」

「実体を持たない者が生者を傷つけられるわけがないだろう」

 その言葉にヤコフがニヤリと笑う。

「どうかな」

 同時に装弾を発射した。

 いくつかの弾丸がエスの体にあたる。

「エス!」

 腹部から血が滲むのを見てマリアは叫ぶが、

「逃げて!」

 とエスが叫び返した。

「逃げるんだ!」

 マリアは、その言葉に弾かれたように湖の方に駆け出す。


 マリアは走った。

 走って、走って、湖を目指す。

 足がもつれて何度も転びそうになった。

 怖かった、悲しかった。涙が止まらない。

 足はいつかのように血にまみれて、頬は枝で引っ掻いた。無我夢中で、痛みは感じない。

「ごめんよう、ごめんよう」

 着いてきてしまった妖精が、泣きながら謝る。

 マリアは返事をする余裕がない。

 ようやく森の終わりが見えた時、その向こう側に湖面が見えた。少し安堵した途端、木の根っこに足を取られて、盛大に転ぶ。

 マリアは立ち上がると、膝に手をついて、ぜえぜえと切れた息を整えた。涙が止まらなかった。

 なんで、こんなことになってしまったんだろう。

 どんなに考えても、マリアには分からない。

「大事ないか、稀人の子」

 顔を上げると、湖面の真ん中にメルキオールがいた。その両脇にはバルタザールとジャスパーもいる。

 水面をすいすいと歩いて渡ってきて、マリアに手を差し伸べる。

「だから、あれほど言ったではないか。悪魔は悪運を招き寄せると」

「賢者さま。賢者さま。お願い、お願い! エスを助けて」

 マリアはその衣の裾に取りすがった。

「そんなことするでない。悪魔なら大丈夫だ」

 賢者がマリアを助け起こす。

「ほ、ほんとに?」

「ああ、約束しよう。あいつらが滅びることはない」

「で、でも。わたくし、森に戻らなきゃ」

「それでは邪魔になるだけだろう。さあ、こっちにきなさい」

 とマリアの手を優しくとると、他の賢者が待つ湖の中心に案内した。

 マリアはまるでイエスのように水面を歩いていることに気がついたものの、エスのことが気がかりでたまらない。

 やってきた湖の中心は白っぽくなっていた。

「ここは…」

「魂を還す場だ」

 ジャスパーが答えた。

「この湖自体が異界へ通じる扉なのだ。どうやらここは座標が安定しないらしくてな、昔からちょくちょくどこか別の場所へと通じてしまう。サン・ジェルマン自体、元々この湖を守護するために作られた街なのだよ」

「でも、わたくし。全部の宝物を手に入れてないわ…」

「問題ない。夜明け前に悪魔がやってくればな」

 マリアは祈るように手を組み合わせたが、誰に祈ればいいのか分からなかった。マリアにとって祈るべき神は、だいぶ前にどこかに行ってしまったのだ。だから、エスに祈りを捧げる。

 ぼちゃんと音がして、

「マリア、大丈夫ですか?」

 続いて気遣わしげなその声が聞こえた時、バッと顔を跳ね上げるのと同時に、もう二度と会えないかもしれないと恐怖していた心の強張りが、解けるのを感じた。

「エス!」

 マリアは歓喜の声を上げて、エスに飛びつく。その拍子にエスの体が水面で尻餅をついた。

「無事ですね、よかった」

 マリアを腕の中に受け止めたエスが嬉しそうに微笑む。

 ところが、マリアはすぐに異変に気がついた。エスの服が真っ赤に染まっているのを見て、青ざめる。

「大丈夫ですよ。少し撃たれただけです」

「全然大丈夫じゃないわ! 一体何人の兵士がそうやって亡くなったと思ってるの!」

 マリアが綿の上着をエスの傷に押し当てるが、その生地がみるみる赤く染まっていく。

「おお。そなたついに力に目覚めたな」

 水中から頭だけ出したバルタザールが呑気にそんなことを言う。マリアは思わず怒鳴ってしまった。

「賢者さま! 今それどころじゃないの!」

 自分の家族が亡くなってしまった時のことを思い出して慌てふためくマリアに、ジャスパーが小瓶を差し出す。

「ほれ。賢者が作った『睡蓮の妙薬』じゃ。万能薬だし、凝固剤くらいにはなろう」

「本当に? 信じていい?」

「これ以上の薬は見つかるまいて」

 マリアは小瓶をエスに差し出す。

「はい、飲んで。今すぐ飲んで」

 栓を開けて、口に押し込もうとするマリアに、エスは目を白黒させながらも言いなりになった。押し込まれた瓶の中身がすっかり消えた時、マリアが瓶を抜き取る。

「大丈夫?」

 泣きそうになりながら詰問するマリアに、エスは苦笑する。

「体が、軽くなった気がします」

「ほんとに?」

「本当ですよ」

 エスが微笑んだ。

 それを見たマリアは、

「あなたのその笑顔、悪魔みたいよ」

 と鼻をグズグズさせて、ようやくなにかが変なことに気がついた。エスの背中に翼が生えていたのだ!


 エスの背中に生えた黒い翼にマリアは見とれた。

「きれいね」

 それを聞いたエスが嬉しそうにマリアをキュッと抱きしめる。

「あなたは、おれの悪魔らしいパーツを、なんでも褒めないと気が済まないみたいですね」

「だって、ほんとうに綺麗なんだもの…」

 背中部分の布地を突き破って、翼が飛び出ている。そっとマリアがエスの広い背中を、続いて翼を触る。鳥とも、コウモリとも違い、鱗が生えているようで、触るとすべすべとした感触がした。

「ねえ、エス…。わたくしの国では悪魔として扱われているものは、古の人々にとっての魔人や魔神だったと聞いたことがあるわ…貴方もきっと神様の末裔なのよ」

 二人の会話に忌々しげにマルキオールが口を挟んだ。

「それが三つ目の宝物じゃよ」

「どういうこと、賢者さま」

 マリアがエスから離れると、メルキオールに向き直る。

 腰を下ろしたままの二人に、メルキオールはピンと指を立てると、まるで教師のように説明した。

「悪魔の鱗は、形が下弦の月のようだから『月の雫』と呼ばれておるのだよ。魔力の塊のその翼は、扉を開く鍵となるのだ。稀人は揃って元の世界に帰ろうとするが、その鍵となる宝物はほとんど揃わない。かの哀れな王子も諦めるしかなかった。この世界に悪魔は少ない。それも翼を持つ悪魔はもっと少ないからだ」

「賢者さま。どうしておれは翼を得たんだ?」

 エスの質問にメルキオールは忌々しそうに答える。

「強い感情が必要なのだ。心が死んだ悪魔に翼は生えん」

「…そうか」

 エスはなにかを飲み込んだようだった。メルキオールが続ける。

「悪魔と仲良くなれる稀人はほとんどいない。だから、大抵の稀人は途中で帰ることを諦める。そういえば、『魔女』と呼ばれた集団なんかは、最初から戻ろうとするそぶりすら見せなかったが、お主たち稀人は、複雑な事情を抱えたものがおおいからな」

 メルキオールははあ、と大きなため息をついた。

「…元来、三つの宝物探しは稀人に帰還を諦めさせるための装置なのだよ」

「どう言うことだ?」

 疑問を口にするエスに対してではなく、メルキオールが見たのはマリアの方だった。

「お主は、気がついておるか?」

 マリアは、悲しげに微笑んで頷く。

「ええ。わたくし、死んでいるのね。ヤコフに殺されて」

「そうだ。死んでおる。というよりも、死と生の狭間におる。器はそなたの世界の館の地下にあろう。それでも、元の世界に還りたいのなら、扉を開くこともできるぞ。死後も魂というものがあるのなら、お主の魂は故郷に還ろう」

「…そんな! 他に方法はないのか?」

 悲痛な顔をするエスに、メルキオールはぴしゃりと言い返す。

「黙っとらんかい。この嬢ちゃんがここに残ることを本心では願っておるくせに、あけすけな懇願を口にするな」

「…それでも、マリアが生きて帰りたいのなら、おれもそれを願う」

「ふん。白々しいわい。悪魔。そもそもそんな道はない」

 メルキオールは本格的にふてくされてようで、腕組みをしてそっぽを向く。エスも沈痛な面持ちでうつむいた。握りしめた手から、血が流れている。

「ねえ、ヤコフの亡霊はどこにいるのかしら?」

 ぼんやりと故郷に想いを馳せていたマリアは、賢者たちに聞く。バルタザールが、

「そこの悪魔がさっき水に投げ込んだわい。今は水の底で溺れておる。こりゃきついぞう。亡霊は死ねないからなあ」

 と水に顔をつけて、ぶくぶくと話をした。

「ねえ、賢者さま方。ヤコフの亡霊こそ、生きているのではなくて?」

 マリアの質問に、賢者たちが三種三様、それぞれに頷く。

「亡霊とは、妄執が形をとった者のことじゃ。そいつの本体が生きておるなら、こっちに来てしまった魂が生きていてもおかしくない」

 マリアは少し考え込んで、言った。

「じゃあ、わたくしの代わりに、ヤコフの魂を、地球へ帰しましょう」

「どうしてだ、マリア!」

 エスが、マリアの腕を掴む。

 マリアはエスの腕をそっと外すと、その指先にキスをした。

「なぜって、彼が生きているからよ。生きている限り、人は生き続けなければならないわ」

「マリア、ダメだ!」

「人殺しの罪を、彼が感じるかは分からない。けれど、たしかに彼はそれを背負って生きていくのよ。無責任に降りることを、わたくし、許さないわ」

 マリアが微笑んだ。

「それでいいのか?」

 ジャスパーがマリアに問いかける。マリアは力強く頷いた。

「お父さまはわたくしをとても優しい子だと可愛がってくださったわ。わたくしは、そんなわたくしを誇りたいの」

 ジャスパーが空中をくるくると舞うと、宣言した。

「いいだろう。妖精を統べる者として儀式をとり行おう。そこのお主」

 ピシ、とマリアの肩でヒグヒグ泣いていた小妖精を指差す。

「底に沈んでいる亡霊をここまで引き上げてまいれ」

「ええ、ボクっ?」

 妖精が仰天して飛び上がる。

「ちょうどいい場所にいるのだからいいではないか。王のために働け」

「うわーん。横暴!」

 妖精は泣きわめくと、姿を消した。

 バルタザールがヒレをパタパタさせながら「いつか革命を起こされるぞ」とボソリと言った。「圧政だから大丈夫じゃ」しれっとジャスパーが返す。

 小さな妖精がどうやったのか、ぐるぐるに縛られたヤコフを水面にまで持ち上げた。水の上に膝をついたヤコフがゴホゴホと咳き込んでいる。ジャスパーがマリアに指示をする。

「帰還者の口の中に『トカゲネコの尻尾』を入れるのじゃ」

 縛り付けられたヤコフの口にエスが『トカゲネコの尻尾』を押し込む。

「泉に『月のしずく』を投げ込め」

「とってもいい?」

「もちろんです」

 エスでは手が届かないので、マリアがエスの翼から鱗を一枚毟る。神経が通っているのか、毟ったあとに血が少し滲んだ。マリアはハンカチを押し当てて血を止めると、水中に鱗を投げこんだ。

 すると、水がひときわ白くボウと光り、急に湖が深くなったように感じられた。下に向かって水流が起きている。

「これが『帰還の扉』の先じゃ」

 バルタザールが興味深そうに水中を眺めている。

「最後に『人魚の歌声』を帰還者に突き刺せ。この世界にいることを拒絶するのだ」

 ジャスパーが最後の指令を下した。

「おれがやります」

 というエスを置いて、マリアは前に進みでる。手の中に小刀を抱えて。

 縛られたヤコフの前に膝をつく、黒いヒゲの生えた顔、鋭い眼光。

 ヤコフと、目を合わす。

「わたくしはもう、あなたに怯えないわ。あなたはもう、わたくしに手出しができないのだから」

 それからぎゅっと小刀を握りしめると、胸に突き刺した。

 ヤコフは刀が刺さった瞬間、塞がれた口で「うっ」と呻いたが、それでも痛くはなかったらしい。怪訝な顔をする。その間にも、ぶくぶくと胸に小刀は吸い込まれていった。柄の部分まで吸い込まれた瞬間、水上にあったヤコフの体は重力に逆らえなくなったように、水中に引き込まれていく。

 そしてそのまま流れに流され、姿が見えなくなった。

 マリアは首にかかっているロケットペンダントとぎゅっと握ると、「さようなら」と別れを告げる。

 水流もなにも跡形もなく消えてしまった時、後ろを振り返ると、エスと三賢者が揃って、マリアを見つめていた。マリアは、微笑んで言って見せた。

「もうすぐ朝ね。お腹がすいちゃったわ」


 雲ひとつなく空が晴れわたったその日、エスは奴隷から市民になった。マリアが持っていた最後の宝石を売り払って、エスの戸籍を買い取ったのだ。エスは信じられない、という風に何度も自分の胸元を触って、もはや縛りがそこにないことを確かめた。

「まったく、奴隷になるのは悪魔と怨霊だけなんて、なんて法なのかしら! 平等じゃないわ」

 人々が朝の挨拶を交わす石畳の道を歩きながら、役所を出て、ぷんぷんと怒るマリアに、横でエスが苦笑する。

 その様子をマリアはこっそり横目で見つめた。悪魔の翼は夜明けとともに消えてしまった。綺麗だったのに、とマリアが残念がると、また出せますよ、そんな気がします、とエスが約束してくれた。

「今夜、あの酒屋に行きませんか?」

「この間の?」

 飲み物すらサーブされなかった嫌な記憶が脳裏によぎるが、エスはそこに行きたいらしい。

「今度こそ、ジュースをご馳走してみせます」

 と笑うので、マリアは、この人がとても好きだなあ、と思う。

 マリアには彼がとても美しく見えた。それこそ最初の時から。ひどい人生の中で彼は人としての誇りを手放していない。投げやりでない。凶暴でない。人を恨んでもいない。どうしてそんな風になれるのだろう、とマリアは不思議に思う。

 生まれた時も、場所も、今と違ったら。エスが悪魔ではなく、両親に惜しみなく愛されていたら、彼はもっと自分に自信があっただろう。その場合、彼にはとっくに伴侶がいて、マリアに見向きもしなかったかもしれない。けれど、マリアはきっと、この美しい人のことを好ましく思っただろう。

 散々悪運だなんだのと言われたけれど、エスはわたくしの一番の幸運だったわ。

 マリアが微笑んでいることに気がついて、エスが不思議そうに尋ねる。

「どうしたんですか?」

「あなたってとっても素敵な人だなって思っていたの」

「え」

 固まったエスの隣でマリアも一緒に足を止める。

「ねえ、あんな死ぬかもしれない時に、キスをねだるなんて卑怯だと思わない?」

 マリアはエスの腕に寄りかかった。

 エスは心底申し訳なさそうに、いかつい顔を情けなく歪める。

「も、申し訳ありません」

「そうよ。ちゃんともう一回、頼んでくれなきゃ、許さないんだからね」

 エスは瞬きをして、一泊置くと、ようやく意味を理解して、うすく笑うと、マリアをもう逃がさないという風にきつく抱きしめる。少しずる賢そうに見えるその笑みは、とても悪魔らしいものだった。

「嫌だと言われても、いい続けてしまうかもしれません」

 

« 書きながら思いついたその他のパターン »

・ 「衣装ダンスを抜けた先」


 突然始まった銃撃に、マリアはとっさに背面にある物置小屋へ繋がる扉に向かった。

「な、施錠したはずでは!?」

 鍵の閉め方が甘かったのか、扉は開いていた。マリアは開いた隙間に身を滑り込ませる。立ち込める硝煙を向こうに封じ込めるように、扉を閉める。

 マリアははっと気がついた。

 物置だった場所は、いつの間にか森の中へと変貌していたからだ。辺り一面、雪景色だ。そもそもマリアのいた場所は地下だったのだから、地上へつながっていることがおかしい。

 混乱していると、針葉樹の影から、上半身が人間、下半身が馬の異様な風体の男が体を覗かせた。ケンタウルスだ。マリアは腰を抜かした。

「お、お嬢さん。氷の女王からこの国を救ってくれえ」

 こうして、彼女の、悪しき氷の女王から、獅子の国を取り戻すための冒険が始まった!


・ 「マッチポンプ式恩返し」


家族写真を撮ると、家族全員地下室に集められた。ヤコフがそこにやってきて、「ニコライ二世の処刑が決まった」と、宣告する。裁判にかけられずの死刑宣告に、当然、ニコライ二世は動揺した。

「何だって? 何だって?」

 兵士たちが一斉に銃撃を開始しようとしたその時。

 黒い装束に身を包んだ、異様な風体の男たちがその場になだれ込んできた。

「いけいけ、いっけえ!」

 彼らは、頑強でガタイのいい北の国の兵士たちに当身を食らわせて、次々気絶させていく。狭い地下室は処刑場から一転、乱闘場に様変わりをした。

 たち上がった室内の埃が収まった時、その場に立っていたのは、黒い装束の男たちだ。

 彼らは、一斉に頭巾をとると、

「大津の借りを返しにきたぜえ」

 と笑みを浮かべて見せた。

「き、黄色い猿たち」

 ニコライ二世の瞳に浮かぶのは安堵の涙だった。

「ニンジャだ!」

 アレクセイが歓声をあげる。場は一気に和やかな空気に—————


 ならないし、ニンジャはいないし、誰も助からなかった。


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悪魔のレクイエム 目 のらりん @monokuron

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