第9話 春の亡霊
荷物をまとめ終わり、玄関先に置く。部屋を少し覗いてきたが、母親は寝ているようだった。
律から連絡が来ているのは知っていたが、どうも見る気になれなかった。
「有紗!」
不意に家の扉が開き、律が入ってくる。髪はボサボサで顔も赤い。相当走ってきたのだろう。
また来たのかという呆れと、また来てくれたのかという嬉しさが入り交じり、自分でもどんな感情なのか分からない。
「……また来たの?」
どうやら呆れが勝ったらしい。仮面を外した私は自分の心すらよく分からない。
「天童のところに行くのか?」
「うん、霞のお父さんと提携してる事務所に入る。黒瀬有紗として」
「名前が昔に戻っても、現状が変わるわけじゃない」
「なにが言いたいの」
当たり前のことだというのに、それを言われるのは癪だった。
「天童はお前に過去を返してくれる存在なのかもしれない。でも、お前が求めてるのは役者って肩書きだけなのか?」
「……じゃあ、他にどうしろって言うの? ここで苦渋を舐めながら、一生過ごせって言うの?」
あの母親は私に依存している。あの女から逃げない限り、私は私の人生を歩めない。
「今日、2年ぶりに俺の実家に行ってきた」
律は故郷の人間に会うと幻聴が聴こえるほど相当なトラウマを負っている。そんな男が帰ったというのか。
「思ったよりも、気は楽だった。あそこには俺と一緒に悲しむことができる人がいる。もういないとしても、明澄がいた事実が形として残ってるから」
懐かしむようにそう言うと、表情が変わる。いつもの青白い顔が晴れやかに見える。
「でも、過去は過去でしかない。一生その傷を引きずったとしても、明澄は帰ってこない。前を向かないと行けない」
乗り越えたのか、姉の死を。いや、本人も気付かぬうちにとっくに乗り越えていたのかもしれない。
「有紗、俺と行かないか? ここでもない、俺の故郷でもない、誰もいないところに。有紗が今の自分を愛せるように」
「今の……私」
岸波有紗を愛せるだろうか。霞に付いていけば、私は二度と自分を愛せないだろう。
「私、案外軽いんですよ。霞に言われて、彼女しかいないと思ったけれど、今の貴方に凄く希望を抱いた私もいる。私も知らなかった」
「自分のことなんて、案外分からない。長い時間をかけて受け入れれば良い。家から出たいなら、俺と来れば良い」
「……なにも考えずに、新天地というのも悪くないかもね」
お金の問題、仕事の問題、学歴の問題。たくさんの問題があるだろうが、不思議とどうにかなる気がした。
「行くからには、幸せにしてもらいますよ?」
「ああ、約束する」
唇が触れる。どちらかが近づいたわけではなく、自然な動きだった。人の温もりなど、感じたのはいつぶりだろうか。
長いキスを終え、現実に戻る。
「とはいえ、今すぐにというのは無理です。霞に断りの連絡を入れないと行けませんし」
「分かった。天童になにされるか分からないからな、気をつけてくれ」
「用心しておきます」
律を帰し、霞に電話をかける。
『準備できた?』
「ごめん、私は戻れない」
『……どういうつもり?』
電話越しでもはっきり分かるほど声のトーンが下がる。
「私の知らない自分の可能性に賭けたいと思ってね」
『意味が全然分からないんだけど! ちょっとまっ──』
通話を切る。きっとこれ以上話しても無駄だろうから。そうだとしても、恐らく彼女は押しかけてくるだろう。明日には出た方が良さそうだ。
「ねぇ、貴女も私を棄てるの?」
艶かしい声と共に、私の身体に鋭い痛みが走る。
なにが起きたのか分からなかった。
服が紅く染まる。
振り向くと、母親が立っていた。その震える右手には私の腹部を貫いた包丁が握りしめられていた。
「貴女が悪いの……私を置いて芸能界に戻るだなんて! 私は悪くない……私は悪くない!」
大声でそう発狂するが、それどころではない。形容しがたい死の感覚が襲いかかっていた。
私は叫び続ける母親を無視し、今にも倒れそうな身体を動かす。
扉を開き、家を出る。
夜だと言うのに、たくさんの人が慌ただしく歩いている。
死を確信した私は、無性に生きている人が見たかった。
「おかしいな……どこにも……生きてる人がいない」
そこにいるのは人だ。だが、誰一人、生きているように見えなかった。
◇
「冴島くん! 今回のプロジェクト、君に任せて正解だったよ!」
上司はいつになく上機嫌な様子で俺に話しかける。
「ありがとうございます。今日のところは帰らせてもらっても良いですか?」
「ああ、今日は君の奥さんの誕生日だったね。せっかくの美人さんだ、大事にすることだよ」
上司はそう言うと、高笑いしながら去っていった。
「お先です」
俺は会社のビルを出て、電車に乗る。最近の電車は随分早い。少し前は家まで3時間かかっていたというのに、最近は1時間で着くようになった。
早いもので、有紗が死んでから、10年が経った。
有紗の母親は当時覚醒剤の副作用で急激な鬱状態になっており、それが引き起こした事件だった。
事件の後、俺は現実逃避するように勉強に打ち込み、日本でもトップクラスの大学に入った。その甲斐あって、今は一流企業に務めており、お金に困ったことはない。
「パパおかえり!」
家に帰ると、娘が出迎えるように抱きついてくれる。俺が頭を撫でるとニッコリ笑って俺の方を見る。
「おかえり、りっくん」
「ただいま、誕生日おめでとう」
俺は亜美先輩と結婚した。家は先輩の希望で俺達の地元に建てた。
仕事は順調。妻との関係は良好で、可愛い娘もいる。
それだというのに、心の奥底にあり続ける黒い物はなんなのだろうか。
たまに思う時がある。俺達は本当に生きているのだろうか。本当は、輝かしい人生の春に囚われ続ける亡霊なのかもしれない。
春の亡霊 相模奏音/才羽司 @sagami0117
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