まどろみジャンキー

真朝 一

まどろみジャンキー

「マジでか」

 おいおいそれは殺人だろ片桐、とツッコミを入れようとしたが、やめた。

 家庭用ゴミとして収集車が集めていそうなごく普通の黒いゴミ袋に、会社帰りらしい壮年のおじさんの身体を足で詰めこむ制服姿の片桐を、見た。掃除当番がゴミ袋に足をつっこんで中身を押しこむときのように。埋立地にある、バーベキュー場が同居している夜の海浜公園。明日が平日なので、遠くのくらいテトラポッド付近で釣りをしている人以外ほとんど誰もいない。道路から少し離れた防潮堤の手前、敷地内地図板の裏で、橙のあかりにぼんやりと浮かぶ、まさに人殺し真っ最中の片桐をふと見かけて、私はぽかんと口をあけて往生してしまった。潮風がふいて、ベストからのぞく私のスカートをもてあそぶ。月を隠す曇り空。風が砂浜にキスしてゆく音。断続的に耳に届けられるさざなみの音。湾岸線の高速道路を走る車の、音。

「ああ、三浦さん」

 もう委員会終わったんだ、とのんきな声で私をふりかえる。二年生ではおそらくトップの座に君臨している世紀のイケメン。彼の手は、ゴミ袋からのぞいているおじさんの足や頭をおさえつけていた。書類の山と数時間バトルして疲れた身体を波音で癒したくて、少し寄り道をして帰ろうと思った矢先のことだった。すこし前まで向きあっていた書類の内容を思い出してみようとしたが、無理だった。私は硬直した身体を手の指から解き、松林のあいだをぬけて片桐のもとへ歩いていった。歩くという無意識の動作ひとつで、脳の糖分が一気に食いつくされた気がした。徐々に彼の輪郭が明瞭になる。彼は教室にいたときと何も変わらない服装と髪型と表情で、ばきっとかごきゃっとか物騒な音をたてておじさんの手をゴミ袋の中へ押しこんだ。やわらかくてやさしくて人間ではかなわない大きなものが、熱を失い根元からへし折られる音だった。グロスが残っている唇をそっとなめる。

「何してんの」分かりきったことをあえてたずねた。

「何って」

 片桐はきょとんとして、一瞬なにごとかをかんがえて言った。「ゴミはゴミ袋にってちいさいころに教わったでしょ」

「でかいゴミだね」

「まあ、ゴミっていう発想が出てくるのは人間の営みならではだけど。大自然にもともとゴミなんてねえんだよ。そこにゴミを生みだした人間こそ、ゴミ。まあ、ゴミも積もれば埋立地となる、なんだけどね」

 もちろん俺も。そう言いながらおじさんの頭を押さえつけてポリ袋内につめこむ。頸椎が折れるような音がした。存命は絶望的だ。あかりでかすかに見えたおじさんの額は血まみれで、病気の金魚のように眼球が飛び出していた。鼻から下は暗くて見えなかったが、生きているようにはとうてい見えない。口をひきむすんで息を止める。中学のとき、職業体験週間で見に行った寿司屋の厨房のような粘性のある空気。片桐がおじさんを殺したのだということは、彼の白い制服に散ったシミが黙して語る。よくこんなちいさなポリ袋に人間が入るものだなと感心してしまった。昔、サーカスで衣装ケースほどのサイズの箱に女の人が三人、手足を隙間なくからめてすっぽり収まっているショウを見たことを思い出した。

 片桐が次の工程へすすむべく、ポケットからもうひとつポリ袋を出しながら言った。

「手足、折ったらわりと収まるんだよ。折らなくても、人の関節って簡単にはずれるしさ。子供が走ってはしゃいでるところを親が止めようとして腕をつかんだら、肩がはずれたなんてこと、よくあるし。こんなの、数学の図形の問題と変わらない」

 だいぶ変わると思う。見てみなよ、と言われて袋の中をのぞきこんだ。むっとする生ものの匂いにひるみ、鼻をつまみながら確認すると、確かにおじさんの手足の関節があらぬ方向に折れ、ついでに片桐が力ずくでやったのか腕などもところどころ折れていて、胎児のようにすっぽり収納されていた。いっそ芸だ。サーカスはうまくできている。顔がつぶれていて直視できない。胴体をどうにかするより、頭部に打撃をあたえるほうが手間ながらも確実だと彼は知っているのだ。フィクションよりリアルで、リアルすぎてリアリティに欠ける。視覚や嗅覚からいくらでもうったえかけてくるのに。

 おじさんは暗闇の中、孤独をかかえているようにそこに座っていた。生々しさ以外の何も特に感じない。このおじさんの子供はいくつぐらいなんだろう、とぼんやり思った。あたしと同じぐらいかな、もっとちいさいかな。おじさんの顔が見えづらい暗闇の中、勝手に年齢を想定してあれこれ想像した。

 もういい? 片桐はそう言ってポリ袋の口を集めて締めた。全体をおさえて中の空気を抜く。血と刺身と脂の臭いがした。彼は地面にもう一枚のポリ袋を置いて口をあけ、おじさんの入った黒のポリ袋を雪だるまを作るように転がしてその中に入れた。数分ほど苦闘し、二重にする。その袋の口も縛ってしまえば、死体のポリ袋詰めの完成だ。意外とやぶれないものだなと思う。右手を腹にあてておじぎをする片桐に、おざなりな拍手を贈る。ショウの幕ひき。イリュージョンのように消えた死体。

「どっから持ってきたの、その袋とか」

「ららぽで買ったよ、普通に。定番の生コンクリートもドラム缶もないからせめてポリバケツぐらいはって思って探したんだけど、なかったから。こっちのほうが見つかるリスク高いけどね。よくかんがえなくても、そのへんにあるものでなんでも工作できるんだよなあ」

「人を殺してポリバケツ詰めにするのも」

「そう、工作。学校でやってることと何も変わらない」

 たとえば理科室にあるホルマリン漬けのなんやかんやとかさ。片桐はそうつけたした。だってそうだろ、人間は神様の工作の作品なんだよ、命はそれそのものが芸術なんだ。でも、まあ、子供が作った工作レベルだな、命って。ちいさい子が描いた絵とかって、親の主観では傑作かつ宝物だろ。そういうもんさ。潜在的な価値はまた別物。

 なんでこいつが人殺しなんかしてるんだろう、と今さらになって思った。片桐はひろい人脈と人気と友人たちからの厚い人望があり、次期生徒会長の有力候補と目されていた。その椅子もふた悶着の末に土足で蹴ってしまい、今は生徒会副会長におさまっている。いつもクラスでみんなとふざけているところを見ていたので、ストレス発散のためにそのへんのサラリーマンを殺してしまうなんていうことは、私には考えられなかった。少なくともそんな、世間が流布した単純な図式におさまって生きているようなやつには見えない。かわりばえのしない路傍の砂粒たちとはちがう。

 片桐がおじさんの詰まったゴミ袋をごろごろところがしてゆく。砂浜側へおりて、橋の下まで。彼が「手伝って」と言ったが、私は顔をしかめた。えー嫌だ、ヒトゴロシの片棒かつぎたくないし。片桐は、だよなあ、と言って笑い、ふたたびおじさん入りゴミ袋を移動させた。あかりの届かない、まっくろな海へ。砂浜から少し離れた、埋立地と本州とをむすぶ橋の真下は死角になっていて、磯浜にはカニやら何やらがいる。昼間に来ると、たまにまっしろな鷺がいる。

 やがておおきな水音が聴こえてきた。碇が水面に落ちるような音。上陸の合図。泡になって消えた人魚姫の絵本を回顧させる。

 橋の奥からほこほこと、階段をななめにあがりながら戻ってきた片桐。彼はやたらとシャツを気にしていた。学校指定のワイシャツは道路のあかりにオレンジ色にてらされて、ななめ下から跳ねたとみられる血の跡がくっきり浮かんでいた。乾きかけて茶色くなっている。これはなんともごまかせまい、と思って私は肩をすくめた。

「脱いだほうがいいよな、これ」

「あきらかに人殺しました的なかえり血だもんねえ」

 だよなあ、とつぶやいて片桐はおもむろにワイシャツを脱いでみせた。てゆうかこれ、もう死んでるし、洗っても絶対落ちなさそうじゃね、うっわ気色わりい。彼はワイシャツの下にさらにTシャツを着ていた。英字新聞がプリントされた真っ赤なシャツ。血のついたワイシャツを乱雑に丸めると、松の木の影においてあった学校鞄の中に詰めこんだ。鞄を肩にかけた彼に「帰り途中?」とたずねられた。とおくから見ると綿毛に見えなくもない松の下、彼の端正な容姿は日本人らしくなかった。私は曖昧に返事をした。

「海の風にあたろうと思って、寄り道したんだけど」

「その寄り道があだとなりましたってか」片桐はへろりと笑ってみせる。「やばいとこ見られたなあ」

「気づくの遅くね?」

「うん、まあ、それどころじゃなかった」

「それどころだと思うよ、この状況」

「だよなあ。黙っててくれって言っても無理だろうしなあ」

 別にいいけど、と無意識に口ばしっていた。片桐ははじめのようにきょとんとして、つづいて大仰に顔をしかめた。

「その代わりにつきあえとか金出せとか、そうゆうの」

「いや、そんなつもりじゃないんだけど」てゆうかあんたに興味ないし、という言葉を死ぬ気で飲みこむ。「誰かにしゃべってもいいことないしねえ」

「へえ、その心は」

「仮にあたしがひゃくとーばんとかしたって、それでテストが免除されるわけでも、お年玉の金額があがるわけでもないしね。さっきのおじさん、知らない人だし、良心の呵責に苦しんで通報してもそれはただの自己満足で、残るものは何もないし、死んだ人は戻らないでしょ。遺族に何言われるかってかんがえたら怖えし。下手にお礼されても気分悪い」

 かんがえすぎだろ。片桐が無邪気に笑う。三浦さんってそういうとこあるよなあ。変に冷めててさ。世間をななめに見てて、一介の女子高生がかんがえうる範疇のだいぶ外側を歩いている的な。変わってるよ、うん。不思議。外側を歩いてると、内側の些末な事象もさらにちいさく見えるのかな。

「だろうね。その証拠にあたし、今、片桐のことが怖くない」

 携帯をひらいて時間を確認した。七時を少しすぎている。自宅で母親が夕食を準備して私の帰宅を待っているのかも知れない、とかんがえると少し気が重くなった。片桐は「さってと」と言いながら腰を両手でぱんと叩いた。音が浜辺じゅうに反響して、おそらくは誰にも聞かれないまま、消える。

「帰りますか」

「うん、あたしも委員会でマジ疲れた」

「ああそうか、文企の会議でか」

「ねえ、さっきのおじさんは誰だったの」

「さあ。一介のおじさん」

「一介のおじさんをまたどうして殺したの」

「殺したというより」片桐は片鼻をすすった。

「あ、分からなくなった」「何それ」「まあまあ」

 語らざれば憂い無きに似たり、と彼は言った。

 町あかりと船着き場のライトに照らされて、彼の笑顔は水面でゆるやかに揺れて消えてしまいそうだった。賢者、かつ、アウトロー。公園の入り口にある銀色の柵に足をかけ、ぽんと蹴って飛び越える。

 潮風をもてあそぶように道路脇を走る片桐のうしろ姿を追いかけながら、こいつが人を殺したんだなあ、とかんがえる。にわかには信じがたいが、目の前で作業工程をほぼ見てしまったので、自分でも否定できない。見知らぬおじさんの血を浴びてなおその匂いを一切ふりまかない片桐は、塀の上を散歩する猫のような身軽さで、橋をかけだしていった。右手に海と砂浜、左手に船着き場。道路脇の街灯の間隔と走るスピードにあわせて、彼の身体が英字新聞ごとオレンジ色に点滅する。トンネル内を走る車のように。照らされ、暗闇に隠れ、照らされ、隠れ、ちかちかと万華鏡のようにめまぐるしく、私を現実の幻にみちびいてゆく。プロ野球の試合が行われている大型球場のある方向から、かすかに血気盛んな歓声が聴こえてきた。優しい潮騒がそれらを打ちかえす。


 そうか。

「銀だ」

 それをおもいだしてめがさめた。

 カーテンの隙間から漏れる朝日はサーチライトのように私を照らす。サイレンが聴こえてきそうなするどい光。小鳥のおしゃべり。ジェイルバード。私はベッドから上体を起こし、乱れた髪を手ぐしでととのえた。すがすがしい空気が我先にと私の頭に入りこんでくる。すこしだけ視界がチカチカする。いつもと変わらない朝。夏の、脂っぽい、暑い、だけどすっきりした朝。二度寝がしたくてたまらなかったが我慢する。一度まどろんでしまえば最後、遅刻はまぬがれない。何より、二度寝をすると悪夢を見るので好きではない。

 洗面所で顔を洗い、コンタクトを入れ、制服に着替え、化粧と髪のテイストをどうすべきかとあれこれかんがえていると、ケータイが福山雅治の曲を歌いだす。

『リリアてめえええっ こないだの予算のプリント印刷したとき、原紙だけぽーんと生徒会室の机にほったらかしだったし! 大事なんだから朝来たらちゃっちゃと取りにくるよーに ☆えみ☆』

 こうるさい恵美のメールに若干、どころか相当げんなりしながら、あーこりゃ生徒会室で化粧したほうがいいかも、なんて思って内心のんびりしていた。文化祭企画委員会のメンバーらしからぬのんびりさで、どうすればサボれるか、に生活の重点をおいている。委員会の会議の最中だって資料のすみっこにうろ覚えのピカチュウを描くことに必死だった。

 母の用意した朝ごはんのピザトーストを、ニュースを見ながら腹にかきこむ。先の大震災で危機に陥った原子力発電所の話で持ちきりだった。アナウンサーがチェルノブイリを回顧しているところに、トーストを口に入れたまま「このへん関係ないし」とツッコミを入れると、チーズがでろりと溶けて唇を汚す。

 暑さもそろそろ牙をおさめるかと思えば、そんな冗談が効くわけない。文化祭は九月開催で、世間的には早いし時期が中途半端だが、毎年数千人の来場者数を記録する一大大暴れイベントだ。中高ふくめ千人以上の全校生徒を統括する文化祭の企画委員の枠におさまって二年になる。母が私の向かいの椅子に座って新聞を読みながら「もう校門に文化祭のアーチが出来てるのね」と言っていた。私は何も答えずに立ちあがり、鞄を持って家を出た。ドアをあけた瞬間に全身をなめるように入ってくる夏の熱気に、日焼けどめ忘れた、と思って顔をしかめた。自然とうつむき加減になる。

 何も変わらない住宅街の静かな雰囲気に、奇妙な圧迫感をおぼえる。すでに世界が逆転していて、私の目線を中心にしてさらにななめにかたむいているような錯覚。ナパーム弾じみた蝉しぐれの総攻撃が神経を逆なでする。ローファーからつたわるコンクリートの人工的な感触がひどく曖昧で、足の指先に力はなく、プリンの上にでもいるような気がする。空気を読む能力が今の女子高生に求められているのだとしたら、不穏な空気、という実質つかみどころがなくて出来れば目をそらしたくなるようなものはどこから読むのか、というか読めるものなのか、などとつまらないことで自問自答していた。ぶつかるすれすれのすぐ近くをとおりすぎてゆくバイクに舌打ちする。汗が頬をつたい、顎から落ち、まだ誰の汗も落ちていなさそうな、落ちていたとしてもすぐに蒸発していそうなコンクリートの上に落ちる。

 生徒会室に入ると、待ちかまえていた恵美にこってりしぼられた。「あんたって子はいつもふらふらほげほげしてるからこうゆうのをぽろっと忘れるんだよ」と、丸めた定例会の予定表でぽこぺこ殴られた。私より背がちいさくて髪がふわふわで守ってあげたいタイプなのに、妙なところが委員長らしいというか真面目というか、私の場合は彼女の家に遊びに行くたびに手土産を持っていかなきゃならんのかと思うほどまったく頭があがらない。すんません、と手を合わせると恵美は腰に手をあてて、午後の大量の印刷物の手伝いはやってもらうからね、と苦笑した。

「弓弦が心配してたよ。リリア、昨日遅くまでパソコンに喧嘩売ってたって。印刷機との接続がどうのこうのってなエラーメッセージ相手に戦闘して経験値ももらえなかったとか」

「うちの複合機ですらないプリンター、なんとかならないの」私はパイプ椅子に座ってふんぞりかえる。「ただモノマネするだけじゃ駄目なんだよ、それだけじゃね。USB、何回も抜き差ししたし。こないだも制服の袖、黒く汚れたっつー」

 文明の利器め、と恵美がぼやいた。ここ最近、文企がよってたかって集団レイプかってぐらいこの人酷使してるから、そりゃ接続がおかしくもなるわ、うん。彼女はそんなことを言いながら備品のノートパソコンをひらいて作業をしはじめた。

 まだスポーツ部の朝練の生徒しか見当たらない閑散とした朝の校舎。私はポーチと一体型のスピーカーをiPodとつないで、エリック・ルイスをかけた。化粧を済ませ、パソコンで模擬店の搬入関係の書類と開会式の台本に手をいれる。来るときに道端の自販機で買った缶ジュースに口をつけながら、片桐は学校に来てるのだろうか、とかんがえた。あんなことを平然としてのけて平然と笑い平然と最寄駅から電車に乗って帰ったやつだ、自分のしたことにあとから後悔して家に閉じこもり、パトカーのサイレンにおびえるようなやつには見えない。だけど私はどうだろう、と考えてパソコンのキイを打つ手をとめた。四拍。疲弊しきった呼吸にあわせてプリントアウトのボタンをクリックする。今度はうまく印刷をはじめるプリンターに蹴りをいれたくなった。

 別に何も思わないわけじゃない。プリンターの黒いボディにうつった自分の顔をながめてかんがえる。だけど、何をしていたの、と訊かれたらおそらく、何もしなかったとしか答えられない。まがうことなき真実だ。予想していた以上に事態を危惧することなく、まあ大丈夫でしょ、という手軽なイージーゴーイング発想でいつもどおりの登校をよしとしていた。

 生徒も増えてにぎやかになってきた教室棟北館から本館へ、印刷しおわった書類を片手に移動し、いつもどこか入りづらく慣れしたしみづらい雰囲気を無言でふりまく職員室のドアをあけた。失礼します、の「し」で言葉がとまってしまう。目の前で生徒会副会長が、ドアに手をかけようとしたポーズのまま固まっていた。

「あ、おはようっす、三浦さん」

 一瞬はドアが勝手にひらいたことにとまどい、だが相手が私だと分かると片桐はいつもと変わらないあいさつをした。うっす、と私はA4の茶封筒を持っている右手をかかげて返事をした。彼の目線が封筒にむいているのを見て、「文企の書類」と言った。

「ジャッジに出しに来た」

 片桐は後ろ手にドアをしめた。「毎年毎度おつかれさんです」

「おそれいりますでございます」

「忘れられないうちに言うけど、後夜祭のステージ、木曜までにタイムテーブル作って出しとけよ。佐岡さんが俺まで殴る」

 佐岡さん、とは恵美のことである。

「男は黙って拳で語る。少年漫画の定石だからいいんじゃない」

「佐岡さんっていつ男に趣向変えしたの。そんなドラクエの職業みたいにホイホイと」

「彼女はデフォルトがすでに武闘家かくとうおうだから」

「まあそんなことより、ステージな。職員会議で駄目んなったら面倒だし、俺、本職の生徒会のほうがかたづけらんなくなるじゃん」

「全部放りだしちゃえば」

 それが正解、でも生徒会の仕事も好きだからやりたいわけ、と片桐は笑った。ひらひらと手をふって生徒会室のほうに戻ろうとするそいつを呼びとめて、七、八メートルほどの距離を補うように大きな声で言った。

「昨日のあれ、結局どうすんの」

 思った以上に廊下全体にひびいてしまった。彼は一瞬かんがえ、思いだしたようにわざとらしく手を打ち、どうもしないよ、と言った。その彼の手元が、子どものころにやったパーとグーを両手で作って入れかえながら打ちあわせる遊びを想起させた。

「それとも、何かしなきゃなんねえの」

 子供のように笑って踵をかえし、廊下のむこうへ消えた。かすかに「ひひー、ははー」という謎の歌が聴こえてきた。急に訊きたいことがやまほど浮かんできたのに、私の足は職員室のドアをむいていた。何かしなきゃいけないのかな、と思えば無数の疑問符も脱いだ下着のようにちいさく縮んでしまった。絵の具を覚えられなかった紙のうえで横着する。どうすべきかとかんがえ、私はとりあえず職員室に入った。もちろん、書類の提出のために。



「そんで、一番大事なところをあとまわし、あとまわしにして徹夜で大丈夫だったの」

 口いっぱいにサンドイッチをほおばって、かろうじて弓弦がたずねる。私は夕飯の残りをつめこんだだけのお弁当を食べながら、天におわす神々の意のままに、とぼやいた。弓弦に指先で頬をつつかれる。学校の上空を通過してゆく飛行機のエンジン音が、歴史深き進学校の古い壁を一直線に撫でてゆく。

「どうもこうも、ほっぽらかしたあたしが悪いんだから。ギリギリ提出まにあったんだからぜんぶよし」徹夜で書類をやっつけたのだから我ながらたいしたものだ。「なんかね、かるく自己嫌悪になりそうだよ。夏休みの宿題だって始業式一週間前になって掻きこむし、そのたび毎年毎年うがーって後悔するし」

「それは自己嫌悪じゃなくて自業自得」

 肩を落とす私の前でみっつのサンドイッチが弓弦の口の中に消えていく。暑すぎて断続的にしか蝉の声が聴こえない。白ごはんもなんとなく、おいしくない。音楽室から聴こえる吹奏楽部の楽器の音が、個人練習をやめて合奏にはいることを告げる。

 昼休みも文化祭の準備で全校生徒が暴れ狂う。文企委員も馬車馬か暴走馬車の車輪のようにはたらく。私は委員会のあと、広報担当の弓弦と暑苦しい生徒会室で昼食をとっていた。文企の書類で埋まってしまっているテーブルとスポンジがはみ出しているパイプ椅子、パイプ棚に縦にも横にもななめにも詰めこまれた本とファイル。ろくに冷房も効かない部屋。あえて弓弦と弁当を食べるのにこの場所を選んだのは、職員室に次いでしたしみづらくふざけ半分でやってくるやかましい生徒が他にいない、かつ、反対側の校舎でおこなわれている吹奏楽部の練習演奏が無料で聴ける場所だから。窓をあけはなつと、音楽と風が部屋の空気をぐるりとかきまぜ、遊ぶ。弓弦は最初にここに来たとき、子どものころを思い出すなあ、と言った。なんか、秘密基地って感じがしねえ? そう言われて私は、きみっとなっつのーおわーりー将来のゆーめー、と歌った。そこから先は歌詞を思い出せなくて、歌えなかった。

 弓弦は机に来客者用パンフレットの表紙絵の原稿をひろげ、ペットボトルのお茶をぐびりと飲んだ。ホームページの更新や会議がある日曜日の招集に、かならず朝のプリキュアを見終わってからやってくる彼の手がけるパンフレットの表紙には、かわいい女の子のイラストが描かれてあった。しかもべらぼうにうまい。彼がアニメオタクだと知るのは私と恋人の恵美と片桐だけだ。弓弦は、だからといって根暗でもなくクラスの中心で騒いですごしているから、公にさらされても問題はないだろうと思っていた。だが私がそれをぽろんと口に出すと、彼は「人の手のひらはオセロのごとし」と言った。彼女の恵美は彼の趣味を受けいれては、いる。弓弦にとって大事なものをかき集めて自分の腕の中に閉じこめていることが正義で、事実で、音量の違う別の世界に土足であがりこまれないようにと守る手段のひとつだった。その手段を選ばせているのはまちがいなく、音量の違う別の世界だけど。

 後悔してるかと、一度だけたずねたことがある。弓弦は笑っていた。今は全然、昔は自分の頭がマジでおかしいんじゃないかって思ってた、でもそれが他人からの洗脳だって分かってからはほっといてるし、理解してもらおうと思ってもたぶん理解できないだろうから。

 宇宙戦艦ヤマトのオープニングがあけはなした窓の外から聴こえてきたそのとき、生徒会室のドアを足であけて片桐が入ってきた。

「あほくさ。購買、超混んでた。最初から学校ぬけだしてコンビニ行けばよかった」

 彼の両手には数分格闘した末の戦利品らしきヤキソバパンと焼きおにぎりとリプトンのレモンティーのパックがあった。それが生徒会副会長の科白ですかあ? 聞き捨てならないし。弓弦が笑いながら片桐にヘッドロックをかます。彼の手からこぼれ落ちたパンがテーブルに散らばり、同時に片桐は弓弦の首根っこをつかんでひっぱる。このくそ暑いのにきみら元気だね、とぼやくと片桐が反論した。

「暑さ寒さも彼岸まで、しかしハヤリの熱中症を回避するには冷たい飲み物が必須。てことで昼休みに限り校外への買い出し可ってふうに校則を変えよう。生徒総会に持ちこもう」

「職権、ちがうか、役権乱用じゃん。副のくせに。そんな簡単に変わってたまるか」

 私の文句など構わず片桐は窓をさらに限界までひらいた。対面の校舎に太陽光ごとさえぎられてあまり風が入らない。ほうっておけば芽が出るんじゃないかと思うほど暑い。こいつ、こんなくそ暑い時期に死体遺棄なんて根性あるな、と思ったがもちろん口には出さない。その翌日にこうしていつもどおりの日常を送っている彼が不思議だった。いつもとちがわなければいけない、というわけではないが。

 ちがうよ権力なんて。片桐は肩越しにふりかえりながら言って、困ったように笑う。

「うちの生徒会長、秘書とかむいてる。なんでも自分でやっちゃうし、ノーミス、正解へ正解へって物事をはこんでいく。明日から来なくていいよって言える立場。俺いらねえじゃんし。絶対なりたくない。だから副会長におさまってんの」

「そう言うわりに次の選挙にむけてはりきってるんだね、今のスタンスを維持するために」私はレモンティーのパックにストローをさしながらたずねた。

「生徒会からは離れたくないんだよなあ」片桐は窓枠に肘をついて笑った。弓弦も佐岡さんも、三浦さんもいるし? 適度な権力で際涯ゼロにさせるドンチキ騒ぎが好きすぎるんだよ。自分の責任さえ履行すればかなり好き勝手できるから。まともに責務も果たさず自由を要求するのって頭よわいやつのやることだし。

「文企は生徒会じゃないし。あたし、さすがに今年のが終わったらもう引退するよ。受験あるから。公募推薦だし」

「いいじゃん、三浦さん、頭いいんだから。このまま生徒会に昇格しちまえば」

「あたしも」パックの中身をひとくち飲んだ。「権力者なんて興味ないから」

 ところで朝やってた書類は、と片桐に訊かれた。センセも怒ってなかったからたぶんダイジョーブ、午後からは朝言われた後夜祭のステージのタイムテーブル作る、とだけ答えた。弓弦は、銀はただ恵美に殴られたくないだけなんだろ、と言い、片桐は、俺Mだから佐岡さんの正拳突きもぜんぜんバッチコーイなんだけど、ま、体面上ひとつよろしゅう頼んます、とだけ言ってヤキソバパンの封をあけた。大量のガラス片の上をキャタピラーがすばやく通るような音がした。弓弦は片桐のレモンティーを勝手に飲んでしばかれた。宇宙戦艦ヤマトが終わって、AKB48がはじまる。

 昼休みの中盤で弓弦がパンフレットの原稿を片手に生徒会室を出ていった。椅子に逆向きに座って足をだらしなくひろげ、レモンティーを飲みながら「間キスになっちまった」とぶつくさつぶやいている片桐を見る。普段どおりの面倒くさがりな生徒会副会長、いつもどおりのぐうたらぶり。誰がこいつに投票したのかおおいに気になる。私には関係ないが。

「三浦さん」片桐がストローから口を離すと、ちゅるん、と音がした。「元気そうだね」

「元気ではないけど。それなりにびっくりしてるよ。ふたりだけの思わぬ秘密を作っちゃったなあって。普通に学校来てるし」

「そりゃ、いくら人を殺したとはいえ、ちゃんと学校も来て生徒会の仕事もやっつけてあげないと、あとで苦労すんの俺だもんね」

「そうじゃなくて」私は人差し指をぴんと立てたが、たずねるのが急に億劫になってひっこめた。片桐は首をかしげて「三浦さん、やっぱり変わってるね」と言った。私は聴こえないふりをした。セミの大合唱をBGMに、のんびりとした昼食の時間がすぎる。

 途中で恵美が入ってきた。「あり、弓弦は?」素っ頓狂な声に「職員室」と片桐がこたえる。もー、半までにできるーとか自信満々で言ってたくせに。恵美はしょんぼりと肩を落としながら泣きまねをする。片桐が親指を立ててポーズを決め、冗談めかして「俺の隣はいつでもあいてるぜ、キラリーン」と低い声で言う。恵美はそんな彼の胸をどついて「あたしは弓弦一筋なんだ悪いかっ」と反論した。気まぐれに人を殺した男子生徒と、それを知らない女子生徒。異様なとりあわせに気づいていたのは私だけだ。おそらく。

 私は、片桐の下の名前が銀であることを朝、起きぬけに思い出していた、ということを思い出した。きれいなのに冷たい名前だな、と思った。


 片桐に文化祭企画委員会へ入ることをすすめられたのは、中等部から高等部へあがってまもないころ、他校へ進学した彼氏と別れた直後だった。その気になってしまえばスリーステップで飛び越えられるような壁も、手前まで来てしまえばずいぶんと高く見えるというのは定石で、その壁が薄かろうと低かろうとたいして関係がなく、その場にうずくまって誰かが声をかけてくれるのを待っている、そんな身勝手な時期だった。失恋の痛手をひきずるなんていうのは私の性分ではなかったが、それなりに、順当に、中学生なりに真剣な恋をしていた事実は変わらず、高さを錯覚して壁の前で右往左往していた。

 高等部からこの学校へやってきた片桐は、奔放でマイペースで、意志はそれなりに持ち、しかし柔軟、そんな男だった。幸か不幸か生徒会副会長の革張り椅子を奪うことに成功し、今じゃルックスもてつだって学園のアイドルだか王子様だかといった少女漫画のようなスタンスでいる。

 失恋なんて、ほっときゃ治る。

 当時、そんな彼の言葉に噛みつこうとした私に、彼は重ねて言った。――ほっとけないのは、そうやって悲劇っぽく未練もって泣かないと、過去の恋が汚くなりそうだからでしょ。

 過去を守ることが裏の美徳となりつつある現代の高校生の社会で、おそらく片桐はそれまでの何もかもを捨ててしまってでも自分にとって有益なもの、新しいものを探しに世界へ飛び出してしまうような、身軽な男子だった。すこし保守的な私からみれば疎ましくもあったが、そうしないと得られないものもあるんだしそれが見たいんだ、という片桐の言葉は無邪気だった。だから、かといって、避けなかった。

 昨日、確かに片桐は人を殺した。どこの誰とも知れない一介のおじさんを。そうしないととうてい見えないものが彼にはあったのだろうか。例え最後には忘れられて消耗しきってしまうような些末なファンタスマゴリアのひとつでも。


 強いフラッシュの光でアメーバ状のものが視界の端をちらつく。絶対目をとじた、と思って画面を確認すると、きちんと両目をあけたままダブルピースをしたうつっている自分がいた。ほっとしてタッチパネルをぽんぽん操作し、あとふたつの写真も撮ってしまう。

 すべてのプリクラを撮り終えたあと、恵美に「背景ぜんぶ決めちゃったけどいいの」とたずねると、彼女はいつもの笑顔から棘を少し抜いたようなほんわかした表情で「うん」と言った。声に覇気がない。ライン落ちてっし、と言って彼女の下まぶたを指先でぬぐうと、きょとんとした顔をされた。

「うお、あ、ごめん」

「生理来ないんですか、おねえさん」

「いやいや、弓弦とはまだそこまでレベルアップしてませんて」肩をすくめて手をふる恵美。「家庭の話だからあんま気にしないで」

「気にするよ、それなりに。何年親友やってると思ってんの」

 撮影スペースの外に出て次のカップルに順番をあけわたす。ゲーセン独特の、テクノみたいな電子音の土砂崩れが襲ってくる。足元にファストフード店の紙コップが、くだけた氷とわずかな溶け水といっしょに転がっていた。ああこれじゃあ時間少ないな、なんて思いながら私は落書きスペースの椅子に座った。恵美もとなりに腰かけてペンを手にする。画面の中央で、必要以上にメイクをしたキャバ嬢まがいの女の子が「画像受信中」の表示の下で計算された笑顔を向けている。アイラインとマスカラでめいっぱいごまかした、半分に割ったウニに似た大きな目が不自然でおかしい。

「私の苗字、三浦だけどさ」

 送られてきた写真に手早くキラキラのヴェールをかけながら言った。「別に佐岡の名字を持つ人間だけで背負うべきってわけじゃないでしょ」

「そりゃそうなんだけどさ」恵美も自分の笑顔の下に「えみ☆」と書きながら言う。「ぶっちゃけ、佐岡家でもどうにもならないっていうか」

「解決の仕方はその人それぞれだよ」私は自分の笑顔の下に「りりあ」と書く。

「お父さんが」恵美は自分の顔を囲むようにハートで飾る。「神隠しにあった」

 せんとちひろ、とつぶやいたらペン先が私の頬をつついた。スタンプのページを何度も変えながら「帰ってこないの」と言う恵美。画面からやたらポップな音楽が流れている。

「元々帰りは遅いんだけどさ、お父さん、週末とかはそのまま会社の人と一緒に飲んできたりするから、そんなもんかなって思って私もお母さんも先に寝たんだよね。でもよくかんがえたら週末じゃないし、朝になってもいなかったし、よく分かんないまま学校来た」

 お母さんは仕事休んで警察に行ってるんだけどね、と言って、ハートマークを押しながら恵美がため息をついた。行方不明って基本的に相手してもらえないらしいんだよね、名前とか行方不明者リスト的なものに登録しといて、どっかで死体とかが出たときに身元照合するぐらいなんだってさ、事件性がない限り警察が動いて捜索するわけじゃないみたいだよ。

 たんたんと話す恵美の声はいつもと変わらず芯がとおっていて、眼の色もしっかりしている。授業中と同じほどの真剣な目つきでペンを動かしている。彼女の前で拡大されたプリクラは山ほどのハートで埋め尽くされている。

 私はペンで写真の一番下に「ウニの断面図に、俺はならん!」と書いてやった。

「大丈夫だよ、家帰ったらいるよ、おじさん。飲んでたら電車なくなって同僚の家に泊まって、そのまま今日も会社行ったんじゃないかな。ケータイの充電切れたまま」

 そういえば恵美のお父さんってあんな感じの顔だったな、と思い出した。戦慄するほどではなかったが、片桐もどうする気なんだろう、と首をかしげた。暗闇でオレンジ色に浮かびあがる、ちょっと目玉が飛び出した中年のおじさんの顔。その顔がボロボロと砂糖のように崩れ、私の全身の穴という穴からはいりこんでくる。手早く落書きを済ませるとケータイを鞄から出した。手指を動かしていないと指針を見失いそうだった。耳元で髪の毛をジョキンと一気に切られているような気分。

 ケータイに画像を送り、取り出し口からプリクラをとる。ゲーセンのカウンターに置いてあるハサミで真ん中から半分に切ると、片方を恵美にわたした。すこしふれた彼女の手が冷たい。私は自分のぶんを財布に直接入れる。

「バミューダ現象だったらやばいけど、ここは日本だからそうでもないよ。あんまり思いつめないでね、恵美」

「うん、まだ一晩だから言うほど悲観してないよ。今日はお母さんがあちこち連絡してくれてるから、なんとかなる」

 ありがとうね、とまぶしい笑顔で言うものだから、私は背後から恵美に「かわいいなあもう」と言って抱きついた。きゃらきゃら笑いながらじゃれあう。ていねいに巻いてある彼女のチョコレート色の髪が揺れる。そんな日常。普段はわりと強気なほうだが、恵美はときおりこうして私に頼ってくれる。小学校からずるずると十一年間も同じ学校に通ってきたのだ、分からないことは黙して語る。それで双方に通じる。

 だから恵美は分かっているのだ、ということを、分かっていた。そこまでここは安全な国じゃない、事件性なんていくらでもあるということを。その弱音を吐くことを、表にさらされゆくことを彼女自身が、許さないのだ。他の女子の無関心や非理解を恐れているから、それが分かるから、はじめから口を閉ざす。ましてや「理解しているフリ」は本能で分かる。無遠慮につっこまれることも笑って流されることも嫌なのだ。

「思いつめると、肌に悪いよ。心配すればするだけ、現実が呼応していくから」

 抱きつきながら彼女の耳元で言うと、恵美は一瞬唇を強くひきむすび、そして「そうだね」と笑った。そうだね、分かるよ。そうだね、分かるよ。現実の脚本はずっとリアルだ。例えまったく違うものだとしても、世界同士が背中合わせなら、片方の変化に背骨で気づく。涙を流せば震えが伝わる。連鎖する。

「本屋で別冊マーガレット買ったら、ケーキショップ・コバルトに行こうよ、リリア」

 ゲーセンの喧騒をはね飛ばすように、恵美が肩越しにふりかえりながら言った。あそこのモンブラン、おごったげるよ、そのかわり駅までダッシュだけどね。

 私は彼女から離れ、スカートのプリーツをととのえると、いいね、と言って笑った。

「たまには私の足りない脳みそに糖分もあげなきゃね」

 恵美の笑顔は変わらないし、蒸し暑さも昼間と変わらない。



 初めて教師に頭を叩かれた。

 机の上に教科書をひらいて立たせ、鏡を片手にグロスを塗りなおしていたところ、過去完了形の構文について説明していた先生が私の席の横に立ち、持っていた教科書でぺしんとはたいた。もう少しでチューブが鼻の穴に入るところだった。教室が笑いに包まれる。先生が背中をむいた瞬間に舌を出した。過去完了形とか人生のどこで使うんだよ、あたしは一生日本から出ねえし、うっざ、きっも。ななめむかいの席の恵美は一度もこちらを見なかった。

 隣の席の弓弦が笑いを必死でこらえていたので、休み時間、下敷きでやつの頭を叩いてやった。「人の不幸を笑う者は自分の不幸で千倍笑われるよ」「何それことわざ?」いつもどおりのふざけた時間をすごしていながら、弓弦の笑顔はすりガラスをとおして見ているように曇っていた。ふぞろいの輪郭。どうかしたの、とたずねると彼はスープを冷ますときのような細いため息をついた。

「恵美の親父さんが行方不明っていう話、聞いた?」

「恵美からそれとなくは」

「おとといから帰ってこないんだって」

 だろうねえ、と思った。もし片桐が殺したのが本当に恵美の父親だったとしたら、むしろ帰ってくるほうが怖い。あの、目玉をひんむいた血まみれの死体が玄関に「ただいまー」と出た日にゃお釈迦様も下駄で逃げだす。

「彼氏とはいえ」弓弦は椅子に横むきに座る。「さすがに行方不明者まで探せない」

「なんかってときに助けてくれて役にたつのが彼氏ってわけでもないと思うけどね」

「でも何もしないっていうのもすげえ腹立つ」

 普段クールで落ちついている弓弦がどことなくあせっている。きれいに切りそろえられた前髪がいちいち揺れ動く。私は横目で恵美を見た。彼女は次の授業の用意をしていたが、教科書を扱う手つきがどこか怠惰で、顔にかかる髪を払おうともしていない。彼女の表情は、演技にしては真実味のある、しかし素だとしてもどこか作りものめいていた。

「俺らにはどうしようもないよな」弓弦が言った。その瞬間、ぬけづらく避けていた荒れた山道がするりと平坦にならされた。歩く人が多くなればそれが道となるのだという魯迅の言葉より、はるかに早く。

 やがて休み時間のなかばなのに担任の先生が教室に入ってきて、騒いでいたクラスメイトたちが一瞬静かになる。だが彼が教壇に立たず恵美に話しかけたことでまた騒ぎだす。恵美は先生の言葉にちいさくうなずきながらこたえ、そのまま彼のあとをついて教室を出ていった。ドアをしめる直前、私と弓弦をすがるような目で見た気がした。ずいぶんと長いあいだ硬直していた私たちだったが、チャイムの音で現実にひきもどされる。弓弦は机から教科書類を出した。私は彼にたずねようとして口をひらき、しかし何も言わずにとじた。次の数学の授業は、恵美が戻らないままはじまった。彼女は早退したらしい。

 文化祭まであと三日に迫ってきている。

 

 夕方の図書館は閑散としていた。恵美がいない生徒会室で文企の仕事をひととおり終えた私は、重いガラス扉を手前にめいっぱいひいてひらき、館内へはいった。資源の屍と知性の泉が大量に本棚にならび、その雪洞行列のように均整のとれた棚にそって置かれた長机と椅子が落ちつかない。受付の司書の先生は手元の文庫本を読むのに必死だった。私は紙とインクの匂いが充満する本棚のあいだを、ガラス張りの窓際へぬけた。高い天井から足元まで、ゆるくカーブしたガラス窓が攻撃的な西日に照らされてきらきらと輝き、下界のひろいグラウンドとテニスコートとプールをうつす。

 図書室の隅のほうで文芸部はひっそりと活動していた。長机の一端を占領し、下級生三人がプリントアウトされた部誌にカチン、カチンとホチキスを一心不乱に噛ませているのを見て、やっぱりこういうのは慣れないなあ、と思う。どっちをむいても、カチン、カチン。

 部長、と呼ばれてそらした顔を元に戻した。眼鏡でボブの女の子がこちらに手をふっている。「できてますよ、今年のぶん」

 ああ普通に帰ればよかった、と後悔しいしい、彼女にさしだされた部誌を受けとった。絵が得意だという後輩の子が描いた表紙は、男の子がふたり、爆撃跡のような瓦礫の上に座ってとおくを見ているイラストだった。中身をめくると、三人が書いたライトノベル調のファンタジー小説がそれぞれのっていて、しかしどの話も「第一部・第一話 完」のような中途半端な終わりかたをしていた。後輩が「先輩の話、難しかったです」と言った。

「分かってもらえることを前提にして書いてるわけじゃないからね、あたしの小説なんて」

「純文学ってやつですか。かっこいいなあ」

 中等部の男の子がホチキスを止めずに言う。そんな高尚なものじゃない、と自分でも思う。ケータイ小説みたいに好きなものを書いてたらこうなった、というだけの偶然の産物を指さして褒められても嬉しくない。私は鞄から化粧ポーチを出して、ピンクのグロスを唇に塗りながら言った。顔じゅうの血を集めたようなもともと赤い唇に艶が戻る。

「それでいいと思うよ。先生に提出してオッケーもらったらそのまま当日販売。たぶんほとんど売れないと思うけど、ま、てきとーによろしく」

 あ、片桐の口調がうつった。

 はい、と小気味よく返事をする後輩たちを、鏡から目をはずして盗み見た。きっとこんなふうにちょっと奔放な、三年生がいないからしぶしぶ部長になっちゃったっていうだけの、でもわりと部には顔を出す純文学を書く先輩っていう感想をかかえてるんだろうな。そんなことを思って、ちょっとだけアイラインを太めに書き足してみた。今の三浦先輩はいつもの三浦先輩じゃなくて、同級生の殺人なんて目撃しちゃった先輩なんですよと。言えばよかったのかも知れないけれど、何を主体にして「よかった」と言えるのかが分からなくなって、やめた。

 そのあと、文化祭当日の図書室前で販売する部誌のことを中心にいくつか話をして、まあなんとかなるだろうから頑張って売ろうぜ、と声をかけて立ちあがった。よろしくお願いします部長、と言われて苦笑した。「やっぱり部長がいたほうがいいです、僕ら。また来てくださいね」きらきらした目がまぶしくて、私の影が濃くなる。うれしくないわけではなかったが、いつものそんな純粋な後輩の目線に罪悪感をぬぐえなくて、いやーいなくたってそのときは窮鼠猫をぶん殴るんだって、と笑ってかえした。

「三浦さん」

 図書室の入り口のほうから声が聴こえた。片桐が本棚のあいだから顔を出し、文芸部の活動が終わっていることをみとめると王子様スマイルをかました。副会長だ、あの片桐副会長だ。下級生の女の子ふたりが色めいた声を出して静かにはしゃいでいる。

「いないかなと思って来てみたら、いた。帰ろうぜ」

 私は呆然とその場に直立不動のまま動かずにいて、だが無言の圧力に負けて後輩たちに「んじゃあね」とあいさつをした。お疲れさまです、という声が背中にぱらぱらと、小雨のようにふりかかる。図書室を出たとたん、片桐が吹きだした。

「文企のほうで忙しいってのに、ちゃんと部活には顔だすんだなあ。さすが部長。てか、二足のわらじか。三浦さんって真面目だったんだ」

「今まで真面目に見えませんでしたか」

「自由奔放ってイメージはしてた」片桐はケータイを一度ひらいて、またとじた。靴をはきかえて、学校の外へ出る。まだ少しあかるい住宅街をならんでのんびり歩いてゆく。

「規則や規律に対して自由奔放なんじゃなくて、自分自身に奔放っていうの。自分で自分に制限かけたり、気合い入れたりするようなタイプじゃない。猫みたい。好きなことやってるからストレスなさそうな」

「いやに正論だけど、むしろ片桐もそうでしょ。あたしはだらけてるくせに守備は固い人間だけど、片桐は自由に動いてシクってもシクった過去を捨てるかきっちり責任もって片づけて、さらにずんずん進みそう」

「いやに正論だね。なんか腹立つ」

「まあ、やりたくないことやったって、最中はしあわせにはなれないからね」

 いやに正論、と片桐は笑った。やられたくないことやられてもムカつくだけだしな、三浦さん、俺とよく似てる。

「やだなあ、あんまり似て欲しくない」

「一昨日のこと黙ってる時点で俺っぽいよ。ほんとに警察呼ばなかったんだ」

「呼ばないと駄目って、法律では決まってても自分の中では善と思えないからね。嫌。批判じゃなくて別の脅威をいろいろ想像できて怖い」

「例えば?」

「例えば」私は空をあおいだ。「人を殺した片桐の友達、っていう以上に、片桐が人を殺してゴミ袋詰めにして海に沈めるところを見ちゃった三浦、っていう目で見られるのが怖い」

 そりゃ脅威だ。片桐はそう言って笑った。

 背後から車のライトで照らされる。私と片桐の影がひょんと伸びる。道路の右側に寄ると片桐が私の目の前に来た。車が通りすぎたあと、片桐はふたたび私の左どなりへならぶ。タイヤの音がフェード・アウトしてゆく。ホームランボールも押しかえす浜風に、夜更かしを覚えた蝉の鳴き声が乗る。動いているのが不思議なほど汚い自販機。ローファーの音と、遠くから聴こえる野球ファンの歓声とスタメンコールの声がかさなる。秋はまだかとうんざりさせられる熱帯夜。片桐は足をとめた。

「いいんじゃない。誰だって完全に利他的にはなれないよ」

 ふりかえってみると、片桐は街灯に顔半分を照らされて笑っていた。イケメンだから絵になる。私はふいと顔をそらし、いつかはつかまるんじゃないの、と言った。

「それは怖くない。なんか面白そう。てゆうか、まだ断定はできないでしょ」

「どうかなあ。科学捜査っていうの、あれ凄いよ。テレビで見ててマジパネェって思うし」

「俺、楽観主義だから。やばくなったらそのとき考える。やばい状況にも意義を考える。楽観イズム。津波は地震が起こってから逃げるものだし」

「高台に家を作ればいいじゃん」

「そんなめんどくさいこと、すると思う?」

 いや全然。あっさり答えると片桐は笑った。子供のような無邪気さで。

 駅前は臨時改札口がひらいて、駅前の球場で行われるプロ野球の試合を見に来る人でごったがえしている。警備員が彼らと私たちを分かち、押さないでください、帰りの切符を買ってください、と声をかける。日本の片隅ではいつだって人が死んだり殺されたりしているというのに、それを知らないことが当然であり、当然だと断定することに罪はないのだと言わんばかりに、人が集まる。すぐ近くに殺人犯がいるというのに、人は一様に酒を片手に行進する。同じ学校帰りの学生たちが、文化祭の準備で疲れきっているはずなのにきゃらきゃらとはしゃぎながら改札をぬける。野球ファンと学生は逆方向へ歩いてゆく。スクランブル交差点のように混ざりながらも、逆方向へ。

 ユニフォーム姿のおじさんたちを横目で見て、別にさ、と片桐が言う。人のいない場所で災害が起きたって、新聞の隅に載っても、世界中のほとんどの人は明日になれば忘れるし天を恨まないでしょ、何を軸にしてそれを善や悪とするか、なんてのは議論するだけ無駄だっつうの、どうせ議論するやつらも大半は傍観者なんだからさ。

「あのおじさんが殺されたことは、世界にとっては些末なことでも、当事者の俺と目撃した三浦さんにとっては壮大な意義を孕んでるでしょ。たいへんな事件だけどさ、死体が見つかってニュースになっても、それだけじゃ全世界の観客にとってはあまりに些末だよ。今はただ、俺と三浦さんにとって世界が少し変わって見えるだけの話」

 それだけの話、それだけの話だよ。片桐は紺色の水彩絵の具を水でうすめたような空に浮かぶ月を見あげながらそうつぶやく。通過の電車が改札のむこうを猛スピードで走ってゆく。パチンコ玉のように光が交錯する。誰も通過する電車なんて気にしていない。ケータイをいじり、友達としゃべり、スポーツ新聞を読む。にぎやかな駅。プロ野球ファンの歓声。世界の色を染めかえる、プレイボールの合図。

 改札に定期を叩きつけてふたりならんでホームに入る。んじゃ俺は下り線だから、と手をふってエスカレーターを降りてゆく片桐の背中を見送った。無邪気な笑顔。猫の尻尾のように振る両手と重そうな鞄とかるそうな髪。反対ホームに出た彼はケータイをいじっていた。彼は下りの電車に乗りこむと、ドア付近に立ってふたたびこちらに手をふった。女子のような仕草だった。彼を乗せた電車が去ってすぐ、上りの電車のアナウンスが響く。

 急に誰かを殴りたくなった。何をしてももう遅いのだと、それだけ理解できた。


 電車に乗っているとき、ふと窓の外が真っ赤に燃えている気がした。炎に包まれる町を疾走してゆく電車。だけど、まばたきを何度かしてみれば、そこはいつもどおりの町だった。人工的な光に希望を宿した住宅地。その光をホログラムのように乱反射する川の水。それらを覆う私の半透明の顔。夕暮れの風景。何気ない毎日と変革のない現代。合言葉じみた政治批判とマトリョーシカ式の言葉。未来信じすぎ自分らしくいすぎ君に会いたすぎ瞳閉じすぎ涙とまらなすぎ、そんな大量生産型の流行歌。いつもどおりの音。町が燃えてしまえば電車も止まると分かっているが、大地震も同時多発テロも無差別殺傷事件もテレビの電波でしか理解できていなかった私たちにとって、それはあまりに現実味がない。もし自分が燃え盛る電車に閉じこめられても、そのことを知っているから、看過されても口をとざすしかない。目まぐるしく変わる外の景色から目をはずし、私はiPodの電源を入れた。シャッフルをかけると、ビートルズの「ユー・ライク・ミー・トゥー・マッチ」が流れてきた。


 化粧水をつけるのが面倒なのでシートマスクを顔に貼り、自分の部屋でセブンティーンのダイエットページををひろげて、足を伸ばしてストレッチをする。背骨のどこかで音が鳴った。片足を持ってうしろにあげ、反対側の手を前に伸ばし、一本足で立つ。太ももが痛い。何もしなければ疲弊し衰えてゆく一方の身体を嘆く。どたんと床に崩れた。王貞治は凄い。フラミンゴ打法は職人技だ。床にあおむけになって、耳をすませた。夜風の音に交じって、階下でテレビを見ている母と大学生の姉の声が聴こえた。しあわせな家庭。家族に文句はないし、反抗期はむしろ中等部時代に終わった。干渉しすぎず無関心すぎず、模索してうまくはかれた距離感を保って仲良くやっている。それでもよもや娘がクラスメートの殺人を目撃して、しかも通報のひとつもしないとは思うはずもないだろう。見あげる天井にはちいさな汚れがあり、それが顔のように見えて目をとじた。

 ちいさいころ、母親の財布から小銭を盗むことが癖になっていたときがあった。十円や五十円といったちいさな額だったが、つい多く盗みすぎたある日に発覚し、激怒した母にこってりと数時間説教された。そのとき「こんなことをする子じゃなかったはずなのに」と言われた。ちいさいながら、母の中にいる私の「こんなことをする子」像は彼女の想像の範疇を越えるもの、あるいは否定してしかるべきもののひとつであって、実際にそんなことをしたことは変えられない事実だからこの私の存在はどうなるんだろう、と考えていた。

 父親が失踪しても動揺を隠していた恵美。プリキュア好きを理解されないと思っている弓弦。鉛筆を削るような気軽さで人を殺した生徒会副会長の片桐。彼の殺人と死体遺棄を目撃しても感慨なくスルーした私。鏡にうつる姿がからまって、私が記憶しているよりはるかに複雑になってゆく。どっちが本物かなんて断定できない。人の苦しみや痛みは、他人には絶対に分からない。分かると言いきるやつのほうが胡散臭い。イソップ童話の真鍮の壺がもし「僕は、実は土器だから大丈夫」と言っても、陶器の壺は離れていっただろう。ぶつかってわざわざどちらが砕けるかを確かめる必要はない。まったく同じ日付と時刻に、双方が倒れ、ガラスはマジックミラーに変わってしまう。

 ひとり王さんごっこをやめて一階に降りると、母と姉がテレビの前で動揺していた。「まさかねえ」「だって名字が」何のこっちゃと思いながら冷蔵庫をあけて麦茶のポットを出すと、その音で気がついた母が私を呼んだ。

「このニュースの人、恵美ちゃんの家族じゃないの」

 どのニュース、と思ってテレビを見るともう別のトピックに切り替わっていた。しかたなくケータイで国内ニュースサイトの記事一覧を順ぐりに見ていると、姉が「これ」と言って画面の「男性遺体/海浜で発見」の文字に人差し指をつけた。

「二十日午後二時半ごろ、兵庫県西宮市の甲子園浜海浜公園にある海岸で男性の遺体が横たわっているのを散歩中の女性が発見、一一〇番通報した。全身に数ヶ所の打撲跡がみられ、兵庫県警は殺人・死体遺棄事件として西宮署に捜査本部を設置。同本部は遺体の身元を同市の会社員、佐岡啓一さん(四十一)と確認した」

「いや、あたし、恵美の家族の名前までぜんぶ覚えてないから」ひやひやした顔の母と姉にそう言い放った。

 ほら、梨里亜がゆうんだから間違いないってば、と姉が母の背中を叩く。いやいや、違うとは言ってないんだけど。そのツッコミは喉の奥に消えた。メールの画面をひらこうとして、やめる。はじめは興味がなかったはずなのに、否応にも目の前に突きつけられた金属質なもので口の中を犯されているような気分がして、トイレに駆けこみ、夕食をぜんぶ吐いた。


 ニュースページにちょこんと載っているあの海浜公園の写真があまりにもきれいで、まばたきをくりかえした。一キロ以上もつづく美しくて広い浜辺。ちいさいころに初めて行ったときは、その海岸の広さと海の美しさと世界の広大さにころぶほどはしゃいだものだ。海浜は、捨てられた死体ごときで揺るがずすずしい顔をしている、凛とした強さを持っていた。写真からは、美しいながら強くふんばり、他者の介入によって崩されそうになった優しさを守ろうとする大自然の根性とかけ声が染みだしていた。人間が作りあげたテクノロジィとは根本的に違う、母なる大地の脈動。私はその生きざまと、散華の一年後にふたたび咲き誇る桜に似た強さを前に、息もつかず、かならず負ける。



 教室の前で弓弦が仁王立ちしていた。どんどん登校してくる友人たちに「何やってんのお前」とからかわれて、そのたび「いやちょっとね」と苦笑いでかえしながら。今朝見たプリキュアがよすぎてほうけてんのか、と思ったが今日が木曜日であることを思い出して撤回した。泣いてる子がいたらとりあえず話しかけないといけない、的な女子のルールにのっとって私は彼のとなりで裏声を出した。

「右手に見えますのが二年四組の教室でございます。入室はお早めに」

「いや、だって」弓弦は軽く笑って肩をすくめた。「恵美にどう声かければいいの」

 知ってるんだ。ニュース見てびびったよ、名前同じだったんだから。ああ、ほんとに恵美のお父さんだったんだ。だって状況が合いすぎじゃね?

 薄氷がパキパキと割れるような音が耳のずいぶん奥のほうで鳴った。

 結局私が先導するかたちで教室に入った。恵美はいなかった。弓弦がさらに落ちこむ気配が背後からつたわった。恵美が自分の父親の失踪について私たち以外の誰にも話さなかったからか、クラスメイトはひとりとして昨日の死体遺棄事件について触れなかった。彼らの足元は何も変わっていない。直列につながっているように見えて、実は違う。駅前で配っていたカラオケ新装オープンの広告がはいったうちわを、みんなしてあっちでバタバタ、こっちでバタバタさせている。

 片桐が「おはよっす」と元気よく登校してきたときはずっこけた。二秒で立ちあがり、自分の席に鞄を落とした彼の腕をひっつかみ、教室からひきずりだした。背後から「三浦が銀を拉致った」という冷やかしの声が聴こえたが、かまいやしなかった。階段まで拉致ったところで、間抜け面の片桐にまくしたてた。

「言っとくけど、あたしは何も加担してないからね。見てただけなんだから。現場に何も証拠を残してないからあたしがしょっぴかれることはないだろうけど、つかまっても共犯者だなんて供述しないでよ。もししたら、あんたを殺してあたしも死ぬ」

「物騒な」片桐は軽く笑って手をふった。「端っから通報したらよかったのに」

「最初はまわりに変な目で見られるの嫌で通報しなかったんだよ。言ったでしょ。それが水の泡になるし」

「佐岡さんの親父さんだって分かってたら警察呼んだ? どっちに重心おいてんの」

 いやに正論。私は唇を噛んで目をそらした。とおくから廊下で騒ぐ男子の声が聴こえる。俺ぜってえまゆゆ派! いや俺はあっちゃん!

「恵美が傷つくのは嫌だよ。通報したほうがよかったとも思うし」

「矛盾してるよ三浦さん。通報したからって佐岡さんが傷つかないとは限らないでしょ。そうゆうの偽善者ってんだし」

「うっさいな、とにかく嫌なの」とうとう叫んだ。「あたしはこの件に関与してないよ。警察にチクってあげないから、そういうことにしといて。はい、決まり」

「ってか、え、あれー、確か事件現場目撃して通報しなかったらそれも罪に問われるんじゃなかったっけ。懲役五年とか」

「証拠がないから大丈夫」

「分かんないよ。髪の毛一本、落ちてるかも知れない」

 しかしさあ、と、片桐は意外そうな表情で言った。三浦さん、今さらになってめっちゃくちゃ慌ててるね。

 何人かの女子が笑いながら階段をのぼってきた。私たちは口を閉ざして端に避ける。ゆっこが読モ応募したってー。えー何それマジうけるー! あの顔でモデルとか無理くない? とりあえず第一選考ぐらいは投票したげよっか。なんで? どうせ落ちるだろうから。確かにー! 同情票ね同情票。

 彼女らが去ったあと、片桐がぼそりとつぶやいた。

「誰でもよかったんだよ」

 その表情に妙な既視感があった。――秋葉原の事件みたいに、誰でもいいからとにかく殺したかったっていう意味じゃないよ。殺す相手の身元を気にしないっていうこと。家族でも友達でも恋人でも、誰でもいいんだ。殺されたのがどこの誰かっていうのは関与しないんだよ、根っこに。重要なのは俺が人を殺すっていう行為そのもののこと。その行為をやらかした俺自身と、周囲の反応。まあ、殺したのが佐岡さんの親父さんだったっていうのは昨日のニュースで初めて知ったけど。さすがにショックだったな、佐岡さんとは仲よしだし。

「片岡」

 私はあらためてたずねた。「なんで殺したの」

 古いダウンコートをハサミで切ったときにふわりと飛びだしてくる羽毛。片桐はそれに似た、傷ついたような笑顔を見せて、「そんなに知りたいの?」と言った。子犬のように首をかしげる。前髪が彼の瞳を半分隠す。彼の肩越しに階段をのぼってくる人の姿をみとめ、私は目を見ひらいた。気づいた片桐もふりかえる。

 最後の段に片足をかけ、恵美は私服のまま、ノーメイクで、目の周りを土気色にして立っていた。一睡もしていない、ということが安易に分かる表情だった。硬直する私の前で、恵美は震える声で「リリア」と言いかけて、最後まで言えなかった。一瞬でぐしゃぐしゃに顔をゆがめた恵美の大きな目から、涙がBB弾のようにぼろりとこぼれた。

「お父さんが」

 私は駆けよって彼女の身体を抱きしめた。ニュース見て、違うと信じてたよ、でも本当だったなんて、そんな、ひどい。そう耳元でささやくと、恵美は声をあげて泣いた。おさない少女のように、ただひたすらに。彼女の背中を私は何度も撫でた。彼は私たちふたりをじっと見ていたが、やがて恵美の頭を優しく撫でた。その手を払いのけたくてしかたなかった。

 弓弦をメールで呼び出すとマッハで飛んできた。恵美を抱きしめて、音が聴こえるほど強く歯を食いしばっていた。「職員室と、あと保健室にも行ってくる」そう言い残して弓弦は恵美の肩をそっと抱き、廊下を歩いていった。となりの片桐は、ふたりがいなくなると細いため息をついた。ぼろぼろの恵美を見たとおりすがりの生徒が不思議そうに見る。知られないままでいいと思ったが、ケータイひとつでなんでも分かる世の中だ、いずれ広まってしまうだろう。

 教室に戻って自分の席につき、机に組んだ腕を乗せて顔を伏せた。私に拉致られたことをクラスメイトにからかわれる片桐。「ラブラブですねうんこー!」「うるせえチンコー!」腕でそっと耳をふさいだ。大量の食糧をかかえてヨットひとつで太平洋をさまよっている気分だった。


 恵美は母親と一緒に学校へ報告に来ただけだった。遺体の身元確認や遺族の同意が必要な司法解剖のことなどで昨日は一日中警察にひっぱりまわされたらしい。今日もこのまま事件のことであちこちを回らなければならないので、しばらく学校を休むこと、文化祭には出られないことなどを職員室で話していたという。担任の先生と校長の前で、恵美は母親と弓弦の手をつかんで離さなかったらしい。

 二時間目の途中で戻ってきた弓弦は、席につくなり額に両手をあててうなだれた。教科書も、筆記用具すら出さない。私は愛用のメモ帳に「恵美のことはしばらくそっとしておこう」と書いて彼にまわした。手紙を読んだ弓弦は、いったん地獄に行って帰ってきたような表情を崩さずに私を見た。救いを求める目だった。

 その弓弦も、昼休みの途中で早退した。帰り際に彼は、恵美と交際をはじめたときに自分を食事に招いたのが恵美の父親で、とてもよくしてくれたのだということを話してくれた。何も言えずにいると、そのことを察したのか弓弦は笑って、俺もしっかりするから三浦もしっかりしようぜ、俺らが崩れたら今度は恵美が自分を責めるようになるから、と言った。

 あのときの私にできることは何もなかったと言いきかせた。確かにそうだった。あの晩、片桐はすでに恵美のお父さんを絶命させていた。責められるべきは殺人を犯した片桐だ。

 だから放課後、彼が声をかけてきたとき、思いっきりにらんでやった。

「ちょっとは後悔してよ、自分が気まぐれに殺した人が友達の身内だったってこと」

 耳元でそう言うと、片桐は苦笑して私の耳にも唇を寄せた。「ショックだったけど、俺は状況が変わってこれからどうなるかってのが楽しみ」

 はあ? と裏返った声で怒鳴ると、クラスじゅうの視線が私に注がれる。ふたたび片桐の腕をつかんで教室を出た。冷やかされる。もうあきらめた。

 学校を出たところで、片桐が「海浜公園に行こう」と言いだした。

「何それ」鼻で笑うしかない。「今さら殺してごめんなさいって恵美のお父さんに謝りに行くの」

「違うよ、犯人は現場に戻るっていうでしょ、っていうのは嘘で、今思いついたこと」

「なんか、あたし、あんたに対する嫌悪感ばっかり増えていくんだけど」

「佐岡さんを間接的に傷つけたのは俺だけど、ちょっと考えてよ。俺だってあのおじさんが佐岡さんの親父さんだったなんて知らなかったし、知ってたら殺さなかったよ」

「何その自己中。そもそも最初から誰も殺さなかったらよかったんじゃん」

 まあそこはいろいろ前後の経緯がありまして。片桐はそう言いながら海浜公園のほうへ足をむけた。不本意ながら彼のあとをついていく。

 海浜公園は学校から数十分歩いたところにある。すでに警察によって立ち入りが制限されていて、海浜は複数の警官と報道陣と野次馬で混ぜご飯になっていた。遊歩道にある腰の高さほどの防潮堤から身を乗りだして、すげえな、とつぶやいた片桐の顔を見やると、困ったような苦笑を浮かべて私を見おろした。優しい瞳をしていた。踵をかえし、彼は恵美の父親を殺した埋め立て地の島へむかう。だが、橋を渡った先にも複数の警官がいた。松林前で彼らにとめられ、しかたなく退散する。血痕か何かでも見つかったのだろう。もしかしたら片桐や私の存在を示唆させる証拠が見つかったのかも知れない。私はどこにも触っていない。ポリ袋が発見されて、劣化がひどくなければ片桐の指紋ぐらい見つかるかも知れないけど。

「ほんと簡単に見つかったなあ」彼がぼそっとつぶやいた。「袋、やっぱやぶれたのかな。でもなんで死体は沈まないで浜に流れてきたんだろう。あ、袋ごと浮きあがってたのかも。空気抜きが甘くて。いろいろ不思議。やっぱり意地でもポリバケツかドラム缶探してきて石詰めればよかったかも」

 ふたたび橋を渡って戻ると、片桐は東側にそれて遊歩道を歩いていった。一瞬はとめようと思ったが、私も彼のあとについていく。住宅街と浜とをへだてる木々と、スコンと抜けたタイル張りの道。空はよく晴れていた。鳥が上空を飛んでゆく。定規をあてて線をひいたような遊歩道と海のあいだに、花の絵がはめこまれた防潮堤がある。片桐は猫のようにその上にひょいとのぼって歩いていった。両手をひろげて、右手に海、左手に私をのぞんで。東北の地震以来、南海大地震に備えてこのへんの防波堤も作りなおさないのだろうか、といつも思っている。確かに阪神大震災のときには津波被害がなかったみたいだけど。浜風にあおられながら上機嫌に「ほほー、ひひー、ははー」とわけの分からない歌を歌う。緊張感がまったくない。高い場所にいる片桐を見あげて、ねえ、と声をかけた。

「その歌、前も歌ってたよね」

「そうだっけ」浜風のいきおいに負けぬようにと大声で問いかえす片桐。

「なんの歌?」

「四十年以上前のノベルティソング。元祖ラップってゆうかメロディーがなくてただリズム刻んでて、おっさんが変な歌詞をそのリズムに合わせてしゃべってるだけ。女に逃げられた男が発狂していく曲で、ほんと、狂気じみてるよ。声がナメクジみたいにぬるぬるしてて、同じ単語を何回も連呼したりして、怖い。精神病院をファニーファームって俗語で出すあたりとか。でも中毒性があるんだよなあ。狂った歌だけど、ほほーひひーははー、ってフレーズをいっぺん聴くと耳から離れない」

 そうして片桐は防潮堤の上を歩きながら、頭の中で訳しているのかゆっくりと、歌詞を日本語で暗唱しはじめた。

 行かないでって土下座して頼んだのに、お前は俺を置き去りにして出ていった。それからの日々は最悪になる一方で、俺はすっかり頭がいかれちまったんだ。だから、やつらが俺を連れ去りに来るぜ、ホホーヒヒーハハー、あのファニーファームへ。そこでは人生はバラ色なんだ。だから俺は清潔な白衣を着た親切な彼らを見て、ハッピーになるんだ、ハハー。

「片桐」

 私は彼の真下に行ってたずねた。「そんなにここにいるのが嫌?」

 サプライズを食らった子どものような素っ頓狂な顔をした片桐。そして、空へ抜けてゆくような爽やかな笑い声をあげる。くしゃくしゃにゆがんだ笑顔。私たちが何年も前に忘れたクリアな笑顔だった。ただ楽しいから笑う、夏休みの子ども。表面張力や空の青さやスーパーの卵からひよこが生まれない理由やテレビの中身に興味がある子どもと同じ笑顔。

 そして彼は言った。少なくともこの国の腹上で死にたいと思うぐらいには従順だよ、と。

「見てみたいんだ」片桐は幻をとらえかけた若者の目で海のむこうを見やって言った。「これから先に質量を増すものをさ。あのおまわりさんたちがいずれ俺を容疑者にして、逮捕して、死刑にして、それを新聞や週刊誌やニュースが全国に発信する。『若者の心の闇』『キレた子どもたち』『生徒会副会長の裏の顔』ほらほらどんどんトピックタイトルが出てくる。すごいでしょ、紋切り型なんだよ。イケメンで人望厚い学年上位成績の生徒会副会長が人殺しなんて、最近の子どもはゲームや漫画に影響されて何をしでかすか、頭のよさと人間性は別なんだな、ってな感じで世間はびっくりするだろうね。肩書きや人柄の清潔さに比例して話題になる。もしかしたら、イケメンだから『彼にも事情があったんだよ』って盲目的に擁護する女が出るかも知れない。俺の部屋に『進撃の巨人』とかのコミックスがあるから、規制がかかるかも。そんで、マスコミが俺をそーゆーふうに報道して、テレビの言うことを信じる馬鹿が若者みんなをそーゆー目で見て、子どもはそーゆー目で見てくる大人をそーゆー目で嫌って、俺が死刑になったらクラスじゅうが俺の家族をそーゆー目で見て、クラスメイトも世間からそーゆー目で見られてって、そーゆーのがおもしろそう。自分がされて嫌なことを人にしちゃいけません、なんて気やすめですらない浅漬け感たっぷりだよ」

 イケメンで人望厚い学年上位成績、と自分でのたまっているが事実なので否定できない。片桐はなおも重力を無視してとっとっと、とかろやかに防潮堤の上をわたる。

 私は足をとめた。純粋すぎてまっすぐすぎて一途すぎる、と思った。「もう大人だから」と「まだ子どもだから」を状況に応じて都合よく使いわける高校生とは違う。暴力的なまでにあらゆるものを捨て、大事なものも放り出して、それでも欲しいものを求めている。幼子の無邪気さで遊びまわる。自分のことよりひとのことがおもしろくて、ひとの動きそのものに興味がある。探検に出かけた幼稚園児と同じくらい、傷つくリスクを、傷つける罪悪を恐れない。彼の殺人に動機はない。しくみを知りたくて虫の胴体を木の枝で刺してかっさばく子どもたちと同じだ。太陽がまぶしいからひとを殺したひとと同じだ。私とはあまりに真逆だった。だけど、これが片桐銀という男の純粋さなんだ、ということだけ理解できた。まっすぐに理解できた。

 片桐はぽんと防潮堤から飛びおりると、私の後頭部に手をまわし、顎先の真うしろにあたる一点を中指で押した。引きさがると、道端の柵に背中があたる。木陰の涼しさが心地いいが、片桐の目はそれ以上に冷たかった。

「ここをめいっぱい殴ったんだよ。なんかのサイトで見たんだ。頸椎をやられて、うまくいったら死ぬって。知ってる? お葬式の骨あげで、お舎利様って呼ぶ部分なんだよ」

 知らないよ、と答える前に彼の指に力がこめられ、口を口でふさがれた。唇を食べられてしまうかと思うほど深く接吻され、熱い舌で口腔内を乱暴に犯された。片桐は目をひらいてじっと私を見ていた。唾液を卑猥にからめてくる。口の端から親指を入れられる。もう片方の手がスカートの中に入ったとき、私は彼の左頬を強く叩いた。風船が割れるような音がして、彼の舌を噛みかけた。その場によろめいた片桐は、頬をおさえ「いたたた」とうめく。私は唇を乱暴にぬぐい、ありったけの唾液を地面に吐き出した。なまあたたかい油を口いっぱいに含んだような気持ち悪さ。片桐は唇をおおげさにつきだす。頬にもみじ型の跡がついていた。

「ひどいわ、あたし女優なのに」

「何言ってんの、あんた」ため息をついた。まだ口が気持ち悪い。「いつもそうやって遊んでるね」

「一緒に遊びたいなら俺のチンポ踏んでよ」

 もうひとつ唾液を吐いて遊歩道を歩いていった。「うわ待って、三浦さん」片桐がうしろから追いかけてくる。百五十六センチの私とならんで歩くと、彼の背の高さが際立つ。

「忘れないでよ」彼のほうを見ないで言った。「恵美を泣かしたことを許さない」

 片桐はすこしだけ笑って、「偽善者というよりエゴイストなんだね」と言った。間違っていないから、殴れなかった。「いや、悪口じゃないんだ、ごめん。三浦さんのそういう面、俺は魅力的だと思うからさ」

 だからお願い、俺のそばにいてよ、三浦さん。彼はそうつぶやいた。浜風にかき消されそうな声だった。その声に聴きおぼえがなかった。

 鳥獣保護区の干潟が見えてくるあたりで、片桐が急にかけだした。何事かと思って見ていると、彼は道の端にしゃがみこんでそこに咲いていた花を摘んだ。排気ガスに犯されていない、真っ白なシロツメクサの花だった。彼はそれを私に両手で手渡す。花の丸いフォルムがかわいらしい。シロツメクサを触るなんて何年ぶりだろう。

「これもエゴだけどさ、佐岡さんのお父さんを殺して佐岡さんを泣かして三浦さんを悲しませたお詫び。三浦さん、白い花が似合うよ」

 片桐は子どものように笑った。彼の肩越しに見える海が夕日を乱反射する。その光は強く、私と片桐の影は深く濃くなる。誰もいなかった。もう一発、花を持っていない手で反対側の頬を叩こうとしたが、今度は手のひらでふせがれた。パン、と小気味よい音がひびく。彼は無邪気に笑っていた。



 生徒会室の窓から見おろす校庭のようすは圧巻だった。中等部も含めて全校生徒が集まるのだから当然だが。子どものころ、家の庭に角砂糖を放置してみたときに集まってきたアリの大群にそっくりだった。黒山の人だかり、雑多なサラダボウル。それを高い場所から見おろす気分。

 おそらく初等部の見学ついでに来たのだろう、五才くらいの女の子がさっきまでこの生徒会室にいた。迷子放送をかけて母親が迎えに来るまでのあいだ、弓弦が「爪弾くは荒ぶる調べ、キュアメロディ!」「ネガトーン、やってしまえ!」とプリキュアごっこにつきあってあげていた。高校生のお兄さん相手にまったく警戒させないあたりがのんびりした弓弦らしい。今は彼女も親元にかえされてふたたび二人体制に戻り、穏やかな時間をすごしている。

 他校の生徒会役員の相手やステージに出る芸能人の引率などは、経験を積ませるという名目で後輩に託した。今は生徒会や三年生の文企委員からの指示が特になく、あき時間をのほほんと緊急連絡番として無駄に使っていた。そろそろお昼時になる。下に降りて何か食べたい。校庭には各クラスや部活が出している模擬店が軒をつらねていた。

「交代、たぶんもうすぐだから」

 弓弦が椅子に座って文庫本を読みながら、私の腹具合を察したように言う。「そしたら三浦、先に飯食ってきていいよ」

「そうだね、ありがとう。店のようすも気になるし」

 うちのクラスはたこ焼き屋をやっている。窓枠に肘をついて店を見ると、さすがに混んでいた。クラスメイトたちが忙しそうに走りまわっている。私、弓弦、恵美が文企で片桐が生徒会、すでに四人も抜けている状態でもやるときはやってくれる。

「なんとなくさあ」弓弦が購買のジュースに手をつけながら言った。「気鬱な空気、抜けないよな。あえて言うようなことじゃないだろうけど」

「犯人、早いとこつかまるといいんだけどな」

「つかまったからって恵美が元気になるわけじゃないけど」私は、犯人はえらい身近にいるんだけどね、と思いながら言った。「そういうときに支えてあげるのが弓弦の役目でしょ」

「お前もそうだろ、親友」

「女にとって彼氏っていうのは重要なポジションにいるんだよ」

 まいったねえ、と弓弦が苦笑する。「俺だって、何言えばいいのか分かんねえよ。下手なこと言って恵美のこと余計に傷つけるのも怖いし。こういうとき、かんがえるってことに慣れないせいでうまく立ち回れない。声かけづらいよ、恵美の家に行っても」

 屋外アトラクションの集まっているグラウンドのあたりから歓声が飛んでくる。何が起こっているのか分からない。高い階から見おろしても全てが見えるわけじゃない。高すぎると人の表情だって分からなくなるのに、店ひとつなんてもっと分からない。

 恵美の父親が殺害されたことはすでに学校じゅうに伝わっている。恵美が登校しなくても、互いにどこかはばかりがちになり、誰もが口をとざしてトピックにしない。その気鬱をかかえて焼けたたこ焼きの味ははたして。

「ま、なんとかなりますでしょ」だって日本の警察だもん、と弓弦が能天気に言いはなったところで、生徒会室のドアも勢いよくあけはなたれた。勢いがよすぎて跳ねかえっている。

「やっほ、お疲れ」

 ひょっこり顔を出したのは生徒会の腕章をつけた、気鬱な空気の元凶たる片桐だった。我が校のぐうたら副会長。よっす銀、よっす弓弦、と男子同士があいさつをする。

「三浦さん、ちょっと出ようよ」彼は背後を親指でさしながら言った。

「なんで弓弦じゃなくてあたしだけなの」「そうだぞ銀、贔屓だ贔屓だー」「あんたさっき先にご飯食べてきていいって言ったじゃん」

 片桐は肩をすくめて笑った。「いや、もうすぐ後輩ちゃんたち戻って来るでしょ。どうせ巡回行かなきゃなんないだろうから、ご飯食べに行こうよ。かといって生徒会室カラにするわけにもいかないし、弓弦はいい子でおるすばん」

「俺悪い子だからおるすばんできねえ」

「悪い子であることは罪じゃないけどそれを盾にするのは愚劣だぞ弓弦」

「ちょっと待って、準備するから」私は漫才をしているふたりを放っておいて、ミニトートに荷物を詰めこんだ。けっきょく巡回の時間まで弓弦に残っていてもらうことにして、弓弦と一緒に生徒会室を出た。

 気が抜けたように委員会の腕章をはずす私を見て、片桐が軽く笑う。

「青春してるねえ、一度きりの高校生活」「何それ」

 わらわらと混雑している一階をふたりで歩いていると、女子の視線が痛い。イケメン副会長の顔は上下級生全体に割れている。お化け屋敷、メイド喫茶、縁日、占いの館、文化部の展示。体育館のステージでは芸能人のライブが行われていて、女子の絶叫がうるさい。このあとはマジックや漫才もひかえている。カラフルな風船と折り紙の飾りとが方々でスパークリングしている。スピーカーからは流行りのポップスが無尽蔵に流れる。客の呼びこみがしつこい。名前を呼ぶ女子の歓声に笑顔で答えるアイドルまがいの片桐。

 彼のとなりを歩くことは苦痛じゃない。「誰、あの女子」と怪訝そうに言われてもさして気にならない。別に私は片桐のなんでもないから。ただ、彼が殺人犯だということを知っている以上、「いつもどおり」のおちゃらけ副会長だと信じて一ミクロンも疑わない他の生徒の存在と、この学校の生徒のひとりとして変わらず生活している彼のとなりにいることは、不思議だった。片耳ずつイヤホンをシェアして音楽を聴き、あいた耳に栓をしているような。駄目だ、イヤホンを分けたら、聴こえる楽器と聴こえづらい楽器があるんだ。

 模擬店でにぎわっている校庭におりると、そこでも片桐は女子の黄色い悲鳴を浴びるほど食らった。すぐ近くでは巨大迷路や軽音楽部のステージや宝探しゲームの会場などがあるというのに、その騒ぎ声に負けていない。多少面喰らったような顔をしたものの、すぐに謎のポーズを決めて「誰が呼んだか副会長けんざーん」と応じる。私ははんと鼻を鳴らした。男女共に人望の厚い彼はその場にいた何百人もの生徒の視線を一気に集め、笑顔にさせた。

「片桐だ」「片桐副会長」「おっす」「銀なにやってんの」「ちょっとこれ食ってみて」

 気が遠くなるほど高く澄んだ青空の下、人気者の片桐副会長はみんなからもみくちゃにされながら、焼きそばやお好み焼きといった類の手料理をひとくちずつもらって食べていた。嫌な顔ひとつしない。片桐にとってはこれでも楽しんでいるのかも知れない。味つけをダメ出ししてもみんな素直に聞いている。

 群衆の波に若干押されぎみになりながら、私は空を見あげた。いい天気だ。気がつけばこうして青空を見あげることをすっかり忘れている。なぜだろう。人が殺されるところを間近で見たからだろうか。いや、それよりもつよく、信じがたいほど巨大なものに今まさに襲われているということを実感してしまったからだ。それが何か。私にはまだ分からない。ただそのものたちに凌駕される一方では腹が立つから、苦しまぎれに怒鳴りかえしたりしてみるだけだ。事態が好転しないと分かっていても、そうすることで自分の何かを納得させようとして。エゴの塊が熱を帯びて震える。あたたかさに、凍える。

 突然片桐に腕をひかれた。彼は片手に焼きそばのケースを持っていて、それを「ほい」と私にくれた。焼きたて。ソースと青海苔のいい匂いがする。やにわに自分が空腹だったことを思い出した。片桐が割った割り箸を手渡してくれた。「ありがとう」とつぶやくと、片桐は「初めて三浦さんからありがたがれた」と嬉しそうに笑った。

 夏祭りのようにずらりと並ぶ屋台を、行儀悪く焼きそばを食べながら片桐とふたりでさくさく抜けていく。列の中ほどに私たちのクラスの店があった。たこ焼き屋。片桐が声をかけるとクラスメイトたちがふりかえる。

「あ、銀、生徒会のほうはいいのかよ」

「昼飯食ってくるってごり押ししてきた。たこ焼き食わして。もちろん内輪割引で」

「アホ、定価だ定価」

「リリアも食べる? って、思いっきり他クラスのやつ食ってるし」

「うん、片桐にもらった」焼きそばで口をもがもがさせながら言った。

 だがそのとき、私はたこ焼きプレートに生地を流しこんだエプロンの女子の顔を見て、麺を吹きそうになった。塩でも撒くように天かすをプレート内に落とす恵美の、真剣に料理をするうつむき加減の顔。一時の、余命一日と言われた直後のようなやつれようはない。目は充血して髪もぞんざいなまとめかたをしているが、かつてほどはひどくない。父親が殺され海に沈められた事件が発覚したのはつい三日前だ。これからまだまだ警察の事務手続きや葬儀の準備で忙しいだろうに、どうしてまたこんなに早く。箸を持つ手が震えた。一瞬、周囲の騒ぎ声が消えた。私は慎重に息を吸い、吐く。うつむいて黙々と焼いていた恵美はふと顔をあげ、私を見るとぱっと笑顔になった。

「リリア、来てくれたんだ」

「いや、それはこっちのセリフ。恵美、ずっと学校来てなかったから、文化祭来てくれたんだ。よかったあ」私はプレートの上で彼女と手を取りあった。

 片桐も恵美の存在に気づく。「え、あれ、わあ、戻ってきたんだ。おかえり」と、彼女の肩を叩いて満面の笑みで再会を祝う。恵美も笑って頬を掻き、「せっかくだし、文化祭ぐらいは顔出して手伝わないと」と言った。いつもと同じ快活な動作と不自然さのかけらもない言動行動に、私はそっと横目で片桐を見た。彼はうれしそうに笑っていた。あたり一面にただようたこ焼きの匂いが、恵美の声をほおばるように含んで私の鼻を詰まらせる。無意識に片鼻をすすった。すぐにへろりと笑って「よかった」と言う。

 ツイスターの盤のようにならんだたこ焼き機の穴に生地と具を入れる恵美の手つきはあざやかだった。竹串でくるくる回せば料理番組のような手際のよさで、数分とたたないうちに紙皿に六つのたこ焼きが鎮座した。このために私たちは一生ぶんのたこ焼きを試食したのだ。もう二度と食うまいと思っていたが、いざ恵美が作ったものを見ると食べたくなる。

 彼女はいたずらっぽい笑顔を浮かべて、へいお待ち、と紙皿を片桐にさしだした。彼はそれを仰々しく両手で受けとりながら、恐悦至極にござる、と低い声で言った。たこ焼きを前に目を細めて感嘆の声を漏らす。

「父さんが文企と生徒会を往復してズタバタやってるうちに、うちの子はこんなにもたこ焼きを焼くのが上手になったんだねえ」

「誰が父さんじゃキモい」「あまりのうまさに感激?」「まだ食べてないし」「てか早く食え」

 ひとくち食べた片桐は口をハフハフさせながら地団太を踏み、つづいてぐっと親指を突きだした。店にいたクラスメイトから歓声があがる。

 みっつほど熱がりながら一気に食べてしまった片桐は、やばいもう一セットいける、などと言いながら恵美とハイタッチをかわしていた。不思議な感覚だった。浴室にいるように、音が空気中で反響する。多少肌が荒れているものの元気そうにはしゃいでいる恵美と、そんな彼女に深く事情を訊かずいつもどおりに接する片桐。彼は彼なりに気をつかっているつもりなのか、とは思ってみたものの、そう思ったことが不思議だった。まちがっていない。まちがっていないから、いろんなところがまちがっている。彼が人を殺して死体遺棄をはかったこと、ではない。フィルムをたぐるように、あの日の光景が一コマずつよみがえって、めざめた端から腐れてゆく。

 だって、片桐はあんなにも無邪気に笑うじゃないか。

 片桐、と声をかけると、彼は四つめのたこ焼きを口に運ぼうとして竹串を持つ手をとめた。私の声に反応したからじゃない。彼はゆっくりと顔をあげ、つづいて視線を泳がせ、私を見た。とんでもなく無表情だった。私も、彼も。彼は額に手を添えて、頭いてえ、とつぶやいた。その一瞬だった。

 水が出るホースの先を指でつぶしたように、彼は口から大量の血を細く吹いた。

 周辺の生徒の制服が血で汚れる。お祭り騒ぎの楽しげな声が一転して悲鳴に変わる。人混みが私と片桐を中心にして算を乱し一気に後ずさった。片桐は数回激しく咳きこむと、地面に膝をついて目をいっぱいに見ひらき、内臓を吐きだしたんじゃないかと思うほどの大きな血液の塊を嘔吐した。そのまま地面に倒れこむ。血だまりに突っ伏して、痙攣する。口や鼻からつぎつぎにあふれる血。数秒、その場にいた誰もが沈黙し、ひとりの女子の針じみた悲鳴を着火剤に全員が叫び声をあげ、逃奔をはかってパニックになる。逃げ、泣き、失神し、怯える。私はその場に突っ立ったまま片桐を見おろしていた。彼は血だまりに浸かって、恵美の父親のように工作と化していた。もう動かない。

 腰が抜けそうになったはずだったのに、私はその場につっ立っていた。まわりの生徒たちが悲鳴をあげ、もみくちゃになりながら逃げようとするのが、泣き崩れるのが、完全に背景と同化していた。片桐の半開きの目は何もうつしていない。口から舌をたらして、なおも血を流す。まるで精巧なオブジェのようだった。廃墟とクリアなガラス細工。腐れてゆくりんごを博物館の隅に展示するファンタスマゴリア。血の匂いにおぼえがあった。忘れられなかったフィルムの断片におぼえがあった。ゴミ袋からのぞく目線にうろたえた。桜吹雪のなかで夏の日照りの苛酷さから逃げようとした。

 屋台の中に恵美はもういなかった。

 片桐の口元は楽しそうに笑って見えた。錯覚だった。私は呆然として、動けなくて、手のひらに汗をかいていた。この夏の暑さを晩年まで覚えていても、これほど汗をかくことはもうないだろうなと思う。


「私の誕生日に、ワンピースをくれるつもりだったみたいなの」 

 校舎のすべての棟を走りまわって、ようやく一、二号館のあいだの連絡通路で恵美を見つけた。私は息を整えながら、フェンスにもたれかかって下界をながめている恵美を見た。グラウンドでは教職員が総動員して片岡を包囲し、他の生徒を追いだすのに必死だった。漫画やゲームで見なれていても、彼の死にざまは誰もが目をそむけていた。それでも驚異本位に現場をのぞきこんで逃げだす馬鹿がいる。

 恵美はのんびりとした表情で、半開きの目でグラウンドを見おろす。とっくに警察には通報されただろう。彼女が片桐を手にかけたのだということは、なんとなく分かった。彼女はややあって、漫画のワンピースじゃないよ、と苦笑する。

「仲の悪い父娘じゃなくてね」恵美はフェンスに肘をつきながら言った。「リヴィングで雑誌を見ながら、これ欲しいなあ、っていつもぼやいていたの。それがクロエのワンピ。お父さん、その記事を見てたみたいで、内緒で買ってきてくれてたの。来週の誕生日のサプライズプレゼントにするつもりで、メッセージカードつきで、クローゼットに隠してあった」

 潮がひいてゆくように、生徒が少しずつグラウンドを去ってゆく。教職員はとりあえず全員を各自の教室に閉じこめることにしたらしい。殺人か急性の病気なのかが分からないのでいちおう全員拘束、ということなのだろう。男子の慌てた声とおもしろがっている声と女子のすすり泣きの声とが聴こえてくる。それを小馬鹿にするように恵美が笑う。普段の真面目でかわいらしい雰囲気とはかけはなれていた。

「どこから聴いてたの」

 私の問いに、恵美は「片桐の『誰でもよかった』っていうあたりから」と答えた。

「変なやつ。なんで私のお父さんなんて殺したんだろう。何か悪いことしたのかな。あんなになるまで、死んでも苦しめられるほど悪いことってなんなのかな。片桐、意味分かんないよ。あいつ、心が貧しいんじゃないの。寂しいやつ。私はあんなやつに負けない。地獄でも呪ってやる」

 パトカーと救急車のサイレンが同時に聴こえてきた。すでに学校のまわりは近所の人でいっぱいで、彼らを押しのけるわけにもいかないパトカーがサイレンをふりまきながら周辺に駐車した。警官と救急隊員が彼らを押しのけて敷地内に入ってきて、手早く学校が黄色いテープで封鎖される。それを上からながめる私と恵美。片桐のまわりにいた先生たちが、警官の姿をみとめて走りよる。焦慮をさそう、血の色をしたパトライト。

「リリアはさ」恵美が優しい声で言った。「片桐に脅迫されてたんだよね。隠蔽を偶然知っちゃって、脅されてたんだよね。だから黙ってたんだよね」

 私は迷わず首を縦にふった。恵美はマシュマロのような笑顔を浮かべた。ありがとうとごめんねが一緒くたになっていた。口の中が急速に乾いてゆく。

 教室に戻ろうか。多分私、つかまるだろうから、もう会えなくなるね、寂しいね。リリアは私のいちばんの親友だよ。私のことを誇りに思わなくてもいいから、忘れないでね。

 連絡通路をわたって教室棟に入る恵美の背中は、いつもどおりちいさかった。サイレンの音が景色を塗りつぶしてゆく。圧倒される。霧散する。ここにいることが不思議で、耐えられなくて、その場にしゃがみこんだ。


 片桐は病院に運ばれたときにはすでに死亡していた。恵美はすぐに逮捕された。模擬店をやっていた生徒の全員が職務質問を受け、片桐が食べたたこ焼きを焼いたのは恵美であることが伝えられ、さらに彼の食べ残したたこ焼きにシアン化カリウムが混入されていたことが決定打になった。シアン化カリウムはインターネットで手に入れたという。片桐が注文した時点で生地と混ぜ、殺害をはかったらしい。恵美はあっさり罪を認め、動機もシンプルに実父を殺された怨恨だとこたえていた。それにより、警察が捜査中の死体遺棄事件の実行犯が、今回の被害者の片桐銀であることがあかるみに出た。海中からゴミ袋の断片と、凶器と思しき廃材の鉄パイプが見つかりそこから検出された指紋が片桐のものと一致した。裁判は情状酌量の可否を問うてもつれあう。

 片桐が楽しみにして待っていたとおり、マスコミが「カリスマ生徒会副会長の暴走」「若者の無差別殺人、理由なき反抗」「父を思う娘の復讐」などと新聞やテレビで騒ぎたて、世間のそーゆー目はいっそう強くなった。彼のルックスに惹かれた女性は擁護姿勢をとり、彼の部屋にコミックスがあった『進撃の巨人』や『GANTZ』などの漫画は激しく糾弾された。恵美を許す許さないの話題で世論が湧く。なぜ大人に相談しない、気持ちは分かるけど、よくやった、ここまで親思いの娘も珍しい、警察もちょっとは手加減しろ、それでもやっちゃいけない、殺人はやりすぎ、正義の行いだ。私に関しては「片桐の殺人を偶然知るも警察に通報するなと脅されていた」という噂が広まり、延々とつづいた職務質問のあとは同情と好奇の矢が毎日教室で降ってくるようになり、母と姉には腫れもの扱いされた。必然的に保健室登校になる。弓弦は席替えで離れて以来まったく話さない。彼の成績も一気に落ちた。恋人のしたこととその裏にある親子愛を同時進行でとらえ、発狂目前だった。

 生徒に人気の生徒会副会長の理由なき殺人と、その被害者の娘による復讐殺人は、この学校を退廃させるにじゅうぶんだった。ひとつのクラスから殺人鬼をふたりも出荷した事件はニュースや週刊誌、ミクシィ、ツイッターを通じて膾炙し、膨張する。不良ごっこをしていた生徒はおとなしくなり、私のクラスへの訪問者は激減し、同級生全員が殺人犯のような目で見られて孤立し、片桐の死を目撃した生徒の多くは登校拒否になり、父兄は動転して子どもを転校させ、学校の裏掲示板は荒れ、ここの制服を着る生徒全員が近所から奇異の目で見られ、入学希望者が半減し、恵美と片桐の話題を地雷とした。私はというと、周囲の同情と好奇もいつしか空気読みモードに変わり、他校の友達からは携帯を着信拒否されるか必要以上に気遣われるかのどちらかの猛追を食らった。生きるのがややこしくなったついでに、人間のややこしくなさに気づいた。

 これが片桐の欲しかったものだ。望んでいたものだ。何もかもを捨ててまで見たかったものだ。まちがいなく彼は喜んでいるだろう。彼の棺桶に何を入れればいいのか分からない。捨てられた彼の死体は焼かれ、灰になるだけだ。ただそれだけだ。冬を越せないというだけだ。楽しくてしかたなさそうな笑顔に、聴き慣れない声と潮騒が重なる。部屋の隅で埃をかぶったラジオは、今日も野球中継を流していた。



 部屋の一輪ざし用のヴェースに飾っていたシロツメクサは、枯れてしまった。

 大仰な音をたててドアがしまる。車両はゆっくりと前進し、逃げるように駅から離れてゆく。くらい町。人工的な光につつまれている駅前。商店街。何も燃えていない。もし町が燃えたら、この電車も一緒に燃えてしまう。誰もがケータイをいじったり、本を読んだり、おしゃべりをしたり、さまざまに帰宅時間をすごしている。私はiPodでピーター・ガブリエルを聴いている。誰も私を見ていない。見てもしょうがない。

 駅前の華やかさから離れて住宅地にもぐりこんでゆく電車の中で、私はドアのガラスに頬をつけて、外を見ていた。海底トンネルをすすむ心地。光を避けるように、沈んでゆく。

 ガタン、ガタンと揺れる電車。街灯が右から左へ何度も走りさってゆく。万華鏡のように変わる英字新聞のシャツを思いだした。黒いセロファンを何枚も重ねたような夜闇。車内の電灯がまぶしくて外の景色が見えづらく、反対に鏡のようにはっきりと私の顔をうつす。外の人は自分の足元がくらい代わりに、あかるい電車の中がはっきり見えるだろうが、その電車も一瞬ですぎ去ってしまう。

 ピーター・ガブリエルの声の合間合間をぬうように、片桐の「ほほー、ひひー、ははー」の歌声が直接脳髄に届けられる。守るものがないから、ちがう意味で彼は途轍もなく強かったけど、彼の笑顔は底抜けに明るく、あるいはヤケになっているように見えた。へたくそな大人のなりかたしか知らないみたいだった。半端なだけに現実的な、あまりに現実的な、おだやかでしあわせな夢を見たくてあたたかい二度寝をむさぼる少年の微笑み。

 時計が午後八時をさしていた。あと四時間で日付が変わる。「明日は来るよ、どんなときも」という歌詞の歌があった。どんなときも、かならず明日が来る。誰かのためじゃなく、それが世界そのものだと言わんばかりに。次の駅の名前がアナウンスで告げられる。お降りの方はお忘れ物のないようにご注意くださーい。電車が速度を落とす。このまま見知らぬあたらしい土地まで行けるのかと思った。終着駅でかならず折りかえすと頭では分かっていても、そう信じていないと、誰かを責めずには電車に乗っていられない。

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まどろみジャンキー 真朝 一 @marthamydear

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