閉館の時間です

久浩香

閉館の時間です

 突然、世界がぐにゃりと歪んだ。


「起きて下さい。もう、閉館ですよ」

 司書の先生の声がした。

 笹野有希は、姿勢を伸ばして、シャーペンを握り、ノートに文字を書く姿勢のまま、眠りこけていた。

 ポンポンと肩を叩かれて、彼女は、自分が今、学校の図書館にいる事に気が付いた。

 寝惚け眼のまま、ぼんやりと声のする方へ顔を向けると、先生の唇のアップがあった。

「わっ!」

 思わず声が出る。

 そして、痙攣したように身体は跳ね、先生から逃れるように、反射的に右肩を後ろに引いていた。

「お目覚めですか? もう、閉館ですよ。帰り支度をして下さいね」

 先生は、呆れた様な口調でそう言うと、くるりときびすを返し、貸出返却カウンターの裏側にある司書室の方へと戻っていった。

 だらしなく、口を半開きにした有希は、なんとはなしに先生のうなじで一つに束ねられた髪の毛先が、肩甲骨のあたりで揺れるのを見送っていたが、先生は、ノブを持つのとは逆の手の、人差し指の第二関節を口角の上がった唇に寄せながら、ドアの向こう側へ消えた。

 その仕草に赤面し、ようやく覚醒した有希は、大慌てで鞄の中に参考書とノートを二冊、それからペンケースを急いでしまいこむと、進行方向だけを見つめながら、ずんずんと大股で歩いて図書館を出た。

 カウンターと司書室の壁には、大きな羽目殺しの窓があり、先生は、生徒が入退出する姿を確認する事ができる。

 有希は、恐らく先生は、自分の帰り支度を整えながら、早足で出入口の引き戸に向かう、座ったまま眠りこける器用な生徒の顔を、窓の向こう側から見送り、その姿を思い出して笑っているのだ。と、想像した。

 腕時計を見ると、閉館の17時を5分程過ぎていた。

 図書館を出たところにある中庭で、腰を曲げて、真っ直ぐに伸ばした膝の上に、鞄を持ち握り拳になった右手と、左の掌を置いて、地面に向かって大きく息を吐いた。

(う~っ。恥ずかしいなぁ。明日から、どうしようっか)

 彼女は、自分の羞恥心と対峙した後、首を回して、学校の塀ととある木の間をじっと見つめながら身体を起こすと、図書館の入口にちらりと視線を向けて、司書の先生が出てくる前に、自転車置き場へと向かった。


 夢を見ていた。

 ストレッチャーの上に乗せられて、長い廊下を渡り、どこかへ運ばれていたのだ。正確に言うならば、恐らくそういう場面だった。ガラガラという車輪が回る音と、背中に振動を感じながら、足のある方角へ移動している感覚の夢だった。

 耳元で、

『起きて』

 と、声がした。

 瞼を薄く開けると、真っ白な天井が見えて、その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。


 あの声は、先生の声だったんだろうな。と、ぼんやりと考えながら、自転車置き場へと到着したが、自転車が無い。

「わちゃ。しまった」

 左手で頭頂部をガリガリと掻いた。

 彼女は、自分が今朝、寝坊した事を思い出した。

 自転車では、到底、予鈴に間に合わないので、母に車を出して貰ったのだ。

「あー。もう。最悪っ」

 裏門を抜けて、正門のある道路の方向へ向かい、四日前まで通学路として利用していた道を辿った。学校から離れるのに比例して林立するビルは高さを増し、10分程歩くと商店街の名前を記す看板が、大きな道路が交わる四つ角の正面に掲げられている。看板と並行する横断歩道を渡り、更に10分足らずの距離を歩くと駅が見える。それまでは、この駅の駐輪場に自転車を置き、電車通学をしていたのだが、彼女は、月曜日の放課後に、件の木の下で告白してOKを貰った。

 彼氏になった小野祐也の家は、線路沿いではあったが、有希の家と学校の間にあり、彼女の家の近所の駅から、商店街の駅までの一駅分を電車で、更に、駅から学校までを自転車で通学するのは、大回りになるので自転車のみを使って通学していた。

 交際がスタートした帰り道、有希と祐也は、自転車を並走させて帰った。しかし、彼と別れて自宅迄、距離自体はそれほど離れてはいないのだが、途中、心臓破りといっていい坂道がある。慣れればそれも大した事問題でも無くなるのだろうが、運動が苦手で、そうし始めたばかりの有希は、三往復半でダウンしてしまったというのが、遅刻と居眠りの真相である。

 彼女は、四車線、時に五車線になる道路を走る車の騒音を左耳に聞きながら、商店街に向かって歩いた。駅に向かうには、程よいところで道路を渡っておいた方が都合が良いのだが、反対側の歩道は、幅が狭く、歩道内を自転車で走る人の事を考えると、少しばかり危険なのだ。


 商店街入口の前のスクランブル交差点を渡り切った時だった。

『クスッ』

 有希は、自分の真後ろで、司書の先生の笑い声を聞いた気がした。図書館に居た時にも聞かなかった声だ。ハッとして振り合えると、今まさに有希が渡ってきた歩道を、学校の方角に向かって歩いている司書の先生のような女性が歩いていた。そして、彼女の横には、制服を着た男子学生がいた。

(小野君?)

 有希は、まさか。と、思いながらも目を細めて、二人連れに焦点を合わせた。女性は、紛れもなく司書の先生であり、顔こそ確認できなかったが、学生は祐也であった。

 中学の頃から、友達の地位をキープしつつ祐也に片思いをしていた。同じ高校を受験したのも、もちろん彼の志望校であるとリサーチした上での事だった。他の人であれば、解りようもなかっただろうが、顔が見えないからといって、彼女が祐也を見間違える筈が無かった。

 二人は親密そうに見えた。

 有希は、青ざめるより早く血が昇っていた。真後ろで聞こえた幻聴の嘲笑も起爆剤の役割を負っていた。信号が赤であるにも関わらず、二人連れに向かって駆け出してしまった。一車線目を通る車は、ギリギリで彼女の手前で停車したが、二車線目を走る車は、彼女を避ける事ができなかった。


「起きて! 有希! 有希!!」

 声が聞こえて、薄く瞼を上げると、目の前には真っ赤に目を腫らした、有希の母親の顔があった。

『お母さん』

 そう、唇を動かしたつもりだったが、声は出なかった。

 有希は、自分の右手を握る母親の両手の熱を感じていたが、その手を握り返す事すらできないでいた。

(あれ? 私、どうしたんだっけ?)

 

 夢を見ていた。

 放課後、学校の図書館に二人で向かったのだ。中間テストが近いせいか、普段は閑古鳥の鳴いている図書館なのに、席の半分が埋まっていた。祐也が、借りていた本を返却している間に、有希は横並びで空いている席に座り、鞄の中から数学のノートと参考書を取り出した。

 有希のキープする椅子までやって来た祐也は、

「ごめん。笹野。俺、ちょっと用事ができた。30分くらいで戻れると思うから、待ってて」

 と、自分の鞄の中から数学のノートを出すと、

「ほんっと、ごめん。それ見て、解らないところは、また、後で質問して」

 と、言いながら去っていった。

 それから、耳元で、

『起きて』

 と、声がした。


 あの声は、お母さんの声だったんだろうな。と、ぼんやりと考えていると、細長い世界に映る母親の顔の向こうに、突っ立つ祐也の姿が見えた。 

(小野君? あれ? どうして?)

 有希の記憶は混濁していた。

 ノックする音がして、ガラリと病室の扉が開き、司書の先生が入ってきた。私の姿を見て眉尻を下げて、眉間を寄せる。そして、頭を深々と下げた。

「笹野さんのお母さん。申し訳ございません。まさか、祐也と待ち合わせしていたなんて思わなくて、閉館時間だと言って、彼女を帰させてしまいました。本当に、申し訳ありませんでした」

 有希の母親は、片手を有希の手から外して、司書の先生の方へ顔を向けると、

「いえ、先生には何も…この子が、信号無視したのが悪いんです。小野君も謝ってくれましたが、小野君が、事故現場の近くにいてくれたから、私もかけつける事ができたんです」

 母親の言葉に、司書の先生は頭を上げ、それでも、申し訳なさそうに眉尻を下げたまま、人差し指の第二関節を唇に寄せた。


 その瞬間、突然、世界がぐにゃりと歪んだ。


「起きて下さい。もう、閉館ですよ」

 司書の先生の声がして、有希は目を覚ました。


 有希は、夢を見ていた。



 完

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