美味しい夢
まんぼう
美味しい夢
もうすぐ冬が訪れようとしていた。病室の窓の外の木々は、少なくなった木の葉が北風に揺らされていた。その光景を見ながら深冬は、先程から行っている新しい治療法が効果があれば良いと思っていた。
その部屋には夫の耕太郎がベッドに横たわっていた。持病が悪化して入院していたのだが、ここ数日は意識も無い有様だった。
担当の医師柊の診察では、
「治療としてはすべてやりました。あとは運を天に任せるしかない状況です。医師としては情けない状況なのですが致し方ありません」
柊は今の耕太郎の状況が決して安心の出来る状況ではないことを深冬に的確に伝えていた。
「では、助かる確率はほとんど無いということなのですね」
深冬は点滴を刺されている耕太郎の腕に触れながら深い溜め息をついた。柊は黒く細い眼鏡の縁に手をかけて
「このままでは、という事です。奥様、実はこれは未だ認可を受けていないのですが、直接人間の脳に刺激を与えて、体の抵抗力を復活させ、穏やかにですが病を回復させるやり方があるのです。でも未認可なので、どのような危険な事が起きるかも判りません。副作用もあるでしょう。そんなやり方しか残されていないのが実情です」
柊は自分が大学病院の研究施設で行っている実験のことを話した。この時点では如何に幸太郎が回復をする可能性が乏しいかを述べたつもりだった。だが深冬の反応は違った。
「あの。その治療法はどうすれば受けられるのでしょうか? 特別な人間しか受けられないのでしょうか?」
柊は深冬の言葉を疑った。
「それは治療法といより実験と言い換えた方が良い行為です。現段階ではとても人間には出来ません」
医師としては当然の答えだった。だが深冬は
「それでも構いません。このままならやがて死を待つばかりならお願いします!」
深冬の必死な頼み込みに柊も根負けしたのか
「では絶対に他言無用で、しかも実験なのでデータを取らせて頂きます。それは実験の結果如何に関わらず他所には公開は致しません。その際は実験そのものが無かったこととして行わせて頂きます。それでよろしいなら考えてみます」
柊としても正直なところ人体実験の素材を探していたのも事実だった。
「はい! 結構です、万が一のことがあっても構いません」
深冬はそう言って頭を下げた。
「そうですか。判りました。では実験の準備を進めさせて頂きます」
その後、柊と深冬の間に契約書や宣誓書が交わされた。その数日後、幸太郎の病室が移された。そこは病棟ではなく実験棟にある部屋だった。その部屋には物々しい機械が置かれていて、それに取り囲まれるように耕太郎が寝かされていた。
「では装置を着けさせて頂きます」
柊がそういうと助手の医師達が耕太郎の頭に大きなヘッドセットを装着させた。他にも体の色々な部位にセンサーが取り付けられた。
「この装置は人の脳に直接信号を送り込んで、その人の脳を支配するものです。つまり病の回復が見込めない場合、殆どの場合は体の抵抗力を司る部分が疲弊している場合がほとんどなのです。私は、その部分に直接刺激を与えればその部分が回復するのでは無いかと推測しました。そして幾つもの動物実験を行って来ました」
柊の説明に深冬は
「成功したのですか?」
「はい、動物実験では成功しました。でも人体では今回が初めてなのです」
「そうなのですか。判りました。きっと夫の耕太郎も理解してくれると思います」
装置が完璧に取り付けられ準備が整った
「教授整いました」
「判った」
柊は深冬に向き直り
「では開始させて頂きます」
そう言って、装置のスイッチを入れた。幾つものLEDが光り装置が動き出したのが判った。
「今回は単なる刺激ではなく、ご主人が好きだった物事を脳に送り込んでいます。それに反応してくれれば良いのですがね」
「主人にはどうのような信号を送っているのですか?」
深冬の問に柊は
「色々です。ご主人が何に反応するかは、やってみないと判らないというのが実情です。まあ奥様から色々な情報を得ましたのでね」
柊の答えを聴いて深冬は耕太郎が食べることが好きだったと思い出していた。他にも車にも興味があり年中新しい車を買い替えていたが、耕太郎に言わせると、それも全て遠くにあるレストランに快適に早く到着するためだってと聞いた時は笑ったものだった。出来れば車を運転するのは兎も角、もう一度二人で訪れたレストランに行ってみたかった。
耕太郎は何か良い匂いを感じたので目を覚ましてみた。そこは前に訪れた三ツ星レストランだった。
「懐かしいな。それにしてもいつの間にここまで来たのだろうか。丁度よい。このレストランにはもう一度来たかったのだ。それが思いがけなく叶うとは、何という僥倖だろうか」
耕太郎はそう呟きながら店に入って行く
「いらっしゃいませ」
ウエイターが笑顔で出迎えてくれた。
「こちらでこざいます」
案内されて席は昔に座った席だった。耕太郎はウエイターに
「以前来た時にもこの席に座ったのですよ」
そう告げるとウエイターは
「はい、それはもう存じております。その時に『ビーフ・ストロガノフ』を召し上がられて大層喜ばれたことも存じております。今日も同じで宜しいでございましょうか?」
ウエイターの言葉にも驚きながら
「ああ、それで構いません。宜しくお願い致します」
耕太郎はそう言って以前と同じビーフ・ストロガノフを注文した。
少し待つと銀盆に載せられてビーフ・ストロガノフが運ばれて来た。
「おまちどう様でした。どうぞお召し上がりください」
ウエイターの声でスプーンを手に取ると茶色いスープをすくって口に運んだ
「旨い! 昔と同じ味だ。いいやもっと美味しくなってる感じもする。俺はもう一度こんな旨いモノを食べられて幸せだ」
耕太郎は心の底からそう思った。
治療というか実験は連日行われた。データーを取っていた柊は連日様子を伺いに来る深冬に
「ご主人はどうも食べる事がお好きだったみたいですね。食べ物の時の反応が良いのです。これからは食べ物中心に実験を行って行きましょう」
そう言って実験の成果が出て来たことを告げるのだった。
それから一年後、耕太郎は奇跡的な回復を成し遂げ、退院出来るまでになった。目が覚めてから深冬に実験のことを告げられると
「そうか、どうりで毎日美味しいものを食べていたよ。そうしたら何だか生きる気力が湧いて来てね。まさかあれが夢とは本当に思わなかった。でも今思えば味覚は感じたが満腹感は感じなかった気がするな」
そう言って笑ったのだった。勿論、耕太郎の見た夢やその後の体に起きた事などは全て柊に伝えられた。
「奥様、ご主人、これで研究がかなり進みました。実用化の可能性も出て来ました」
柊も感謝の言葉を二人に伝えるのだった。
家に帰る車の中で深冬はハンドルを握りながら
「全く、美味しいものを食べたくて自分で病気を治してしまうなんて、なんて食いしん坊さんなんでしょ」
そう言って笑うと耕太郎は
「まさか夢とはねぇ。でも無意識に脳は感づいていたのだろうな」
「え、何を?」
「この食べてることが実は本物では無いという事をさ。俺は食いしん坊だから、今に病気を直して本物を食べてやると思っていたのだろうな」
そんなことを言いながら家に帰った。
「あなた、今日は退院祝いに本物の『ビーフ・ストロガノフ』を用意したのよ」
「それは凄いな。楽しみだよ」
ダイニングの自分の席に座ると湯気の立ってたビーフ・ストロガノフが運ばれて来た。
「ああいい匂いだ。そう言えば夢では匂いも感じた気がするな」
「沢山作ったからいっぱい食べてね」
「ああ、食べるよ」
耕太郎はそう言ってスプーンを口元まで運んでそこで動きを止めた。
「どうしたの?」
「よそう。また夢になるといけねえ」
<了>
美味しい夢 まんぼう @manbou
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