幕終 Dreamer

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目を背けずに立ち向かう義務がそこにはある。



失わない物など何も無い。だからこそ、立ち向かうのだ。

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+邂逅かいこう+

 

 ベランダへの扉を兼ねた、大きなガラス窓。閉じられたそのカーテンの隙間から陽光が零れる。

 簡素なその部屋の中心に水神裕介は投げ出されたように横たわっていた。

「んぅ、ん」

 裕介は小さくうめいてからゆっくりと半身を起す。掛けたままの眼鏡が顔に赤い溝を浅く造っていた。

「痛ぅッ! てて……」

 かき氷を一息に食べたときのような頭痛が、起き抜けの裕介の頭に響く。掛けっぱなしの眼鏡のせいではないことは確かだ。

「あー痛ぇ、くそ北原さんめ…毒性は無くったってしっかり二日酔いしてるじゃんか……ぃたたた」

 原因の所在に届かない恨み言を言いながら、頭を押さえて起き上がる。

 張子はりこの虎のように揺れる頭を、体で無理やり引きるようにして裕介は炊事場に向かう。正当な理由が無い限り学校は休めないし、家事をおこたることも出来ない。学生主夫のつらいところである。

 コップ一杯の水を飲んだところで、裕介は朝食の支度を始めた。怪我の功名か、今日は幾分早起きできたので、朝食は和食となった。

 裕介は手を合わせて「いただきます」を言ってから食事を始める。余裕があるときの食事はこうも美味いのか、と裕介は自画自賛ながらも実感した。

 「ごちそうさま」を言って朝食を片付ける。制服に着替え、学校へ行く支度を整えた。

 歯磨き、整髪、戸締り、火元の確認―――――と順序よくこなしていく。

「……い良しっと。まだ余裕があるけど、ちゃっちゃっと学校に行っちまいますか」

 裕介は誰もいない家に「行ってきます」を言い、玄関に鍵を掛けた。


………


 ここは県立澄崎すみざき高等学校、二年五組の教室。

 相も変わらず、ざわつくこの教室の一角、今朝の裕介のように頭を抱えた二人の男子生徒が話しこんでいる。

「裕介遅ぇな。今日で遅刻何度目だ。……っ痛ぇ」

 裕介の悪友、榎本勇次は、周期的に襲い掛かる頭痛に顔をしかめていた。その彼がガラス窓の向こうを見ながら、何度目になるか分からない台詞せりふを吐く。

「もう百は余裕でオーバーしてるんじゃないかな。最近多かったし。……あ痛たた」

 勇次同様、裕介の友人である中野貴記もその少女のような童顔を頭痛に歪めていた。

「沙雪め……人をもてあそびやがって。毒性が無くても二日酔いするんなら一緒じゃねぇか」

 話題を変えた勇次が恨めしそうにつぶやく。どんなに恨んだ所でその恨み言は届かない。届いたところで三倍返しがオチというものだ。

 恨み言すら意味が無く、むしろ逆効果になりかねない――――と思うと余計に勇次はげんなりした。

「なまじ味が変わらない分、自分の体の異常に気がつかないから、余計に性質たちが悪いよ……」

 はぁ、と溜息ためいきをついて貴記が言葉を繋ぐ。連鎖れんさのように、勇次もはぁ、と溜息を吐いた。

「来ねぇな、裕介」


………


「いようっ! ヤローども」

 ガラリと軽快に扉をあけて、裕介が教室に入ってきた。

「うお、何たる事だ。皆のもの、今のうちに机の下に隠れろっ! いや、むしろ校庭へ走れ!」

 通常より三十分以上早く来た裕介の姿を見て、トチ狂ったかのように勇次が言ってみせる。悪ふざけと分かる程度の演技なのがポイントだ。

「ちょっと勇次、いくらなんでも失礼過ぎるよ。あまりに珍しいからって、今すぐ何かあるわけ無いでしょ」

 無意識に裕介に追撃を加える貴記。自分が礼を失した自覚は無いようで、勇次にこらっ、と平手チョップをくらわしている。

 自分を棚に上げていることに誰も突っ込まないのは、ベビーフェイスの下の本性を畏怖いふしてか……どうかは定かではない。 

「朝からお元気だことで」

 裕介はにぎやかな二人に溜息ま交じりの声を掛けた。

「目覚めは最低最悪だったがな」

「あははは……」

 三人とも同様に頭を押さえている。その顔は、とても筆舌に尽くしがたい奇妙なものだった。

「魔女を過信した俺たちの負けってことで」

 あきらめたかのように裕介は呟いた。


………


 結局、裕介は一限が始まっても来ることは無かった。


………


 裕介は、頭を抱えながら一限を過ごすことになった。


………

 

 そのまま時間は過ぎて、昼休み。結局、裕介が学校に来ることは無く、また誰も休みの理由を把握はあくしてはいなかった。

 ここは学内に設けられた食堂施設。日替わりで統一されたメニューではなく、数個の組み合わせの中から自由に選択する形式となっているので、偏食家の多いこの時代にもしっかりと対応している。

 同じメニューの列に並んで、勇次と貴記が裕介のことをネタに雑談を交わしている。高校に入る前からつるんでいた所為せいか、二人の嗜好しこうは似通っていた。

「あんなつぶれてたもんな、裕介。もしかしたら今日一日寝てんじゃねえの?」

 皮肉げに笑いながら、勇次が言う。

「休みの日なんて、平気で十四時間とか十五時間とか寝ちゃう人だからねぇ……」

 勇次の憶測を証明するように貴記が繋ぐ。二人とも、裕介に出会うまではここまで異常に睡眠をとる人間に出会ったことは無いようだ。そもそも珍しいから異常と映るわけであって。

 そう言い合ううちに、カウンターに一歩一歩近づいていた距離が、ついにゼロになった。

「はぁい、おまたせ」

「へーい、いただきやーす」

 引換券を渡して、勇次はメニューを受け取る。今日のメニューはうどんに油揚げを乗せた、所謂いわゆるきつねうどんだ。

「……なんていうか」

 同じくきつねうどんを受け取った貴記は、何かを諦めたかのような顔つきで言った。

「嫌な……予感―――――」

「―――――た・か・の・り・くぅ~ん、うふふふふ」

 艶っぽい声で、魔女、北原沙雪が声を掛けてきた。しかも艶っぽさがいつもの二割増しだ。

「どうだったかしら、昨日の、胸膨らんだ? じゃなくって、アルコールモドキのほうだったわね」

 明らかに確信犯な間違いをしながら貴記に詰め寄る。無論勇次など目に入っていようはずも無い。

「ちょっと、冗談でもそんなアレ気なブツ造らないで下さい……ただ女の子の服が好きなだけなんですから」

 後半は沙雪だけに聞こえる程度の音量で貴記はぼやく。列を断って立ち往生するわけには行かないので、二人で、否、三人で席に移動することにした。

 席に着いたところで、勇次が沙雪のトレイを指差しながらこう言った。

「わかりやすい好物だな」

 指差した先は、勇次たちと同じ、きつねうどんだった。

「キツネにはぴったりげふぉっふッ!?」

 言おうとした瞬間、勇次が持ったコショウの瓶の蓋が取れて、中身をごっそりぶちまけてしまった。

「嘘っ、俺のうどんコショウまみれっ! っていうか俺七味持ってたはずなのにそんなバカなッッ!!」

「七味をぶちまけなかっただけまだ救いはあるわ。触らぬ魔女に…祟りはなくってよ。覚えておくのね、榎本勇次」

「く、畜生め……」

「魔女って、自分で言ってたら世話ないよ、北原さん……」

「自他共に認められることは、とても素晴らしいことよ。あなたのそのキュートさと同じね」

 沙雪がうっとりとした表情で貴記を見ている横で、ゲホゲホとある意味むせび泣きながら勇次がきつねうどんを啜っていた。

「アンタも学習することを覚えなさいよねー?」

 勇次の惨劇を後目しりめに、マフラーのように巻いたスカーフを揺らしながら、江藤亜輝が近づいてきた。トレイには、もちろんきつねうどんが乗っている。

「友達って、素晴らしいわね」

「類は友を呼ぶ、か。……うげっほ、ごほ、がっはっ」

「どちらかというと、朱色同士が交じり合ってワインレッドになった感じかな」

 三人が口々に言う。

「――――う…るさいわね、もう、勇次の駄目男っ!」

「なんで俺だげっほ、げっほ、げふんごふん、ぐはっ」

 勇次はコショウまみれのきつねうどんにせながらも、いきどおりをあらわにする。ちなみに最後のせきは強制的に咳を止められたものだ。亜輝から。

 亜輝が「もうっ!」といいながら激しくトレイを机に置き、勇次の隣に座る。六人がけの椅子が、二席余っていた。

「……一人、足りないね」

 そう言ったのは、果たして誰であったか。


………


「そうか、

 裕介は、今になってやっと気付いた。

 時刻は正午を三十分ほど回ったところ。丁度昼食の時間帯である。

「はぁ? 何言ってんのお前」

「どうしたの? 寝すぎで夢の中の彼女がこっちに居ると思っちゃったのかな?」

 勇次と貴記が口をそろえて言う。六人がけの椅子には、あと二人しか座っていない。

「あたしというものがありながら……。亜輝ちゃんは夢の中でも浮気は許しませんよっ!」

「大丈夫よ亜輝。いざとなったら私がそんな女のこと忘れさせてあげるから」

 残りの二人が物騒なことを口にする。無論裕介も冗談だと分かっているのだが、一連の会話の中で、一つだけ、彼にとってだけ、冗談では済まされない発言があった。

「貴記、今お前、何て……?」

「え? 寝すぎで、夢の中で、彼女……」

「そこだっ!」

 がしっ、と貴記の肩をつかんで詰め寄る。

「そうだっ、どうしてお前らは覚えていないんだ? いや、今の今まで俺だって覚えて無かった。なんで……?」

「おい、裕介? 話が全然見えねぇぞ?」


――――気付いたか――――


「どうしてお前らは、守山千春を覚えていないんだ――――― !」


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 ぱりぃん、と。何かが割れる、甲高かんだかい破裂音がした。その音は、鈴に似たえ渡る音なのに、どこか切なく、むなしく響き渡った。

 それと同時に、あたりは漆黒しっこくよりなお深い、深淵しんえんの闇に閉ざされた。

「四万五千七百三十八秒。我の想定した時間より遅刻だ」

 闇を裂く、しかし深淵すら明るく感じるような声が、黒い世界に木霊こだまする。

「我のまわした歯車は、存外に大きいものだったようだな。モノを動かすのにこうも時間がかかるとは思わなんだぞ、水神裕介」

 裕介は、この世界を知っていた。

「……伝わらぬかよ。れは暗に、『』と言っているのだが」

「わかってるさ。余計なお世話だよ」

 裕介は、この声の所在を知らない。しかしその所在者のことは、よく知っているような、気がした。

「お前のことは知っている。お前も我のことは知っている。ただ、何もかもがお前にとって、水神裕介にとって最近過ぎた」

「……俺はここを知ってる。アンタのことも知らないけど知ってると思う。すごく昔からの付き合いだ」

「なに、さして昔ではない。せいぜい蝋燭ろうそくが燃え尽きる程度だ」

 裕介は、声に対して語り続ける。

「ここは俺の夢だ。……悪夢ユメだった、夢だ。なのにまた、悪夢ユメになってしまった」

「それは我がお前の歯車を廻したからだよ」

「歯車?」

 声は続く。

「そう、歯車だ。お前が止めていた、お前が止められていた歯車だ」

「……」

 一つだけになった声はなおも続く。

「歯車は廻る。そのいびつな巨体を回転させてな。ヒトの歯車など時計のそれのように整った形などしていない。歪に尖り、曲がり、折れ、ねじれて、伸びて、縮み、丸まっている。故にその歪な形は、どこと噛み合うか分からない。どのように噛み合うか分からない。あるいは廻し、あるいは止め、巻き込み、救い、壊しさえする」

「……」

「お前の歯車は止まっていた。交わることなく、触れ合うことなく、関わり合わずに。それは一体何を意味する?」

「……」 

 裕介は答えない。

「お前は一体何を意味する?」

「……」

 裕介はまだ答えない。

「否、お前はなぜ、一人になった?」

「……」

 それは、と裕介は、夢にさえ現れない、心の底で答えた。

「記憶しているはずだ、記録にあるはずだ。それさえも噛み合わない歯車だがな。しかし」

五月蝿うるさいっ!」

「!」

「五月蝿い、五月蝿い、五月蝿いっ! 黙れよ! さっきから。意味わかんねぇことばっか言いやがって。知らねぇよ! 覚えてねぇよ! 一人になったのだって俺の意思だっ! 叔父さんや叔母さんに迷惑掛けたくなかったっ! それで一人になったことを後悔なんてしていないっ!」

 裕介にも分かっていた。それは答えではない、と。すでにもう、彼の中で答えは出ていたのに。

「拒む、かよ。詰まっているのだな―――石が―――意思が。だからお前の歯車は廻らない。廻りきらない。出来ればおまえ自身で取り除くべきだったが――――――」

 す、と突如裕介の目の前に白い影が現れる。これだけ白いのに、なぜ漆黒に溶けていたのだろうか。

「あ」

「時間が無い」

 声の主は、素早く、しかし軽くその白い腕―――見れば包帯でぐるぐる巻き―――を裕介の顔に近づける。裕介が声の主の姿を確認する前に、その視界は遮られた。

「感謝しろ。れが出てこなければ、お前も彼女も朽ちていた」

「待っ……!」

「これ以上、れの期待を裏切るな、水神裕介」

 その言葉は、相手を期待しての言葉だが、しかしその意味は、命令としか思えなかった。


「     」


 直後、裕介の視界は、圧倒的な光で覆われ、意識を失った。


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+共闘+


 その言葉を、沙雪は疑問に思った。席は二人分空いているにもかかわらず

(違う、そんなことじゃない)

「今日はもう来ねぇのかな、裕介。家からも連絡無いってことは相当参ってるってことだよなあ」

 勇次が誰にとも無く言う。その言葉は、貴記に届いた。

「そうだね。みずくん一人暮らしだから、ヘバっちゃうと連絡も出来ないんだよね」

 うんうん、と頷きながら言う。

(足りない一人は水神くん? でも何か、何か忘れてるわ。確かに、というのも変だけれど)

「ここはあたしの愛を込めた看病で元気イッパイになってもらうしかないわねっ!」

「お前ぇのじゃ、病人が死人になっちまうよ」

「何ですってぇ! ユキっ、何かこいつ昇天させる薬処方してくんないっ?」

「……」

「ユキ?」「沙雪?」「北原さん?」

 明らかに様子の一変した沙雪を見て、三人はいぶかしむ。

(……思い出したわ、いえ、思い出せたのね。魔女の血を引く私としたことが、とんだをしてしまったものだわ。はたして、みんなにはどうするべきか――――)

「ユキ、どうしたの? おなか痛い?」

「お見舞い」

 唐突な沙雪の言葉に、三人は反応することが出来ない。

「へ?」「あ?」「え?」

「行きましょう、皆で。水神くんの」

 英語の文章のような語順になりながら、沙雪は言った。おどけているように見えて常に姿勢を崩さない、彼女らしくない言葉である。

「あ、う、うん。そうね。ほらバカ勇次、沙雪だって賛成してくれてるしさ……」

「そ、そうだな。ああ。お見舞いお見舞いっと、もちろん貴記もだよな……?」

「え、あ。も、もちろんだよ。僕も水くんのこと、とっても心配なんだー……」

 三人は、急に態度の一転した沙雪を恐れて、とりあえずその言葉に従うことにした。

(よかった…。不本意だけど好都合ね。やっぱり、私だけではどうすることも出来ない問題だからね……)

「それじゃあ放課後、一応帰宅して水神くん家の玄関前―――要するに現地集合ね。頼んだわよ、みんな」

 ご馳走様、と手を合わせて、沙雪はそさくさと食堂を出て行った。同じ教室だから、急いで行くメリットは少ないはずだが。

「どうしちゃったんだろ、ユキ……」

『さぁ?』

 勇次と貴記の声が、綺麗に重なった。



 そして、昼食を終えた三人が教室へ戻ると、あるはずの沙雪の姿は見当たらなかった。

 不審に思った三人の机の中に、同様のメモが入れられてあった。沙雪の、見覚えのある、整った字で―――――


『今日はいろいろと用事があるから早退するわ。先生には適当に言っておいて。お見舞いには行くから』


 整っているように見える字は、メモ用紙の裏に凹凸おうとつが出来るほど、強い筆圧で書かれていた。


………


 裕介は、夢を見ていた。夢の中で見る、深い、深い夢。

 セピア色の空気が漂う、夢の中の世界。ここは空想のものでも、夢幻の庭園ネバーランドでもない。見覚えのある、しかし記憶に無い現実世界の光景。ここには、勇次も貴記も、友達や知り合いが誰もいない所だった。ある一部を除いては。

「ユウちゃん、おいで」

 どこか懐かしい、女性の声が聞こえる。

「おかあさんっ!」

 その女性に駆け寄って、ぴょんと抱きつく小学校低学年くらいの少年。ユウちゃんと呼ばれたその少年は、癖のある髪の毛を女性―――母親か―――から撫で回されて、とても気持ちよさそうな顔をしている。

「えへへ、きもちいい」

 無垢むくという言葉がこれほど似合う笑顔は無いだろうと、そんな笑みを彼―――ユウちゃんは母親に向けていた。その笑みに、母親も黙って微笑み返す。

「あのねおかあさん、聞いて聞いて? 今日ね、がっこうでね――――」

「――――あらら、それはアキちゃんも大変ね? お婿さんはどうするのかしら」

 夕暮れの道を、母子おやこ二人が手を繋いで帰る。時間と、会話の内容から、学校帰りに母親が迎えに来ていたのだろう。それと――――――

(これは――――俺か? それと、母さん?)

 おそらくは、この夢は裕介の過去なのだろう。自分自身も知らない、自分自身の過去。

(―――追いかけないと)

 そう思って、裕介は彼らに付いていった。



 彼らが帰りついた家は、今の裕介宅のようなアパートではなく、平屋だった。むろん庭など無いが、三人家族なら十分な広さは備えている。

 家には幽霊のように壁をすり抜けて入ることが出来た。さらに道中も誰かに気づかれるようなことは無く、ここでは俺が幽霊だな、と裕介はそんなことを考えていた。

 家に帰ると、ユウちゃんはテーブルの一番良い席について、テレビアニメを見ていた。その間母親は夕食の支度をする。

 ほどなくして、コンコンという包丁がまな板を叩く音と、テレビの音だけの世界になった。しかしそこに寂しさはなく、沈黙が暖かい空気となってその場に満ちていた。

(いいな)

 本当に、何年かぶりに、裕介はそんなことを思った。もう慣れたと思っていた一人暮らしも、心のどこかで、やはり寂しかったのだろう。

 そうしているうちに、外は日が落ち、空の色はあかね色から濃紺色へと彩りを移していく。

 車のエンジン音、ユウちゃんはこの音を聞き分けているのだろう。運転の主が玄関に辿り着く前に、急いで駆けていく。

 カララ、と玄関の開く音。

「ただい……うわぁっ! なんだユウスケ、お父さんびっくりしたじゃないか」

「へへ、おかえり、おとうさん」

 父親は玄関の鍵を閉めると、くしゃ、とユウちゃんの頭を乱暴になでながら、「ただいま」といって家に上がった。家に鍵を掛けるのは、最後に帰ってきた父親の仕事である。

「おかえりなさい、あなた。暖かいご飯、出来てるわよ」

「お母さん、オレ今日は先にフロがいいな……」

「暖かいご飯、出来てるわよ?」

 わがままを言う父親に、にっこりと、そしてゆっくりと母親は言葉を紡いだ。

「はい、食べます。いただかせていただきます……」

「おとうさん弱ーい」

「違うぞ裕介、お母さんはゼッ○ンより強いんだ。逆らったら十兆度の熱で一瞬で溶かされちゃうぞ?」

?」

「あいすいませんでした…」

「あはははっ! おとうさんもおかあさんもおもしろーいっ!」

(ははは、全くだ)



 裕介が一緒に暮らしていた家族は、裕介の母親、父親は、裕介の期待以上に面白い人間だった。自分の過去に何があったかなど関係ない、きっと楽しすぎて記憶する時間まで勿体もったい無かっただけなんだと、そう――――裕介は思っていた。



 翌朝は日曜日、朝のヒーロー番組を見るために、裕介は目をこすりながら起きてくる。

「……おはよう、おかあさん」

「あらユウちゃん、珍しく早いのね。まだ三十分は寝てて良いわよ?」

「ううん、昨日すごく早く寝たから、だいじょうぶだよ。それより……」

 ユウちゃんが、もう一人のユウスケが、裕介の方にぐるりと振り返り、指差す。



「!」

(!)

 母親と同時に、裕介は驚き、飛びのいた。しかし、ユウちゃんの視線はしっかり裕介を捉えて離さない。

(そんな、嘘、だって俺は今まで誰にも……)

「どうしたのおにいちゃん? べつにボクなにもしないよ?」

(くっ、来るなぁっ!)

 ユウちゃんは裕介のほうに近づいてくる。その無垢な笑みすらも、裕介にとっては畏怖の対象にしか映らない。悲鳴をあげて後退あとじさる。

「ユウスケっ!」

 ば、と顔を抱えるようにして、あるいは目を背けさせるかのようにして、母親はユウちゃんを抱きかかえた。

「誰もいないわ。ユウちゃん。あなたは夢の続きを目を覚ましても見てただけなのよ。大丈夫、誰も居ないわ。何も居ないわ……」

「んうう、おかあさん、違うよ。べつにボク、怖がってなんか……」

「……」

(!)

 ユウちゃんを抱きかかえたままの姿勢で、母親がこちらを向く。裕介の姿は見えていないのだろう、焦点は合っておらず、何も無い空中に向かったその視線は「帰ってください」と言っていた。それを読み取って、裕介はユウちゃんの視界に入らないよう、すばやく死角に身を潜めた。

「ほら、だあれも居ないわよ」 

「帰しちゃったの、おかあさん?」

「ユウちゃ……!」

「あのおにいちゃん、うらやましそうにボクを見てたよ? なのに帰れなんて、おかあさんいじわるだよ」

「……ユウちゃん。夢の続きよ、それも。わたしは帰れなんていってないわよ。今日はテレビ見終わったら寝直しなさい。夢の続きを見たら、きっとすっきりするわ」

「うん。……わかった、そうする」

「いい子ね」

 そういって、母親はユウちゃんの頭を優しく撫でてやった。とたんにうつむいていたユウちゃんは元気になって、いそいそとテレビのある居間へと歩いていった。


 その日の夜、ユウちゃんが寝静まった後、父親と母親は話し合っていた。明るい話題ではないようで、話が進むたびに、顔に出来る影が深くなっていく。

「もう、このままにしておくことは出来ないわ」

 悲痛そうな声で母親は言う。顔は俯き、髪に隠れて表情はうかがい知れない。

「他に、方法は無いのか」

「知らない人間に何が出来るって言うのっ! わたしだってこんなことしたくないわよ!」

 激昂げっこうして、叫ぶ。悲痛な声は、涙で震えていた。

 泣き顔を見せまいと、手で顔を覆う母親を、父親がそっと抱きしめてやる。

「少し落ち着け。ユウスケが起きる」

「……ごめんなさい。わたしもう、自分で自分を抑えられない……怖いの」

「オレに出来るのはこれだけだ。甘えてくれていい。怒ってくれていい。でも、お前がやらなくちゃいけない。お前にしか出来ないことなんだろう?」

 こくり、と黙ったまま母親はうなずく。

「だったら、ユウスケのためにも、俺たちが我慢しなきゃな。なぁに、離れて暮らしても、ユウスケがオレとお前の子供であることは間違いないさ」

「そうね」

「それに……希望が無いわけでもないんだろ。だったら、それを信じていようぜ」

「奇跡のような確率だけれどね」

「奇跡なんて、いくらでも起こせるさ。起こすのさ……オレたちが。そうだろう?」

「あの子を……信じてあげないとね」


 ザザッ、ザッ、ザッ――――――ザザ――――――――――。


 突然、世界にテレビの砂嵐が起こった。セピア色の空気は乱れ、記憶に無い思い出は歪んで見える。歪んだ光景はやがて動画から一枚絵に変わり、次に確認できたのはうつろな目で親戚の元に預けられるユウちゃんの姿だった。それ以降は一切何も見えなくなり、まるで退屈な深夜にけたテレビのように期待はずれで、溜息の出る世界に変わってしまった。


 ザッ、ザッ―――――――ザ―――――ザッ、ザザッ、ザッ―――――――ザザ――――ザ――――。


ぷつり、と。本当にテレビのように、裕介が見ていた世界は暗転して、再び漆黒が訪れた。


………


 沙雪は一足先に、学校を早退してまで帰途きとについていた。自分が取れる最良の行動。それは紛れも無い真実。迷い無く、沙雪は歩を進める。

(気づかなかった事を後悔しても仕方が無いわ。私に出来る、最大の事をするだけ)

 家に帰り着いた沙雪は、ただいまを言う間でさえ惜しいというように、早々に自室に飛び込んだ。彼女の部屋は、少女らしさのかけらも無く、オカルトグッズで満たされた、くらく、あやしい空間だった。ただ、一般に普及しているオカルトとはおもむきが少し異なるが。

(こういう趣味、で通すことが出来るのは現在の風潮ね。魔女だって名乗ったところで、不思議な人と思われるのが関の山だもの)

 自室を漁りながら、今度は声に出してつぶやく。

「まさか、ね。この私とリンクしていたのが、そんな大物だったなんて。失敗したら、責任問題で冗談抜きで首が飛びかねないわね」

 苦笑混じりに言うと、どうやら目的のものを見つけたらしく、手にとって懐に忍ばせる。輝きの無い、その辺に落ちている石のような形をしていた。

(あとは、全員分の切符を作るだけね。片道にならないことを祈るしかないわ)

 沙雪は、腕が鳴るわ、と久方ぶりの魔女としての仕事に取り掛かかる。常人には立ち入れない雰囲気が、部屋に充満していった。



 そして、今日の全ての授業と、ホームルームが終了し、勇次たちも帰宅することになった。

 勇次たちは、沙雪の行動について深く詮索しなかった。いつもの奇行だ、とくくってしまったわけではなく、食事中の雰囲気から察して気を利かせていたのだ。メモの通り、適当な理由をつけて、早退したことになっていた。

「何か……あるんだろうな、多分」

 帰り道、勇次が口を開く。学校から出て今まで、三人の中で口を開くものは誰もいなかった。

「……ごめん。僕こっちだから先に帰るね。急いでいくから」

 しかし、裕介と家が逆方向な貴記は、二人を置いて先に帰ってしまった。つかみかけた会話の糸も、再び途切れてしまう。

「亜輝」

「何?」

 二人の会話も、怒ったような単語の会話にしかならない。別に二人とも苛立いらだっているわけではないのに、顔をあわせず話し始める。

「お前、知ってんだろ、裕介のこと」

「何が」

「沙雪の様子がおかしかった。多分風邪なんかじゃねぇ」

「知らない」

 亜輝はまるでこれ以上話したくないと、聞きたくないと言っているかのように、勇次との会話を拒む。

「何かあるんだろ、亜輝」

「知らないって言ってるでしょっ!」

 ついに堪え切れず、亜輝が叫んだ。目には涙すらたたえている。

「知らないのっ、本当なのっ、昔から、裕介はあたしに何も話してはくれなかったっ! あたしは信用されてないっ! 何があったってこらえて、自分の中に押し込めて、無理なくせに笑顔を貼り付けて……だから、ずっと知らなかったっ! 聞けなかったっ! …あたし……ひっ、く…あたしなんかじゃもう……何も…っく、出来ない……」

 ぽろぽろと、とうとう亜輝の目から、涙が零れてしまった。気丈きじょうな彼女が見せる、誰にも見せたくない、弱くて、みにくい自分の姿。

「……」

ぐ、と。勇次は何も言わずに亜輝を抱きしめる。時間帯と、場所とが幸いしてか、人の気配はしない。

「……」

「……っ、やめてっ!」

 どん、と。力強く抱きしめられていたはずなのに、亜輝のその言葉で、まるで魔法のように簡単に勇次の腕は解け、同時に亜輝は、勇次を突き倒した。勇次は尻餅をついて倒れる。

「っ、痛て」

「……お見舞いは、行くから」

 そういって亜輝は、勇次に背を向けたまま走り去っていった。

「はぁ……俺も、相当まだまだだな……」

 溜息混じりに勇次はつぶやき、立ち上がる。制服についたほこりを払い、歩き出した。

「やめて、は効いたな、マジで……」

 そう言って勇次は顔をぬぐう。拭った手はほんの少しだけ湿っていた。



 裕介の家の前には、沙雪が一番に着いていた。学校を早退したから当然だ。手には鞄をげて、服は私服に着替えていた。今日はタイトなジーンズを身に着けている。

「あ、北原さん」

 次に、貴記が到着した。さすがに服は男物で、長めのコートをはためかせ、沙雪に駆け寄る。

「こんにちは、貴記くん。ごめんね、一人だけ先に帰っちゃって」

「ううん、僕も、みんなも気にして無かったよ。何か本当に大事な用事があったんでしょ?」

 心配させまいと、思っているのかいないのか、貴記は笑顔で話す。

「ええ、ちょっと外せない用事があってね」

 沙雪はあえて口には出さず、ありがとうと心の中で言った。

「はぁ……」

 沙雪は目を閉じて、溜息をく。同時に貴記も「はぁ……」と溜息を吐いていた。二人して吹き出す。

「うふふっ、どうしたの貴記君、考え事は肌に毒よ?」

「北原さんこそ、珍しいね。何かあったの?」

 その言葉に、驚いたようにまゆを上げて、沙雪が聞き返す。

「あら、嬉しいわね。本当に心配してくれているの?」

 からかう様に言ったが、嬉しいのは彼女の本心だった。

「う、だって、本当に浮かない顔してたから」

 貴記も、趣味と性格が相俟あいまって、仲間内でさえ、むしろ仲間内にこそ変人扱いされる。しかしその実、彼の心には広い優しさの海が広がっていて、心から他人を大事にすることが出来る。それ故に、彼の周囲には笑顔が絶えないのだ。

「そうね、じゃあ貴記君にだけ教えてあげるわ。ちょっと……」

 耳を貸せ、とジェスチャーで伝える。我ながら古典的な方法を思いついたものだ、と沙雪は貴記に見えないように苦笑する。

 沙雪の言うとおりに、まんまと横を向いた貴記に耳打ちすると見せかけて……

「んっ……」

 そっと、貴記のほおに唇をつけた。

「え……嘘」

 貴記は、散々沙雪からアプローチを受けていた。だがしかし、そのどれもが冗談としか思えない内容、および状況だったので「この人は僕をからかいたいだけなんだ」と思い込んでいた。が、このような積極的なボディータッチというかスキンシップは無かった。つまり……

「好きよ、貴記君っ!」

 沙雪は笑って言った。いつもの誘うような妖艶ようえんな笑みではなく、まさにぱっ、と、花が咲くように明るく笑った。そこには魔女はおらず、一人のいたずら好きな少女がいるだけだった。

「あ……」

 とたんに、頬を押さえて見る見る貴記は赤くなる。今までの言動が全て本心からだったと考えると……恥ずかしさで卒倒そっとうしそうになる。

(僕、公衆の面前でずっと愛の告白をされてたわけっ?)

「ふふふっ。いい表情カオしちゃって。もう悩みなんか吹き飛んじゃったわ」

 沙雪は、再びいつもの魔女モードに戻った。妖艶な笑みをたたえて近づき、続ける。

?」

「ちょ、北原さん、勇次が来たよっ!」

「あら、邪魔が入ったわね」

 本気でするつもりは無かったのだろうが、それでもあくまで残念そうに言う。無論邪魔だったのも嘘ではないが。

「よう、お前ら。亜輝はまだか?」

 手を上げて、勇次は二人に近づいてくる。ジャージにパーカーという寝巻き寸前、もしくは不良三歩手前といった服装である。

「あら、貴方あなたたち一緒じゃなかったかしら?」

「いや、亜輝のほうが先に帰ったから知らねぇんだよ」

 勇次は、ただ事実のみを続ける。詳細を聞かれても、もちろん話すつもりなど無い。

「そう。じゃあ待つしかないわね」

「……」

 思いのほか、沙雪からの追求はなかった。そういうことには必ず突っ込んでくるはずなのにな、と勇次は思った。

「ユーキーっ!」

 少し離れたところに、亜輝の姿が見えた。遠くからでも分かる、トレードマークのスカーフ。手には内容物で変形したスーパーの袋を提げている。 

「亜輝、どうしたのそれ?」

 袋の中には、大量のプリン。そして林檎や蜜柑みかんや桃などの果物、そしてクリーム各種が入っていた。

「これ、まさかお見舞い品?」

「もちろん。そうじゃなきゃ何に見えるっていうのよ?」

 貴記が尋ねるのも無理は無い。どう考えても栄養がかたよった上に過剰すぎる。しかし亜輝は、どうだ、と言わんばかりに袋を掲げて見せている。こういうときのための突っ込み役は、現在再起不能。はからずも対象が原因となっていた。

 気まずい顔をしている勇次を、沙雪は横目でにやにやと、貴記は不審そうにちらちらとそれぞれ見る。亜輝もそれに気づいて、さすがに少し表情が暗くなる。

「な、なんだよ」

 なげやりに、勇次が言う。溜息をついて沙雪が返す。

「ふぅ…。なんでもないわ。それよりみんな揃ったんだから家に上がらせてもらいましょう。外は寒いわ」

「よぉしっ、それじゃあ突撃ーっ!」

 おどけたように、亜輝が駆けていく。貴記も、勇次をちらちら見ながら玄関のほうへ向かう。勇次は少し遅れて歩き出す。誰にも聞こえない程度に舌打ちをした。


 沙雪が玄関のドアノブを回す。カチャリ、とドアの開く音がした。鍵を外した音はしていない。

「……」

 沙雪は予想していたが、ほかの三人はそうではないはずだ。当然不審に思う。

「え、裕介…いっつも鍵掛けてるはずなのに」

「俺たちが前来た時もあいつ、中に居るはずなのに鍵かけてやがったよな」

 昨日の千春歓迎会ではなく、それ以前。貴記の習癖しゅうへきを見せてやろうと貴記と一緒に勇次は裕介の家に遊びに行ったことがあった。そのときはあまり気にはならなかったが、逆に鍵が開いている、ということで一層不審感がつのる。

「うん…多分一人暮らしだから何かと不安なんだろうけど……」

 貴記の推測も、しかし疑問を誘うだけにしかならない。だからなぜ、なのになぜ、と。

「ごめんなさい。今日は楽しいお見舞い、というわけにはいかないの。みんなに知ってもらって、手伝ってもらいたいことが沢山あるから」

 一人、すでに家の中に入っていた沙雪が言う。カーテンを閉めているのだろう、家の中から光が当たらない為、振り向いた沙雪の姿が妙に浮いて見えた。申し訳なさそうな顔で、続ける。

「でもね。今の関係が変わってしまうかもしれない。嫌なら嫌って言ってくれて構わないわ。私の我侭わがままだから、断る権利くらいあるわよ」

 沙雪にとっては言うべきではない言葉だった。彼らの協力が得られなければ、彼女にとって大きな負担となる。だがしかし、否、だからこそ言った。結局誰かが負担を負うことになるなら、にない手は少ない方が良い。負担をかける相手が、大事な仲間だとしたら尚更なおさらだ――――彼女にはそう思えた。

「はいはい、寒いからとっとと入りますよっと」

 三つも数えぬうちに、勇次が動いた。仲間意識もあるのだろう、ほかの二人も続いて家に上がる。

「いつも断らせてくれない人が、今更断っても良いだなんて。怪しいにも程があるよ」

「ユキ。何を心配してくれてるか分かんないけど、前置きがアレじゃ、手伝わないわけにはいかないじゃない?」

「…ふぅ。亜輝の言う通りね。私の言い方が悪かったわ。……無かったことにしてくれない?」

 もう三人の意思は届いたのだろう。沙雪は苦笑しながらおどけて言う。

「残念ね。ユキが無かったことにしても、あたしは困ってる人を―――困ってる友達を―――ほったらかしにするような女じゃないわよ?」

「そういうこった。聞くだけ時間の無駄だったな。さっさとコトを終わらせてみんなでプリン食おうぜ」

「水くん起こして、みんな絶対一緒に、だよっ!」

 三人の、沙雪にとって、結局のところ喜ばしい答えに、彼女は両手を上げてこう口にした。

「私の負けよ」


+千春+


 四人は、先日の歓迎会で使われた裕介の部屋に入った。自室とはいえ、アパートなので居間と兼用である。食卓があったはずの中央に、代わりに蒲団ふとんが敷かれていた。裕介はそこに眠っている。

「なんだ、普通に寝てるだけじゃねぇかよ、ビビらせやがって。おーい、見舞いに来てやったぞー、起きろー」

「ちょ、普通見舞いに来たんなら病人を起こすような真似はしないでしょ」

 裕介を起こそうとする勇次に、至極しごく真っ当な意見をもって貴記が反発する。しかし、勇次の言葉に裕介が反応する気配は無い。

「裕介? お見舞いにプリン買って来たんだけど、食べない?」

 やんわりと―――物で釣ってはいるが―――亜輝が起こそうとする。やはり、起きない。見かねた勇次が裕介の肩を叩く。

「おいおい? もーしもーし。起きてますかー? 眠ってるなら返事しろー」

 起きない。ここまで来ると、さすがに嫌な想像が頭を巡ってしまう。

「…息は、ちゃんとしてるよ。蒲団も動いてるし」

「そうね。けれど水神君は、このままでは起きることは無いわ」

 差す光を、さえぎるかのように沙雪が口を挟む。どういうことだ、と聞く間もなく続ける。

「彼は今、ここには居ない。実体はあっても、存在はしていない。彼の意識は現在、電界二十五次元、いわゆる『夢』と呼ばれる世界にあるの。まぁ、正確にはそこよりも少し次元の違う、どちらかというと自身の内宇宙の方に寄っているけどね」

 勇次たちを真っ直ぐに見つめて、沙雪は言った。彼らの知り得ない、世界の本質について、語るときが来たのだ。

「どういうことだよ」

 先ほど打ち切られた言葉を、今度こそ口に出して、勇次が言う。

「簡単に言えば、彼はずっと夢を見ていることになるわ。守山さんを救うためにね」

 守山、と千春の苗字が出たところで、彼らの記憶が蘇る。

「守山……千春っ? そうだよ、何で俺、俺たち今まで忘れてたんだ…?」

「そうよ、千春よっ! 何か足りないと思ってはいたんだけど……」

「僕たちだけじゃない。ほかの人も、守山さんが転校してきた事も、無かった事にさえなっていた…」

 口々に彼らは言う。貴記の言葉にあったが、千春が転校してきた事実も、無いものとして認識されていた。全員に。

 勇次の隣の空席を、元よりあったもの、なんら不自然ではないものとして彼らの脳は捉えていたのだ。つまり、

「守山さんの存在が、こちら側から消滅していた」

 沙雪は、そう言葉を紡いだ。

「どういうこと……」

 誰とも知れず、呟く。三人とも同じ意見なので、誰が言ったかは定かでない。 

「『夢』であるあちら側と『現実』であるこちら側は行き来することが可能なのよ。ただし、そのためのデバイスが必要不可欠だけどね。もちろん例外もあるわ。それでね、あっちかこっちかのどちらかに対象の意識が存在し過ぎると、その存在した方の世界に、意識が固定されてしまうの。意識というのは存在につながるから、やがて反対側の肉体も消滅していくわ。水神君のように専用の身体カラダでない限りね」

 沙雪の発言を裏付けるように、眠っている裕介が大きく息を吸った。彼はもちろんここに存在しているし、記憶から消えてもいない。

「つまり、千春の存在が向こうに引っ張られてるから、それを救うために裕介の専用の身体が必要だったってことか」

大雑把おおざっぱに言えばそうなるわね」

 勇次の確認に、沙雪は正解、と答えを返す。これで一つの疑問が消滅し、同時にまた疑問が浮上する。

「まだ分からないことが二つあるわ。一つは、あたしたちを呼んだ理由、もう一つは、裕介にそんなことをさせようとするのが誰かってこと」

 浮上した疑問を取り上げて、亜輝が質問を続ける。

「あなたたちを呼んだ理由には二つあるわ。一つは純粋に水神君のお見舞いに付き合ってもらうため。といっても口実みたいなものだけどね。もう一つは、私と、水神君と、貴方達がからよ」

「りんく?」

 と、これは貴記。通常リンクという単語は、人間に対して使われない。疑問を抱くのは、至極当然であろう。

「リンク、って言うのはね、関係性なの。運命と思ってもいいかもしれない。生まれつきその人と、関わる予定がある人とは、見えない線で繋がっているの。人間って言うのは関係性で成り立っているから、その線がない人間なんて居ないわ。ただね、水神君は異常にその線、リンカーって言うんだけど、その数が少ないの。そもそもけたが違いすぎるわ。普通の人が数百から多くて数万なのに対して、水神君は一桁なの。つまり、彼と関わり合いになる人間は少ない。少なすぎる位にね」

「それとあたしたちがどう関係してくるの?」

 亜輝の問いに、再び沙雪が言葉を続ける。

「私が、リンカーをる魔女だからよ。これから水神君が行く世界は、とてもじゃないけど一人で帰ってこれる場所じゃないの。だからね、リンカーを使って概念がいねん的に彼を現実世界に引き戻すの。そのためには、数少ない水神君とのリンカーを持つ貴方達のリンカーが必要不可欠だったのよ」

「それじゃあ最後だ、沙雪」

 勿体ぶるように、いや、実際には聞くのを恐れていたのかもしれない。一拍いっぱくおいて、勇次が問う。

「誰が、裕介にそんなことをさせようとしてるんだ」


「彼の内宇宙に居る、神にも近い存在―――『風見鶏かざみどり』よ」


………


「『風見…鶏』」

 裕介は漆黒に潜む、真っ白な存在に向かって言った。

「そうだ。もっとも、魔女どもが好む呼称で、そもそもの我には名など無い」

 漆黒の中での、お互いの顔が見えない、声だけの会話は続く。

「俺に、そんなことが出来るのか?」

「可能性の無い行為はただの無謀だ。れを莫迦ばかにしているのか、お前は」

 この漆黒の声をした真白い存在、風見鶏は、憤りを声に顕して言った。無謀なことなどしない、と。それは暗に、裕介をねぎらってもいた。声の調子を戻して、続ける。

「お前は何を見ていた。そこまで言わなければ通じぬのか」

「俺は……」

 そう、先程まで彼が見ていた世界。過去の自分。その能力は何であったか。

(心を読む? 違う。幽霊が見える? 違う。もっと根本的で、単純な――――――)

「目…モノを見る、モノじゃないものさえ『』る、……!」

 考え、導いた答えに確信を乗せて裕介が口にする。

「その通りだ…が、その力はただ有形無形を問わずに視認できるだけではない。概念世界における人間の中心、統合思念とも言うべき人類の総意、ヒトという種そのものを記した書を蔵書ぞうしょする図書館。お前はそこに行くことが出来る。任意の概念世界に対する直感的干渉。それこそがお前が有する能力、『夢視ゆめみ』だ」

「……!」

「モノならざるモノを認識できる、ということはお前がそれを知っている、ということだ。その源がどこから来るか、と考えれば合点がてんがいくだろう。しかし押さえきれずに流れ込む他人の思考や非物質の存在は、幼いお前を心身ともに、能力の肥大化につれ蝕んでいった。斯様かようむべき能力のため、お前はお前の親によってその力を無かったことにされていた。存在を持っていかれたのだ。しかしお前は、自分の意思でそれを取り戻した。我の介入かいにゅうがあったにせよ、思考し、導いたのはお前だ。知る権利と、成功する可能性は、そこにこそある」

 急に、風見鶏の存在感が薄れていくのを、裕介は感じた。

「我がこれ以上表出ひょうしゅつする理由は無い。お前の負担にもなろう。行って来い、水神裕介。お前の歯車の、勢いを止めるな」

 薄れ行く気配に、何か聞きたくて、最後に裕介はこう聞いた。

「あんた、いったい何者だったんだ!」

「――――言っただろう、風見鶏だと。ヒトを、セカイを観察する、お前の心に突き立った、只の傍観者だよ」

 そう言って、風見鶏は居なくなった。



 一人漆黒に残された裕介は思う。果たして自分に、そんな超能力じみたことが出来るのか。

(これから俺がしなきゃならないのは、まず統合思念の世界に行くこと……か)

 風見鶏の弁に寄れば、裕介はそこに繋がっている。そこからの知識を元に、他人の心を読むことが出来たのだという。だがしかし、そこへの扉は、未だ固く閉ざされたままである。

「畜生! わかんねぇよ、どうやって、そんなことをすればいいんだよ!」

 タイムリミットは日没まで。現実世界の日没がわからないため、裕介は余計に焦ってしまう。

(くそっ! くそっ! くそっ! 焦るな、落ち着け、考えろ! 冷静になるんだっ!)

 瞳を閉じて、大きく息を吸い、吐く。三回、四回は繰り返しただろうか、鼓動は速いままだが、思考は少し冷静になった。

(ユウスケ)

 記憶に蘇った、父親の声を頭の中で再生する。この漆黒の中では、さながら父親に語りかけられているように感じられた。

(鍵は、いつも心の中にある。それぞれ形の違った、一つしか無い鍵だ。けれどな、それは自分の意思を、石をって鍛えた最高の鍵なんだ。自分の意思で、自分の言葉で、叫んでみろ。鍵穴の無い扉だって、簡単に開くことが出来るさ)

(七人の…盗賊だったか、さむらいだったか。『オープン、セサミ!』ってことか)

 父親の言葉で、裕介は確信を持てた。自分が信じた、確信した答えならば、最強の鍵が出来るということに。

(自分の、意思で。自分の、言葉で――――自然に、自分の心から!)


「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ! 接続アクセスッ!」


 漆黒の世界が、勢いよく開けたカーテンのように、一瞬で光に包まれた。



 ようやく光に慣れた目で見たその光景は、まるで何も無い浜辺のようだった。波音さえ聞こえてくる。

「ここは……」

「『無意識の…海』」

 背後から、守山千春が声を掛けてきた。潮風に揺れるスカートが彼女の心を表しているように見える。

 その声に驚いてか、裕介は跳ねるように後ろを振り返った。

「久しぶり、裕介くん。って言ってもあんまり時間は空けてないけどね」

 おどけたように、千春は言う。しかしいつもの元気は感じられず、顔に影が落ちているようにさえ見えた。

「そう…だな。でもなんだか、すごく、長かった気がする……」

 顔を見て、安心したのか、裕介は胸をなでおろした。よかった、まだ無事だった、と。

 立ち上がり、裕介は千春に手を差し伸べる。

「帰らない? 一緒に」

 裕介は倒置法で語りかけた。言葉とともに差し伸べられたその手を、千春はしかし、握り返すことなく、首を横に振って押し戻す。

「わたしは、案内人。こっち側の人間なの。引越しとか、留学とか、そんなレベルじゃないことくらい、裕介くんだって分かってるでしょ?」

 吐き捨てるように、自分を否定するかのように、千春は言う。何か背後に、譲れないものがあるとでもいうような口ぶりだ。

「ねぇ、裕介くん。。わたしのココロを、わたしの歴史を『視』て?」

 両手を広げて、受け入れるように、千春は目を閉じた。その意図をみ取って裕介は彼女を『視』る。世界が、再びセピア色に染まった。


………


 裕介は自身の記憶に無い、記録にも無い、知らない土地で意識を取り戻した。おそらく此処こここそが、千春の過去の世界。

(ここで解説役のわたしが登場ね)

(うわっ、びっくりした)

 突如、予想だにしない声が背後からかかる。しくも、『無意識の海』での焼き回しであった。

(ここはわたしの夢なんだから、わたしが居たって何もおかしなことなんて無いよ)

(確かに。言われてみればそうだったな……)

 ここは千春の記憶に裕介が接続アクセスして出来た仮想世界。裕介の過去とは違い、今度は主人公が千春なのだ。ただそこに裕介が強制的に介入しているに過ぎない。

(ほら見て、女の人と手を繋いで帰ってる。お母さんと、わたしだよ)

 幼い、ほんの少しだけ今の名残なごりがある、千春。母親の方は、千春の顔に瓜二うりふたつだ。髪を伸ばして、少し背を伸ばせば、そっくりそのまま、といった姿である。

(うわ、似てる……)

 二人と、千春を見比べながら裕介が言う。思えば似ているのは当たり前である。母親はまだしも、本人は似ていないはずが無い。

(どっちが?)

(いや、両方)

(くすっ、おかしなこと言うんだね。あれはわたしなんだから似てないわけ無いじゃない。でも……お母さんに似てるっていうのは嬉しいな……)

 千春の母は、確かに美人だった。笑った顔は、美しい、というよりどちらかというと心が暖かくなるような笑みである。喜ぶ千春を見て、裕介は少し恥ずかしくなった。

(……親なんだから、似てるのは当たり前だろっ)

 照れ隠しにそんなことを言う。しかし、言葉の通り千春は受け取ってしまう。

(言われてみれば、そうだね)

 少し俯いてから、笑顔で、裕介のほうを向く。

(でも、それじゃあわたしも美人なのかな?)

 その言葉は、裕介にとってのトドメとなった。赤くなって、何も話せない。

(……美人つうより可愛いんだよばか……)

 声には出さず、心の表にも出さず、裕介はその言葉を心の奥底に沈めた。


 語りながら、二人を、二人が追いかけていった。 



 過去の二人が、家に入る。恐らくここが、千春の住んでいた家なのだろう。周囲をブロック塀で囲んだ一軒家である。

 カラカラと扉を開けて、家に入る。

「たっだいまーっ!」

「はい、お帰りなさい」

 後ろから、母親が言う。

「おかあさん、へんー」

「あら、私なにかおかしな事したかしら?」

「だって、おかあさんまだ外にいるでしょ? なのにわたしにおかえりなさい、はなんかおかしいよ」

 きょとん、とした顔で、しかしすぐに笑顔になって母親は言う。ころころと表情が変わるのは遺伝だ、と裕介は確信した。

「そうね、それじゃ、ただいま」

「おかえりなさーい」

(昔から変な子だったのか)

 しみじみと、今のやり取りを見て裕介が呟く。

ひどいよ裕介くんっ! わたし今も昔も変じゃないー!)

 裕介は、そんな台詞を言ってる時点で――――と思ったが、言わずに心にしまった。なんとなく、ここが引き際だと悟ったようだ。

 二人に続いて、裕介たちは家に入る。幼い千春はテレビを、母親は台所に立って夕食の準備をしていた。

(あ)

 ここにきて、裕介は気付く。これは、自分の過去と同じだ、と。とはいえ、時間軸はずれているし、どこにでもある一般家庭の風景だ。別段不自然ということは無い。幼い千春の見ているアニメも、当時流行はやっていたアクションヒロインものだ。

「凄い、この娘強いのね。怪人どもをばったばった」

 調理の合間を見て、休憩を採りに母親が居間に戻ってくる。画面で流麗りゅうれいに動くヒロインを見て呟いた。

「うん。だって、すーぱーひろいんだもん」

 なぜか母親は、そのまま娘と一緒になって、テレビを夢中で見始めた。娘同様、ころころと表情を変え、笑い、驚き、仕舞いには泣き出してしまう。そこに、

「すいませーん」

 と玄関から来客の声がする。こんこんと玄関の扉を叩いていた。涙を拭き、母親は立ち上がって駆けていく。

「はーい、今行きますよー」

 とてとて、がらがら。


「千春ッ! 逃げなさっ…… んんっ! ん!」


 突如、玄関のほうから悲鳴が上がる。、と。その悲鳴は、途中からくぐもった声に変わっていたが。

 真っ青な顔をして、幼い千春は全力で逃げ出す。玄関から出来るだけ離れようと、二階に上がり、唯一鍵を掛けられるトイレに逃げ込んだ。鍵を掛けて、息を殺す。目を閉じ、耳を押さえてうずくまった。しかし、母親のくぐもった悲鳴は耳を押さえてなお聞こえてくる。しばらくして、悲鳴と物音が止んだ。かと思ったら、階段を上ってくる音。母親では……ない。

 がたん、がたん、と。別に急ぐわけでもなく、むしろゆっくりと、強く階段を踏みしめて上がってくる。

(こんなおと、おかあさんじゃない……!)

 母親がどうなったか、は考えずに、幼い千春は思考する。どくんどくんと、警鐘けいしょうのように心臓の音が頭に響く。

 凶行の最中も、物音は聞こえたのだろう。二階に上がったことは分かっているようだ。ごそごそと、物色する音が聞こえる。近づいてくる。

 息さえ止めて、微動だにしないように体を押さえる。がちがちとなる歯を膝で押さえ、震える体を抱きしめるようにして。


 ガチャガチャ! ガチャガチャガチャ!


 鍵のお陰で、ここには入って来れない。しかし、


 コンコン、コンコン。


?」


 しかし鍵を掛けていたが為に、ここに居ることを確信させてしまった。他に隠れる場所など無かっただろうが。

 幼い千春の顔から、どんどん血の気がうせていく。健康そうだった唇は真っ青に、桃色の綺麗な爪は、黄色くなるほど強く体を抱いていた。


 コンコン、コンコン。


「もうーいーかい?」


 階段のときとは別人であるかのように、優しく叩き、優しく語り掛けてくる。しかし、声の端々から発する狂気は隠しきれていない。


 コンコン、コンコン。


「もうーいーかい?」


 コンコン、コンコン。


「もうーいーかい?」


 ドアの向こうで溜息を吐く音が聞こえた。少し間をおいて、


 ゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴン!

「もうーいーかい?」


 ドアを叩くスピードと強さを変えて、しかし声の調子はそのまま続く。


 ゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴン!


「もうーいーかい?」


 再び間をおき、ドアの木材を隔てて物音が……金属音がする。


 ガンッ! ガンッ! ガンッ!


 今度は声はしない。代わりに何度も何度も、ドアを叩く金属音だけが、狂ったように響いている。


 ガンッ! ガンッ! ガンッ!

 ガンッ! ガンッ! ガンッ!

 ガンッ! ガンッ! ガンッ!

 ガンッ! ガンッ! バキンッ!


 刃が、ナイフの、先端が、ドアの木材を突き破り、到達した。幼い千春よりは、まだ遥か頭上。仰ぎ見た彼女は、その赤黒い切っ先を見て、堪えていた悲鳴をついに上げてしまう。

「きゃああああああああッ!」

 おそらく、ドアの向こうで笑みの形に口を歪めただろう。ドアをこじ開けようと、ドアノブ周りを叩く音がする。幼い千春は、出来るだけトイレの奥のほうへ行った。が、悲しいかな、ドアとの距離は、短い。

 

 ガンッ! ガンッ! ガンッ!


「いやあっ! やめてよ! こないでよっ!」

 なおも音は鳴り続ける。


 ガンッ! ガンッ! ガンッ!


「やめてっ! やめてっ!」

 嘲笑あざわらうかのように、止まない。


(たすけて、かみさまっ! わたしなんでもするっ! おねがい!)

 祈りを踏みにじって、ドアノブが、壊れた。バキバキと、ドアノブを外す音。壊れたドアノブの穴から、赤黒く染まった手が入ってくる。


 ドアが、開いた。


 そこには、全身を赤で染めた、人間とは思えない表情を顔に貼り付けて、人間がワラっていた。


 ××××××××××××××××××××××××!


………


「……うぇぇっ。げほっ、ごほっ!」

 突如、過去の世界が壊れる。凶行と血の恐怖に耐えかねて、裕介は嘔吐してしまう。彼は、血を見るのが苦手だった。『!』マークの付いたゲームは見ることさえ出来ない。

「苦手だった? ああいうの」

 心中とは逆に、笑顔で千春は聞く。嘲笑ちょうしょうしている様にさえ見えた。

「はぁ、はぁ……止めて、くれよ」

「さっきの? でも、アレを見たら、もうわたしが現実に居たくないってこと、分かってくれるよね?」

 その笑顔のまま、千春は続ける。

「実はね、あの後お父さんが助けに来てくれて、ギリギリのところでわたしは助かったの。だけどね、お母さんは駄目だった。『』に連れて行かれて、もう帰ってこれなかったわ。わたしもいろいろとショックで一年くらい何も話せなかった。そのときに夢幻の庭園ネバーランドを知ったの。あそこは、この世と彼の世の境。会おうと思えば、いつでもお母さんと会うことが出来る。それに現実世界で、お父さんに迷惑を掛けるよりも、夢の中で、自分に出来ることをしたほうが良いと思ったの。それが、いまの案内人の役目。学校に転校したのは、裕介くんに興味が湧いたから。久々に、学校に行ってみたいなぁ、って。でも駄目だった。家は違う家だけど、お父さんと一緒に居ると、お母さんが居ないと、あの時の事を思い出しちゃうから」

「……」

 荒い呼吸のまま、裕介は何も言わない。千春は再び続ける。

「だからね、わたしはもう、現実世界に居たくないの。一度、現実での存在が消滅したわたしは、いまさら消えることに何の後悔もないわ」

「っ!」

 裕介は立ち上がり、千春をにらみつける。

「そんなにさっきのが嫌だった? だったらごめんね」

「違う」

「じゃあ、何」

 中身の無い笑みのまま、千春は聞き返す。

「そんな表情カオ……しないでくれ」

 辛そうに、悲しそうに裕介は言う。拳を握り締め、俯いた。握った拳に爪が食い込み、血がにじむ。

「笑ってないと、何も出来ないの。嘘でも、吐いて無いと立ってられないの。それっていけないことなの?」

 千春の問いに、俯いたままで裕介は答える。

「……だったらせめて、俺の前でだけは、笑わないでくれ。嘘を吐かないと立ってられないんだったら、俺が足の代わりをする」

「……」

 千春は返さない。顔を上げて、思いを込めて。願いを、祈りを裕介は言葉にする。


「だから……居なくなってもいいだなんて、そんな寂しいこと、言わないでくれ」


「……」

「……」   

 続く言葉は、二人の間には存在しなかった。答えるべきだと、答えを返すべきだと千春は思い、口にする。

「裕介くん……わたし……」

 

 ゴゴゴゴゴゴッ!


 千春の意思を拒むように言葉を断ち切り、あたりに騒音が響き渡る。―――――地震だ。かなり大きい。

 何も無い、周囲を海に囲まれた場所で地震が起きればどうなるか。答えは明白だった。

 逃げ場は、無い。


+救い+


「っ! もう限界ね。いくら成長したとはいえ、『夢視』の力を抑えるのは人間には無理みたい」

 常人には感知できない感覚を察知したのだろう。裕介の限界を、沙雪は的確に察していた。

「ど、どどど、どうすればいいのよ、ユキ!」

 慌てて亜輝が言う。無理も無い。

「落ち着いて、亜輝。これからが私たちの出番よ」

 そういうと、沙雪は自室から持ってきた石を取り出す。

「なんだそりゃ」

「ただの石にしか見えないけど……」

 勇次と貴記が言う。確かに、ただの石のように見える。大きさは手の平ぐらいで、どちらかといえば丸い。

「これは通行手形みたいなものよ。これが無かったら、水神君の中にはは入れないわ」

「でもでもっ、一個しかないじゃないの!」

 亜輝が言う。落ち着け、と言われて落ち着けるような人間ではないようだ。

「そのためのこれよ」

 手の平大の石を置き、両ポケットから不可思議な文様もんようの入った札と、瓶を取り出す。どちらも四つずつある。

「睡眠薬と切符よ。切符を持っていれば、通行手形を持っている人と一緒に向こうに行くことが出来る」

「どこでそんなブツを……」

 呆れたように勇次が聞き返す。もちろん答えに期待などしていないが。

「私はこれでも正当に魔女の血を引く女よ? まぁ、協力が無ければ出来ないことだけど。――――さて、おしゃべりはここまで。みんな、瓶とお札は持った?」

 それぞれが、札と瓶を手に持って、神妙な顔つきで頷く。一人を除いて。

「……」

「亜輝?」

 沙雪が、心配そうに顔を覗き込む。

「だって、あたし…出来るのかな、ちゃんと。いっつも、失敗ばっかり。一人で先走って……成績だって悪いし。なんか、クラスでも、みんなの中でも浮いてるっぽいし。裕介のこと、昔からずーっと一緒に居るのに、ちっともわかってあげられない。あたしには話してくれない。何も。そしたら、あたしって、誰も、誰にも必要とされて無いんじゃないかって、それで……ひっく…お節介だよ、きっと。あたしがいったって、何も……っく」

 亜輝はまた泣き出してしまった。よほど自分にコンプレックスがあるのだろう。いつもの自信に満ちた発言の数々は、不安の裏返しとも取れる。

「亜輝……」

「江藤さん……」

 沙雪も、貴記も、それ以上は何も言わない。自分の役目ではない、ということを知っているからだ。

「亜輝」

 勇次が、口を開く。突き飛ばされて以降、亜輝とはまったく口を利いてなかったが。

「何よ……く…アンタなんかに、ひっく、何も言われたく…ない」

 あのときのように、怒ったような口調で、亜輝は言う。つられてつい、怒ったように勇次は返してしまう。

「あぁ?」

「ほら! アンタだってどうせ…ひっく…どうせあたしの事、うざったいとかうるさいとか思ってるんでしょう! もういい! 知らないッ!」

 亜輝はそのままの勢いで、札も瓶も置いて立ち去ろうとする。

「おいっ」

 その腕を、勇次がつかむ。放す気など無い、というように、強く。

「いたいっ! 放してっ!」

「座れ。自分勝手にも程があるだろお前」

「みんなだって自分勝手じゃない! あたしの自由を拒むのは自分勝手じゃないっていうのっ?」


 パチン、と掴んだのとは反対の手で、勇次は亜輝の頬を平手で打った。


「……!」

「ふざけんな。人一人懸かってるって言うのに、自信が無いからってだけでそれを放棄する事の、どこが自分勝手じゃねぇっていうだよ!」

「……」

 亜輝は何も言い返せない。

「それにな、お前がいなくていいって思ってる奴なんか、少なくともこの中には一人も居やしねぇ! 居て欲しいって、必要だって、口にしなきゃわかんねぇのかお前はっ!」

「……」

 勇次は亜輝から手を放す。もう一人で帰ろうという意思は感じられない。

「みんなお前のことを大事だと思ってる。裕介だって、お前のこと信用して、何も言わなくて良いって、余計な心配かけたく無ぇって、それで何も言わなかったんじゃねぇのか? たとえお前を嫌いな奴が居たって、そいつは仕方無ぇ。全ての人間に好かれるなんざ神様だって無理だ。だから……最低一人、お前の事を大事にしてくれる奴が居れば、いいんじゃねぇか?」

 亜輝は涙を拭い、再び座りなおす。一つ深呼吸をして、

「ん……はぁ。……まさかアンタになぐさめられるなんて。夢にも思いたくなかったわ」

「『夢にも思わなかった』だろ。いっそれてみるか?」

 ほぼ本心で、しかし照れ隠しか、おどけて言ってみせる。

「嫌よ」

「な、お前そんな直球で、普通……」

「好きにならないように、アンタのことを嫌いになるのっ!」

 勇次は目を丸くして、瞬く。真っ赤になった亜輝の顔が見えた。

「……わかった? 嫌いになるんだからね! 勘違いしないでよっ!」

 言って、亜輝は勇次から顔を背ける。

「はいはい。せいぜい頑張って嫌いになるこったな」

 勇次は、笑って言った。お互い、本心とは反対の言葉が出てくるのだろう、素直ではない。天邪鬼あまのじゃくとはこのことか。

「全く、目の前で見せつけてくれちゃって。私たちもいちゃいちゃしようか、貴記君?」

「なっ! ちょっと、時間が無いんじゃないの? そんなことしてる場合じゃないよ……」

 十分と経っていないが、しかし予定外の時間を消費したことには変わりない。

「ほら、二人とももう行くわよ? その薬は、みんな同時に飲まなきゃ駄目なの。即効性だから向こうまで一瞬よ。いい? 札は手に持って。いくわよ?」


『せぇ……のっ!』


 パタン、と本当にすぐ、四人は眠りに就いた。


………


「痛ぇ……ってなんだここ!」

 薬の副作用か、痛む頭を押さえながら勇次が起き上がる。あたりは真っ暗、というより真っ黒。奥行きのない漆黒の世界に、自分と、亜輝たちの姿だけが見える。まるで自らが光を発しているかのようだ。

「勇次、遅いよ……もしかして意外と水くん馬鹿に出来ない?」

 貴記が言う。勇次は普段はそんなことはない。むしろ祖父母の影響で早起きな位だ。

「合わなかったのね。何しろ急ごしらえだったから、全員分の整合は取れなかったみたいなの。ごめんなさい」

「ここが……裕介の世界なのか?」

 周囲は黒。闇よりなお深い漆黒に、酷く圧迫される。もしお互いの姿が見えず、声も聞こえなかったら、分と待たずに叫びだしていただろう。ここは果たして、人間の世界なのか、と勇次は思う。

「見て、水神君よ」

 宙に浮かんだ円形の画像に、テレビのように、第三者的に裕介の姿が映し出されている。さっきまでこんなものは無かったが、恐らく沙雪が作り出したのだろう。裕介の世界とはいえ、心象世界。ある程度の無茶は出来る。

「千春も居るっ!」

「よかった……二人ともまだ無事なんだ……」

 ぐらぐらと急に、大きく映像が揺れた。こちら側には影響はない。

「どうやら本当に限界のようね。みんな、こっちを見て」

 沙雪以外の三人は、沙雪の方を向く。胸の辺りから、光る糸状のものが生えていた。

「それが、リンカーって奴か」

 勇次が言う。

「意外と賢いのね、榎本君。そう。これがリンカー。ま、実体化してるのは水神君とのだけだけどね。こうすればみんなの分も見えるわ」

 トン、トン、トン、と。それぞれの胸の辺りを叩く。すると、その部分から光の糸が出てくる。その糸は、浮かぶ画面に繋がっていた。

「これが……裕介に繋がってるのね」

「そう。このままじゃ水神君は『無意識の海』にまれてしまう。そうしたらもう、私でも助け出せない。だから、呑まれる前にリンカーを使ってここまで引っ張り上げるの」

 ぐい、と魚釣りのようなジェスチャーを、沙雪はしてみせる。

「割と強引すぎる手段じゃねぇのか? それ」

「私にだって限界があるわ。出来ればもっとスマートに行きたかったんだけど、何せ対象が特殊なものだから。普通行けないわよ。こっち側の人間が、『無意識の海』なんて」

 話している合間にも、画面は大きくなる津波をとらえていた。五メートル、十メートルでは済まない大きさだ。現実的に考えて、直撃すればまず助からない。

「いい? 一気に行くわよ。こっちから引っ張る必要は無くて、水神君のことを考えるだけで良いの。『帰ってきて』って」

 四人は画面を囲み、目を閉じ、祈るように立つ。

(帰って来い、裕介。また一緒に騒ごうぜ)

(水くん、帰ってきて。みんなでまた、お茶しよう)

(帰ってきなさい、裕介。じゃないとあたし、勇次に取られちゃうわよ?)

 三人はそれぞれ、裕介のことを思う。帰って来い、と。

「想いは、声にすれば強く伝わるわ。彼のココロまで、届かせて」

 沙雪は、左右の手を、それぞれ繋ぐ。貴記と、亜輝と。

「じゃあ、みんな一緒に呼ぼうよ」

 同様に全員が手を繋ぐ。人間四人で作る、酷く歪な円が出来上がった。

「あぁ? 恥じぃだろうが」

 円というよりは四角。けれどもそれは、何よりも暖かかった。

「いいからいくよ? せぇのっ!」


! !』


 黒の世界に、リンカーの輝きが満ちる。


………

 

「これ……は?」

 裕介の胸からリンカーの光が伸び、体に巻かれていく。

……? そう、あの中の誰かが……」

 夢幻の庭園ネバーランドにいた為か、それとも知識によるものか、千春はリンカーの存在を、それを繰る者の存在も知っていた。

「お別れだね、裕介くん」

「なに言ってんだよ……!」

 ゆっくりと、だが確実に、体が引っ張られる感覚を覚える。そして、実際にゆっくり持ち上がっていく。

「ごめんね。わたしもう、だめだ」

 悲しそうな笑顔で、千春は言う。もう裕介は、五十センチは浮いている。

「手! 俺の手を掴め!」

言って、限界一杯まで、長い手を伸ばす。だがしかし、千春はかたくなに受け取ろうとはしない。

「だめだよ、そんなことしちゃ、きっとそんな細い糸、切れちゃう」

 裕介は、空中でじたばたと足を動かす。けれど空をくだけで、地面には届かないし、千春との距離も変わらない。

「早く! いいからっ!」

「いいの。最初からこうするつもりだったし」

 焦る裕介に対し、千春はもう、諦めたかのように動こうとしない。

「掴んで!」

「わたしね、分かっちゃったの。結局どこに居ても迷惑かけるだけだって。お母さんだってきっと、わたしの事忘れたほうがいいって思ったからここに来たの。でも、さっきの裕介くんの言葉で、ここに居ても良いんだ、って思った。ほんとだよ?」

「だったら、俺の手を掴んで! 一緒に助かろう!」

 強く、迫る波音に押されるかのように、波音をかき消さんばかりの声量せいりょうで、裕介は千春を呼ぶ。

「でもね、裕介くんが、わたしのために助からないのは嫌。もう誰も、わたしのせいで、居なくなって欲しくないの」

「そんな……」

 もう、手を伸ばしても、ジャンプしても、届かないところまで裕介は浮かんでいた。

 急に迫る波の速さが増す。

「ありがとう、裕介くん。さっきの言葉、嬉しかったよ」

 ばいばい、と笑顔で手を振る。今度の笑顔は間違いなく本物だった。


 ザァァァァァァァァァァァッ!


 波が、その笑顔を飲み込んだ。


………


 闇を取り戻した世界に、人間が五人。

「裕介!」

 勇次が駆け寄る。続いて。亜輝も、貴記も。沙雪は悔しいような、悲しいような顔をして、俯いて立っていた。

「助から……なかったのね。彼女は」

「……」

 座ったままの姿勢の裕介を、見下ろすような形で沙雪は言う。裕介は答えない。明白な事実を、認めようとしないかのように。

「そんな……」

 亜輝が言う。折角せっかく仲良くなれたのに、と。この場に居る全員、同じ心境だろう。

「嘘でしょ……守山さん」

「千春……」

 まさか、と。不意に何か思いついたように、沙雪が再び画面を出す。

「……やっぱり。まだ溶けていないわ、彼女。自我を保ったまま、『無意識の海』に溺れているだけ!」

 画面には、海の中に、眠るように浮かぶ千春の姿があった。意識のあるものを、無意識に溶かすには、多少なりとも抵抗があるようだ。

「でも、このままじゃ千春が溺れちゃう!」

「さっきのリンカーは出せねぇのか!」

「無理よ。こんな密度の濃い『無意識』なんて私達の方が持っていかれかねないわ。ただでさえ力を消耗してるって言うのに……!」

「そんな……折角助けられると思ったのに!」

 見る間に、千春の姿はかすんでいく。掻き消えるのではなく、らす様に、ゆっくり、少しずつ。だが確かに分かる、消滅の予感。

「俺が、やってみるよ」

「水神君?」

 力の抜けた体に、再び力を宿して立ち上がる。彼を動かすのは、万に一つの――――――希望。

「やめて、裕介! アンタまで居なくなっちゃったらどうするのよ」

「……そう心配して、俺の手を取らなかった」

「……っ、ごめん」

 亜輝は言ったが、黙り込む。裕介は続ける。

「俺が助ける。亜輝は心配しなくて良い。無理だって分かったら止めるつもりだから」

「うそ……」

 もう、無理なのに、と。亜輝は言う。裕介は、自身が感じる限界まで、諦めないつもりなのだろう。その果てが、たとえ自分の終わりだとしても。

「やらせてやろうぜ、亜輝」

 勇次が亜輝の肩に手を置く。彼も耐えているのだろう。肩に置いた手から、震えが伝わってくる。

「……サンキュ、勇次」

 いいってことよ、と手を振って勇次は答える。

「水くん」

 貴記が声をかける。

「絶対、二人で帰ってきてね」

 その、期待をかける言葉に、裕介は笑顔でこう答えた。

「まかせろって」

 そして、画面に向かって立ち、目を閉じる。

(落ち着け、俺の考えが正しかったらきっと救えるはずだ)

 あたりは、沈黙に包まれる。息遣いきづかいさえしない。

(俺の能力が『概念世界に対する干渉』ならやってやれないことはないはずだ)

 時間はあまり無い。しかし、裕介の心は眠っているかのように落ち着いている。

(自分を信じろ。落ち着け。出来る。父さんの言葉を思い出せ――――)

(『自分の意思で』)

 ココロに描くのは鍵。道を拓く為の、全てを開くマスターキー。

(『自分の言葉で』)

 思考は遮断する。もう答えは、体が、ココロが知っている。

(『自然に自分の心から』)

 息を一度吸って、吐く。当たり前の動作を意識してすることで頭を落ち着かせる。

 最後に、自分の言葉で、父親の言葉を継ぎ足した。

(叫べ、鍵は此処にる)

 大きく息を吸って、叫ぶ。


「『千春っ――――――― !』」



 裕介は、

 裕介が叫んだとほぼ同時に、黒い世界が白に染まる。

「これは……」

 視界を埋め尽くす、大質量の光。どんな闇も、かなわない、白く、明るい光。それは裕介からでなく、この世界、裕介の世界から溢れ出たものだった。もう彼の心に、一片の闇も残っていない。

極大きょくだいの、リンカー? まさか、こんな規模の……有り得ないわ…」

 そう、これはリンカーの光。リンカーの魔女たる沙雪にさえ成し得ない、まさに奇跡としか言いようが無い。

 この奇跡は、彼の心が作り出した、闇から生まれた、極大の光。

「すげぇ、これなら……」

「いっけーっ、裕介!」

 声に押されて、極大リンカーが画面に向かっていく。まるで槍のように、『無意識の海』に突き立った。衝撃を受けて弾ける様に、海が割れる。

 極大リンカーの中を、裕介は進む。

 走って、走って走って走って走る。真っ直ぐに、千春の元へ、辿り着く。

「裕介……くん、わたし……助かったの?」

「ああ。もう、こんなこと……しないでくれよ」

 す、と手を差し出す。助けられなかった、前回とは違う。

「奇跡って、こんなことまで起きるんだ……」

 しみじみと、光の中を見渡して、千春は言う。

「そうさ。希望にすがっていれば、ヒトは、何だって出来る。縋る希望を無くしてしまうのは、救いじゃあない」

「そうね、わたし、初めからそれを知ってれば良かった」

 そういって、今度はしっかり、千春のほうから手を伸ばして、裕介の手をとる。もう離れないように、固く、固く。

「やり直そう! したかった事、出来なかった事、何だって出来るさ!」

「うん!」

 そう言って、千春は笑って、泣いた。彼女の心からの、表情カオ

「え……きゃ!」

 ぐい、と、握った手に力を込めて、裕介は千春を引っ張り上げ、抱きしめた。

「ずっと、俺のそばに居てくれ」

「裕介くん……」

 抱いた手に、力を込めて、言う。

「迷惑かけてもいい」

「うん」

「泣いても、怒ってもいい」

「うん……うん」

「もう俺の前で、悲しい顔で笑わないって、約束して」

「裕介くん……」

 言葉ではなく、抱き返すことで、返事にする。


 約束は此処に、結ばれた。


+bonus truck+


 千春が現実世界に戻ってきた、一年後の春。卒業式を終えた彼等は、教室の一角で話し込む。

「ひっく、ひっく。もうみんなとお別れなんて、さびじいよおーー!」

「おい、亜輝。お前、顔凄いことになってんぜ?」

 ほれ、とその凄いことになってる顔の持ち主に、勇次がハンカチを手渡す。

「あら、さっきまで目を真っ赤にしていた人の、言う台詞じゃあないわね」

「全くだよ、僕に抱きついて『卒業したくねぇー!』なんて言って泣くんだもん。僕だって泣くに泣けないよ」

 意外にも、貴記は泣いていない。むしろ余裕の笑みさえ浮かべている。無論、沙雪は論外である。彼女はリンカーを操作していくらでも関係性を作ることが出来るからだ。さすがに業務以外にはそんな操作はしないようだが。

「うえええんっ! 亜輝ちゃーん!」

 そこにもう一人、人目をはばからずに泣き出す人物がやってくる。千春だ。転校してきてすぐに意気投合した亜輝と千春。この一年ちょっとの間に親友とも呼べる仲まで発展していた。抱き合って泣いている。


 カシャッ!


 不意に、シャッターを切る音がする。裕介だった。ファインダーから外した顔は、眼鏡をかけていない。過去の自分ときっぱり決別するために、コンタクトに替えたのだ。評判は、まあ悪くない。

「うーん……百合ゆりっぽい」

「え、なに? それじゃあ江藤さんが攻め?」

「何言ってんだお前ら」

 裕介と貴記が呟く。ここ一年ちょっとの間に、裕介は貴記に毒されたようだ。勇次は興味ないらしい。逆に怪しいが。

「あー、もう、なにってんのよ裕介! あたしを撮るんならちゃんと事務所通しなさい、事務所!」

「へー? なに。その事務所ってもしかしてコイツのことかなー亜輝ちゃん?」

 わざとらしくちゃん付けをして裕介が言う。『コイツ』、とは勇次のことだ。

「は、え、あ、ちょっと裕介何言っちゃってんの? あたしがまさか、こんなやつとあははは!」

「なぁに言ってんのかしらねぇ、このは。昔こそ水神君だったけど、いまは、榎本くんにメロメロじゃなーい。この間だってわたしに……」

「きゃああああっ! 止めてっ! 止めるのよユキ! あたしそんな破廉恥でやらしー事なんて、全然、全く、これっぽ…っち……も?」

 見ると、勇次が赤くなった顔を手で押さえている。亜輝も千春もいつの間にか泣き止んでいた。

「この……バカ」

 言ってるようなもんじゃねぇか、と勇次は呟く。亜輝の発言は、むしろ余計な誤解を招きかねない台詞だったが。噂されるときは、尻尾も頭も、体もつきそうな発言だろう。具体的に言わないところが余計に聞く方の誤解を招く。というか、正しい理解をした人間はどれくらい居るのだろう。かといって、正解を教えて周る訳にも行かない。

「ぃやめてー! 変な誤解しないでぇ! あたしたち多分、まだそんな深いトコまでいってないーっ!」

 亜輝は頭をぶんぶん振って否定する。首まで真っ赤だ。

「あはははは、面白いな、亜輝」

 カシャカシャと続けてシャッターを切る。このカメラは、父親のものだった。今裕介は、直接的に接触は出来ないものの、両親とは文通で連絡を取っている。仕送りも直接両親から来るようになり、時折このカメラのように、プレゼントのようなものも届く。カメラは、卒業祝いだそうだ。

「そういう水くんも、守山さんとはどうなってるの?」

 裕介の横に近寄ってきた貴記が、裕介の顔を下からのぞくように見ていった。

「俺はそんな台詞でボロは出さないぜ? せいぜいがキ……」

「わー! わーわー! 言ってるじゃない、ゆうくん!」

 続きを言わせまいと、千春が自分の声で裕介の声を遮る。

「そっちこそ言ってるだろ、?」

「え、ハル? あ……」

 言って、顔を赤く染める。亜輝とは違い、「うー!」と言って、顔を押さえて蹲る。

「あははは、なぁるほど。ゆうくんに、ハルちゃんなわけだ」

 貴記がそれぞれ指差し確認する。

「いやぁん、二人だけの秘密の呼び名なんて……なんて甘酸っぱいのかしら……貴記くん、私たちもしましょ、そういうの」

「えぇ、やだよ僕。恥ずかしい……」

「そうね、たかくんがいい? それともたぁくん? あ、もちろん私はゆきたんでお願いするわね」

 否定も聞かずに、沙雪は続ける、秘密の呼び名、とやらがいたく気に入ったらしい。

「ねぇ、呼んで、たぁくん」

「はぁ? 何、僕たぁくんで決定?」

「たかくんのほうがよかった? それとものりくんがいいとか?」

「もう……好きにしてよ……」

 どうやら貴記は諦めたらしい、たぁくん、たぁくんと言って沙雪に遊ばれている。

 突如、ガラガラと音を立てて担任が入ってくる。二年次と同じ担任だ。卒業式が終わったこともあり、教室は静まらない。教卓に立つことなく、なぜか裕介達の方にやってくる。面白そうだったからか。

「やぁやぁ、水神君、君いいモノ持ってるじゃないか」

 某剛田よろしく、首から提げたカメラを、ひょい、と取り上げる。

「あ、ちょっと先生」

 取り返そうと手を伸ばすが、同様にひょい、とよけられた。

「いいだろ、ちょっとくらい。記念写真とってやろうってんだ。むしろアタシに感謝するんだね」

 写真を撮る真似をして、ファインダーを覗く。ファインダー越しに、裕介ら六人が見える。目を離して、裕介たちに言う。

「おまえら、今から写真とってやるぞー。テキトーに並べー」

 その声が聞こえたのか、クラスの何人かが、俺も私も、と駆け寄ってくる。

「あぁ、ほら、順番だ順番。撮って欲しけりゃアタシんとこに順番にカメラ持って来い」

 それぞれが『はーい』と言うと、それぞれカメラを持って担任に並ぶ。

「ほら、後がつっかえてるから早く撮るぞー! ハイそこー、いちゃいちゃしなーい。一人身のアタシに対するあてつけかコラー?」

 どっと、クラスから笑いが漏れる。

「おい、お前のせいだろう亜輝」

「はぁ? 何調子こいてんのアンタ。んなわけ無いじゃない」

 言って、しかしその顔は赤く、笑ってさえいる。素直になれないところは勇次も同じだ。

「ほら亜輝、いいから並ぶわよ」

「そうそう、いちゃいちゃしてたのは水くんたちだもんね。ごちそうさまー」

 そう言って、貴記は手を合わせる。

「だって、ハル」

「もう。みんなの前でそう呼ばないでよー、ばかあ」

 ぺし、と裕介の腕を千春が叩く。

 その光景に、ギリギリとカメラを握る手に力を込めて、担任が言う。

「お前ら、それ以上いちゃついてみろ? にいっちゃうぞー、先生」

「おー怖」

 誰かがそういって、カメラの前に立つ。六人とも直立している。

「もちっとポーズくらい取れや。証明写真じゃねぇんだぞ?」

 そういうと、六人が思い思いにポーズをとる。基本はピースサインだ。

「ほいじゃ行くぞー『兄』の音読みはー?」

 国語教師でもないのに、それっぽい掛け声を担任はかける。


『にいー!』


 カシャ。

 乾いた音とともに彼らの姿が、フィルムに刻まれた。




 あの後、裕介の能力は消滅していた。極大リンカーを作った負担かどうかは沙雪でも分からなかった。ともかく、奇跡は起きた。裕介の世界に返ってきた六人は、そのまま現実世界に帰還し、お見舞いになるはずだったプリンやその他もろもろを食べて、それぞれの無事を祝った。

 千春は何とか現実世界でも暮らしていけているようである。現実として母親の死亡を認識し、それでも立っていられるのは裕介のお陰だろう。あの言葉がきっかけで、二人は交際を始めた。お互いに奥手なのか、なかなか進展はしていないようだが。また、あの事件がきっかけ、というか、あの事件を境に、勇次と亜輝、沙雪と貴記もそれぞれ交際を始めている。正確には、亜輝は一度裕介に告白して断られているが。彼女も裕介同様、過去の自分と決別したかったのだろう。彼らも、それぞれにうまくやっているようだ。

 彼らは進学してそれぞれ別の大学に行くようだが、きっとこの関係は未来永劫続くだろう。

 それは奇跡かもしれない。距離というものは冷たく、そして大きい。

 しかし、奇跡は自らの手で起こせるのだ。なぜなら、彼らには、愛がある。まだ幼いものの、愛という名の見えない線が、彼等をリンクさせている。それこそリンカーなんかよりも強く、確かに。


 勇気をもって、一歩を踏み出す強さがある。だから彼らはここに居る。ここに生きている。裕介の心に、光が満ち溢れたように。

 希望を捨てない、諦めない心を持っている。故にこのまま、終わることなく、続いていくのだと、確信できる。だからそれぞれの道を、踏み出せる。誰にも邪魔されずに、けれど干渉しあうという矛盾をはらんで。

 なればこそ、矛盾こそが奇跡だろう。通るはずの無い道理。叶うはずの無い願い。届くはずの無い、夢。それらを満たす、有り得ない、を顕現けんげんさせる矛盾は、奇跡と言うのでは無いだろうか。

 だから、彼らの道は、終わらない。それぞれが別の道に進んでも、それは一つの道だ。矛盾を生む力を持つ彼らは、この先何があろうと、きっと離れることは無い。

 矛盾を生む力は、誰にもある。だが、それこそ『奇跡』でも起こらない限り、その力を振るうことは適わない。


 だからきっと、これは奇跡の物語だったのだ―――――。

 

+++++++


幕終 Dreamer / end


Please, please, make your miracle.―――――aren't you?

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夢視 結城恵 @yuki_megumi

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