永遠の誓い

棗颯介

永遠の誓い

「おしどり人形っていうの。どこかの国じゃ結婚した夫婦が永遠を誓う約束みたいな感じで贈り物として贈られるんだって」


 “それ”を見たとき、懐かしくて暖かい、けれど切ない想いが様々な思い出と共に蘇った。

 あぁ、本当に懐かしい。そうだ、彼女は確かにそう言った。


 実家に戻ってきたのは五日前。就職を機に地元を離れた俺が数年間頑なに戻らなかったこの街に帰ってきたのは、やはり仕事がきっかけだった。なんてことはない、仕事で体調を崩して休職することになっただけ。世界のどこでもよくあること。退屈で何もない、ゆっくりと静かに死んでいくだけのこの街に自分が戻ってきたのは、いくら嫌っていてもやはりここが自分にとっての始まりの場所だからなんだろう。今までひたむきに走り続けてきた人生を振り返るには、やはり原点であるこの街に立ち返ってみた方がいいのかもしれないと、そう考えた。

 数年前に父が事故で他界した後、実家で慎ましやかに暮らしている母は快く俺を歓迎してくれた。どういうわけか、一度は独り立ちした子を迎える母親というのは、まるで賓客を扱うかのように息子を丁重にもてなしてくれる。歳を重ねてすっかり小さくなった胃袋にはとても入りきらない豪勢な夕食と、ことあるごとに「お菓子食べる?」「お茶入れようか?」などと尋ねてくる妙齢の母に内心苦笑しながら、俺はかつて自分が生活していた部屋の整理をしていた。大学進学を機に実家を出て以来、実家の後始末はロクにしていなかったし、昔のものを見ればいろいろと自分のこれまでのことを見つめ直すことができると思ったからだ。

 部屋の黴臭い押し入れに乱雑に仕舞いこまれた学生時代の教科書、ノート、プリント。友達と一緒に壊れるまで遊んだゲームソフトに何が面白くて買ったのか分からないラジコン。

 そんなガラクタに紛れて見つけたのは、一見ぬいぐるみのようで、しかし布の質感がどこか普通のぬいぐるみのそれとは違う、小さな鳥の人形だった。見た目はどう見ても鳥なのに人形というのもおかしな話だが、彼女はこれを「おしどり人形」と呼んでいたからここでは人形ということにさせてほしい。


 ▼▼▼


 俺と彼女が最初に知り合ったのは小学三年生の時だったはずだ。

 正直言って、その当時の俺から見た彼女の印象は、はっきり言って最悪だった。

 なぜなら、彼女は俺のストーカーだったからだ。

 休み時間になるたびに、彼女はいつも俺の後ろについて回っていた。男友達と外でサッカーをしていても、図書室で本を読んでいても、給食当番で食器を給食室に運んでいるときも、とにかく彼女はどこかしら俺の傍にいた。いや、傍にいるだけならまだいい。彼女は周りの同級生たちにも聞こえるようなレベルで俺に愛の言葉を吐いていた。毎日のように。


「私、君のことが好きです!」

「そうなんだ、分かったよ」


 毎日毎日クラスメイトの前でそんな風に告白されてうんざりしていた。他の男友達にはからかわれるし、相手が女の子だから乱暴なこともできないし、かといって優しくしてしまうとますます彼女は俺に夢中になった。

 もう何年も前のことだからそんな毎日がいつ終わりを迎えたのかは覚えていないが、少なくとも小学三年生の年の俺に良い思い出はない。

 ただ一つだけ嬉しかったことがあるとすれば、女の子に告白されたのは人生であれが初めてだったということだ。


 そんな彼女と俺の関係が再び動き始めたのは、それから五年後。中学二年生の時だ。

 これもあまりよく覚えていないが、俺たちの共通の友達がいて、なりゆきで彼女を含む友達連中で遊びに行くようになったのがきっかけだったはずだ。その頃の彼女は、小学生の頃のようなエキセントリックさは鳴りを潜めていた。歳を重ねたことで周りに合わせることを覚えたのかそれとも俺に興味が無くなったのかは分からないが、とにかく俺と彼女はようやく普通の友達になることができたんだ。

 中学生の頃の俺は、今となっては引くくらいのお節介焼きだった。ちょっと周りの同級生よりも学校の成績が良いことを鼻にかけて、みんなの前でカッコつけて痛いセリフを吐くような、本当に当時の自分を殴り飛ばしてやりたいほどにどうしようもない中二病患者だった。ただ、あの当時は間違いなく俺の人生のピークだった。毎日が充実していて、楽しくて、将来への悩みなんて何もなかった。数年後にこうなると知っていたら、当時の自分は笑うだろうか。

 少し話がそれてしまったけれど、とにかく当時周りの面倒を甲斐甲斐しく見ることの多かった俺は、彼女にも何かにつけて声をかけることが増えていった。勉強のこと、交友関係、家族との不和、そんなこと。詳しい内容はもう覚えていないけれど。

 俺と彼女はいろんなことで気が合った。好きなゲーム、考え方、人との付き合い方。話をするうちに彼女と俺の距離は徐々に縮まっていった。具体的に彼女のどこが気に入ったのかは分からないけれど、なぜか彼女と一緒にいると心が落ち着いた。俺の思春期特有の自意識過剰な悩みや家族への小さな不満も、彼女はすべてを受け止めてこちらの心を刺激しない極めて理想的な言葉を返してくれた。

 いつの間にか、小学生の頃の彼女のイメージは自分の中から消え失せていて、彼女が俺にとって友達以上の特別な存在になるのにそう時間はかからなかった。


 中学の卒業を控えた冬の日。確か卒業式の数日前だから三月には入っていたはずだ。詳しい経緯は覚えていないが、俺と彼女は海に行くことになった。彼女が「海に行ったことがない」と言ったから。俺たちの住んでいたこの町は海に面しているから、正直それは嘘だろうと思ったけれど、甲斐甲斐しかった俺は彼女に言った。


「二人で海を見に行こうか。夜の浜辺で波の音を聴きながら見上げる星空と、水平線から昇る朝日は本当に綺麗なんだ」


 その日、俺と彼女は夜中にこっそり家を抜け出して、二人で自転車に乗って海に来た。

 三月の夜の海はとにかく寒かった。寒いから厚着をしてくるようにとは事前に彼女にも言っていたけれど、厚めのジャンパーを羽織ってきても海辺から吹く夜風は冷たくて、俺は近くの自販機でホットの缶コーヒーを二人分買って一つを彼女に渡した。

 寒さに凍えながら二人で浜辺に座って、とりとめのない話をした。中学時代の思い出、同級生の恋愛事情やこれからの進路のこと。俺と彼女の声以外に聴こえるのは寄せて返す波の音だけで、空には満天の星が煌めいていて、あの時間は間違いなく、俺と彼女だけの時間だった。


「ところでさ、お前昔のこと覚えてる?」

「え?昔のこと?」

「あーあ、忘れちゃったのか。実はけっこう嬉しかったんだけどな」


 彼女に小学生の頃のことをそれとなく振ってみたのは、今の彼女が俺のことをどう思っているのかを確認したかったから。後のことなんて何も考えていなかった。ただ純粋に気になっただけだ。

 彼女がその問いに答えをくれたのは、水平線から太陽が昇り始めた頃。それまで俺の隣で座っていた彼女が徐に立ち上がって十メートルほど離れた後、不意にポケットの中が振動した。

 当時買ってもらったばかりの携帯のディスプレイには短いメールが映し出されていた。


【私がお前に告白したこと?】


 だから俺も、そのメールに対して簡潔な一言を返信する。普段から彼女とはよくメールをしていたが、実際に話すときもメールで話すときも口調や口数は全然変わらない。それが逆に心地よかった。


【うん】

【そっか】

【どうして俺に告白してくれたの?】

【優しかったから】


 確かに俺は優しかったかもしれない。でもそれは本心から優しかったわけではなくて、周囲で悪目立ちをしたくなかったから、大人に怒られたくないから人目を気にして行動していただけだ。彼女が好きになってくれた小学生の頃の俺は、誰かに好かれていい人間じゃない。

 だから、今度は本心から彼女に優しくしたい。


 俺は遠い海の向こうを見つめていた彼女に歩み寄った。今まで散々みんなの前でカッコつけていたのに、女の子に『好き』の二文字を伝えるだけのことがこんなにも難しいなんて。


「あのさ、俺、お前のこと……」


 言い淀んでいると、彼女は上着のポケットから小さな包みを取り出して、俺の手にそっと握らせた。


「なにこれ?」

「開けてみて?」


 包みのリボンを解くと、そこに現れたのは二羽の小さな鳥の人形だった。普通のぬいぐるみやキーホルダーとも違うようだが、何なのかがイマイチ分からない。


「鳥?」

「おしどり人形っていうの。どこかの国じゃ結婚した夫婦が永遠を誓う約束みたいな感じで贈り物として贈られるんだって」

「どうしたのこれ?」

「私が作ったの。私たち、中学卒業したら高校は別々になっちゃうでしょ?」


 彼女は俺の手にあった人形のうち片方を手に取った。


「ねぇ、今なら私の気持ち、受け取ってもらえるかな」

「……うん。俺も、お前のことが好きだ」


 光と波の音が祝福する世界で、俺達は永遠を誓い合った。


 ▲▲▲


 ———あの海に行くのも随分と久しぶりだ。


 こうしてこの町を歩くのは数年ぶりだが、何も変わらないと思っていたこの町も少しずつではあるが確かに変わっている。子供の頃によく親のお使いに行っていたスーパーはドラッグストアに変わっているし、誰が住んでいたのかもわからない古びた家は跡形もなくなっている。何も変わらないと思っていたこの町だって変わるんだから、人が変わっていくのも必然なんだろう。悲しいが仕方のない話だ。時の流れは変わらないことを決して許してはくれないのだから。

 永遠なんてない。今の俺はそれを知っている。


 中学卒業と共に付き合い始めた俺たちは、概ね仲の良いカップルだったんだと思う。休みの日にはよく二人でいろんな所に行ったし、お互いの高校での出来事や悩みを沢山話して、沢山愛を囁いた。

 彼女のことよりも、自分のことを優先するようになったのはいつからだったろう。

 彼女の声よりも、周りの声に耳を傾けるようになったのはいつからだったろう。

 自分の将来のビジョンに彼女が含まれなくなったのはいつからだったろう。


「別れよう」


 無情に告げられたその言葉を先に口にしたのはどちらだったろう。


 ———綺麗だな。


 腕時計で時間を確認すると、午後六時十八分。久しぶりに来た浜辺には誰もいなかった。町並みは微妙に変わっていたが、この場所はあの日の夜から何一つ変わっていない。静かすぎて役目を果たしているのか分からない防波堤も、まるで大きな生き物のように鎮座している消波ブロックも、リズムを刻むように耳に届く波の音色も、それに乗って時折聞こえる鳥の鳴き声も、すべてがあの日のままだ。もし永遠なんてものがあるとするなら、ある意味ここは永遠に変わらない場所なのかもしれない。

 あの日と同じ波打ち際に腰かけ、ポケットから古びたおしどり人形を取り出す。オレンジ色に染まった空を背景にそれを眺めてみる。何も見えはしないし、おしどり人形が鳴き声をあげるわけでもない。片割れと生き別れてしまった人形は、夕日の陰影も相まって哀愁すら感じさせた。


「永遠を誓う約束か」


 約束を破ったのは、きっと俺の方だ。少なくとも俺はあいつとの永遠を信じられなかった。だから俺は今一人なんだろう。

 約束を破って、自分の人生を生きて、やりたいようにやって、結局またここに戻ってきてしまった。なんて情けない話だ。自分がひどくちっぽけで、みじめで仕方ない。今の俺を彼女が見たらなんと言うだろう。

 俺は、この人形を捨てに来た。別に家のごみ箱に捨ててもよかったけれど、なんとなく、この場所で捨てた方がいい気がした。永遠を誓ったこの場所でこの人形を捨てることが、せめてもの供養になる気がした。

 海に投げ捨てようと立ち上がった時、懐かしい声が背中にかけられた。


「———君?」

「え?」


 振り返ると、そこには彼女がいた。高校を卒業してから一度も会うことはなかったから、本当に何年ぶりだろう。久しぶりに会った彼女は、学生時代の面影を残しつつも大人の女性として成熟していた。身につけている衣服も佇まいも、すっかり大人のそれになっている。


「…久しぶり」

「うん、本当に久しぶりだね」


 不思議とお互いに笑顔がこぼれた。かつて付き合い、そして別れたことによる気まずさはない。数年にわたる空白の時間が俺たちの溝を多少なりとも埋めてくれていた。彼女の笑顔を見たのは本当に久しぶりだしここ数年思い出すことすらなかったが、大人になった彼女の笑顔はあの頃よりもさらに美しくなっていた。


「どうしてこんなところにいるの?確か東京の方に行ったんじゃなかったっけ?」

「あぁ、今ちょっと実家に帰ってきてるんだ」

「そっか」


 彼女はあの日の夜と同じように俺の隣に立ち、そして砂浜に腰かけた。一度は立ち上がった自分も、なんとなく彼女につられてもう一度腰を下ろしてしまう。彼女の懐かしい香りが自然と漂ってくる。


「ここ、懐かしいね」

「そうだね」

「私も最近久しぶりに実家に帰ってきたんだ」

「そっか」


 俺たちは高校を卒業してからのことをいろいろと語り合った。大学で学んだこと、新しい出会い、楽しかったこと、辛かったこと、社会人になったこと、大人の世界で知ったこと、これまでのお互いの旅路を。

 俺も彼女も、互いの話に静かに耳を傾けていた。数年ぶりに会うというのに、俺は本当にいろんなことを話すことができた。ずっと憧れていた職に就くことができたこと。志望した会社で人一倍頑張って、主任としてプロジェクトを動かしていたこと。理想と現実のギャップを知り、徐々に心が疲弊していったこと。やがて、もう無理だと悟ったこと。

 夕日が西の空に沈みかける頃にはお互いに話したいことを話し尽くして、後には優しい静寂が流れていた。あの頃彼女とはあまり言葉を交わさなくても、不思議と気まずくなったり無理に会話を続けなければならないという強迫観念に駆られることはなかったが、それは今も変わっていないようだ。


「お前さ」

「ん?」

「昔のこと覚えてる?」

「そりゃ覚えてるよ?」

「じゃあこれは?」


 そう言って俺は手に持っていたおしどり人形を彼女に見せた。見た瞬間、彼女はハッと目を見開き、その後優しい笑顔を見せる。


「うん、もちろん覚えてる。まだ持っててくれたんだねそれ」

「久しぶりに実家に帰ったから部屋の掃除してたらこれ見つけてさ。なんだか懐かしくなってここに来た」

「そっか、嬉しい。実は私もそうなんだ」


 彼女は肩からかけていた鞄の中から古いおしどり人形を取り出す。

 離れ離れになっていた二羽が、ようやく再会した。

 ただ、彼女の人形は透明なガラス瓶の中にいた。細く丸められた白い紙と一緒に。


「メッセージボトル?」

「当たり。実はね、私この人形を海に流しに来たんだ」

「奇遇だな、俺も」

「そうなの?歳をとっても気が合うんだね私達」


 そう言いながら彼女は笑うが、肝心なことを聞けていなかった。


 ———その瓶に入ってる手紙は、誰宛てなんだ?


 聞かなくても分かる。俺だろう。その人形と一緒に手紙を届ける相手なんて世界で俺一人しかいない。

 そしてもう一つ。これも聞かなくても分かることだ。会った時から彼女の左手の薬指で夕日を浴びて光り輝く小さな指輪。さっきまでの会話では敢えてそのことに彼女は触れなかったようだが、きっと今の彼女には、永遠を誓い合った俺ではない別の誰かが傍にいるのだろう。


「あのさ、良かったら一緒に流さないか?」

「え?」

「人形、一緒に瓶に詰めてさ、流そうよ」

「……うん、きっとそれがいいね」


 俺はあの日彼女と分け合った人形を、彼女に返却した。

 彼女は受け取った小さな人形を透明な瓶に押し込むと、きつく蓋をする。

 手紙は読ませてほしいとは言わなかった。なんとなく、読まない方がいい気がした。彼女が手紙にしたためた気持ちだけでも永遠にしたいとでも思ったのかもしれない。


「じゃあ、いい?」

「……うん」


 俺の返事を合図にするかのように、彼女は勢いよくガラス瓶を海に投げた。まだ僅かに届いていた夕日の光がガラス瓶に反射し、美しい光の放物線を描きながら、それはやがてポシャンと音を立てて波に攫われていった。

 水平線の向こうまで果てしない旅を続けるのであろう二羽のおしどり人形を、空の赤が黒に変わるまで俺達は眺め続けた。


「……行っちゃったね」

「そうだな」

「ねぇ、私達また会えるかな?」


 また会える。そう言うことは簡単だった。でも、俺はこの世界に“永遠”だとか“絶対”だとか、変わらないものがないことをもう知っている。俺達自身が証明したことじゃないか。

 だから———。


「どうだろうね。会えるかもしれないし、会えないかもしれない」

「うん、そっか。そうだよね」


 でもさ、と彼女は続ける。


「また会えますようにって願いを込めて、『またね』ってお別れしたいかな」


 彼女に言われて気が付いた。

 あの日、この場所で俺と彼女は永遠を誓ったんじゃなくて、永遠を願ったんだ。どうか、俺達二人の愛が永遠に続くようにと。


「……うん、分かったよ」


 俺達は『またね』と声をかけあい、別々の道を歩いていく。

 俺達の願いは叶わなかったけれど、どうか、俺達の代わりにあの二羽の人形には永遠に一緒でいてほしい。

 そんなことを願いながら、俺は波の音に見送られて家路についた。

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永遠の誓い 棗颯介 @rainaon

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