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無名
*
彼女は、金曜日のいつも決まった時間に店へとやってくる。
狭い店内には、いつも何かしらの音が響いていた。それは英雄の詩であったり、泣き叫ぶ女性であったり、怒りながらまくし立てる男の声や、銃声、爆発、エトセトラ。古びた壁にはいくつものポスターやフライヤー類いが隙間なく張り重ねられていて、映画にまつわるものが所狭しに並んでいる。
重たい扉を開けてすぐに見える木造のカウンター。壁に寄せられたスタンドテーブルが二つと、それに併せて二つずつ備えられているスツール。薄暗いオレンジ色の照明に照らされた店内は、独特の雰囲気が漂っている。多くのポスターやフライヤーに囲まれている壁に、唯一ある空白。天井から吊り下げられたスクリーンに、プロジェクターで映し出された映画が淡々と流れていた。
「いらっしゃいませ」
ドアベルが響く音がすれば、反射的に声が出る。時計は22時を15分ほどすぎたところを指していた。
肩甲骨あたりまである長い黒髪。仕事中は縛っているようで、首付近にその跡が残っている。オフィスカジュアルのときもあれば、ダークスーツに身を包んでいるときもあるが、総じて丁寧にアイロンがかかっていて清潔感があった。
腰掛けるのは入口から一番遠い席。そこが埋まっていたらその近くを選んで座り、誰と話すわけでもなく、頼んだ酒を飲みながらただ流れているだけの映画をぼうっと眺めていた。この店で最初に頼むのは、決まってジントニックと、生ハムとオリーブ。
「いただきます」
できあがったカクテルとつまみを目の前に差し出すと、控えめな声が聞こえる。静かで抑揚は少なく、それでいて玲瓏な声だった。長い髪を耳にかけ、グラスを口に運ぶ。それだけの仕草なのに、彼女というだけで美しく見える。
思わずため息が出るほどの美しさ。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿はなんとやらだ。その姿は人を寄せ付けない。常連の紳士風の客が一度声をかけたことがあったけれど、あまりにもそっけなくあしらわれてしまったものだから、それ以上声をかける人はいなかった。
だから、急に話しかけられて驚いてしまっても仕方がないと思うのだ。
「今日の映画、タイトルは何ですか?」
メニューを告げる以外で、彼女の声を聞いたのは初めてだった。手元の酒はまだ残っているし、生ハムもオリーブもある。まだ次の酒を聞くタイミングではないと目を離していたところで「すみません」と、鈴のように響く声に心臓が跳ねた。
慌てて彼女に近寄ると、少しだけ申し訳なさそうに、壁に映し出される映像を指さして聞いたのだった。
「あ、これですか? えーっと……たかが世界の終わり、だったかな」
マスターに聞こうと思ったが、ウイスキーロックを片手に常連客と話し込んでいるものだからどうにも話しかけづらい。マスターから聞かされていたタイトルを曖昧なまま伝えると、彼女はそれを口の中で噛みしめるように呟いてスマホを取り出した。
「フランスの映画なんですね」
「あ、ああ……そうらしいですね」
それだけで、会話が止まってしまう。せっかく話せたのだから、もう少し何か話したい。なにか、なにかないだろうか。うろうろと視線を彷徨わせていると、スマホに視線を落としていた彼女が再び口を開く。
「映画、観ないんですか?」
「いや、まあ……そうッスね、あんまり」
一瞬見栄を張って観ていると言おうとしたものの、取り繕えるほど興味がないものだから正直に答えた。一番最近観たのは、見た目は子ども、頭脳は大人の小学生探偵のアニメ映画だ。映画を観なくても、酒と飯が作れればここでは働ける。映画好きのマスターに時々DVDを渡されるが、それらを観たことは一度もなかった。観なくても、マスターは怒らなかった。
「お客さんは映画好きなんですか?」
どうにか絞り出せたのは、聞かずとも答えは分かっているような質問だった。映画を全面に出しているこの店に来ている時点で、映画が好きに決まっているのに。こういうところが、マスターにまだまだと言われる理由なのかもしれない。
「そうですね、嫌いではないです。ひとりで時間を潰すのにはちょうどいいと思います」
彼女はすいすいと動かしていた手を止め、声には少しの困惑を滲ませる。自分の思った答えと違うものが返ってきたものだから、間の抜けた声が出てしまった。
「映画好きだと思いましたか?」
「ええ……いつも一人でいらっしゃって、ずうっと観ているのでてっきり」
「好きか嫌いかで言えば、好きだと思います。ただ、映画好きの方にしてみれば……」
あまりよく思われないかもしれません、と申し訳なさそうに苦笑する。平行に整えられた眉がわずかに角度をつけて、伏せられた瞼を縁取る長いまつげが揺れる。はっきりとしない返事に対して、なんと声をかければいいのか分からなかった。
「でも、観るのは嫌いじゃないんでしょう?」
「はい。もちろんです」
凜とした、迷いのない声。あと四分の一ほど残っていたジントニックを一気に喉へと流し込み、グラスが差し出される。彼女の二杯目はブッシュミルズのロックと決まっているから、注文を聞かずにロックグラスに丸氷を入れて、その氷に琥珀色をの液体を纏わせるように静かに注いでいく。
目の前のコースターに音を立てないように置くと、彼女はわずかに会釈をする。つるりと覗かせた球体のてっぺんを撫でる白魚のような指の先が、照明の反射でキラキラと輝いて見えた。
「ひとりで映画館に行っても、虚しくなるんです」
「誰かと一緒の方がいいんですか?」
「いえ、そういうわけではないんですけど……ときどき無性に、作品の空気感というか、雰囲気のようなものを共有したくなるときがあるんです」
単純だから「友だちと行けばいいのに」と思ったけれど、そういう話ではないらしい。絶対に、誰とも共有できないのだと彼女は言う。美しすぎるほどの見目に、淋しさが漂った気がした。
彼女は、それだけ言ってから視線を壁へと移した。映画は終盤へとさしかかっているらしかった。台詞は少なく、視線だけで表現する場面がいくつも見受けられた。どこかぎこちない家族が、幾度も怒鳴り合い、感情をぶつけ合っている。
「……寂しい映画だな」
思わず漏れた声は静かな店内で霧散した。
「お会計、お願いします」
腕時計を二度確認したのを見て、彼女の伝票を手に取ったところで声をかけられた。いつも決まった金額だから、もう計算しなくても書き留められる。彼女も、決まった金額をぴったりとカウンターに置く。
「今日の映画、すごくよかったです。マスターに伝えておいてください」
「はい、言っときます。あの映画、周りに観た人がいないって嘆いてたんで喜びますよ」
いただいたお金をカウンターの下に置きながら笑うと、表情の薄い口元がわずかに持ち上がる。椅子から下りて店を出ようとする彼女をつい呼び止めてしまった。
「あ、あの!」
「なんでしょうか」
「いや、その……もしよかったら、今度一緒に」
ぐ、と喉に何かが詰まったみたいに続きが出てこなくなる。映画を観に行きませんか。それだけを言いたいのに、口から出るのは言葉にも、うなり声にもならない何か。どうにかひねり出そうとしていると、代わりに彼女の方から聞いてくれた。
「……映画、ですか?」
「はっはい!」
ご迷惑じゃなければ、と付け加えると少しの沈黙が残る。考えているのか、黙り込んだ彼女を注意深く眺める。美人は三日で飽きると言うけれど、彼女の顔は何度見たって飽きそうにない。あ、唇の近くにほくろがある。
セクシーだな、なんて考えているところで下方へ向いていた視線がこちらへと持ち上がる。
「先ほどの映画、観てましたか?」
「え、まあ……接客してたのでところどころ……」
「どう思われました?」
どう、とはなんだ。なんと答えるのが正解だ。どうしたら彼女のお眼鏡にかなう?
どうと言われても、何もなかった。映画は横目に観ていたけれど、言っていることはほとんど分からなかった。字幕は追っていない。全体的に明度の低い映像は、スクリーンで一層ぼやける。大きな山場はなかった。怒鳴り合う家族。わかり合えない家族。
「……退屈で、よく分からなかった。でも、綺麗だとも思いました」
強烈な西日の中で向き合う母と息子の映像が、まぶたの裏にちらつく。じっとこちらを見つめる黒い瞳に、適当な感想を言うことは憚られた。もう一度小さな沈黙が訪れて、彼女が息を吐く音が聞こえた。
「ええ、わたしもそう思いました」
「えっ!」
「もしかして、おもしろかったと言うと思いましたか?」
「だって、今日の映画よかったって」
「よかったですよ。退屈で、つまらなくて、とてもわたし好みでした」
感情の浮かばない静かな表情で告げる。彼女が誰かと一緒に映画に行けない理由が、少し分かった気がした。
「それでも、わたしと行きますか?」
「も、もちろんです!」
間髪入れずに返事をすると、彼女は驚いたように目を見開いて口角を2ミリ上げた。
「来週の日曜日」
買って数週間で開かなくなったスケジュール帳に、数ヶ月ぶりに予定を書き込む。彼女が帰ったあと、マスターと常連客にからかわれたのは解せないが、埋められた一週間後の予定を見ればそんなことどうでもよくなる。
パソコンの画面に映るのは、マスターから借りた映画だ。何度観ても、退屈で仕方ない。それでも、彼女はこれが好きだと言った。興味がなかったDVDのパッケージを見つめ、気になったものをピックアップして積んでいく。
次に彼女が店に来るまであと5日。それまでに好きな映画の話をひとつ、できるようになりたかった。
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