第12話 another story めぐみ  いつかきっと






 貴樹君と早瀬さんのフィニッシュを見届けたわたしは、狭原高校を後にした。

 狭原高校前の府道を国道310号線に向かって歩いていると、

「めぐみ!」

 西村君が追いかけてきた。

「どっちが勝ったの?」

 駆けてきた西村君に、わたしはそう尋ねたが、本当はそんなのどうでもよかった。

「貴樹だよ。十センチくらいの差だったと思うよ。それにしても早瀬のヤツすごいよ。平気でインターハイの優勝タイムを出すんだからな。まいったぜ」

「すごいね」

 出来るだけ感情を込めたつもりだが、自分で分かる程抑揚よくようがなかった。

「1,500メートルの勝負は西村君が提案したのよね」

 気まずさを払拭ふっしょくしようと、わたしはどうでもいい質問をした。

「そうだよ。早瀬から聞いた?」

「ええ。でもどうして1500メートル走だったの?」

「そう思うよな。100メートルだったら普通に考えて貴樹が負ける要素はないんだけど、あいつ一年以上走ってないだろ? 今どれくらいで走れるか分からないし、もしかしたら早瀬の方が早いかもしれない。要するに、ハンディの基準が分からないんだよ。それに比べて1500メートル走は男子の必須授業だから、四月の記録を基準にすれば、ハンディを計る事が出来たしね」

「それじゃ1500メートル走に執着があったわけではなかったのね」

「まあね。とにかく互角の勝負するためのハンディだ。早瀬はとかく『ズルいと思われる事はしたくない』とそこにこだわっていたからな」

「ズルい……か、早瀬さんらしいわ」

 何だかわたしがそう言われているようで少し辛かった。

 そんなわたしを気遣ってか、西村君は満面の笑みを向けた。

「めぐみ、力になってくれてありがとうな」

「いいのよ。いつかしなくちゃいけない贖罪しょくざいだから」

「そうか…」

 西村君は一瞬だが笑顔の中にかげりを見せた。

 狭原高校を振り返り、もう一度わたしに目を向けた時はいつもの西村君に戻っていた。

 だけどわたしは気づいてしまった。

(この人、早瀬さんが好きだったんだ…)

「西村君も頑張ったね」

 とわたしが口に出した時、西村君は複雑な顔を見せた後、

「めぐみもな」

 と笑って見せた。

 府道と国道が交わる三津屋の交差点を赤信号で止まった時、長身の西村君がわたしを見下ろした。

「本当はさ、めぐみと貴樹がりを戻してくれたらって、考えていたんだ。いや、願っていたのかな」

「分かるわ」

「おれって、ズルいよな。早瀬の傷心に付け込んで……」

 そこまで言いかけて西村君は口ごもった。

「好きだったのね、早瀬さんが」

「ああ」

 西村君の目が少し赤かった。

「分かるよ、西村君の気持ち」

「だよな。めぐみなら」

「振られた者同士だからね」

 わたしが微笑むと、西村君も笑った。

 信号が青に変わった。

 西村村君の家はすぐ近くだった。それに貴樹君の家も。

「しばらく辛いかもしれないけど、頑張ってね」

「分かってるさ。めぐみも次の恋見つけろよな。お前美人なんだからいくらでもいい相手が見つかるさ」

「うん。わたしも頑張ってみる」

「じゃあな。それから、ありがとうな。これで明日からまた貴樹の友達でいられるよ」

 西村君は手を振りながら駆けて行った。

 三津屋の交差点を超えて西村君と別れた後、わたしは何となく三都神社の方に足を向けていた。

 その途中、左手の高台に見えるのがT学院大学だ。

 大学前の角度のある坂道を下ると池之内橋交差点に出くわす。

 そこを左折すればわたしの住む狭原ニュータウンに向かうのだが、三都神社を目指すなら直進しなくてはいけなかった。

 池之内橋交差点に差し掛かった時、わたしは思い出した事があった。

 あれは四月下旬の今日のような夕暮れ時だった。

 路線バスで帰るわたしの眼下を、自転車で二人乗りの男女が並走していた。

 それは貴樹君と早瀬さんだった。

 貴樹君の背中に抱き着く早瀬さんの幸せそうな顔が印象的だった。

 彼が狭原高校に通っているのは風の噂に聞いていたが、早瀬さんが同じ高校に通っているとは知らなかった。

(二人はついに出会ってしまったのね)

 いつかそんな日が来る予感はしていた。

 二人のスタブロを見たあの瞬間から、引け寄せ合うシンパシーを感じていたから。

 わたしは池之内橋交差点を直進する貴樹君たちを目で追っていた。

 だが、路線バスが狭原ニュータウン方面へと左折したので、それ以上の確認は出来なかった。

 ともあれ、二人の行く先が三都神社なのは間違いないと思った。

(きっと陸上を再開したのね)

 それはわたしが選手として高校の陸上部に籍を置く切っ掛けでもあった。


 

 交差点を直進しながら、わたしは早瀬さんから電話があった三日前の事を振り返ってみた。

 学校から帰って、ちょうど自宅の部屋に戻った所だった。

 早瀬さんは少し動揺した様子で貴樹君が東京に引っ越す話をした。

 どうしたらいいのか分からないと言う早瀬さんに、わたしは思いついた提案した。

「勝負しない?」

「勝負って、何?」

「わたしはわたしのやり方で、早瀬さんは早瀬さんのやり方で貴樹君にアタックするの」

「アタックって、それ告白って事?」

「そうよ」

「それが出来るくらいなら、わたし悩まないよ。だって一度振られているのよ、わたし」

「じゃあ、このまま何もしないで彼を見送る?」

「それは…したくない」

「そうよね。だからわたしに相談を持ち掛けたんでしょ?」

「うん、そうよ。余計別れが辛くなるとしても、堀内君との思い出が欲しいから」

「だからそこは早瀬さんのやり方で再チャレンジするのよ。攻め方を変えればいいと思うわ」

「攻め方を変える…」

「例えば、100メートル走で勝負を挑むとかね」

「ああ、なるほど」

「わたしが勝ったら東京に行かないで、とか」

「う~ん。でも、それは…言えないわ」

「まあ、今のは例え話よ」

「佐藤さんならどうするの?」

「わたし?」

 早瀬さんに聞かれてわたしは自問自答した。

(わたしはどうしたいの)

 だが考えるまでもなかった。わたしの望みはずっと前から決まっている。

「わたしは貴樹君に迫るつもりよ。捨て身で行くつもり。彼がもう一度わたしを振り向いてくれたなら、わたし両親を説得してでも、彼の後を追って東京に行くつもりよ。それでもいい?」

 早瀬さんの返事はなかった。

「準備にあたって、早瀬さんにお願いするのは一つだけ。『本日 三都神社境内にて待っています』のメモを貴樹君の靴箱に差し込んで欲しいの」

「それだけ?」

「そう。日時や差出人の名前は、意固地になっている貴樹君には、却ってマイナスだわ。ちょっぴり謎を秘めた、それでいて危険性の感じないメーセージの方が貴樹君の気持ちをそそるはずよ」

「佐藤さん、すごいね。堀内君の事、すごくよく分かってるね」

「そうかな」

 わたしは相手には見えない自嘲を浮かべた。

「佐藤さん。それで、その後どうしたらいい?」

「わたしの意見を言っていいかしら?」

「いいよ。わたしは佐藤さんにお願いしている立場だから」

 わたしは早瀬さんの言葉を素直に受け取った。

「それじゃわたしの提案…というよりわたしの主張なんだけど、貴樹君が境内に上がったら、まずわたしが先鋒せんぽうに立ちたいわ。わたしの思いのすべてを躊躇ちゅうちょしないでぶつけたいの。いいかしら?」

 そうなのだ。

 早瀬さんに先鋒を取られてしまったら、事の是非に関わらず、わたしの出る幕はなくなってしまう。

 わたしが勝てる唯一の策は、早瀬さんより先に貴樹君の出端ではなくじく事だった。

 わたしが抱えているたくさんの言い訳を聞いて欲しかったし、今も忘れられない貴樹君への思いを知って欲しかった。 

 早瀬さんには悪いけど、文字通り体を張って貴樹君に挑むつもりだ。

「ねぇ、早瀬さん。それでもいい? だって、わたしだって欲しいんだもの、貴樹君が」

 少し間があって、早瀬さんの返事が返ってきた。

「分かったわ。佐藤さんは佐藤さんの思いをぶつければいいわ。わたしはわたしのやり方で挑むから」

 交渉が成立した。

 後は翌日の夕方、貴樹君が下校するまでにメモ書きを下駄箱へ入れて、わたし達は三都神社に向かうだけだった。

 狭原高校は六時間授業だったが、わたしの高校は午前で終わりだったので、電車での帰宅時間を考えても時間にはゆとりがあった。

 早瀬さんと集合場所と時間を決めてから通話を終えた。



 わたしは三都神社の石段に下に立っていた。

 貴樹君と走った3%の勾配を振り返っていると、松原のおばあちゃんが自宅の窓から顔を覗かせていた。

「こんにちは」

 わたしが声を掛けるとおばあちゃんは驚いたような顔をした。

「めぐみちゃんやね。久しぶりぃ」

「ご無沙汰しています」

「昨日…いや一昨日おとといも来とったやろ? 綾乃ちゃんと一緒やったなあ。貴樹君も先に来とったやろ?」

「ええ。ご存じでしたか?」

「年寄りは暇やからね。何か変わった事はないかと、いつも窓の外ばかり見とるんや」

「そうだったんですね」

「まあ、めぐみちゃんも元気そうで安心したわ」

 松原のおばあちゃんは複雑な表情を浮かべていた。

「おばあちゃん。お気遣いありがとうございます。わたしも綾乃ちゃんも貴樹君も仲良くやっていますから。大丈夫ですよ」

 わたしはそれだけ言うとおばあちゃんにお辞儀をして、石段を上り始めた。

 おばあちゃんの指摘があったように、二日前わたしは早瀬さんと一緒に、この石段の下にいた。

 わたしは石段を上り、中程にある御手洗みたらしで立ち止まった。

 あの日、わたしはここで待つ早瀬さんに敗北宣言をしたのだった。




 石段を下り、御手洗みたらしで待つ早瀬さんにわたしは苦笑した。

「振られたわ、やっぱりね」

 早瀬さんには見られたくなかったが、わたしは涙を止められなかった。

「佐藤さん…」

 早瀬さんはわたしの体を抱き寄せた。

「大丈夫よ」

 わたしは早瀬さんの肩に手を置いてゆっくりと後退りした。

「早瀬さんの番よ。わたしは行くわ。それじゃ」

 わたしは早瀬さんに背中を向けて足早に下りて行った。

 御手洗みたらしにいれば二人の会話を聞けたが、自分が振られた以上、二人の顛末てんまつを見届ける気にはなれなかった。


 わたしが自宅に帰って間もなく早瀬さんから『勝負』の内容を聞いた。

 二日後の日曜日・午後四時に狭原高校のグラウンドにて1500メートル走で決着をつけると言うのだ。

 誰も使わない休日の校庭を借りるのは難しくなかったようだ。西村君が段取りしてくれたと話した。

「それで何を賭けたの?」

「わたしの彼氏になって、と言ったの」

「えっ?」

 わたしは次の言葉が出なかった。

 何の策略もない真っ向勝負のやり方に、わたしの思考の範疇はんちゅうを超えていたからだ。

 思わず笑ってしまった。

「えっ? 何で笑うの?」

「それって、単なる告白じゃないの」

「あ~あ。そうよね」

「それじゃ最初からわたしの協力なんて必要なかったわね」

 嫌事ではなく素直にそう思ったのだ。

「ごめんね。お膳立てしてくれたのに、結局オーソドックスな方法しか思いつかなくて」

「いいのよ。たぶんそれが、あなたらしさだと思うわ」

 わたしはこの人の事を憎めないと思った。

 早瀬さんはきっと何事に対してもストレートな人なんだとも思った。

(貴樹君にそっくり)

 わたしは二人が惹かれ合う根底にあるものを垣間見た気がした。



 境内に上がった時、わたしは貴樹君と破局するあの日の事を思い出してしまった。

 高柳君とのキスの現場を目撃された時、不本意だけどわたしはもう戻れないと悟った。

 それに貴樹君はわたしを部室に残し去ってしまったのだから。

 あの時は、貴樹君に申し訳ないと思う気持ちより、見限られた悲しさの方が強かった。

 わたしは振られたのだと思った。

(高柳君の気持ちに応えよう)

 わたしにはそれ以外の方法が見当たらなかった。

 好きなのかどうか分からないまま始まった高柳君との交際は、一見順調に見えた。

 わたしは出来るだけ楽しく振舞い、高柳君の気持ちに応えようとした。

 不安を抱えた貴樹君との交際があったから、わたしに好意を寄せてきた高柳君に、同じ思いをさせてはいけないと思ったからだ。

 高柳君は何処ででも手を繋ぎ、肩を抱いてきた。

 日に何度もキスをしてきた。さすがにそれは人目に付かないところだったけど。

 でも、夏休みに入る頃から、わたしは高柳君との日々に苛立ちを覚えるようになっていた。

 どちらかの家にいると、高柳君はわたしの体を触るようになってきたのだ。

 胸を触られるのは、嫌だけど、それだけなら我慢できた。

 でも、スカートの中に手を入れられるのは嫌だった。

「それはしないで。お願い、やめて」

「付き合っているんだからいいだろ?」

「だって嫌なの」

 そう言っていつも逃げていたが、生理の時に太腿を触られた時には、さすがに我慢の限界だった。

「わたし帰る!!」

 わたしは本気で怒ると、気弱な顔を見せる高柳君を置いて、彼の家を飛び出した。

 その日からわたしは彼を家に招くのを止めた。彼の家にも行かなくなった。

 高柳君は自分本位だったし、わたしに対しても女を求めていただけなのかもしれない。

 わたしにも落ち度がないわけではないが、わたしへの気遣いというものが全く感じられなかったのだ。

(貴樹君だったら、絶対こんな接し方はしなかった)

 いつも彼と比べてしまう。

 わたしの心には常に貴樹君がいたし、それに高柳君は好きではなくなっていた。

 いや、そうではない。

 最初から、彼を好きだと思った事など一度もなかった。

 傷心していたわたしの心の隙間に、彼が入り込んだだけなのだ。

 泣いているわたしにたまたま出くわして、その場の勢いでわたしを好きだと告げ、そして唇を奪ったのだ。

 その場に貴樹君がいた。

 見られていた。

 言い逃れが出来ないわたしには選択肢はなかった。

 目の前にいる高柳君にすがるしかなかったのだ。

(この人を信じてみよう)

 それだけでしかなかった。

 だけどそれは間違いだとすぐに気づかされた。

 高柳君と接する程に、貴樹君がどれだけの思いやりと優しさを以て、わたしに接してくれていたか、つくづく思い知らされてしまう。

(貴樹君の気持ちに気づいてあげなかったのは、わたしの方だ)

 だから、もうやめよう。

 新学期が始まった時、わたしは意を決して高柳君に別れを告げた。

「別にいいよ」

 彼もあっさりしたものだった。

「おれはお前の事そんなに好きじゃなかったから」

「ああ、そう」

 わたしは込み上げてくる怒りを抑えて、平静を装って彼に背中を向けた。

(くやしい)

 泣けてきた。

 高柳君との別れには何の痛みも感じなかった。

(こんな男のせいで、わたしは大切なものを失ってしまったのか)

 それが悔しくて、悲しくて、止めどなく涙があふれた。

(わたしは大切にされていたのだ。それなのに……)

 思いやりがあって、繊細で一途な貴樹君を、理解してやれなかった自分に一番腹が立った。


 

 三都神社の蝉時雨せみしぐれが耳に届いて、わたしは回想から覚めた。

 わたしは三都神社の境内を見回した。

 二日前、本殿の下に貴樹君は立っていた。

 貴樹君が望むなら、高柳君には許せなかった行為も含めて、わたしは何をされても構わない覚悟で臨んだ。

 誘惑してでも振り向かせたいと思った。

 だけど彼は、胸に飛び込んだわたしを抱きとめてもくれなかった。

 それでも最後には、わたしを大好きだったと言った。

 あの頃の優しい眼差しを最後の最後に見せてくれたのだ。

(ありがとう、貴樹君)

 貴樹君がわたしの話を最後まで聞いてくれたのが嬉しかった。

 そして彼は全てを許してくれた。

(だけど……)

 それは本当の意味での決別だった。

 憎しみとか恨みといった強烈な念がある限り、わたしは彼の心に強く留まる事が出来た。

 だけど、貴樹君がわたしへの憎悪を解き放った瞬間、全てが『思い出』という大海原に飲み込まれ、やがて消え行く運命を辿たどるのだ。

(やっぱり悲しいな)

 夕焼けが眩しく、蝉時雨がやかましい筈なのに、わたしは暗い静寂しじまの中にいた。

(寂しいよ…貴樹君)

 わたしだけが貴樹君を思い出に出来ないでいた。



 十月に入って高校陸上秋季大会が始まった。

 わたしは進学校でありながら、相変わらず陸上に力を入れていた。

 長居陸上競技場の中央ゲートに入った時、駆け寄りながらわたしに手を振る早瀬さんがいた。

「佐藤さん、こんにちは」

「早瀬さん、久しぶりね。調子はどう?」

「もう、バッチリよ」

「早瀬さんらしいわ」

 元気一杯の早瀬さんに思わず笑ってしまった。

「綾乃、ここにいたのか」

 わたしたちの傍に貴樹君がやってきた。

「やあ、めぐみ。久しぶりだね。元気かい?」

 あの日、三都神社で別れて以来の再会だった。

「ええ……」

 頷いた後、何か言葉を続けたいと思ったが、空っぽの心からは何の言葉も生み出せなかった。

 貴樹君は100メートル走にカムバックしていた。

(どんな走りをするのだろう)

 正直なところ、そこには興味があった。

「あのぉ、ごめんね」

 と早瀬さんが申し訳なさ気にわたしに耳打ちした。

「何を謝るの?」

「今更なんだけど、貴樹君の引っ越しの事で、早とちりして、佐藤さんまで巻き込んでしまって、本当申し訳ない」

「ああ、その事ね」

 わたしはクスッと笑った。

 貴樹君と早瀬さんの勝負があったその夜、すでに電話で釈明を受けていた。早瀬さんと会うのもその日以来だった。

「いいのよ。わたしにとってもいい切っ掛けになったから」

 言いながら貴樹君を見た。

 貴樹君は少しバツが悪そうな顔をしたので、わたしは満面の笑みを浮かべた。

 間もなく100メートル走の男子の部が始まるので、貴樹君はその場を離れた。

 わたしは早瀬さんとメインスタンドに上がった。

「中学の時とは立場が逆になったわね」

 嫌味ではなく、率直な気持ちが、わたしの口をついて出た。

「佐藤さん……」

「ゴメンなさいね」

 困った顔の早瀬さんにわたしは苦笑した。

「やっぱりね……わたし貴樹君を、忘れられないの」

「分かっているよ」

 と早瀬さんは小さく頷いた。

「でもね、早瀬さんも好きよ」

「ありがとう。わたしもよ」

 眼下に見下ろすホームストレートには第一組の走者八名がそれぞれのレーンについていた。

「ゴメンね、不安にさせる事言ったりして」

「いいよ。正直に話してくれて嬉しい」

「ありがとう。ズルいと貴樹君によけい嫌われてしまうからね」

 第一組が走った後、すぐに第二組が出てきた。

「わたしは陸上を、100メートル走を続けるわ。今度はわたしが貴樹君を追いかける番よ」

 早瀬さんはそれを宣戦布告と捉えたかもしれない。

 わたしはどういう意図を以て彼女にそれを告げたのか、自分でもよく分からなかった。

 一つ言えるのは、今の気持ちに正直でありたいと思っただけなのだ。 

「安心してね。彼を誘惑したり、横取りしたりなんて考えてないから」

 そう言って微笑んだ後、わたしは真顔で早瀬さんを見つめた。

「だけど、あなたが一瞬でも彼を手放したりしたら、わたしは遠慮しないわよ」

 こんな話をするつもりなどなかったのだ。

 なのに心の奥底に仕舞い込んだ貴樹君への思いが、ひょっこりと顔を覗かせてしまった。

「いいよ」

 早瀬さんは笑顔の中にも強い意志を持った眼差しでわたしを見つめた。

「わたしは貴樹君を絶対に放さないから」

 わたしは無言で頷く事しか出来なかった。

 ホームストレートにはすでに第四組の走者が準備していた。

 貴樹君の出番だ。

「貴樹君って、今何秒でで走っているの?」

 わたしが聞くと早瀬さんは、分からないと答えた。

「タイムを計ってないのよ」

「じゃあ、今日が初めてのタイムなの?」

「そうよ」

 早瀬さんは緊張した面持ちで、クラウチングスタイルの貴樹君を見つめた。

 わたしも手すりを握る手に力がこもった。

 号砲が鳴った瞬間、貴樹君が抜け出した。

 50メートルラインを超えた時には、二位以下を10メートル近く引き離していた。

 まるで大人と子供の駆けっこだった。

 圧巻の走りでフィニッシュラインを駆け抜けた貴樹君にスタジアムはどよめいた。

 そして電光掲示板にそのタイムが表示された時、大きな歓声が沸き起こった。

      10秒68

「すごい! すごいよ、貴樹君」

 早瀬さんはかなり興奮していた。

「佐藤さん、ごめんね。ちょっと行ってくる」

 早瀬さんはメインスタンドの階段を駆け下りて行った。

 間もなく、眼下のダッグアウトの中で、向かい合う貴樹君と早瀬さんの姿を見つけた。

 わたしは手を取り合う二人から視線を逸らした。



 男子100メートルの決勝の結果は言うまでもないだろう。

 女子100メートルにおいても早瀬さんの圧勝だった。

 前回の大阪大会に続いて、わたしは早瀬さんと同じ決勝の舞台に上がった。

 タイムは12秒62で五位。 

 自己記録更新だった。

 この順位なら近畿大会にも出場できる。

 それでも早瀬さんとのタイム差は1秒あまり。

 貴樹君を巡る早瀬さんとの恋の距離程に大差があった。

「めぐみ、よく頑張ったな。正直お前がここまでのタイム出すなんて思ってもみなかったよ。おめでとう」

 スタジアムの入口ゲートですれ違った時、そう言って褒めてくれた貴樹君の言葉が嬉しかった。

「ありがとう。貴樹君が見ていてくれたからよ」

「あのさぁ」

 と貴樹君は申し訳なさそうな顔をした。

「改めて言うのも変だけど……今まで、ごめんな」

 わたしはクスクスと笑った。

「どうしたのよ」

「いや、なんて言うか、めぐみばかり悪者にしていただろ? 今でもそうなんだけど、あの頃は今以上に女子の気持ちが分からなかったから…。それなのに、めぐみの事をちゃんと分かってあげられなくて……めぐみを傷つけてしまって…。三都神社の一件の後、ちゃんと謝りたくて……。でもどう謝っていいのか分からなくて……」

 しどろもどろする貴樹君に、わたしは胸がキュンとなった。

「いいのよ、もう。別れの切っ掛けを作ってしまったのは、わたしなんだから」

 その時わたしは、貴樹君の肩越しにこっちを意識する早瀬さんに気づいた。

「ねぇ、貴樹君」

「なんだい?」

「早瀬さんがわたし達を気にしているわ」

「えっ?」

 貴樹君が振り返ると、早瀬さんは慌てて視線を逸らした。

 わたしは貴樹君の手を引いた。

「いい、貴樹君。早瀬さんの所に戻ったら『大した話じゃなかった』なんてうやむやにしては駄目よ。他の女子と話している所を見ると彼女としては不安になるものだから。わたしたちがどんな会話をしていたか克明に話してあげるのよ。分かった?」

「ああ、分かった」

「特に元カノの存在は、今カノからすれば不安材料でしかないの」

(わたしは何をアドバイスしているのかしら)

 自分でもあきれていた。なのに更に続けていた。

「大好きだからその分不安で仕方ないの。大切なのは言葉よ。だから、早瀬さんが不安そうな時は必ず『好きだ』って意思表示を忘れない事。これ、元カノからのアドバイスよ」

「それって、おれがめぐみに対して欠けていた事だよな」

「もういいのよ」

 わたしは貴樹君の背中を軽く押した。

「早く行ってあげて」

「ありがとうな、めぐみ。それじゃ」

 彼女の元に駆けて行く貴樹君の背中を見るのは、あの日の部室を思い出して少し悲しかった。

 貴樹君が早瀬さんの傍で何やら話した後、早瀬さんはわたしに手を振って見せた。



 その夜早瀬さんから電話があった。

「佐藤さん、気を遣ってくれてありがとう」

「いいのよ」

 どうやら貴樹君へのアドバイスは生かされているようだ。

「貴樹君もわたしを通して学んだはずよ。だから、早瀬さんも邪推じゃすいなんかしないでちゃんと彼を信じてあげてね」

 ねたみがあったのかもしれない。わたしは邪推なんて言葉を使っていた。

「ごめんなさいね、少し言葉が過ぎたわ」

「ううん、いいの。嫉妬しっとしていたのは本当だから。わたしにとって佐藤さんは、やっぱり最強のライバルよ」

「そんな事ないわ。彼の心の中は早瀬さんで満ちているわ。早瀬さんは近過ぎて、逆に見えなくなっているだけなのよ。あの頃のわたしのように。わたしね、今になって思うの。わたしは本当に貴樹君に愛されていたんだって」

「佐藤さん……」

「いいのよ、わたしの事は。早瀬さんは決して同じ過ちを犯さないでね」

「ありがとう…佐藤さん…本当に……ありが…とう」

 喉を詰まらせた早瀬さんの声だった。

「ちょっと、やめてよ…なんで……」

 わたしも声が詰まりそうになった。

「泣かないでよ……早瀬さん…」

「ごめんね。本当にごめんね。辛いのは佐藤さんの方なのに……」

「もう、やめてよ……」

 携帯電話を握りしめたわたしは、立ち尽くしたまま涙が止まらなかった。

 電話の向こうでも、聞こえてくるのは早瀬さんのすすり泣きだけだった。




「めぐみ、狭原池でクリスマスイルミネーションやってるんだって。見に行かないか?」

 二学期末テストが終わった頃、西村君から電話があった。

「うん、いいわよ」

「じゃあ、24日のクリスマスイブの夜に狭原池博物館前でいいかな?」

「待ち合わせの時間は?」

「夕暮れが早い時期だから、五時でいいかな?」

「分かったわ」

「それじゃ、待ってる」

 西村君からの電話は切れた。

 早瀬さんと貴樹君の1500メートル走勝負の日以来、西村君とは月一くらいのペースで会っていた。

 別に恋人になったわけではなかった。

 狭原市内の公民館や図書館のイベントに参加して、喫茶店でお茶して帰るだけの、『友達』の域を出ない関係だった。

 恋の負け組同士が何となく意気投合している、そんな感じだった。

 


 指定の時間に狭原池博物館前に行くと、薄暗い中、人影まばらなエントランス広場に、西村君が立っていた。

「ごめんね、待たせちゃった?」

「いや、今来たばっかりだよ」

 西村君が男子の定番セリフを吐いたので、わたしは思わず笑ってしまった。

「ち、ちょっと。何笑ってんだよ」

「ごめんなさい」

 笑ってしまった理由を話すと、西村君は苦笑した。

「考える事はみんな同じってわけだ」

「ところで、もしかして、イルミネーションって、これなの?」

 博物館前の周遊路に、電飾をぶら下げた何のキャラクターか分からない数体の人形が、狭原池に背を向けながら二十メートル程の間に、数体点在していた。

「これしか、ないよな」

 西村君は狭原池周辺を見渡しながら、最後に目を置いたのは、やはりその電飾人形だった。

「広報に載せていた割には、なんか、やる気を感じないな」

「ほんとね」

「せっかくだから角度を変えて見てみるか」

「ええ」

 西村君は周遊路からつつみを下った。

 どうやら狭原池に背を向けて下から見上げるつもりらしい。

「こっちの方がよくないか?」

「そうかもしれないけど、あまり変わらないわね」

「だよな」

 西村君は苦笑いした。

「みんなチラ見しただけで去っていくよな。少し期待したんだけどねぇ」

「わたしもよ」

 わたしはクスクスと笑った。

 こんな風に西村君といると、正直楽しい。

 いつもお道化たような物言いをするけど、相手に不快感を与えない才能のようなものを彼は持っている。

 だけど彼はいつもお道化てばかりではない。

「なあ、めぐみ。おれは時々思うんだよ。あの時、おれが貴樹とめぐみの間に入っていれば、今頃はきっと、違った展開になっていたかもしれないなって」

 こんな風に、心にまっている話をする時は、シリアスな口調になる。

「もういいじゃないの、その話」

「まあ、確かに終わった事かもしれないけどな。高柳との一件があった後、おれがめぐみを問いただしていれば、おれを介して貴樹も理解してくれたと思うんだ」

「どうかな、それ」

 わたしは、すっかり日が落ちた暗がりの中のイルミネーションを見上げた。

「元通りにはならなかったと思うわ」

「どうして?」

「だってわたしは貴樹君にとって、他の男子とキスした『けがれ』でしかなくなっていたのよ」

「そんな事ないだろう」

 わたしは首を横に振った。

「あの場面を目撃された瞬間、わたしの信頼は完全に失墜したのよ。たとえ彼が理解を示してやり直したとしても、心の底に芽生えた不信感は、もう消えないわ。どの道わたしは貴樹君とは上手くやれなかったと思う」

 西村君もイルミネーションを見上げた。

「そうかもしれないな。それならさぁ、これから先の事、ちゃんと考えて進まないといけないと思うんだよ。おれもめぐみも。それにおれたちって、結構理解し合える気がするんだ」

 西村君が言わんとする所が、なんとなく理解できた。

「それって、わたしと西村君が付き合うって事?」

 わたしは西村君の顔を斜めに覗き見た。

 彼は少し戸惑った姿勢のまま、コクリと頷いた。

「だからと言って、いきなり恋人らしい関係を迫っているんじゃないぞ。今の関係でいいんだよ、しばらくは。それを意識した中で付き合っていかないかって言っているわけだよ」

「だけど……」

 とわたしが言いかけた時、西村君は「シッ」と自分の唇に人差指を立てた。

 西村君の見上げる先に、手を繋いで周遊路を歩く男女がいた。

 貴樹君と早瀬さんだった。

 わたしは息を呑んで二人を見つめた。

「これがイルミネーション? 酷くない?」

 早瀬さんが言った。

「狭原は田舎だからね。都会のイルミネーションを期待しちゃいけないよ」

「貴樹君は都会のイルミネーション見た事あるみたいね」

「ん? ああ、まあ…」

 貴樹君がぎこちなく返事を返した。

 きっとわたしと二人で見た、大阪南の大きなクリスマスツリーを思い出したんじゃないのかしら。

「誰と行ったのかな?」

 早瀬さんが意地悪な顔で貴樹君を見つめた。

「何だよ。中二の時だからいいだろ? めぐみとだよ」

「じゃあ、高二のクリスマスは、今度はわたしを連れて行ってね」

「もちろんだよ」

 貴樹君はイルミネーションを見ながら、早瀬さんに横顔を向けたまま答えた。

 早瀬さんは周囲に目を配っていた。誰もいないと確認すると、早瀬さんは貴樹君の腕を取った。

 貴樹君は決して背が低いわけではなかったが、長身の早瀬さんが横に並ぶと五センチほどの身長差しかなかった。

 わたしと西村君はきっと彼女の位置から死角になっていたと思う。

 イルミネーションの光で赤色に染まる早瀬さんの瞳に、わたしは彼女の決意を感じ取っていた。

「ねぇ、貴樹君」

 貴樹君の腕を取る早瀬さんが、彼の耳元で呼んだ。

「ん?」

 と振り返る貴樹君の顔に、早瀬さんは顔を近づけ、そっと唇を密着させた。

 実際には二・三秒だったと思う。

 だけど、わたしにはその何倍も長く感じてしまった。

 早瀬さんが唇を離した後の貴樹君の表情で、わたしは分かってしまった。 

(二人の、初めてのキスだったのね)

 わたしは自分の胸が本当に締め付けられるような感覚に陥っていた。

 元カノだという意識があってさえ、こんなに苦しいのだ。

 彼女だったわたしと高柳君のキスの現場を目撃した貴樹君の胸の内は、どんなだっだろう。

 わたしには想像も出来なかった。

 そして、

(わたし……貴樹君にちゃんと謝っていない…)

 今頃その事に気が付いた。

 ふと、隣りでたたずむ西村君の目が充血していた。

 西村君はわたしと目を合わせると、手の甲で目をこすった。

 わたしは再び堤の上の二人を見た。

 貴樹君は早瀬さんを抱き寄せると、ぎこちなく唇を重ねた。

 キスの後、貴樹君は照れたよう笑みを見せた。

「行こうか、綾乃の家に」

「うん。お父さんも、待ってるよ」

 そう言って腕を組むと、二人はわたし達に背中を向けた。

「めぐみ…すまん」

 と西村君が押し殺した声で言った。

 顔を両手で覆っている。涙が止まらないのだろう。

「今さっき言った事…忘れてくれないか…」

「分かったわ」

 そうなのだ。

 わたし達は単に傷を舐め合っていたに過ぎなかった。

 きっと、西村君も早瀬さんへの未練が断ち切れないでいるのだ。

 こんな状態での付き合いは決して長続きするとは思わなかった。

「バス停はすぐそこにあるから、わたしは一人でも大丈夫よ」

 わたしは西村君の気持ちを察してそう言った。

「めぐみ…ごめんな」

 西村君は俯いたまま駆け上がって周遊路に出た。そして早瀬さん達とは逆方向に走って行った。

 後に残されたわたしは周遊路を東に歩く貴樹君たちを追うよう、つつみの下の多目的広場を、同じ方向について歩いた。

 わたしは自身何がしたいのか分からないまま二人の後をつけていた。

 ふと、短くそろえた早瀬さんの髪が揺れた。

(……!!)

 わたしはその時、髪を直す仕草を見せながら、一瞬だがわたしと目線を合わせた早瀬さんを見逃さなかった。

(気づいていたんだ……)

 わたしは心に引っ掛かっていた何かがパラパラとほどけて行くのを感じた。

 さっきのキスがそうだ。

 唐突に、しかも初めてのキスを、なぜあのタイミングでしたのか、そこに引っ掛かっていたのだ。

(あの時、きっと…)

 貴樹君はともかく、早瀬さんは堤の下からイルミネーションを見上げるわたしに気付いていたのだ。

(貴樹君は渡さない。わたしのものよ)

 早瀬さんはそれをわたしに誇示したかったのだ。

「そういうことね…」

 わたしは早瀬さんが嫌いじゃない。彼女も多分同じ気持ちだ。

 だけど、貴樹君が絡むとわたしと早瀬さんはライバルだ。

 貴樹君に対する思いはどちらも誠実で真っ直ぐだが、女の戦いに、本物の誠意なんてものは存在しないのだ。

 わたしが二人に色々アドバイスするのは、真ある姿を売り込むための、策略ゆえの誠実なのだ。

 貴樹君にとって今のわたしは、他の男子に唇を許した「けがれ」でしかなかった。

 だから苦しくても今は、早瀬さんとの恋の成就に目をつむらなければならなかった。

 いつか訪れるだろう二人の破局によってもたらされる、わたしの「穢れ」が払拭されるその瞬間を、虎視眈々とわたしは狙っているのだ。

 早瀬さんもきっと気付いている筈だ。

 貴樹君の隣りを取って代わるための、わたしの遠謀に…。

 だけど、これだけは分かって欲しい。

 貴樹君への思いに一片の曇りがない事を。

 それを成就させるための女同士の戦いなのだ。


 貴樹君と早瀬さんが周遊路から堤防の外側へと姿を消した。

 確かこの辺りにあるのが早瀬さんの家だと聞いている。

 一人になったわたしは、強く心に誓った。

 いつかきっと、貴樹君の隣りを取り戻したいと。

 そのためにわたしは二人の恋を精一杯応援しようと思った。

 そして早瀬さんへの誠意の代価は、彼女の涙だ。

 貴樹君がこれを知ったら、やっぱり言うだろうか。

『女はズルい』と。




                               完結


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女はズルいよ 白鳥かおる @seratori

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