残影

佐渡 寛臣

残影

 酷く蒸した夏だった。アスファルトからじわじわと熱気が立ち上る。それがワンピースの中を通り抜けるように感じられて、加奈は堪らず日差しをよけて道路の端を歩く。

 大きな麦わら帽子をかぶり、汗で頬に黒髪が張り付く。茶色のヘアゴムでまとめた背中にかかるくらいに伸びた髪が歩みの度に左右に揺れる。

 青々とした木々の揺らめく影を踏みながら、一人、家路を急ぐ。郵便配達員のバイクとすれ違い様、振り返る。首からタオルを下げた父の姿がふと頭をよぎる。

 毎年、夏休みになると友達の家に遊びに行く最中、そんな父とすれ違うことがあった。声をかけることもあったし、ただ通り過ぎるのを眺めるだけの日もあった。

 手に持った袋の中を覗き込んで、ため息をつく。小玉といえど西瓜はやはり少し重たい。

 父はよく夏になると仕事の帰りに西瓜を買ってきてくれた。庭に水をやる姉の後姿を見ながら、よく縁側で食べたものだ。

 加奈は袋を持ち直して、影の中を歩く。熱気に頭をぼうとさせながら、考えることをやめてただ歩いた。

 赤錆の浮いた古びた門を開けると、加奈は思わず立ち止まった。強い日差しを頭から浴びながら、ただ立ち尽くす。右手すぐに庭がある。今は母が世話をしている小さな庭だ。色とりどりの花が賑やかに庭を彩っており、それを望む縁側を加奈は見つめていた。

 男がいた。和義という。半袖の白のワイシャツに少し汗が滲んでいた。年の頃は加奈よりも遥かに年上で、三十を過ぎていた。

 和義が加奈に気付いて、顎をほんの少し下げる程度の挨拶をする。加奈も、他人行儀に目を伏せるだけの返事を返して、玄関をくぐった。

 台所にいる母にただいま、と告げて西瓜をテーブルの上に置く。加奈は母に気付かれない程度に平静を装い、ゆっくりと縁側にいる和義の背中を眺めた。

 一本、煙草を取り出して、和義は新品の百円ライターで火をつける。白い煙が宙を舞い、和義はそれを目で追って、そしてまた庭の花を眺めている。

 虚空を眺めている、というのだろうか。加奈からは何を見ているのか見当も付かず、しかしその細い背はどこか哀愁が感じられた。

「――和義さん、今年も来てくれたわね」

 加奈の後ろで母が呟くように言った。振り返ると母は背を向けて、台所で西瓜を切り分けていた。加奈はそのまま母の傍に立って、西瓜が皿に盛られるのを静かに待った 

 和義さんに、と母は皿を加奈へと差し出す。見上げると母は少しばかり哀しそうな目で加奈を見下ろす。加奈は髪を結んでいたヘアゴムを外して頭を振る。解けた黒髪が背中にまとわりつくように広がり、しんと身体に沿う。西瓜の皿を受け取ると母はエプロンで手を拭いて、軽く加奈の頭を撫でた。

 加奈が西瓜の皿を持って縁側に立つと、それに気付いて和義さんはすぐに煙草の火を消してしまった。

「どうしたんだい」

 にっこりと微笑んで言う。優しい声だ。

 縁側では夏の匂い――これは草花の匂いと言っていい。その香りが風に運ばれて鼻腔を擽る。遠くの蝉の声は絶え間なくともやかましい程度ではなく、ずっと心地いい。

「――何を、していたんですか?」

 たっぷり間を置いてそう訊ねる。加奈のそんな問いに、和義は顔を顰める。困らせるつもりはなかったのだが、そんな表情を見せればただ単にぼんやりと庭を眺めていただけではないことくらい、加奈にもわかった。

「煙草、消さなくてもよかったのに」

 言いながら加奈は和義との間に西瓜の皿を置いて、腰かけてぶらりと足を庭へと放り出す。

「子どもの前では吸わないって決めてるからね」

 そう言って和義はライターも胸ポケットにしまい、ぽんぽんと叩く。加奈は西瓜を一つとって和義に手渡す。自分も一つ、手に取ってくしゃりと齧る。

「普段は吸っているの?」

 和義は首を横に振ってまた、困ったように眉を顰めて苦笑いを浮かべる。今度は困らせるつもりで言った。

 加奈はお尻をずらして、和義に近づき片手をついて、顎をほんの少し上げて顔を近づける。何かを強請るような、そんな仕草に、和義は目を細めて、そっと加奈が近づけたその右頬を親指で拭った。加奈の目の傍にある少し目立つくらいの小さな火傷痕。触れられると少し擽ったくて、加奈はくすくすと笑う。

 そうして加奈はまた西瓜を齧り、庭にぺっと種を吐き出す。

「あれから全然なんでしょう? だってそれ、お父さんの煙草だもの」

 驚いて目を丸くする和義に、加奈はまたくすくすと笑う。そうして目元を拭うように火傷の痕を擦る。

 かつてリビングで煙草を吸うと決まって母に怒られ、背を丸くしてバツ悪そうに舌を出し縁側に逃げる父の姿。抱き着くといつもその匂いがした。

「あの時お姉ちゃん、ヒステリックに怒ったよねぇ。お父さんも悪くないのに一緒になって怒られてさ。別に何ともなかったのに取り上げられちゃって」

「お父さん“は”悪くない、だよ」

 間に割り込むように和義が言った。ほんの少し、そうとわからないくらいに語気が強かったように思う。加奈は小さなため息をこぼしてちらりとそんな和義の表情を伺った。

 思いつめた表情、というのだろうか。加奈の一番嫌いな和義の表情だ。

 いつも、である。加奈がこの話をする度に和義はこの表情を加奈に見せるのだ。その度に加奈はいつも思う。夏になる度にこの話を蒸し返すのはもう止めにするべきなのか、しかしそれが加奈に出来るはずがない。

 誰が悪いわけではない、と許すつもりが加奈にはない。あの夏、父に呼ばれて振り返りった和義。その傍に駆け寄った加奈。和義の手元には火のついた煙草があり、加奈の目元にそれが当たった。ほんの数センチずれていたらと思うと、姉が怒る気持ちもわかる。親指でぐりぐりと火傷の痕を押す。柔らかな指に微かな抵抗を感じながら、横目で和義を見つめる。

 和義はその視線から逃れるように庭に目をやり、西瓜を齧る。加奈は裸足の自分の足を見つめながら、あの夏、わんわんと顔を抑えて泣く自分の姿が浮かぶ。涙で景色が歪み、その向こうで顔面蒼白に見下ろす姉の姿があった。

 年の離れた姉、真由美にとって加奈はある意味娘のような存在だったのだろう。溺愛されていたし、そんな姉を加奈も好きだった。

 和義はそんな真由美の最後の恋人だった。家族ぐるみで付き合いも深く、だからこうして姉が亡くなった後も、盆の季節になるとこうして家を訪れて一日を過ごす。そんな和義の姿を見れば、加奈はいつも声をかけずにはいられなかった。

 話しかけるきっかけはいつも同じだった。

 こうして縁側で父の好きだった煙草を吸いながら、真由美が世話していた庭を眺めている。そんな和義に母が切ってくれた西瓜を加奈が運んでいく。

 これも父の好きだったものだな、と加奈はくすりと笑う。

 愛されている家族なのだ。ずるいとさえ思う。加奈は年々、自分が嫌な人間になっているのを感じてしまう。父も、姉も、どちらを思い出しても、である。

「――加奈ちゃんはこういうとき、どうしてる?」

 ふと和義が虚空を眺めていった。質問の意図が汲めず、加奈はそんな和義の視線を追って庭先を見つめるが、ただそこには母の世話している庭があるだけだった。

 姉、真由美はガーデニングが趣味だった。今ではそれを母が継いでいる。いやそもそも母から姉へ継がれたものか、加奈は下唇を噛んで頭を振る。

 こういうとき、とはどういうときだろう。和義の見つめる先が見えず、加奈にはわからなかった。訊ねることが、どうしてか加奈には憚られた。和義の瞳にはまるでなにも映っておらず、加奈にはそれが少し哀しく思えた。

 ややあって加奈には長く、しかしおそらくはほんの一瞬の間を置いて、和義が口を開いた。

「僕はね、どうにも出来ずに時間が過ぎるのを待ってしまうよ。こうしていると、ここに居た筈の真由美の姿が浮かんでくるような、おじさんがまた楽しそうに声をかけてくれるような、そんな気がして」

 あぁ、と加奈は気付いた。

 こういう時――まるで時間が止まってしまったかのような、そんなとき。

 心の隅に追いやっていたことに、気付いたとき。

 加奈は手を握りこんで、足の間に挟んで目をぎゅっと瞑った。体が震えてゆっくりと瞼をあげて、和義の見つめる視線の先を見つめた。

 ホースで水を撒く姉と、門からただいまを言う父の姿。声も姿もはっきりと思い浮かぶ。二人の表情は止まってしまった時間の中でははっきりと残っていた。

「――どうして待ってしまうの? 和義さん。時間が過ぎるのを待つっていうのは、それは忘れるっていうことなの?」

 加奈は絞るような細い声でそう言った。この景色を見つめて、それが薄れて消えることをただ待っているの?

 和義が深く息を吐いた。否定の言葉はなかった。だけど和義がこうして毎年ここを訪れるということは、つまり、そういうことなのかもしれない。

「そんなこと、させないよ」

 加奈は西瓜を皿に戻すと、すっくと裸足のまま庭に下りた。日差しで熱せられた地面は酷く熱く、加奈の足の裏を焼くようだった。

 正午過ぎの強い日差しが、加奈の影を黒く、黒く塗りつぶした。加奈はまっすぐに和義の目を見つめ、そっと彼の太ももに足を乗せ、肩に手を置き体重を預けた。向かい合うように顔を突き合わせ、加奈はじっと、和義の瞳を見つめる。

 和義の驚いた顔が、加奈の目の前にある。微かに父の、あの煙草の匂いがした。

「逸らさないで」

 加奈の言葉に和義は視線を逸らせず、真剣な面持ちの加奈を見つめていた。和義の瞳の中には、少しだけ姉に似てきた、加奈の顔が映っていた。和義が自然と、頬の傷跡へと視線を移すのがわかった。

「お姉ちゃん、あの時、初めて和義さんを憎んでいただろうね。だってお姉ちゃん、私のこと大好きだったもの。大切な妹だったんだもの」

 首の後ろに手を回し、加奈は頬を和義へと向ける。

「だから私がどんなに和義さんを許したって、和義さんは自分を許せない。許せないからこの傷を見るたびに、お姉ちゃんのこと、思い出すんでしょう」

 汗が、肌を通して掌で感じられた。混じり合う汗と重なり合う肌の感触がやけに加奈の頭にこびりついて、体温が夏の気温に関わらず、上昇していく。

 傷を見つめる和義の瞳に、胸の痛みが感じられ、加奈もまた、その痛みを感じる。取り残され、思い出すことしかできないことは痛みにしかならない。

「――お父さんの匂いが好き。だからここで煙草を吸って。吸いに来て。そうして私の傷を思い出して。お姉ちゃんを、思い出して」

 声が震え始める。痛みでも繋がっていられるなら、傷つけてでもこの人をここへ縛りつけていたい。その視線がいつまでも決して自分へは向かないのだと知りつつも。

 加奈は思う。

 自分はだんだんと、嫌な人間になっている。

 姉を事故で亡くし、立て続けに父を病気で亡くしてから。

 ぽっかりと空いた寂しさを、こんな形で埋めること。

 胸ポケットにある煙草の箱から一本取り出して、和義の口に咥えさせる。火はつけず、加奈は匂いを嗅ぐように煙草に鼻を近づけ、唇が触れ合いそうな位置で目を閉じる。

 ――和義さんの、匂い。

 太陽の匂いがした。草花でも、煙草の匂いでもない、太陽の匂い。

 そっと瞼を上げて、和義を見つめる。それでも和義の瞳は加奈の傷跡、その向こう側を見つめていた。

 衝動を抑えて、加奈はゆっくりと体を離して庭へ下りた。

「約束だよ」

 そう言い残して、加奈は皿を持って台所へ消えた。

 和義はそっとライターを取り出して、咥えた煙草に火をつけた。真夏の庭の残影はいつの間にか姿を消していた。

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