第4話 猫の辻(後)
徳助が手ぬぐいを渡し、――熟れ柿を潰した柿餡の豆大福、煉り込めた栗と芋餡の饅頭、出す茶は茶葉と穀物を焙じて煎じた、温かで滋味あるものを――茶菓子と茶を傍らにおこうと、やこは一瞥呉れる様子も無く、ただ雨止まぬ庭を眺めている。やこの湯呑みから立ち昇る湯気が消え、徳助が風呂敷に広げたえのころ草をすっかり束に仕分けを終える間、どちらもが一言も発する事はなく――徳助は立ち上がり、土間へと降りて行った。
徳助は竃に火を入れ、息子の嫁御が先日作り置いて行った根菜汁を温めだした。麦飯はいつも横着に、朝に三食分を一度に炊き、昼夜は冷や飯で食らっていたので量はある。汁鍋の中がふつふつと煮立ちはじめ、味噌の匂う湯気がたち始めたのを見て、持ち手を鉤で吊るし持ち、鍋を入れ替える。空の土鍋に胡麻の油を竹筒から垂らし、汁をぬくめる間に切り分けておいた『肉』を置いていけば、一枚ごとに脂の爆ぜる音を立てながら、肉を漬けていた甘味噌が脂に焦げる香りが立ち込めていく。焼き上がりの頃合い、玉杓子で根菜汁を注ぎ入れれば、汁に溶けた肉の脂が浮きあがり――椀に少量すくった汁を啜り、徳助は笑んで椀に肉入りの根菜汁を盛り始めた。
「さあさ、菓子が入らねえんじゃ丁度いい。屋根下に誰かと居て一人飯なんてつまらねえ。昼餉、つきあっておくれよ」
明るい徳助の声と共に己に差し出された盆を見て、物言いたげに開かれたやこの口が閉じた。盆の上には冷えた麦飯の椀と薄く切り揃った沢庵の皿、そして湯気立つ汁物の椀がある。やこの顎の向きからして、特に汁物に注がれている視線に気が付き、徳助はにやりと口を開いた。
「ああ、こいつも伝手の仕入れさ。味噌漬けの肉が入った汁物だよ。脂の浮いた汁なんて見てくれは悪いがね、こいつは兎に角温まるんだ。なに、元々の根菜汁はあたしの息子嫁が作ったモンだ。ちょいと具は増えたが、味のまともさは保証するよ」
さあ、とより差し出せば、やこは肘を引いて盆を受け取り、縁側に腰かけた己の腿の上に乗せた。徳助もまた、土間から箸を差した己の飯椀と汁椀、香物の小皿を器用に持ち来ると、やこの隣に胡坐で座した。そのまま平手を合わせて瞑目し――
「……やこさんあんた、お妾様が心配で、赤子が心配で、心配疲れしちまってたんだよ。それで、ちょっと失敗が起きた。あんたに今日起きたのは、それだけだ。そいつ食って、調子を取り戻しな。美味いもんってのは、その為にあるんだから」
「人心地ってのはすきっ腹じゃあつかねえもんだが、何食ったって良い訳でもねえ。煮炊きして、火を通された人の食える物、あったけえ食い物を食って初めて、『人心地』がつくんだ。特に、手前じゃねえ誰かの飯なら格別だ」
あたしみてえな爺の飯でもね、と。
結び、合掌を解いた徳助がちらと横目で隣を見やれば、やこは未だ膝の上の盆を見つめていたが――その白い片手が汁椀を持ち、残る片手が不器用に箸を持った。徳助は結んだ口端を笑ませると、己もまた汁椀を持った。
ややあって、隣から汁を一口を啜る音が聞こえ――味わう一拍を置くや、やこは肘をあげ、汁椀を勢いよくかき込み始めた。勢いに徳助がぎょっとそちらを向けば、やこはすでに椀の中身を半分ほどを口いっぱいに収めて勢いよく咀嚼している。徳助はたまらず吹き出し、やこに向かって笑いかけた。
「こいつはまた! 随分と口に合ったみたいじゃないか」
「あ、ああ……!」
ごくり、と口の中身を嚥下したやこは幾度も頷きながら、返事を返す間も惜しいとばかりに汁椀の中身を再び口に収め始める。やがて椀の中身が空になり、口の中身も空になり、冷めた茶を一息に飲み干して、やこは徳助を向くと興奮冷めやらぬ様子で口を開いた。
「こ、これ……徳助、これ、何の肉だ? 俺、こんなの……こんな肉、今まで一度だって食った事ねえ。俺ァ、肉は、主に拾われるまで――肉ばっかり食ってたのに、こんな甘ぇ肉は一度も覚えがねえ!」
瞳が髪に隠れていなければ、きっときらきらとした瞳が拝めたのだろう。先ごろまで、まるで息を潜めた獣のように座していた娘の変わりように徳助は笑みを深めながら立ち上がった。
「ああ、こいつぁ南の方で育てられてるイノブタって獣の肉なのさ。漬けの味噌が脂にこっくりとしてよく合うだろう。ほら、お代わり持ってくるから椀を寄越しな」
躊躇いなく差し出された椀を受け取り、徳助は愉快な気持ちとなって土鍋へ歩み、玉杓子でよそいながら声を張り、背後のやこへ舌を滑らかに言葉を続ける。
「いくら肉好きってったって、野育ちの山獣の薬肉か百姓の鶏が精々だろう。イノブタってのは、「美味い肉」にする為に育てられた獣でね。野味のある猪と、脂の美味い豚って獣の合いの子、それでイノブタなのさ」
「合いの子の、肉、なのか」
縁側から、どこか呆然としたやこの声が返され――
「ああ、これもある意味人しか育てらんねえ美味い肉……」
椀へ山盛りに具をよそった笑顔の徳助が振り向いた時、そこに、縁側に座すやこの姿は無かった。
それきり、またたび屋にやこが訪れる事も無かった。
猫辻とは、猫堂と呼ばれる本尊も神体も無い伽藍堂に、多くの野良猫が居ついた小塀を囲う四つ辻を差す。この近隣では屋根を見やれば眠り猫、道を歩けばすねこすり、飯持て歩けば黒白赤猫、まだらに錆の尾が連なるのだ。
だが猫共は数に任せて人を襲うでもなく大人しく、人が追えばするりと逃げて、追わぬ者には無頼さながらに堂々と懐き寄る。古くより辻近くに住む猫髭の生えたご隠居に聞けば、猫堂には「猫座主」が代々に住まい、夜な夜な、その年生まれた仔猫共に審人眼を教育するのだというもっともらしい与太を語る。人慣れた野良猫を目当てに、猫好きがその近隣の長屋に住まうようになった通りの通称でもあった。
またたび屋の客層もまた、この猫辻界隈の者の多くが訪れる。やれ今日こそ鉤尾の君をじゃらすのだ、やれお堂に仔猫が増えてみゃうみゃうと可愛らしい、やれ近頃古参のぶちの姿が見えなくなった――客の笑顔が減り、口々に猫が姿を消したという話が増え、客足が途絶え始めたのは師走も間近と迫る、霜枯れの頃だった。
数日ぶりに訪れた常連の一人が深刻な顔で言うには、「まるで猫が、えのころ草を警戒している」のだという。飽きて見向きをしないのでもない、ただえのころの房をのぞかせただけでパッと蜘蛛の子を散らして逃げてしまう。徳さん、何か変な噂でも入ってないかね。俺も、馴染みのハチワレを近頃見てねえんだ。毎年、冬の前にはうちに居つく奴だったのに……。
顔にもどかしさと薄気味悪さを半々に語る客に、縁側に座したままの徳助は力無く「さあ、近頃お客も減っちまって、判らんねえ」と答え――
「夏頃に越して来た、どっかのお大尽の妾だっていう身籠りの娘っこも、昨日の今日で飼ってた猫がみんな逃げちまったらしくてなぁ。カカアの話じゃ、そろそろ産まれる頃合いらしいが、心に障らなきゃいいがよ……」
瞠目した面をあげぬまま、ただ、皺の拳を握り締めた。
澄み晴れた夜闇の中天から下、薄膜の雲が幾重に重なり、ぼやりと月を照り返すような夜だった。深と差し込む霜枯れ風に、飲みの屋台も早々に店仕舞をした物静かな表通りを一つ、二つと角を抜ければ、木塀に挟まれたうら寂しい裏道、今は猫の見当たらぬ猫辻に入る。話に聞くばかりの猫辻は、夜に歩けば横道のそこかしこで猫が集い、にゃむにゃむと何事か語らっているのだと、常連が自慢げに語る有様はそこには無い。
だが確かに、猫辻を歩く徳助は、己を視る幾つもの視線を感じていた。軒の下の梁から、或いは屋根上から、塀の下から――徳助はぎゅう、と瞼を瞑り……念仏と謝罪を繰り返し、提灯を両手で持った年寄りの足取りは、一路に猫堂を目指し歩いた。
確証は、有る訳ではない。だが、まず探し始めるのならば、ここからだろう。猫辻に住まう者達にとり、ここは猫達だけの場所で、おいそれと足を踏み入れぬと知られた場所であり――堂の中は獣臭く、獣臭さよりも鼻をつくのは饐えた血と臓腑の腥さだった。襤褸木戸を抉じ開けた徳助の提灯は、提灯の周りだけ、堂の中を仄照らし――段の上に据えられた木蓮華の奥に揺れる影を見て、徳助は笑い、語り掛けた。
「やこさん、かね」
返事は無い。徳助の歩みに提灯が揺れるに合わせ、ゆらり、ゆらりと壁に木蓮華の影と共に座した人影が揺れている――徳助は足元を見ぬまま歩を進め、言葉を続けた。
「噂でよ、猫好きで身籠りのお妾さんがこの辺に越して来たって聞いて、そんなの二人も三人もいるものかって来てみたら、案の定だ。お前さん、この辺の住まいだったんだねえ」
言葉を切り、すう、と口で吸った息が、喉に痞える――血腥さは、近づくほどに増している。
「こ、こないだは急に帰っちまったが、ああいや、気にしちゃないんだよ。驚きはしたがね、こっちにちゃんと戻ってたんなら……良かったんだ……それで、やこさん……」
段の前に立ち止まれば、木蓮華の奥に、長い黒髪の、座した女の姿がついに見えた。ここに至り、血腥さは饐えたものではない、まるでつい今しがた腑分けしたばかりのような鮮烈な臭いとなっている。徳助はやこの頭だけを見つめ――己の足元に、木蓮華の下に散らばる食い散らされた『皮』から焦点をずらし、
「やこさん、うちに、嫁に来ちゃくれないかい」
徳助は、――決然と口にした。
「きゅ、急な話で悪いがよ、ちゃんとお妾様にも主様にも筋を通すから……娘さんが一人で、こんな、こんな所……こんな、所居ちゃいけねえよ……なあ、……後生だよ……」
詰まる息に声の震えはついに抑え難く、徳助は焦点の揺らいだ目を強く強く瞑り、膝の萎えるままに脛を床につけた。段の上には最早、足の踏み場すら判らない、幾匹、幾十匹の物かも分からない皮が、……猫の皮が散らばっている。薄開けた己の目が、顎から下の無い猫首の一つと見つめ合い、徳助は悲鳴を呑んで目を抑えた。歯が震え、押さえた目が焼けるように熱く、手のひらを熱く濡らす涙を乱雑に拭った徳助は歯を食いしばると、ぎっと女の頭を睨みつけた。
「やこさん……やこさんよ……猫より、猫の肉より美味いものなんて……ッ山っ程、あるじゃねえかよ…………!!」
徳助は震えた年寄りの、精一杯でか細く吠え――
――女は、やこは、俯いていた頭を上げた。
「徳助」
「お妾様な、つい今しがた、死んじまった」
「赤んぼもな、死んで生まれた」
「だから、俺、赤んぼ喰っちまった」
徳助の手から、提灯が落ちた。
落ちた提灯は倒れ、風除けの紙に燃え移る。囲いを失い、光を増した火の舌が揺らめく中、女の頭、髪の下が盛り上がるや、頭頂に獣の耳がぞわりと生える。
「昔、俺の縄張りに入った人どもをな、化かして食って暮らしてた。食い飽きた頃に主に会って、もう人を食わねえならって約束して、人を騙す『声』を渡して——……お妾様に出会った。こんな美味そうなのと今会うかよって、笑っちまったっけ」
懐かしむような、笑むような、静かな声は、低く枯れ掠れたやこの声には違いなく――火勢に影が伸び膨らむのではない、やこの背筋そのものが伸び、耳同様に髪色と同じ黒い三ツ尾が伸び生えて、猫の骸の上を覆っていく。
「俺、俺ァ、違う、そんなつもりで近づいたんじゃなかった。でもな、……今更、知りたくなっちまった。野狐の頃、あんなに喰ったのに。味が変わるなんて、知らなかった、から」
やこは――黒毛の大野狐は猫皮を踏み歩き、顔に爪立てて覆う徳助の元へと近づいていく。その大足の下に、燃え広がりかけていた提灯の火をも踏みつぶせば、堂にはただ闇が充ちた。大野狐は俯き震える徳助の傍らに侍ると、三ツ尾で柔らかに徳助の背を包み、己の前足に乗せた頭を徳助の脇腹へとすりつけた。
「ああ……徳助よう、お前、寂しかったんだろ。だからえのころ拾いに誘ってくれたんだろう。だから旨いものを食わせてくれたんだろう」
「俺が獣と気づいて、肉を食わせてくれたんだろう」
「人の飯を食わせてくれたんだろう」
言葉が途切れ――徳助はか細く呟いた。
「あたしの、せいか」
「ああ」
大野狐は、静かに囁き返した。
「だから俺も教えてやる。お前だけに教えてやる。お前も道連れだ。お前が、俺に気づかせたんだ――――あのな、徳助。猫妖と人の合いの子の肉は 」
徳助は闇に充ちた瞼の内で、己の傍らで何かが砕かれ、千切れる音を聞いた。背に乗せられていた尾が弛緩し、ずるりと己の背を伝って落ちていく。徳助は目を開けた。同じ闇の内である筈の視界の中、声が聞こえていた方で、何かが仄かに明るさを持っている。
呆然と首を上げ見たその先では、堂の闇にぼやりと輝く白長毛の大猫が、大野狐のうなじに頭を埋めていた。骨の砕ける音、肉が千切れる音は確かにその埋められたうなじから響き、狐の身体は一際に咬合の音が強まる度に強く痙攣し――やがて、何か充ちていたものが萎むように縮むと、大野狐はただの狐の骸となった。
骸をそっと床に口離した白大猫は、鼻面を骸にもう一度寄せた。闇にも輝く金の妖眼を潤ませ、蜜が零れるようにぼろぼろと涙を落すと物悲しく鳴き、徳助を一瞥すると――堂の軋み傷んだ木床を無音のまま歩み戻り、開け放たれた戸口へ頭を通し、するりと胴を通して去って行った。
全て見届けた徳助は床に頽れた。その脇腹は大野狐によって咢の痕も無惨に食い破られ、床に血の滴りを広げ続けている。度を超えた痛みの故か、尋常でない失血の故か、徳助の顔に苦痛の色は無い。残る渾身で助けを呼び叫ぶでもなく、ただ顔に悲愴に染め、傍らの黒狐の骸のなめらかな毛を、凝っていく肉を撫ぜながら、やがて徳助もまた事切れた。
翌朝、またたび屋の旗が上がらず、声をかけるも声は返らず、立ち入るも姿すら無く、近所は騒然として徳助の息子が商う漢方問屋へと知らせに走る。古なじみの知る、徳助気に入りの飯処、その往路復路にも姿は無く、捜索が空き家や物置に広がり、猫辻の猫堂に及んだ時、中の有様は漸うと世に知られるものとなった。
何か大きな獣が猫を貪り、猫はそれで怯えて姿を消して、どうやら猫の様子を見に来た徳助がその獣に腹を食われて息絶えた。調べの同心によりそのような推論が立ち、猫辻の界隈は長らくえのころ草を供していた徳助の死を悼み、また猫たちの無惨な死に様により心を痛めて涙した。
およそ恨みらしい恨みも買わずに生きた筈の徳助の凄絶な死に様に、古なじみや漢方問屋の者達が獣狩らんと猫辻を数日かけて練り歩くも成果は無く、やがて他ならぬ徳助の息子の「父も猫たちも、穏やかに眠らせてやりたい」という言葉に獣狩りは終いとなった。息子の采配と幾ばくかの寄付により、禍事の猫堂が取り壊された時、床下からは舐りつくされた猫の骨が無数に見つかり、大工たちの心胆を木枯らしよりも芯より凍えさせた。
その日のうちに坊主が呼ばれ、念仏の唱えられる中進んでいく撤去作業を遠巻きに見守り、冥福を祈る人々の中に、上等の羽織を纏った白髪の男の姿があった。品の良い紺の羽織の上に、黒狐の毛皮を襟巻に纏った男もまた、周囲の人々と同じように手を合わせ――いつしか、音もなくその場から消え失せていた。
やがて春が訪れる頃、堂の跡には石灯籠の塚が作られた。
塚に供えられた、小さく青々としたえのころ草が、小さな猫の手により落とされる。落ちたえのころ草に、冬に生まれた仔猫の数匹がじゃれついてはねうねうとかしましく、遊ぶようだった。
悪颶奇譚 辰巳屋 @ttmy
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