第3話 猫の辻(中)










「……え、そんで?」


「そんでって、何だい」


「何だい、ってそらおめえよ、『ところでゴロちゃんよ、あたしはもう大層やこさんが気に入っちまった。後添えに入ってもらいてえんだけど、お前さん何か良い知恵無いかい?』ってなもんだろ?」


「馬鹿言いなさんなよ手前じゃあるまいに」


「ああ!? ……ああ!!?」


「二度凄まなくたって聞こえてんだよいやかましい。親切で言ってやるがよ、ゴロちゃん。手前で手前が色恋の知恵モンだと思ってんのかい、七嫁に逃げられ通しのやもめ爺がよ。文殊様も指差して大笑いだわいな」


「おお、馬鹿にするねえ。つまり俺ァ手前の七倍は女房を知ってるってこったぞ。おめえだって連れ合い無くしてもう……何年だェ?」


「さてね。手前が知らなきゃあたしが知るかよ」


「……なあ、あのよ。徳ちゃん」




(こいつぁ真面目な話だぜ、と、五郎八は冷やの入ったぐい呑みをあおった)




「咳しても屁ぇこいても一人、気楽な道楽爺の一人暮らしで畳の上で大往生ってのは死ぬ側は気楽だろうよ。だがよ、考えてみろや。例えば今年見てえな馬鹿暑い夏の盛りに死んでみろよ、おっちんで腐りかけで、蠅の集った手前を最初に見つけんのは誰だい。様子見に来てくれてる手前の息子嫁だろ?」


「……お前さんね、わざわざ今、酒の不味くなるような話を……」


「へ、爺が図星突かれて参ってら。なあ、折角来てくれた嫁御にンな臭汚ェ死に様見せるよりはよ」


「はあ、丁度いい娘っ子だから後添いになって貰って、そんで今度はあたしが先に死んで、やこさんに連れ合い無くしたおんなじ思いをしてもらおうってかい」


「……おめえ、……それ言っちゃあよ」


「おや、爺の図星突き返しちまったかェ?」




(徳助もまた冷やをあおると鯨肉の佃煮を箸でつまみ、生姜の香る甘柔らかな肉を

 噛み割きながら口に放り込む)




「ましてだ、その為のご近所づきあいと「またたび屋」だよ。朝に旗が上がらない日にゃ、ご近所に様子を見に来てもらえる算段は立ってんだ。骸が虫集って腐るほど放置はされねえ。年嵩の爺に心配される謂れなんざありゃしねえよ」


「……可ッ愛くねえなぁ、口の回る爺は」


「そいつぁ何よりだ」




(徳助は笑い、口を曲げて己の佃煮を狙う五郎八の癖悪い手を箸で打った)




「元より、やこさんにゃ大事なお人がもう居る。やこさんの話は一にお妾様、二にもお妾様で……あたしはね、そいつが何より気楽なんだよ」


「あたしはたまたま、やこさんがお妾様の役に立つ為のまたたび屋の爺で、何なら明日あたしが死んだってどうってことねえ。そういう人だから、あたしは楽なんだよ」


「こっちの心配ばかりして、するばっかりで、手前の身体の事を黙られちまって、気が付きゃ手遅れで……うちは薬問屋だってのによ、笑えもしねえ。あんなゾッとしない事ァ、一度っきりで十分だ」




 点々と提灯の居並ぶ夜闇、油紙の黄ばみ行燈にぼやりと照らされて、「けものや」と白地に紺文字がのたうつ旗が立つ。けものやは名前の通り獣の肉を扱う薬肉屋であった。普請の古びた怪しげな佇まいに違わず、熊、鹿、猪は言うに及ばず、東西より仕入れた聞き慣れぬ名の肉を売り捌き、油を採った鯨肉までも商う珍味屋である。内では肉煮、肉焼きで酒を飲ませる小料理処に並び座し、徳助と五郎八は飲み交わしていた。

 同じ長屋に生まれ育ち、幼い時分は五郎兄ちゃと後ろを付いて歩いた徳助が、今やどうにも……五郎八はぐい呑みを啜り、「そろそろぬる燗でも良い頃合いだな」などと嘯き、内に呑んだ言葉を濁した。


「……やこさん、俺は脈あると思うがよ。そんだけ口緩んでんなら。なあ、俺だって徳ちゃん心配だぜ」


「ゴロちゃんはとっとと、七番目さん迎えに行きなさんな」


「ヘヘ、お福は梨が好きなんだ。秋深になったら箱抱えて戸外で土下座して、『せめてこいつだけでもいれてやっておくん『なし』、ってな!」


「……それで許すんじゃあお似合いだわ」




 徳助がくつくつと笑う面を見て――五郎八はこれで何度目かの「後添えを貰え」という説得の失敗を認めて、すっぱりと切り替えると、その後は徳助共々に、腐れ馴染みと飲み食いする美味い酒肴を楽しんだ。















 五郎八の口出しに己がそうと返した通り、徳助はやこへの態度を変えずに日々を過ごしていた。己を種とした後添えの話があったなど知らぬやこも、態度を変える道理は無い。

 やこから零れる言葉も塵と積もれば、徳助もやがてお妾様や、やこの主の人となりをそれとなく知るようになっていた。ほぼ野育ちだというやこを旅先で拾い、人里での暮らしを躾け教えたのが主であった。拙くも一通りの手伝いをこなせるようになったやこは、それでも粗相が多かったが、ある時、主の屋敷で叱られていたやこを嫋やかにかばったのがお妾様だったという。

 お妾様は動物好きで、屋敷では最も好きな猫ばかり可愛がるが、脚萎えの病に侵される前は犬を見れば犬を撫で、猫を見れば猫を撫で、鼠を見れば舌を鳴らして呼び招く、それは可愛らしい有様だったと――楽し気に話すやこの姿こそ、徳助の密かな楽しさとなっていた。




 残暑も過ぎれば秋風の吹き、えのころ草もすっかり枯れ立ちて、殊更に犬の尾へと近づいた穂房を揺らすようになる。細く、硬い茎のえのころ草は枯れても倒れる事は無く、まだ人様が振って猫をじゃらすには用立てられるが――砂地の濡れた庭に一人立ち、早朝から降っては止みを繰り返す時雨空に皺の掌を翳し、徳助が今日の草詰みはどうやらおじゃんだと溜息づいたその時に、徳助はふいと裏手の門を見た。声は無かった。足音も無い。ただ、視線があるように思えたのだ。


「……やこさんかェ?」


 来るにしては早過ぎる、まだ昼の半鐘が鳴ったばかりの刻限だ。果たして庭木の濡れ枝から雫を浴び、濡れ砂を踏みながら、やこはのそりと現れた。その姿に笑いかけた徳助の好々爺面は気色ばむ。やこが平生着ている着物、見慣れた橙の小袖姿の布地のあちこちが裂き破れ、墨跡と思しき汚れがべたりと新たな模様を増やしていたのだ。


「ど、どうしたね!そん有様は!」





 仰天するままに声をかける徳助に、俯き加減のやこは面を上げて口を開きかけ――口を押えた。



 徳助はその中身を垣間見たが、見なかった事にした。





「まあ、とにかく、一旦お上がんなさい。中が嫌ならそら、縁側でもいい、座って休むと良い。今、水を持ってくるから」


 手招けば、やこがこくりと頷いてのそりと縁側へと近づいていくのを見て、徳助は草履を縁石に脱ぎ捨てて急ぎ縁側から畳を踏み、土間の水汲み置きの壺へと駆けて行った。


 曇天から一つ、二つと雨粒が落ち、やがて枝垂れのような雨勢となる。縁側に大人しく座す、やこの背姿を横目で見やり、徳助はまず己の湯呑みに汲んだ水を飲み干した。あの一瞬見えた、やこの開いた口の中には――赤鮮やかな濡色の絡む、人の身にあるまじき牙が覘いていた――ように、見えていた。

 









 

 小雨が衣擦れめいたさやかな音を立てて降りしきる、薄白いまま明るんでいく今朝の事だった。


 猫の侍る座敷には、子を産んだばかりの母猫も混ざっていた。仔猫を咥えて、一匹ずつ運ぶ最中だったのだろう。戸棚の横に己で歩けぬ仔猫を見つけ、お妾様は喜び、呼んだ――『見て、やこ。白椿の子よ。背のまだらがそっくり』。振り向くより己の横を飛び駆けた母猫が、白椿が、両の掌へ大事に仔猫を乗せた、笑顔のお妾様に飛び掛かり――



「分別のねえ畜生め……お妾様が、猫の赤子を傷付ける訳がねえのに、あんな……恩知らずな事を……だから……俺、……俺な……」



 悲鳴をあげ倒れたお妾様に尚乗り掛かる白椿の尾を、掴んだ。白椿は身を捻り渾身に暴れ、噛み付いた。四肢の爪で掻き毟った。幾ら気性のままに荒れようと、己に猫の牙、猫の爪など何の痛痒に至ろうか。白い尾を握り締めたまま振り被り、床の間の柱目掛けて――



『やこッッッ!!』



 振り向いた顔面に、墨で濡れた硯が投げ当てられた。


 墨が伝い垂れて、顔が、小袖が汚れた。


 つい先ほどまで、共に半紙を畳に並べ、仔猫共につける名を考えていたのに。




 一匹は『やこ』と名付けたい。どっちを呼んだか判らなくしてやるのだと、可憐に笑っていた顔を涙に歪め、お妾様は蒼白の面をして己を睨みつけている。尾を握る、拳に入れた力が抜け――猫は声もあげずに逃げ出した。己も膝から力が抜けて、顔を覆って座り込む。畳をずり動く音が近づき、やがて頭が抱きしめられた。小さな手が己の頭を撫でる――齢は数えで十と四ツほど、柔らかで小さな手が、震えながら己の頭を撫でている。墨の強いにおいに混ざり、猫に傷付けられたお妾様の血が匂っていた。






 悪いのは。





『やこ……ごめんね……痛かったろう……。あんなこと、本当に、やろうとしたんじゃないだろうに、わたしね、白椿が死んじまうって、思って……』




『ゆるしてね……堪忍してね……』







 悪いのは。







 昂るままに殺して食らう、畜生の魂が、抜けきっていないのは。


 






 きっと飴より甘いだろうと、血の匂いに鼻を擦り寄せて、しまった、のは。













----------







 飼い猫が、仔猫を産んだ母猫が、仔に触れたお妾様に噛み付いたのだという。



 やこはその飼い猫を、叩きつけようとしたのだという。



 だがお妾様に硯を投げられ思い留まり、泣き暮れるお妾様から逃げ出して、此処に来たのだという。




 座したやこは常よりも殊更に言葉少なく、出された水入りの湯呑みを受け取りこそすれ、口に運ぶ素振りを見せなかった。木屋根を叩き続ける雨粒は、雨樋を伝い流れて幽かなせせらぎとなる。雨音が生じさせる雑音の中、やこの声音は今日とて低く、がさりとした枯れ声であったが、横に座した徳助はどの一言とて聞き逃さなかったが――やこの言葉は、状況を語るというには程遠い、内情の吐露に終始していた。


「……それじゃあお妾様、一人にしちまってるのかい」


「……主が居る……他の下女が主を呼んで、……俺は外に行けって言われた。落ち着くまで、今日は戻るなって。……だから、」


「そうかい、それじゃまあ……うちで良かったらゆっくりしとくれよ。爺の一人暮らしだがね、茶請けの菓子ならたんとあるんだ。あたしも今日は、ほら、こんな天気だろう? のんびりえのころの束でも作るつもりだったからよ、やこさんも気楽にしてたらいい」


 なんならごろ寝してたっていいさ、と。からりと笑い、徳助は立ち上がると客に出す菓子を探す――ていで、やこから距離を取り、日持ちする菓子の入った棚戸を開けながら生唾を呑んだ。どこか人離れしている娘だとは、それこそ最初の日から判っていた……今更の事だ。それが本当に人で無かったとして、そこは問題ではない。


 徳助の長い商人としての生業の中で、そういう者と袖すり合った事は少なからず有った。誰しも己がそうでございと堂々名乗りはしない。だが人の世に人として在ろうとするならば、どこか首傾げる所があったとしてもご愛敬とする、それもまた人の世の倣いであり処世でもあるのだ。見てみぬ振りさえしていれば、双方に事は丸く収まる――。




 嗚呼、だが。


 それが今朝方の事だったというのなら、昼時分の今まで、やこさん、あんたどこに居たんだい。





 隣に座して、雨の匂いにも墨の匂いにも混ざり切らぬ、微かな――微かであっても「そう」と判る程、やこから漂う臭いには血腥さと――またたびと獣の臭いが、有った。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る