第2話 猫の辻(前)




 じっとりと湯底のような空気がたゆたう。

 鳴る様子の無い風鈴を一瞥すると、徳助は再び枕に沈んだ。

 八年前に死んだ女房の夢を見た。



 またたび屋という商売は楽隠居といえば聞こえのいい、仕事場から追い出され日々することの無くなった年寄りが気晴らしに始めたにしては賑わっていた。梅雨も明け初夏にさしかかるこの季節、川原で遊ぶ童らに声をかけ、飴水やら煎餅やらを駄賃にえのころ草を集めさせてはまたたび粉をまぶして売り出すのだ。客の多くは童や、童心に野良をてなづけんと目論む女房やその日暮らし共だったが、たまに愛猫を転がしたいお大尽が使いをよこして買い占めることもあった。


 今日もまた早々に馴染みの使いが訪れて、見目の良い草を束で買っていってしまった。風の吹かぬ温さに商売っ気の萎えていた年寄り、徳助はこれ幸いと早々に旗を下げ、枕片手に畳に転がると早めの午睡と決め込んだのだ。一、二度、目覚めたかのような心地もしたが、呻く己の声に目覚めると陽はすっかり傾いており、日陰だった縁側は徳助ごとまだ高い西日に焦がされていた。


 黒々とした庭木の影に砂地がいやに眩しく、徳助はしばしばと瞬いた。枕を喉下に抱いたまま、まだ茫洋とする頭を手癖で撫で擦り、その熱さにぞっと覚醒する。


「みず」


 徳助はつい呟いた。この年は釜の底が如き暑さが盛り、やれどこの長屋で年寄りが死んだ、そこの橋で流れ者が干乾びていたと凶事の枚挙に暇が無い。息子夫婦に任せた漢方問屋は人手が足りているとはいえず、それでも己を心配した番頭やら息子嫁やらが丁稚や小間使いを住み込みで遣わそうとしたが、頑として拒否したのは徳助自身だ。




 水、と呟いたところで応える者はもういない。徳助は我知らず弱く笑むと、見る者のいないついでに埃の染みた畳を這って土間を目指すべく体を肘立ちに捻った、眼前に湯飲みが浮かんでいた。







 否、湯飲みには真白い手が生えており、手を辿れば手首と袖があり、肩を辿れば真白い首が部屋にかかる暗陰の中、差し込む陽に眩く映えている。べたりとした黒髪の長さは女のようだったが、顔立ちは矢張り長い前髪の陰に隠れて判然としない。あまりに気配なく居た女に声を上げる機を逸し、徳助はただ混乱した。つまるところ見知らぬ人間が畳に屈み込み、己に湯飲みを差し出しているのだ。



 しばしの間二人は無言のままであったが、呆ける徳助に痺れをきらしたのか、髪の隙間に見える女の唇が小さく動く。


「水」


 低く、か細い声は判じがたかったが、そう聞こえた。まず湯飲みの中身の事だろうと、未だ達者な徳助の頭は理解していたがどうやら体が追いつかない。女の口元は噤み、不満げに横に伸びた。徳助の鼻先に当たるほどに湯飲みを差し出し、再び女の口が開いた。


「み、ず」


 強くなった語気に押されるまま、徳助は湯飲みを受け取り中身を見れば、確かに水のようだった。口に含み嚥下すれば、起き抜けの水は冷と喉から腹へ落ち、徳助は再び目が覚めたかのような心地になる。一口後は一息に飲み干し、はっきりとした頭で瞬時に思い浮かんだ言葉は――「誰だ」や「泥棒か?」といった――ひとまず横に置き、女に向き直ってかけるべき言葉をかけた。


「ありが」


「またたび」


 その言葉を遮られ、その上に予期せぬ返答ではあったが、徳助はひとまずそれが「誰か」を得心した。どうやら客であったらしい。主が眠る家屋に堂々入り込むほどには常識が無く、それでいて熱にうなされる年寄りに水を差し出してくれるほどの情けはある。徳助は後者に印象を定め、頷いて言った。


「……形が良いのは売り切れてるが、ええかい?」


 徳助が問いかけると女はしばし沈黙したが、無言のまま顎を二度三度上下した。女はそのままやおら立ちあがり、壁際の棚に近寄り引き出しを勝手に開けると、中のえのころ草を持ち出す。迷いの無さにまた疑問が浮かぶが、徳助はそれも横に置くことにした。代わりに、草束を握ったまま袂を探る女に声をかける。


「その分で二文。それでいいよ、残りモンだェ」


 女は矢張り口を開かず、二度三度頷きながら取り出した絣の巾着を探ると、徳助に向かい下手に投げつけた。伸ばした右腕は空振り、左手を皿に胸で取る。掌に乗った二枚の銭から視線を上げると、女の姿は消えていた。



 徳助は息をつき――枕を日陰に移すと、再び頭を横たえた。









 以来、女は連日現れた。



 西日の傾き始める時分、徳助が店を開けていようが閉めていようが現れた。



 四日が過ぎる頃には徳助もその時分に店を閉めなくなり、六日が過ぎれば女がいつも求める分、十束は常に取り置かれるようになる。九日通おうと女は不愛想に「またたび」と声をかけるばかりも、徳助は常連と化した女に好々爺然と相対していたが――十日が過ぎて、徳助は流石に首を傾げた。


「お客さんよ、こんなに何日もえのころ草は要るもんかね。野良猫釣りでもしてんのかい?」


 からりと晴れ上がった陽射しの下、『またたび屋』の旗が隠宅の裏門に吊るされ揺れている。扉の開け放たれた小さな庭に数歩入れば、縁側にえのころ草を積んだ好々爺が「いらっしゃい」と出迎える――今日とて同じ頃合いに現れた女に、徳助はえのころ草を渡しながら尋ねた。徳助の言葉を意にかけた風もなく、女は草束を受け取り、袂から今や見慣れた絣の巾着を取り出だす。返事はどうやら貰えぬか、徳助がそう判じて内心に肩を竦めた時、女はぼそりと低く呟いたのだ。


「お妾様が、猫と遊ぶんだ」


「……うん?」


 女の声はどこか風邪でひび割れた喉を思わせる掠れ声で、見目に姿を見ていなければ女の声とは判じがたい、そのような声だった。徳助が老いた耳には聞き取り辛い声音に片手を耳にかざす中、女はがさがさと言葉を続けた。


「俺、の主に……お妾様が居る。俺ァ、その人の世話してる。猫飼いで……たくさんいる。猫共がとびつくから、買った分はその日でぼろっちくなる。でも、お妾様、うれしそなんだぁ……」


 不愛想な言葉がその時、ぽっと灯るような声音の和らぎに、徳助は耳から手を外して女の顔を見た。十日ばかり、目も見えぬ女の口元が、確かに微笑んでいる。……徳助はつい、己の好々爺面を釣られて笑ませていた。


「散歩で猫探しすんのが好きなのに、今は外、出らんねぇから……廊下で、猫共転がして、うにゃらうにゃらした奴ら見て、笑ってな。またたび、すげえな。ただの草振ったって、猫共もああはなんね」


「ああ、そりゃ、あたしもこの商売の甲斐が……いやいや、待ちない。するてぇと、同じ猫に連日嗅がせちまってんのかい。お客さん、そりゃあんまよくねえな」


 顔も知らぬお大尽、その妾様とやらの喜びように顔を綻ばせていた徳助は、ハッと慌てて女にそう言った。女もまた綻んだ口元を元の一文字に戻すと、徳助の顔を見て尋ね返す。


「よくねえ?」


「またたびだって、毎日嗅いじゃ鼻が飽きちまう。そろそろ休ましてやったほうがえい……三日、いや五日は置いた方が」


「……じゃあ、草、返す」


 俯いた女は、突き返すようにえのころ草の束を徳助に押し付けた。不躾な態度だが、今しがた不愛想な女の笑顔を見たばかりのせいか、徳助の胸の内に悪印象は浮かばない。それどころか不貞腐れた女の態度は、――死んだ女房が悲しさを誤魔化す時に見せた、つっけんどんとした態度とあまりに似通っており――むずがゆくなり、徳助はつい、立ち去ろうとする女の背に向かって口走った。


「娘さんよ、お前さん、名前はなんてんだい!」


 それは、徳助自身無視されても已む無いと浮かびつつの言葉だったが、女は足を止め、振り向いた。


「……やこ」


「やこさんよ。うちにゃあ今、またたびかけちまった”えのころ”しか無いがよ、

 近々、また子供らに草摘みを頼みに行くんだよ。あんた、よかったら一緒に来るかい。またたびほどじゃねえが、お日様浴びたてのえのころだって猫は喜ぶもんよ」


「……明後日なら、行ける」


「おお、じゃ、明後日のこの時分にまた来なせえ。

 門にな、ああ、あたしは徳助ってんだが、そう呼び掛けてくれりゃええ」


「とくすけ」


「はいよ」


「判った」



 やこは、頷きながら踵を返し、庭を立ち去って行った。ふと、徳助が追って出て、裏門の通りを見渡しても、通りの東西どちらにもやこの姿は見えなかった。徳助は首を傾げるも――ふ、とその頬がほころんだ。やこの最後の返事には、どこか、あの『お妾様』を語る時のような、仄かな和らぎが確かに入り混じっていた。







 さらさらと水の絶えぬ小浅の川岸に沿い、郊外へと進んでいけば程なく延々と緑の穂を揺らすえのころ草の「畑」があった。秋から冬、雑草が枯れ果てた頃合いに、徳助が散歩がてらに種を蒔いたものだ。その年で採れた中でも房の立派なえのころ草を取り置いて、乾燥させて種蒔けば、年々「畑」のえのころ草は立派な房尾を揺らすようになっていった。


 川原に遊ぶに子供らは自然とその畑を勝手知り、丈長いえのころ草を刀に見立て、槍に見立ててはちゃんちゃんばらばらと遊び合う。しかし、決して無闇に採りつくす事もない。果たしてその日も、房を川水に浸してかけあっていた四人ばかりの子供らは、背負い籠を背負って現れる「徳助じいさん」の姿に遊びの手を止めた。後ろからくる見知らぬ女の姿に、きょとんと顔を見合わせるも、やがてはきゃあきゃあと騒ぎながら老人の元へと駆けよって行った。


「爺ちゃん、そん人だれ?」


「お客だよ、またたびかかってねえのが欲しいってな」


 物怖じせぬ子供の一人に返しながら、徳助はやれやれと竹の背負い籠を草地に下ろした。期待の眼差しを向ける子供らに、徳助は芝居がかった仕草で背負い籠に乗せた竹編みの小箱を取り出して見せる。蓋の開いた小箱を子供らが覗き込めば、小箱には小粒のびぃどろ玉が詰まっている……徳助は一粒持ち上げ光に透かし、水が固まったような透明の粒の中、溶け込んだ赤、青、緑にきらめくそれをぱくりと口に放り込んだ!

 仰天に口を開けた子供らの口に、徳助はにこにこと粒を放り込んでいく。からり、ころりと歯にぶつけながら舌に転がせば、糖の甘さと梅の酸い甘さが口の中に溶けていく。今日は飴だ、梅飴だ!わぁと賑やぐ子供らの様子に、己もからころと頬に飴を押し退け、満面の笑顔で声をかけた。


「ほいじゃな、いつもの通り。今日は二十本で飴ふたつ、犬の尻尾みてえな大物がありゃ、それ一本で飴みっつだ。ほい始め!」


 徳助の威勢の良い掛け声に、子供らは川原を駆けていき……徳助は小箱の蓋を閉めようとした手を止めた。「徳助」と門に声をかけて以来、道中に徳助が話しかけようと「ああ」とも「うん」とも無い、押し黙ったままのやこが、未だその小箱の中をじぃ、と見つめていたのだ。


「やこさんも食うかね」


 寸の間を置き、こくりと頷いたやこの掌に、徳助は飴一粒をそっと置いた。やこは鼻を近づけ――まるで犬のような仕草で――飴をにおうと、一舐め、二舐めしてから口にいれる。かろり、ころりと音がして……口含んだまま己に顔を向けたやこに、徳助は愉快な気持ちで見返した。目を見えずとも、口をすぼんだその顔が、仰天面しているのが伝わるようだった。


「気に入ったかい? あたしは昔っから珍しい食い物が好きでよ。こういうモンにも伝手があるのさ」


「……行ってくる」


「うん?」


「二十本で、飴ふたつ。お妾様の土産だ!」


 弾んだ声で言うや、馬鹿に速く駆けていくやこの背を、ぽかんと見送り……、


「……は、ハハ、ハ! ああ、取り過ぎちゃア困るよ! 今日は二十本までだよ!!」

 

 徳助は胸晴れやかに笑い、えのころ畑に飛び込んだやこに向かって声を張り上げた。









 そうして徳助の穏やかな隠宅の日々が、えのころ草の十束分ばかり賑々しい日々となった。やこは連日現れてはいつもの十束を買っていく。そして三日ばかりまたたびを買えば、次はまたたびのないえのころを買っていく。そしておよそ七日に一度、わくわくとした声で名前を呼びかけられては、やこと川原に連れ立って行くのだ。


 日に日に、やこの口は氷柱が僅かずつ雫を垂らすよう、言葉を溶け落していく。その中身は件の「お妾様」の事ばかりだ。飴は美味いと言って喜んだ。猫がはしゃいでえのころを追いかけるのを大層喜んでいた。今朝は腹の子が蹴ったと、その音を聴かせてくれた。とくりとくりと帯の内、腹の内で確かに何かの音がした――苦しそうな時が可哀想でならない。夜通し泣いて吐いて、苦しんで。飯も食えずに可哀想だ。代わってやりたい。赤子は己も楽しみだ。でも、はやく出て来てやって、お妾様を楽にしてやって欲しい――


 ぽつり、ぽつりと漏らされる言葉に弱音が入り混じり始めたのは、川原の涼風が暑さを勝り、短い赤胴の小蜻蛉が群れて飛んでは乾き始めたえのころ草の穂に止まる、秋の初めの頃だった。





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