悪颶奇譚

辰巳屋

第1話 泣き鬼






 影が温むような春の日だった。散り始めの桜は夜雨に洗われ、その裾元に湛えた水面には柔く晴れた空を落ちた花が点々と浮いている。長屋通りを通る足々の波紋にゆると群れ、泥の彼岸に幾重にも白近い薄紅の縁を施した。



 おゆき婆様の死に様は、およそ見れたものではなかった。意識が儚んではか細く四人の子らの名を呼び続け、発作を起こせば引き攣る様に腑を吐くような咳を続け、続いた春の長雨、発作の最中に身罷ったのだ。


 だがその子らが訪れた葬式の有様は、婆様の死に様よりも見れたものではない。口角に笑を浮かべ、口々に見舞いに来れなかった由を……ヤレ暇が無かった、ヤレお足が無い、はあはあなァら仕方ない、ウチとて来よう来ようとは思っていたが……互い自慢げに披露しあっては、兄弟が揃ったついでの積もり話に花を咲かせていた。その子、婆様の孫共も、親がその調子であるからか非常に賑やかだ。特に年の頃は三つ頃の、赤子の時分婆様に可愛がられていた女童も頬にえくぼを咲かせ、まるで今日が正月の如くおきゃんに振舞っている。




 とうに心を決めていたが、より無残に事を成すか、そちらに心を惑わせた。




 意識を惑わせ苦痛を和らげる、削命の薬を婆様はとうとう自ずから飲まなかった。子らが訪れるひと時を逃さぬよう、苦命と引き替えに保った正気のまま死んだ。そのひと時は訪れることなく、死顔を覆う白布を捲らぬままに子らは嘯く。高直の薬できっと眠る様に死んだろう、と。




(丸と残った粉薬を茶葉と混ぜる。飲み易さを謳った薬だ。従来、服用は日に四半包。それを三月分、茶葉に混ぜた。坊主の経が終わり、婆様を土に納めた後の一服、皆に振舞われる茶である。高直の毒だきっと苦しむ様に、と、被せてみれば茶葉の一匙ほど胸はすいた)




 看取る前より、心はしづかであるようだった。長屋平生の喧騒も潮騒の様、どこか遠くに聞こえ実体が無い。胸の奥、誰も触れ得ぬ最奥に冴え冴えした火が留まっている。もうじき、もうじきだ。婆様を見殺した糞共が地獄のように苦しむといい――火に囁かれ、うっとりと上げた面に影が落ちた。出入りが頻繁な為開け放してあった出入り戸を誰か閉めたのだろうか、否。




 外より陽を遮る程の大男が肩を屈め、こちらを伺っていた。





 ひ、まで上げかけた悲鳴は、男の目を見て収まってしまう。逆光に白く浮かんだどんぐり眼はそうと分かる程に水に潤んだ、目ごと零れそうな涙目だ。引き攣る様に上下する拳めいた喉仏から、この大男が落涙を堪えているのが見て取れた。男は数度、声を出そうと試みたようだが、嗚、嗚、と呼気のみ出で、見る間に巌の眉間と唇が鼻に寄ったかと思うと膝をつき、うおんうおんと慟哭を始めてしまった。声を聞きつけ現れた子、孫共が呆けた顔を見合わせる中、男の雷鳴めいた嗚咽の断片を人の言葉に置き換えてみれば、


「おゆぎ婆、おらも見送らせてぐれェえ……ッ」


 やっと、弔問らしい客の文句であるようだった。




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 葬式は、遅れた。



 戸口は体面に悪いと板間に上げ、まずは素性を明かせと及び腰でせっつく子らの声に、大男は何とか顔を上げるのだが、喉はしゃくりあげ、手振りは要領を得ず、首はかぶるばかりで話にならない。ヤレ声がダメなら文はどうだと差し出した筆を持つには持ったが、豪雨の鬼瓦面の下、落ちた大粒で紙は瞬く間に濡れそぼる。

 落ち着け、飲めと差し出した茶碗の水も、飲み干す側から号泣となって落ち着く気配は微塵も無い。ただならぬ大男の様子に怯えていた孫共も、大人たちの右往左往ぶりに徐々に落ち着き、興味こらえきれぬ目を輝かせ板間を窺っては各々の母に叱責され追い払われる――これが死人の居る屋根の下かと、ほとほと呆れ返る有様であった。


 訪れた坊主の采配で、見送りたいなら同席させてやろうと決まったのは予定の時刻をゆうに過ぎた頃合いだ。畳間に婆様の骸と坊主、詰め込むように一族が並べば、もう畳間は大男の入る余地が無い。仕方も無く板間へ続く木戸を取り払い、大男はそのまま板間から読経を聞くこととなった。鈴が鳴り、余韻の間に朴々と木魚が叩かれ、坊様の朗々とした経が始まってみれば、ようやく普通の葬式だ。






 婆様の生前、この半分も畳が埋まったことがあっただろうか。






 ——うぐお、おおお、ぐううう、ぐぐ、ぐ、ふっ………ぐうううう…




 瞬間に爆ぜかけた熾火はしかし、板間から響く奇妙なくぐもり声に消沈した。


 耳障りなことに――あの大男は読経が始まっても泣き続けていた。一応に、己の泣き声で読経を消さぬようにか、掌で口を覆っている。しかし口を覆うと口腔に呼気は響く。くぐもりは隙間から漏る嗚咽だが、その声量が尋常でない。川の轟きが人の声に置き換われば、恐らくこのような音になるのだろう。



 奴らは悲しまず。


 吾は怒りに充ち。


 あの男は――



 ならば真実、この場の誰一人とて悲しんでいない、なんと哀れな葬式だ。

 奴等が永らえるだけ無意味な時間だ。経などとっとと終わってしまえばいい――



 神妙になりきれず、さりとて弔問に来た客の涙を咎められぬ……親共が坊主の後ろで、困惑に俯く頭を見合わせる中、坊主の読経とくぐもり声ともう一つ、畳を軽い足音がかけていく。見れば、母の小声の叱咤を振り切って、女童が板間へとかけていく音だった。







 女童は敏捷く、母親――太い肉置きで痺れた足に手間取る母親を置き去りに、大泣きの大男の元へと辿り着いた。これは大男もまた、慮外の出来事だったのだろう。滂沱こそ止まる様子を見せずとも、見開かれた眼と裏腹に、喉から轟く嗚咽は寸と流れ出るのを止めていた。女童は、屈まずとも見上げる位置にある大男の顔を、未だ涙の落ち続ける顔を見た。


「いたい?だいじけ?」


 女童の小さな口から出た舌足らずの言葉に――大男の開いていた目は、それ以上に見開かれ、次の瞬間にはぼろりと一際に大粒の涙が頬を伝い落ちた。


「おお……、おお、おお、優しい子だな……心配してくれてな……」


「うちね、こんど、姉ちゃになるから。あのね、姉ちゃは、泣いてたらやさしくするんだよ。ねえ、いたいの? だいじ? おくすり、いる?」


「そうかい、そうかい……いいや、痛いんじゃねえ……」


 誇らしげな女童に、穏やかに頷く最中にも”ぐじゅり”と鼻を鳴らし、唇を震わせた鬼瓦面は再び俯いた。


「おゆき婆、いなくなっちまったんだ。もう会えねエ、だから悲しくて、悲しくてオラァ……」


「……おばあ、ねてるよ?」


 女童は板間を振り返り――畳間の布団を、亡骸を見やり――不思議そうに大男へと言葉を返す。漸う、足の痺れが失せたらしい母親が木戸の境に現れ娘を招く。屈んだ母親の胸にそっとしがみ付くと、女童は不安げに大男を振り向き、


「……ああ、でも、もう…………起きねえんだ」


 大男の言葉に、掴んだ母の袂をより強く掴むと、唇を引き結んだ母親を……婆様の末娘を見上げた。


「かか、おばあ、おきないの? ねえ、かかぁ」


 問いに。

 母親はただ、娘の頭を撫でるばかりだった。


「やだぁ、おばあ、おきないの、やだぁ」


 つたない言葉を繰る声音は見る間に潤み、それきりとなり――




 ――うぁ、ぁあああぁ……あぁぁあぁ……――




 胸に縋って無く女童の頭を撫でなだめながらも、母親は赤くなった目を大男に向け、睨み付けた。だが、大男が体を変え、腕を伸ばすのを見て、ぎょっと娘を庇うように半身を逸らす。大男はそれを見て、腕を引き……服の腹で手を念入りに拭い、指をすぼめて、再び腕を伸ばした。 


「ああ、よし、よし、やだよなぁ……やだよなぁ、でも、もう、会えねえんだ」


 依然、涙を滝のように溢し続ける鬼瓦に、女童は母の胸から糸引く鼻水と涙の面を向け、その頭を、大男の指先だけがそっと撫で始めた。肩を震わせながら俯く母親は、それを咎めようとはしない――。


「ちゃんとお別れしてな、これがもう、最後なんだから――ああ、よし、よし」


 



「もっと、会いたかったよなぁ」









――――瞬間、様子を崩したのは、婆様の長男だった。





 お店(たな)の番頭という長男は腹を正座の腿につけ、整った白髪交じりの鬢の頭を畳みの間近に近づけた。口を押え、声ならぬくぐもりを上げるや否や、その手の縁にみるみる内に目から出た涙が流れ積もって濡らしてゆく。


 兄さん、と声をかけ、背を撫でる二ツ違いの弟もまた、眼の淵に涙が盛り上がり、溢すまいと上向いた拍子に幾粒もが頬を伝い落ちる。拳で涙を乱暴に拭うも、押し広げられた水跡に零る涙が浸みては広がり落ちていく様だ。


 しゃんとおしよ、男共がみっともない!あんたらがそんなんじゃ、そこまで震え声を紡いだ鉄漿の唇は引き結ばれ、次男の一ツ下、長女もまた両の掌に己の顔を埋めて嗚咽を始めた。狼狽えて名を呼び、背を擦る夫の胴にすがり、嗚咽は嗚咽ならず哭々と音を増す。



 まだ婆様が病床に伏す前、矍鑠と達者であった頃、婆様に筆を習った孫がいた。筋が良いと褒められて、今は若くも寺子屋で教える身であった。過ぎた悪戯に飯を抜かれ、家を飛び出し婆様の家に飛び込んで飯をねだった悪たれ孫もいた。婆様は家出を拳骨一つで手打ちとし、大きな握り飯を作ってやった。子らの各々に3、4人、孫たちそれぞれに思い出す物があるのだろう、親たちの有様に釣られるように、年相応の泣き様を見せ始める。




 泣き吼える大男に釣られ泣いた、幼い女童を宥める筈の母親は、女童と抱き合うように嗚咽している――慟哭、嗚咽、啼泣、滂沱、涕泣、 哀哭……






 お前等、


 どの面を、下げて





 

 粟立つように熾火の盛り、もういい、知った事か、手近な母娘の首を食い千切ろうと一足を進め、

 



「皆の衆」




 深―――、と。




 響いた坊主の声に、知らず、身が竦んだ。見れば、どうやら経を終えたらしい坊主が家族に向き直り、婆様の顔横に座し直している。経など、半ばから全く聴けやしなかっただろう面々を頷きながら眺め、坊主はもごもごと口を動かし――



「お前さん方の様子をみれば、どれだけ愛されたか、判るもんじゃが」



「皆、そう苦しんでは仏さんの未練となってしまう」



 婆様の死に顔を覆う白布に、手を、





 やめろ





「仏さんのお顔も、」




 やめろ!!!!!!!!!!!!










「これだけ安らかなのだから」












----------








(亡骸を桶に入れる段に至り、皆が泣き面の中、不愛想な手伝い女が消えている事に気が付いた。長男は長女に女の素性を問い、長女は兄が手配した下働きでなかった事に驚き――質せば、誰も、あの女の正体を知らなかった)





(大男を最後尾に葬列は歩き、やがて女の正体以外は滞りなく、亡骸は埋葬された)










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 真明るい月の下、長屋の並ぶ堀脇の道を提灯が一つ灯り歩く。堀には緩やかに波立つ水面へ夜闇と月が揺らぎ見え、堀を挟む石垣の内を散り桜の白波が覆うようだ。堀を抜ける風に白波が、水面が、提灯が揺れ――提灯を持つ老坊主の遅い歩みに合わせ、猫背であっても上背高い大男がその隣を窮屈めいて歩いていた。


「——でな、『見舞いなど来ずえい』『孫に伝染ったらどうする』などと、強がっておったという。お雪さんは若う頃から気丈で、子らもまこと皆お雪さん似でな。皆、あのままじゃきちんと別れを告げられなんだろうよ……今日も、えいことをしたな」

 

「だども坊主、……あの女よ」


「そうさの、お前の思う通り……おお、噂をすればほれ、影よ」


 涙声の大男の鼻腔に腥い風が吹き込み……坊主に向けた顔を前に戻せば、そこには女が居た。大男が記憶を巡らすまでもなく、今日葬式があったあの家、お雪婆様の家に居た、途中で姿を消したあの女であるようだ。大男は鼻をすすり、もう一度坊主を見下ろして、その髭と眉に隠れた面と見合わせた。


「先に帰っておるでの、存分に話をすると良いわえ」


「話聞くんならどう考えたっておめの仕事じゃろ……」


「いやいや、どう考えたってお前の客よ」




 はしはしと大男の眉間を杖で叩き言うや、老坊主は踵を返して来た道のりを戻っていく。その背を見て、形相をより険しくした女が駆け出そうとしたが、立ちはだかる大男の姿にその足を止めた。大男はぐう、と胸に息を込め、背筋を正して胸を張る……伸びた身の丈だけでみれば、まるで大人と子供のような体格の差にも、女の顔に怯えは過ぎらず、ただ、女の顔には怒りが溢れていた。女の歯軋りの口が軋み、震えて開かれていく。


「お前の、せいだ」


「あんな、見送り方、して。お前が泣くから、皆、釣られただけだろに。陰気啜りに来やがっただけの、お前が! 鬼ごときが!! あんの坊主も手前のグルかどいつもこいつもふざけやがって!!」


「あんなに悲しむなら、死に顔見て泣くなら、どうして、一度、たった一度だけでも」


「たった、一度だけでも、生きてる時に来ねがったんだ!!」


 声の合間にも女の口は裂け、着物の背が膨れ上がって、内から弾け出た節足によって引き裂かれる。肉音を立てて下腹の膨れ、斑色の毛が膨れた裸体を覆い尽くしていく――膨れ上がった女の姿は、大男と視線を真正面に据える、蜘蛛の姿と成り果てた。


 黒々とした八ツ目の内に、黒々とした怒りが渦巻く大蜘蛛を前にしようとも、大男は道を譲る様子もなく頑として仁王立ち――その鬼瓦の頬を、ぼたりと涙が伝った。


「何言うとる、蜘蛛め。おめが、婆様があんな良い死に顔にしたんじゃろう。苦しんだだけで死んだんじゃねえ、薬を飲ましてやったから、看取るもんが居たから。薬が無けりゃ婆様はあんな顔にゃならんかった、でも薬だけあったって飲まなけりゃ仕方ねえ。苦しみを除いてやりたかった、おめが居たから……」


「嗚呼――――ッ!! うるせえ、うるせえ、うるせえ!! あいつらン為じゃねエ!! あたしは殺してやりたかった!! お前が、お前のせいで……!!」


 ついに蜘蛛はその八ツ脚で堀道をえぐり、大男へと激突せんばかりに突進した。迫る巨体に大男は脚を腰溜めに開き、その八ツ目の座す顔を抱えてどうと受け止める。勢いに裸足の足裏が土に後を残すも大男は倒れず、蜘蛛は狂乱し、眼前の腹に齧りつこうと大咢を開き――黒々とした八ツ目に、大男の顎に伝った涙が落ちた。




「ああ、あいつらん為じゃねえ」


「婆様、最期はおめに、笑いかけたんじゃろ」





 涙は次々に伝い落ち、怒りに熱もつ蜘蛛の瞳を冷涼せしめた。開いた咢は瞳から伝う底知れぬ静謐に凍えるように震え、怒りの張り詰めた四肢が縮み、怒りに煮えていた蜘蛛の腑もまた冷え込んでいく。やがて怒りの失せ、芯から底冷えた蜘蛛の頭に、怒りとは異なる熱が興っていく。熱は蜘蛛の瞳を潤んで伝い――零れて、落ちた。次々と――次々と。



「……虫の陰気なんざ不味くて敵わん」


 大男は鼻をすすると、ふつと消えた。男は泣き鬼という物の怪だった。生前の生き方が障り、泣きくれては人間の悲しみを煽り、引き摺り出した悲の気を食い漁っては腹を満たす浅ましい鬼だ。鬼はより悲しみの集まる所、葬式、刑場、戦場にふらりと現れては轟々と泣き、悲しみに耐える人々の目を決壊させては腹くちくなり、また飢える前に餌場を探す、およそ卑しい限りの鬼だった。



 取り残され、蜘蛛は尚も泣いた。泣き続けた。冬の朝、霜に凍えて死ぬところを皺の両手がやわらかに包み、火鉢の傍らに温められたから生き永らえた。化生したのも介抱したのも、全ては命の恩だった。女は声も無く泣き狂うとみるみる縮み、蜘蛛は八ツ目から芥子の実にも満たぬ小粒の涙を流しながら、やがて軒並ぶ家々の暗がりへと消えていった。







 春が過ぎ、夏が過ぎた頃、長屋通りの古い一軒が壊され、干からびた小蜘蛛の一匹が梁に潰されたが、砕けて粉微塵となった蜘蛛に誰が気づこうか。













 更地の跡に坊主が一人、南無阿弥陀仏と呟いた。





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