エピローグ
再会
例のスジに左のつま先を引っ掛けた祐介は、いつもの様に身体を持ち上げると、トドマツの幹を掴んで大岩の上に立った。そこから見る風景もいつも通り、祐介を優しく迎えた。
東央大学工学部の応用物理学科に進学して最初の夏休みだ。高二、高三の夏はここに来ることが出来なかったので、丸三年振りということになる。大岩の上で大きく伸びをすると、雄大な自然が肺に満たされて、その普遍的な力が全身にみなぎる様な気がした。またここにやって来れたことを、祐介は嬉しく思った。するとその時、そんな感慨をぶち壊す様な、賑やかな声が響いた。
「ちょっとぉ! 手貸しなさいよ!」
祐介が振り返って足元を見下ろすと、同じ大学の文学部、英文科に籍を置く琴美がカエルのような格好で、その大岩の下の方に張り付いているのが見えた。笑いをこらえて祐介は言った。
「もう少し登ってくれないと、手貸せないんだよ」
「出来るわけないじゃん! 何の罰ゲームなのよ、コレ!」
「大丈夫。教えた通りにやれば出来るって」
「無理無理無理」
そう言いながらカエルは、落ちまいと必死に岩にしがみ付くのであった。その紅潮した顔を、祐介は可愛いと思った。
「左足をもっと左に伸ばして! そうそう。もうちょっと左!」
琴美は言われるがままにソロソロと左足を伸ばす。その時、彼女の表情が変わった。何かに閃いて、頭の上で豆電球が点灯する、マンガによく出てくるアレの様だった。
「そう! それ! そこにつま先を引っ掛けるんだ!」
琴美は見えないつま先をゴソゴソやった。
「引っかかった?」祐介が問うと、琴美が応えた。
「うん、引っかかった!」
「よし! じゃぁ、右足に力を入れて、グイッって身体を持ち上げて! グィって!」
琴美は祐介に教わった手順を頭の中で反芻した。そして息を整え、右足を踏ん張り、左上方に向かって一気に身体を伸長させた。琴美の左手は側面から生えるトドマツの幹に向かって伸びた。しかし、無情にもそれを掴めるほどは身体を持ち上げることが出来てはいなかった。その左手は寸でのところで空を掴み、「あっ」という声を残して琴美の身体は落下を始めた。するとその瞬間、大きな腕が伸びてその左手を掴んだ。大岩の頂上で膝を付いて屈む祐介の腕であった。祐介はその若々しい力に満ちた腕で琴美を引っ張り上げると、彼女を大岩の頂上へと引き摺り上げることに成功した。
「ぷはーっ!」
琴美はそこで大の字になって伸びた。
「わたし、ダメ! もうダメ! 絶対ダメ!」
何がダメなのか判らなかったが、祐介は「よく出来ましたー」と言って拍手した。寝転がったままの琴美が、それを恨めしそうに見上げながら言った。
「祐介と付き合い始めて、今日が最悪のデートだわ」
それでも琴美は楽しそうだった。そして身体を起こすと、目の前に広がる想像を絶する光景に感嘆の声を上げた。
「うわーっ、スゴーイ!」
琴美の目に飛び込んで来たのは、幻想的とすら言えそうな天空のお花畑であった。黄、白、薄紫などの可憐な花で敷き詰められた平地が、隣の沢筋まで広がっていた。そこここで舞うモンシロチョウが、夢のような空間を演出していた。
「だろ?」祐介はチョッと自慢げに言った。
「なんでなんでーっ! なんでこんな所にお花畑が有るの!?」
そんな質問をしながらも、その答えを知りたがっている風では無さそうであった。そして琴美が視線を上げると、そこにもう一つの驚きが待っていた。それはお花畑を見下ろす様に、緩やかな斜面の上端近くにそびえる、一本の巨木であった。祐介にとっても三年ぶりに見るそのブナの木は、前回よりも少し大きくなったようで、二人を待ちわびる様にその大きな腕を大空一杯に広げていた。そこで揺らめく数知れない葉っぱたちは、「おいで、おいで」と語りかける様に、そよそよと優しく揺れていた。
「あれが・・・ そう?」
「そう、あれが俺のマザー・ツリーだよ」
琴美はいそいそと立ち上がると、膝やジャケットに付いた土をパンパンと払い落とした。そして袖口を引っ張ったりして身だしなみを整え始めた。それを見た祐介は可笑しそうに言った。
「何、緊張してるんだよ? 木だよ木。ただの木」
それを聞いた琴美は真面目な顔をして言った。
「ただの木じゃないよ。祐介のマザー・ツリーだよ」
そう言ってキャップを脱ぐと、ポニーテールを結びなおし、クライミングで乱れた髪を整えながら続けた。
「やっぱ、第一印象って大事でしょ」それは祐介にではなく、自分に対して言っている様だった。祐介が混ぜっ返した。
「俺のお袋に初めて会った時は、『おばさん、こんにちは!』とか、随分と能天気だったような気がするぞ」
「あれはまだ子供だったから!」
ピシャリと言うと、最後に顔に付いた埃をパタパタと払い落とし、シャキッとした姿勢で祐介に向き直った。そして言った。
「準備はいいわ。じゃぁ、あなたのマザー・ツリーに私を紹介して頂戴」
祐介は笑いながら言った。
「オッケー。じゃぁ行こうか」
二人は並んではお花畑に足を踏み入れると、緩やかな斜面を横切り始めた。マザー・ツリーは風に揺れながら、「早くおいで」と待ちきれなさそうだ。
クジラの木 大谷寺 光 @H_Oyaji
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