第2話

 突如、インターホンが鳴った。俺はビクン、と心臓が跳ね上がるのを感じた。体を起こし、充電器に差し込んだままのスマホをタップする。

 深夜3時。

 緊張と恐怖で、胸がキリキリ痛かった。心臓が壊れそうなほど激しく打っている。

 ベッドでごそごそ、と動く気配がして、蔭山君が起き上がったのが分かった。

「これか?」

 暗闇の中、蔭山君がひそやかな声で俺に尋ねた。

「うん」

 俺は電気のスイッチを入れようとしたが、蔭山君が俺の手を押さえた。

「明かりは点けない方がいい」

 スマホの画面の明かりで、蔭山君の横顔が暗闇に浮かび上がった。蔭山君はじっと廊下の向こう……玄関ドアの方を凝視していた。そして、押し殺した声で言った。

「朝になったら結界を張るけど、できれば引っ越した方がいい」

「はあ?」

 ケッカイって何だ?と俺は思った。引っ越すと言ったって大学生の身で、そう簡単に引っ越せるわけがない。まだ入居して3か月だし、実家だって決して裕福ではない。

「どういうことだよ。引っ越しなんて、そう簡単にできるかよ」

 言いながら、俺はだんだん腹が立ってきた。もちろん、蔭山君に、ではない。毎日毎日深夜に叩き起こされ、寝不足にさせられ、しかも友達にまで迷惑をかける。この事態にだ。そして、その元凶たる深夜3時の訪問者に、だ。

 ピンポーン

 ピンポーン

 続けて、インターホンが鳴った。俺は立ち上がり、部屋の明かりを点けた。

「おい、やめろ」

 蔭山君の声。カチカチ、と数回光が点滅し、部屋が明るくなる。俺はインターホンに向かった。インターホンの受話器は台所のシンクのすぐ横だ。通話ボタンを押そうとする俺の肩を、蔭山君が背後からぐいと引いた。

「やめろって。出るな」

「何でだよ。引っ越しなんて、逃げるみたいで俺は嫌だ。だったら、はっきり言ってやればいい」

「やめろって。やめろ!」

 蔭山君が必死で止めるのも無視して、俺は通話ボタンを押し、インターホンに向かって怒鳴った。

「馬鹿野郎!今何時だと思ってるんだ。毎日毎日、いい加減にしやがれこのクソ野郎!」

 野郎かどうかは知らない。女かもしれないが……。と、インターホンの向こうからやけに暗い男の声が聞こえてきた。どうやら、野郎で正解らしい。玄関ドアの向こうに、人が動く気配がする。

「……」

 ひどくくぐもった、ボソボソと呟くような声だ。俺はさらにイライラして怒鳴った。

「はあ?聞こえねえよ!」

「……あれ?中条(なかじょう)ちさとさんじゃないですか?」

 インターホンの相手は、さっきより少し大きな声で言った。それでもまだ、暗くて聞き取りづらい声だったが。

 中条ちさと。誰だそれ、と俺は思った。が、何か聞き覚えがある。少し考えて、思い当たった。そうだ。ポストに時折入る督促状。その宛名が、確かそんな名だった。おそらく、前にこの部屋に住んでいたと思われる女……。

 ひょっとして、と俺は思いめぐらせた。このやけに根暗な雰囲気の男(といっても顔は見ていないが)。この部屋の前の住人である「中条ちさと」に惚れて、ストーカーまがいの行動をしていたのではないか。中条ちさとがここに住んでいた時も、こういったイタズラをしていた可能性もある。それに耐えきれなくなった中条ちさとは引っ越し、それを知らない男は今もこうしてイタズラをしに来ている。中条ちさとはおそらく若くて、派手目な外見の女。お金に困っていた様子だから(督促状を見る限り)、ブランド好きとか、買い物依存症とか……。

 完全に妄想だったが、とりあえず中条ちさとの正体が分かったので、解決策も見えた。今は別人が住んでいると分かれば男は来なくなるだろう。俺はさっきより幾分優し目な声で、男に言った。

「その人なら引っ越しましたよ」

「行先は……」

「そんなの知らねえよ。俺は3か月前に入居したばかりだし」

「……」

 インターホンからは何の応答もなく、俺がまたイライラし始めた時。フッと、何の前触れもなく、玄関ドアの向こうの気配が消えた。

 え?

 どういうことだろう。事情を知って諦めて帰った、とかなら、遠ざかる足音が聞こえるはずだ。だが足音などまったくなく、本当に、その場からかき消えたみたいに、男の気配はなくなったのだ。同時に、部屋の中の空気がフッと軽くなったように思えた。

 気配が消えた謎は謎として、とりあえず男が帰ったようなので、俺は蔭山君を笑顔で振り返った。

「良かった。帰ったみたいだよ」

「馬鹿野郎!」

 蔭山君から返ってきたのは盛大な怒鳴り声だった。見れば蔭山君は、手に料理酒と食卓塩を握りしめ、とんでもなく怖い形相で俺を睨みつけている。

「……何、やってんの?」

 蔭山君の顔も怖いが、料理酒と食卓塩の方が気になる。蔭山君は食卓塩の蓋を開け、玄関の三和土(たたき)、ちょうど玄関扉の真下の左右に、小山のように塩を盛った。そして何やら呪文のようなものを唱えながら、料理酒を数滴垂らした。

「何それ。何かのまじない?」

 尋ねる俺に、蔭山君は呆れたように言った。

「あれで帰ってくれたから良かったようなものの。無茶にもほどがある」

「え?」

 きょとん、とする俺に蔭山君は続けた。

「あれは人間じゃない。何らかの未練があってここに通い続けている未浄化霊だ。おそらく何らか、中条ちさとさんに恨みなりがあるんだろう」

「ミジョウカレイ?」

 俺の頭の中に、夕食で食べたポークカレーが浮かんだ。いやいや。違うだろ。

「要するに成仏してない霊ってことだ」

 成仏。霊。オカルト番組なんかでよくありそうな話だが、それを現実に友達の口から聞くと、反応に困る。

「何だよそれ。蔭山君、霊とか見えるの?」

「祖父が神主をしていて、俺も多少の霊感はある。といっても、結界を張るくらいで祓うとかはできないけど」

「へえ……」

 俺は改めて、蔭山君が作ってくれた盛り塩(結界?)を見た。霊だの何だのと言われても、すぐには信じられない。とはいえ、さっきの男……一瞬で玄関扉の向こうから気配が消えたのは、確かに人間離れしていると思う。

「ま、人違いだと分かったらもう来ないだろう。とりあえず、解決だな」

 蔭山君はやれやれ、という表情で言って、珍しくにっこり笑った。




 その日以降、深夜3時にインターホンが鳴ることはなくなった。俺は久しぶりにぐっすり眠れる日々を取り戻し、心の底から歓喜した。このまま何事もなかったかのように、元の大学生活に戻ってゆくものと思っていたが……。

 この話には後日談がある。

 半年ほど経って事件の記憶もすっかり薄れかけた頃。

 あの空き地から、白骨化した死体が発見されたのだ。

 空き地に新しく家が建つことになり、基礎工事をしている際に発見されたらしい。死因は頭を鈍器で殴られたことによる他殺。警察やマスコミが来て、ニュースにもなって、そこそこ騒ぎになった。

 しばらくして、犯人が逮捕されたとニュースが報じた。その犯人の名前を見て、俺はギョッとした。

 中条ちさと。

 アパートの前の住人だ。

 テレビの画面に映る中条ちさとはげっそりと痩せ、マスクと帽子で顔を隠してはいたが、特に派手という印象はなく、どこにでもいる普通のOLという印象だった。交際していた男性と別れ話を巡ってもめ、殺して死体を埋めたらしい。

 殺した動機が、男が別れ話に同意しなかったからなのか。男はストーカー化していたのか。そこらへんについては定かではない。



 昔は幽霊なんて信じていなかったが、この事件があってから、俺は幽霊の存在を信じるようになった。

 惜しむらくは、玄関扉の向こうにいたであろう幽霊の顔を見られなかったことだ。まあ今だからこそ言えることではあるが。

 あの時玄関を開けていたら、俺はどうなっていたのだろう。

 今でも時々考える。

 また蔭山君に怒られそうだ。







最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この物語はフィクションであり、実在の人物団体とは一切関係ございません。

 

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午前3時の訪問者 蓮水凛子 @hasumirinko

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