宇佐美真里

朝起きてみると、私は"猫"になっていた…。


両手で顔を触り、其れが"人"の其れでないことを再認識させられて居ると、ベッドの隣で寝ていた妻が目を覚まし、私の頭を撫でながら言った。

「おはよう。あら…、顔を洗ってたのね?偉いわねぇ…」

どうやら私が自らの顔・かたちを確認している様子を、顔を擦っては舐める猫の仕草と間違えている様だ。

「かわいいわねぇ、今日も」正に"猫撫で声"で妻は言った。

「おい、僕だよ…。君の旦那だ」

其う言ったものの、其の声はただ「ミャーミャー」と、私の耳へと戻って来た。当然、妻の耳にも同じだったのだろう。

「はいはい…。ごはんね?今、用意してあげるからね」

妻は其う言って、ベッドから立ち上がる。

「おはよう、ジョン」

スリッパを履きながら妻は言うと、寝室を出て行こうとする。猫の私も、身軽にベッドから床へと飛び降りて後を追う。飛び降りたベッドの脇、其処には大型犬が寝そべっていた。面倒臭そうに片目だけを開けて、私を一瞥する。

「おはよう、ジョン」

私もジョンへと挨拶したが、やはり其のひと言は「ミャー」に過ぎなかった。一瞥の後、ゆっくりと起き上がるとジョンは、妻の後について寝室を出て行く。いつもの朝ならば、其の後について私は寝室を出て行く。だが今朝は、ジョンの後に続くのは私ではない。いや、私は私なのであるが猫となった私がついて行く。


寝室を出る。リビングルームへと続く、其れほど長くもない廊下の壁には、写真が数枚掛かっている。いつもと何も変わらない。其れ等は、私と妻、そしてジョンの…二人と一匹が写る、旅先での思い出の写真だ。勿論、其処に写っている私は猫ではなく人であるのだが…。


妻はキッチンに入るとストッカーから、器を二つ取り出し、ジョン用のドッグフードと、恐らく私の為と思われるキャットフードをカラカラカラ…と其処に入れた。器を片手にひとつずつ、キッチンの脇に置いてある小さな台の上へと置いた。台の上には既にもう一つ、水の湛えてある器が置かれている。昨日までジョンが独占していた物だ。いや、独占していた"はず"の物だ。

いつものジョンの器にはアルファベットでJ・O・H・Nとサインペンで書かれている。私は自らの前に置かれた器の文字を探した。其処にはやはり同じ様に文字があった。


A・L・I・A。


ALIA。『アリア』。どうやら其れが私の名前らしい。アリアとは女性の名前なのではないだろうか?男である私は、猫へと変わってしまった上に、雌になってしまったのだった。


「ん?待てよ?」更に私は気付いた。

妙だ。私は今朝目覚め、初めて自分が猫になっていることに気付いたのだ。昨晩、妻の隣で眠りに落ちる其の時には、人であったはずだ。

覚えている。妻に「おやすみ…」と言ったことを、明確に私は覚えている。なのに、何故、キャットフードがあり、猫用の食器が揃っているのだ?

我が家で飼って居たのはジョンと云う名の犬だけのはずだ。猫用の物など無かったはずだ。其も其も、其んな物は一切必要ないのだから。其れなのに猫用の様々な物が普通に用意されている。私は私の為のごはん、いや、餌と言うべきなのか、が入った器の前で、頭に手を遣って考えた。其れを見ていた妻は言った。

「どうしたの?食べないの?具合でも悪いのかしら?今朝は何だかやたらと顔を擦っているけれど…」

隣ではジョンが器に顔を埋め、脇目もふらずにドッグフードを食べている。

妻は今、"今朝は"と言った。其の"は"は普段の朝と比較しての"は"のはずだ。

妻は"普段の猫"を知っているのだ。其の普段の猫とは誰のことだ?

昨日まで、其の猫は何処に居たと言うのだ?其の猫とは、本当に私のことなのか?私はずっと猫だったとでも言うのだろうか?

頭の中はぐるぐると廻るばかりで、考えは一向にまとまらなかったが、なかなか餌を食べようとしない私を心配そうに見下ろしている妻を見上げて私は、怪しまれない様に、ジョンに倣い器へと頭を突っ込んで餌を食べることにした…とりあえず。


空になった器を下げて洗い終えると、妻は洗面所で出勤の支度に掛かった。メイクをし、ドライヤーで髪を整える。

其の間に、ジョンは窓際の陽当りの良い場所へと移動して丸くなった。いつも通りだ。


「それじゃあ、行って来るね?良い子にして居てね?悪戯しちゃ駄目よ?」

其う言うと、呆気なく妻は玄関を出て行った。

いつもと同じ時刻に家を出る妻。いつもと違うのは私。

いつもならば妻は、出掛ける際に私へと、此う言って出て行ってはずだ…。

「貴方、子供たちを宜しくね?おやつをあげ過ぎちゃ駄目よ?」

ペットたちにおやつを与える者は、もう居ない。私は、其れを貰う側になっていた…。


私は辺りをうろうろと探索する。其の様子をジョンは、眠そうにしながら目だけで追っている。此れもいつもと変わらない。妻が出勤すると同時に、自宅のリビングルームで作業を始める昨日までの私。其の様子を毎日、ジョンは床に顎をつけたまま目だけでいつも追っているのが常だった。


我が家の中を探索する。いつもよりもかなり低い目線に映る光景は、別の部屋の様だ。とは云っても我が家だ。勝手が分からないわけではない。リビングルームの隅に高く聳えるキャットタワー以外は…。此んな物、昨日まではなかったはずだ。其の場所には一枚の敷物だけが敷いてあったはずであり、其の上でジョンが、今丸くなっている陽の当たる場所と交互に場所を移して、まったりとしていたはずだ。

キャットタワーに軽やかに登ってみる。初めてのはずなのに、タワーの中腹にある板…休憩場所には猫の居た形跡であろう細かい傷が幾つもついていた。タワーの上層からの眺めに見覚えはある。床から二メートル弱から見える世界は、正に昨日まで私が普通に目にしていた眺めだった。


取り立ててキャットタワーは、人"だった"はずの私には面白味も感じられない。私はすぐに興味を失って、居眠りしているジョンの傍らに寄って行った。私が脇で丸くなると、ジョンは身体の向きを換えた。私の顔の前に彼の顔が遣って来た。黙ったままじっと、ジョンは私を眺めていたが、ふいに長く厚い舌で私の顔…狭い猫の額から頭の上に向けて、ぺろりとひと舐めした。

「やめてくれよ…。ビチョビチョになるじゃないか…」

だが、言葉にすると其れは、ただ「ミャーミャー…」となってしまう。

ジョンは止めようともせずに、私の耳の内側を舐め続ける…。

飼い主であった私に気が付いてのことなのか?以前から日々していたことなのか?脇を離れることもなく、仕舞いには私の背中に顎を乗せると、其のまま目を閉じた。


ジョンは大型犬だ。私が人であった時分でも、ジョンが寄って来て私に寄り掛かろうものならば、程なく私は其の重みに耐えかねて溜息をついていた。増してや今、私は猫なのだ。其の重みに耐えられず私は、ジョンの顎の下から自らの身体を抜き、彼とは距離を置いて再び丸くなった。



目の前にある、自らの尻尾を眺めながら、私は考える。

何が私を、人から猫へと変えたのか?神か?神の意志によって、私は変えられたのか?神など普段から信じても居ないのに?信じて居ないからこそ変えられてしまったのか?

いや、其も其も私は初めから人だったのか?家の中に点在する猫用品を見る限り、私はずっと昔から猫だったのではないのか?


兎に角、今後私は、猫として"人生"…いや"猫生"を送ることになってしまうのだろうか?また元の…人の姿に戻ることは出来ないのだろうか?

戻れる気がしない。其れを望もうが望むまいが、余程のことが起きない限り、今の此の姿を…"猫生"を善しとせざるを得ない。其んな気がした。


半ば途方に暮れながら、私は起き上がり、大きく伸びをひとつした。

リビングルームの彼方此方に掛けられている写真が、視界に映る。


其の写真の中の、妻とジョン、そしてもうひとり…妻の隣で楽しそうに笑っている男を見て、猫の私は小さく首を傾げた…。



「一体、此の写真の男は誰なのか?」



元ネタ:『変身』フランツ・カフカ(1915年)



-了-

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