五月二十日②
ところでその日は、
いつもの本屋のアルバイトもそうだが、今日は、
この村田という男は、おそらくは詩歌と人間的に対極に位置するだろう。
同じ大学の心理学部に通う三年生。それは良い。ただ品行方正は
およそ詩歌どころか、世の女性のほとんどと相容れない人間に、会わなければならない。無闇矢鱈と交友関係が幅広いマナに付き合って、モスバーガーという高いのだか安いのだか判らない餌をぶら下げられて。
勿論気乗りのするものではあるまい。面識もなく、聞く限り興味を惹かれるわけでない相手なのだから当然だろう。
ただ、一度
「今日は帰り、遅いの?」
「――いつも通りだと思うけど」
詩歌が平時と違ったのは、いつもは食べないトーストを食べたことだった。バターをふんだんに塗りたくって、その小さな口で
休日であり、のんびりと朝食を家族と伴にしていた母
勿論、姉のいつもとやや違う雰囲気を察していたのは母だけでない。
「なんで?」
「いや、なんとなく」
朝のことを引き摺っているのか? そんな邪推をしたのか、宏輝は熱いコーヒーを供しながら今日の予定を訊く。彼の表情自体はいつも通りだったが、視線はどこかに泳いでいた。
対する返事は、特に平常と変わりないものだった。詩歌は相変わらず能面である。ただコーヒーの入ったカップを持ったときには、熱さに眉を震わせていたが。
「明日からは、アイスがいい」
「――明日、朝は寒いらしいけど」
「アイスがいい」
「はいはい」
いや、平常と変わらないとは言い切れまい。詩歌はどこか、常より饒舌である。弟との会話が、いつもより心なしか多く聞かれる。朝の
「時間は大丈夫なの?」
宏輝は苦笑しながら言葉を繋ぐ。いつ聴いたか定かならず。ただ詩歌は、今日はいつもより早く外出するはずだった。時計は7:33を示している。
まだ大丈夫、と詩歌は答えた。事実、待ち合わせの
いまはそれよりも、彼女にとっては、淹れたての熱いコーヒーを飲む方が重要らしい。ちびちびと、恐る恐ると、小さな口は黒い液体を舐めるように飲んでいた。
「今日はご機嫌なようじゃないか、詩歌」
「そんなことない」
姉弟のやり取りを聞いていた円歌は、横から口を出してきた。同じく大きめのマグに、詩歌よりやや
「宏輝とは楽しそうに話していたのに、母には塩対応か。酷いもんだ」
母は大きく笑いながら言う。娘の無表情から、素っ気なく放たれた返事にも、気分を害する様子はなかった。
全くの他人であれば、喜怒哀楽の起伏に乏しい詩歌の機嫌を読み取るなど不可能であろう。それを察する辺りは、流石に母親だった。
ところで、どうして詩歌は機嫌が良いのか。
それは第三者からして、円歌の言葉を信じるならば、当然に浮かび上がる疑問である。
夜はおかしな夢を見た。およそ人様には言って憚られるものである。
また、朝は洗面所で、宏輝と
総合すれば、気分を害しはすれども、上機嫌になるなど有り得まい。では母の、円歌の見立てが間違っているのか?
どれにせよ、彼女らを見守る第三者にとって、その内面の心底を理解しない限りは、到底解り得ないことである。
「行ってきます」
詩歌は言って席を立った。
普段はそんなこと口にせず、さっさと出掛けてしまうのだから、機嫌の良し悪しはともかく、普段より饒舌なのは間違いなかった。
だから母と弟は、お互いに顔を合わせて不思議がる。
「詩歌となにかあったのか」
「――別になにも」
母の問いに、ほんの一瞬の逡巡はあったものの、特別な関わり合いを弟は否定した。怪訝な視線が向けられるのは当然だったが、弟は気にしない風で、台所に姿を消した。
子どもらがいなくなった、あるいは遠ざかった空間には、不思議な顔をした円歌だけが残された。
※
結局詩歌は、約束の時間のおよそ五分前に、南大沢の改札に到着した。時間が通勤通学とやや被っていたから、サラリーマンや学徒の姿が多く見られる。
日頃からあまり人混みに紛れることのない詩歌は、何度か肩を通行人にぶつけながらも、なんとか満員電車を降り、改札を出た。
やはり右眉を吊り上げさせている。朝の上機嫌を伺わせるような言動はなんだったのか。すっかりといつもの様子に戻り、いつもと同じくつまらなさそうな顔で、友人を待つことになった。まだ、高野マナは来ていなかった。
東京都内、地方の大型駅である南大沢は、周囲を森と住宅街とに囲まれている。少し歩くか、二つ三つ駅を過ぎれば、大学が多く建つ地域でもある。
だから通勤のピークをやや過ぎた現時刻では、どちらかと言えば、詩歌くらいの年代の人間が多かった。
詩歌は改札を出てすぐにある、コンクリートの支柱に体重を預けて、もたれ掛かった。マナは神奈川に済んでいると記憶にある。相当に早起きをして来なければなるまい。そもそもにして、本当にきちんと来るのだろうか?
高野マナを疑うわけではない。ないのだが、詩歌は、普段あまり使う機会のない携帯電話をリュックサックから取り出して、ぱかりと開けてみた。
ディスプレイの示す時間は、8:27。約束の三分前である。まだマナの姿は見えない。着信やメールも入ってはいない。電車の遅延もなさそうだ。次の、おそらくマナが来るであろう方向からの電車の到着時刻は、8:39である。いま着いていなければ。およそ十分の遅刻は確定だろう。
ただ詩歌は、携帯電話をリュックサックにしまうと、特に何でもなさそうに、再び視線を改札に向ける。気分を損ねた様子もなく、普段通りの能面な表情で、
事実彼女は機嫌が良いのであろう。
その要因は、先述の通りによく解らぬ。またその心情を汲み取るには、彼女はあまりにも表情仕草が乏しすぎた。
「やっぱり、詩歌は待ち合わせで目立つねえ」
「おはよう、マナ」
果たしてマナは、約束の時間通りに現れた。朝の挨拶や、お待たせ、の言葉はなかった。代わりに、すぐに見つけられる詩歌の容姿に言及する。
「いやあ。最近のミスドは、コーヒーお代わり自由なんだね。頼まれものだけ買おうと思ったんだけど、思わず長居しちゃったよ」
手元を見ると、なるほど確かに、ミスタードーナツの持ち帰り用の箱が提げられている。仄かであるが、どこか甘い薫りもした。ただ、男独りへの手土産にしては、やや量が多いようである。
「ああ、これ? 頼まれもので『足りない』とか思われたら嫌でしょ? だから、いっぱい買ったんだよ」
詩歌の視線を感じたのか、マナは笑いながら言った。手提げの中身を見ると、箱にはぎっしりとフレンチクルーラーが入っていた。数にして十個。五個がプレーンで、あとがチョコレートのものだった。
甘い薫りに、ほんの僅かにごくりと喉を鳴らす気配があった。詩歌である。今日はしっかりと朝食を摂ったはずなのに、彼女にとっては、甘いものは別腹らしかった。
「――――たくさんあるから、少し食べる?」
「いい」
マナは笑顔を苦いものに変えて言う。ただ詩歌は視線を逸らさないながらも、そういう分別はあるのか固辞した。詩歌の食い意地が張っているのは周知の事実であったので、最早挽回の余地はなかった。
「じゃあ、さっさと行こうか」
マナはドーナツの入った箱に注がれる、未練がましい視線を避けるように蓋をして、返事も聴かずに歩き出した。変わらず無表情なひとは、やはり能面で、後を着いていった。
やがて二人は並んで、まだ学生の多い駅を抜けて、目的の病院へと向かっていく。マナはあれこれととりとめのない話題をふり。詩歌は大して面白くもなさそうに相槌を打つ。場所は違えど、二人は大学構内と同じように、仲良く歩いていったのだった。
さて。
いままで散々に、七五三野詩歌を取り巻く日常が語られてきた。特に何も起こらない、何の変鉄もない、2003年の出来事である。ただ彼女にとっては、一生涯で一日しか訪れることのない、特別な日々が過ぎたはずだった。
だが四月からのこの数日間くらいが、どうやらターニングポイントである。
なにがあったのだろうか?
いやいや、これからなにやら良からぬことが起こるやもしれぬ。
詩歌らを見守る人々があるのなら、これから起こる、あるいは起こった事件を、刮目して見なければならない。
――――ところで。
七五三野詩歌は、魔法使いである。
Ethelist(エーテリスト) サワダヒロシシ @sawadahiroshishi
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