五月二十日①


『なぜ、煙草を吸うのだい?』


 七五三野しめの詩歌しいかは、突然の問いに目を剥いた。

 これはどうやら夢のようである。

 話は唐突だったし、顔を上げてみても、問いを投げ掛ける相手の顔は判然としない。声色は男のようだったが、その顔は黒っぽくぼかされていて、誰か判らない。

 加えるに詩歌は下着だけを身に付けた、ほとんど裸の姿である。しかも椅子に乱暴に括り付けられている。荒縄のような頑丈な紐が、詩歌の白い肌に食い込んでいたが、痛みは全くなかった。

 しかしながらその日は、『これは夢だ』と理解しても、すぐに覚めることはなかった。何故かは解らぬ。ただ目前の男らしい詰問者は、詩歌に続けて言う。


『なぜ、害のある煙草を、家の中で吸うのだい?』


 先程とは少しばかり違う質問である。

 話口はやや尊大だった。上から目線この上ない物言いと、詩歌を拘束して訊問、あるいは拷問をやってのける。現実ではあるまい。


『――――――――っ』


 詩歌は質問に対し、何事かを述べた。それは答えであるのか、いまの状態に対する文句なのか。

 だがその何事かは、詩歌は口をぱくぱくと動かすだけで、音として発せられることはなかった。喋ろうとして喋られない、虚しい詩歌の阿呆面だけがあった。声の主は、どうやら、質問をするだけして、その答えには興味がないという変質者のようだった。


 ところで喫煙に対する弊害は、無論のこと詩歌も知るものである。ここ数年は、なんとかという法律により、分煙化が急激に進んでいる。煙草のパッケージにも、仰々しく注意書が記されているし、なにより、大元の値段まで上がる始末だ。

 喫煙は百害あれど一利なし。吸っている本人の気分がいくらか晴れるのが、利と言えば利かもしれぬ。

 ただその少しばかりの快楽は、本人にも、また他人にも、健康を害する恐れがある。肺だけでなく、心臓も、脳も、紫煙に含まれる有害物質で、正常な働きを阻まれるのだ。

 でも、と。詩歌は物言えぬ口を再び動かす。彼女の反論とは、家族には気を配っていて、誰も滅多に寄らない書斎で喫煙していること。遅い時間に、ほとんど一本だけしか吸っていないことである。およそちかしい人の前では喫煙していない。あくまで自己の健康だけが、専ら懸念される。人様に迷惑を掛けないのなら、彼女に課せられるのは、あとは自己責任のみである。


『誰がいつ書斎に足を踏み入れるかも判らないのに、本当に迷惑が掛からないと思うのかい?』


 詩歌の声は相変わらず音とならない。ただ何故か言いたいことは伝わっているのか、声の主は疑問を更に重ねてきた。

 確かに。書斎に鍵は付いていない。この間は母が来た。どうやら宏輝が、自分が出ていった後の始末をしているのも、感付いてはいる。書斎に入り、机の抽斗ひきだしを牽くと、片付けた記憶のない灰皿が、綺麗に掃除されて入っているのだ。それも、いつものお決まりの場所に。宏輝こうきが恩着せがましく言ってこないので、詩歌はその善意の行動に、なにも咎めることはなかった。謝礼の言葉も、ひとつもないのだが。


『――――――』


 今度は、詩歌は押し黙った。声が出せない口は、一文字に結ばれている。それから下を向いた。

 詩歌に何か思い当たることも、上述の通り多々あろう。何をか思案しているのは判らぬ。だが彼女は、なかなか覚めぬ夢の中で、思い悩んでいる風だった。


『――煙草を辞める気は、ないのかい』

『――――――』


 やはり何も応えない。


『姉さん』


 やがて声の主は、意を決したように言った。声色は先程と変化せず聞き慣れないものだったが、詩歌をそう呼ぶからには、彼は弟の宏輝であるらしかった。

 詩歌は再び顔を上げる。相手の表情はまだ判別できない。


『煙草を辞める気は、ないのかい』


 今一度、同じ質問。詩歌は強い口調で返事をした。あるいはまた声が出せないと思われたが、今度こそ彼女の口からは、きちんとした言葉が吐き出された。


『じゃあ宏輝あなたが、わたしの気持ちに整理をつけさせてくれるの?』



    ※



 時計は朝の6:40を指していた。詩歌は夢の中と同じく下着だけの身体を、ベッドから起こした。

 季節柄、徐々に暖かさは増しているものの、朝は肌寒さが感じられる。詩歌はひとつ身震いすると、枕元にある、くしゃくしゃに丸められたティッシュペーパーを、つまらなそうにゴミ箱に投げ捨てた。


 夢の内容は、はっきりと覚えていた。弟の宏輝が出てくるものである。そこで詩歌は、いまと同じ下着姿で、縄でもって椅子に縛り付けられていた。そして普段は聞かれることのない強い口調で、質問攻めを受けていた。

 面白くない。

 詩歌の感想は、そういうものであっただろう。ベッドから降りてすぐ、姿見に映った顔は、能面の彼女にとっては珍しく、顰められていた。いつもの右眉を震わせる表情ではなかった。

 詩歌の名誉のために、この歳にもなって、弟に責苦を受けるといった夢の内容に、これ以上の詮索は止めておこう。夢とは一説には、己の深層心理を映し出すものと言われる。七五三野詩歌の抱く、感情の表層に出てこない不安や願望とを宏輝に結び付けるのは、いい大人にとっては、あんまり、、、、である。


 鏡に映る姿は、その表情と同じくらいには、つまらないものだった。少なくとも世の男性のほとんどは、率先して、数ある女性の中から選び取るものではないだろう。

 着替えるためか、詩歌は下着を脱いだ。わざわざ姿見の前で。生まれたままの自分の姿形を見て、彼女は何を思うのだろう。

 乳房の膨らみは、日本人の平均には届かない。しかも乳首はやや陥没している。食生活のせいか、腹は出ていないが、特にくびれているわけでない。

 正面からは窺えないが、尻には蒙古斑が残っている。そのくせ、陰毛はもじゃもじゃとして、やたらと濃く繁っている。

 詩歌はそんな自身の姿に不満があるのか。やはりつまらなそうに、誰にも聴かれぬ溜め息をいた。


 詩歌は着替えを手早く済ませると、部屋を出た。今日の用事にはまだまだ時間がある。リュックサックはまだ持っていない。

 向かった先は風呂場だった。肌寒さを感じたのか、昨晩にしっかり風呂に入ったはずだが、どうやらまた入るらしい。湯槽は温まっていないから、烏の行水であろうか。


「うわっ」


 今一度衣服を全て脱ぎ去ったところで、すっとんきょうな声が聞かれた。

 詩歌が眉を歪ませて見やると、扉のところには、宏輝がいた。

 正確には、宏輝はすぐさま背を向けて洗面所を後にしたため、その後ろ姿を見ただけである。普段は――特にこの数年は、詩歌はともかく宏輝が洗面所に居合わせる、着替えに遭遇する、という事態は起こらなかったはずだ。それが今日に限って起こるとは、弟に取り、なんとも間の悪いことである。

 とはいえ、詩歌も十代かそこらのお年頃、、、ではない。弟に裸を見られるのは、興味のない犬や猫と似たようなものでなかろうか。特別騒ぎ立てることなどない。

 ただ愉快でないことも同時に確からしく、ひとつだけ、小さく舌打ちをしたのだった。

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