五月十七日⑥


 家に着いてから暫く詩歌しいかの情緒不安定な様子は続いた。見かねた円歌まどかがどこからか酒瓶を持ってきたことで、彼女はやや落ち着きを取り戻した。

 宏輝こうきはその日の夕食にあれこれメニューを考えていた様子だったが、女性陣がグラスを傾けているのを見て、当初より変更をした。シーザーサラダと、ボイルしたウインナーソーセージ。オリオンリングにポテトフライ。たこのカルパッチョに梅茶漬け。完全に居酒屋のメニューがテーブルの上に並べられている。

 つい数十分前まで、形容しがたい感情に揺さぶられていた詩歌の顔は、すっかり元の眠そうなものに戻っていた。

 母円歌は、明日は土曜日なのに仕事があるといって、アルコールの最初の一杯は付き合ったが、後はずっと烏龍茶だった。宏輝は二人の様子を見守りながら、終始笑顔でいた。


「まったく、男というやつは!」


 突然円歌はそんなことを言った。大声で。

 詩歌はちらりとその顔を横から見るが、すぐに視線を逸らしてオリオンリングフライを手に取り口へ運ぶ。男である弟の宏輝は、いったい何のことか判らず瞬きしたが、すぐに愚痴であろうことを察して苦笑した。

 七五三野しめの円歌は、齢にして不惑を半ばほど過ぎているが、その容姿は周囲が驚くほどには若々しい。詩歌と同じく化粧気がなく、服飾にもほとんどの関心はないが、白髪はく、肌のハリと艶は、同世代の女性と比べるまでもなく、瑞々しいものだった。

 身長も詩歌より低いものの、世の女性の平均身長よりはずっと高い。身体の凹凸は高低差が少ないが、姿勢はちゃんと凛々しくしているから、極端な欠点とならない。性格も、やや男勝りする我の強い性質であるが、それは見る男性により受け取り方が一長一短ある。つまり、七五三野円歌は、一部の人間には大変にモテるのだ。


「子どもがいるというだけで及び腰だ。もうほとんど手の掛からない、大きな子どもと言っても無駄。逆に私がそんな歳だと判って、更にドン引き。そんなんなら、口説きに来るなと言いたい」


 だからそういう愚痴を吐くことは仕方がない。ただそれを、大きな子ども、、、、、、たちの前で言うことは、善悪の判断を待たないであろう。


「父さんは、母さんにとってどんな男性ひとだったの?」


 真面目な顔で宏輝は訊く。いまこの場では、彼が半ば全人類の男を代表する立場である。滅多なことは言えない。だから当たり障りなく、生前の父の話題を持ち出して取り繕う。円歌の口から愚痴が出てくることは稀にあるが、その対処法を、息子はよく心得ていた。それは多少に強引ではあっても、父の話を振れば、母は次第に上機嫌になっていくからだった。今後に誰かが余計な口さえはさまなければ。

 姉は相変わらず、オニオンリングフライを食べている。


「この世で一番ステキな男性だよ」


 話し始める母の顔は、恋慕の念を湛えていた。その口から発せられるのは、亡き父を讃える美辞麗句である。やれ背は高く、痩せ身だが筋肉質で、顔は日本人らしい美形で、明朗快活を絵に書いたような人となり。など、次々に飛び出す。飲んだのは――あるいは飲まれたのは――アルコール一杯だけだが、それだけで、夫である七五三野一輝かずきの話を、一時間は続けていられた。子どもたちにとり、このときばかりは、円歌は母である以上に、女であった。

 ちなみに上記のような話は、姉弟にとっては既に耳にたこ、、ができるほどには聞いた記憶のあるものだ。二人が中学生の頃辺りから話され始めた母の馴れ初め話を、宏輝は苦笑と共に聞いていた。

 今日のこのときも、賢明な息子は頬を引き攣らせながらも、時折頷いては、馬鹿丁寧に母の話に耳を傾けている。


「飽きた」


 対して詩歌からは、そんな身も蓋もない感想が吐かれた。彼女にとっては自分の生まれる前の話。それも実の母親から、しばしば発せられる男女の生々しい、、、、話は、血縁者からすればあまり心地の良いものではあるまい。初めに聞いた中学生の頃は、集中といかないまでも耳を傾けていた。だがここ二・三年は、非情にも、過去の惚気のろけ話を一言で切って捨てる。


「母親の美しい想い出を、『飽きた』とか言うんじゃない」


 母は怒りを顔面に貼り付けて、やや語気を荒げて言った。その顔の右眉は、ぴくぴくと震えている。詩歌の不機嫌なときと同じその癖は、やはり母娘おやこを想起させるものだった。

 

「何度も同じ話、聞いてるから。あれでしょ。二人は生まれつき結ばれる運命にあって、とか続くんでしょ」

「事実を言って何が悪い。大体な、お父さんがいなかったらお前たちは生まれていなかったんだ。詩歌おまえも宏輝を見習って、自分の生まれた経緯くらいは黙って聞け」


 円歌の怒りはもっともである。自身の美しい記憶が、愛の結晶たる子どもたちに『飽きた』と唾棄されるのは、大変に堪え難いものに違いない。登場人物の片方が故人であることも拍車を掛ける。

 宏輝は頭を抱えた。つい最近までは、こうでなかった。少なくとも高校までは、姉も大人しく母の過去の惚気話を大人しく聞いていた。退屈そうな素振りはしばしばしていたものの、露骨に波風立てることはしなかった。

 それが大学に入ってからはどうだ。まるで反抗期が来たかのように、父との話が出る度、くってかかる。

 勿論実際に反抗期がぶり返したわけではない。この場面において詳しくを述べると、話がどんどんと逸れていくので省くが。詩歌にも、中学生の時分は、大抵のひとがそうであるように、荒れたことがあったものだ。


「まあまあ。二人とも、落ち着いて」

「元はと言えば、宏輝。お前が詩歌の手綱を握っていないのが悪い」


 仲裁に入る長男に対し、母から浴びせられたのは、理不尽極まる難癖である。

 ただ宏輝は、母姉の性格をよく理解していた。ここで反論するのは、おそらくは逆効果だ。非難の矢面やおもてが、自分に向いてはたまらない。

 なので「悪うございました」なんてうそぶいて、的をさっさと逸らせてしまった。これは体格も悪く、性格も大人しい彼なりの処世術である。長いものには巻かれろ、と言われる、日本人の思考の的を射た、迎合の術だった。

 ただ生憎と、円歌の性質上、好ましい回避の方法とは断定できない。彼女はやや強気な性格だったから、そういう全うな日本人的な対処方法は、逆効果の場合が多々あった。


「――――重々に反省しておけよ、宏輝」


 しかしながらその日は、既に夜の時間が過ぎてきたこともある。戦禍を宏輝にまで伸ばしても、就寝までの時間が迫る一方だ。


「――まあいい。

 で、だ。一輝と初めて会ったのは、物心付く前だった。私はほとんど生まれついてすぐの瞬間から、運命の相手と一緒に育ったんだ――」


 まだ顔の一部の筋肉をひくつかせながらも、円歌は話を続行した。そこまでして彼女は、過去の美しい想い出とやらを聴かせたいのだろうか。


 夜の時間はどんどんと過ぎていく。

 詩歌は相変わらず、淡々と酒を飲み続けた。もう「飽きた」などという意見は言わなかった。ただその表情は、やはり幾分かは常時より影のあるものだった。

 弟の宏輝も聴いていたが、こちらも段々と、苦笑の度合いが増してくる。口の端が吊り上がっていくのは、彼のどんな感情を表しているものなのか。

 誰しもが、自身の親の、馴れ初めの話を聞きたいわけではない。出会いやら、その後の付き合いやら、結婚式やらは、まだ結婚とは縁遠い身には、体験談として語られても幾分かは、聞く価値もあろう。ただ円歌の話には、どこか大切な部分が欠落していた。

 それにも増して語られるのは、母と父の、生々しい記憶だった。肉親が聞いていて、心地の良くなるものではない。やれキスが上手いだの下手だの、初体験のときがどうだったかだの。友人知人から聞くにはまだしも、高校生あたりの時分から、実の母親に言い聞かせられるのは、精神的にくる、、ものがあるに違いない。

 だから宏輝の表情はどんどんと険しいものになっていって、お得意の苦笑や愛想笑いなどは為りを顰めて、真顔になっていく。それは咎められるものではなかった。


「――というわけで。お前たちは生まれたわけだ。

 いいか。忠告しておくぞ。

 お前たちは幸せな家庭を築くのだ」


 ようやく円歌の話は終わった。この長い惚気話の最後には、決まってそういう言葉が付く。

 『幸せな家庭』とは、七五三野家には似つかわしくない言葉なのか。早くに、それも子どもらが最も多感な時期に命を落とした父親を持つ母子家庭には、『不幸』の文字がお似合いなのか。

 最後の言葉を投げ掛けられた姉弟は、あるいは興味無さそうに、あるいは神妙な面持ちで、その言葉を聴いていた。前後者のいずれが詩歌で、宏輝であったかは、論じるまでもないだろう。

 時刻は22:35。大学生にしては寝るに早いかもしれないが、明日に仕事を控える母としては、やや遅い時間かもしれない。今日のありがたい話は、およそ二時間続いた。七五三野家の団欒は、これにてお開きとなった。


「じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 母の就寝の挨拶に、二人はほとんど声を合わせて対した。終始酒を飲み、会話らしい会話もしていなかった詩歌も、このときばかりは、きちんとした挨拶をするものだった。

 挨拶の通りに、すぐ退室する後姿を見送って、姉弟は何を思うのか。

 それはともかく、詩歌はひとつ欠伸をして、席を立った。明日が特別に早いということはない。これから日課のようである、書斎に入り、煙草を一本噴かそうという魂胆である。かなり酒精を摂ったはずだが、やや頬が紅く上気しているものの、他はなんら変化が見られなかった。


「ねえ、姉さん」

「――なに?」


 不意に、立ち去ろうとした詩歌の後ろ姿に声が掛けられた。宏輝が、グラスや皿を片付けながら、姉を呼んだ。視線はてんで別の方を向いていた。


「姉さんにとって、幸せな家庭て、どんなの?」

「――――」


 ぴたり、と扉の前で立ち止まる。それから暫しの無言。

 弟の宏輝は相変わらず、わざわざ姉に訊いておきながら、片付けをしていて、顔を向けることはしない。半ばそんな質問に対する答があるとは思っていなかったように。あるいはまともな返事を期待していないように、投げやりな質問だった。


「――今のままで、充分よ」

「そう」


 やがてたっぷり数秒の間を置いてから、詩歌は言った。その表情は、灯りの点いていない廊下の暗がりに隠れ、窺い知ることはできない。ただ話口はいつもと変わらず抑揚がなくて、平淡なものだった。だからきっと、表情もいつもと変わらぬ眠そうなものだろう。

 問いを投げた宏輝は、素っ気なく相槌を打った。食器を手に持って、台所に向かっていく。彼にしても、姉の返答に対して、特別に思うところは少ないようだった。


 確かに詩歌にとって、いまの環境は幸せな家庭であるだろう。

 少しばかりアルバイトはしていて、家に金を納めてはいるものの、餓えの心配はない。むしろ何もしなくても、時間になれば、腹が空けば食事が出てくる。

 服は拘りがないが、着るものにも困らず、常に清潔である。きっとある程度を望めば、あっさりと母は買ってくれるだろう。

 住む場所は勿論、郊外といえ東京に一軒家があるのだ。これ以上を望むのは、母子家庭には酷であろう。

 唯一不満というか、不足があるとすれば、それは父親だ。七五三野の姉弟は、およそ最も多感な時期を、父親なしで過ごした。母は勿論、あらゆる不自由をさせまいと奮闘したに違いない。ただそれでも、金銭的な問題以外で、子ども二人が不自由を被ったとするなら。やはり女手ひとりシングルマザーの養育の弊害があるだろう。


「姉さん」

「なに?」

「おやすみ」


 姉弟の会話は終わった。その日の最後の、直接的な会話は、何気ない当たり前のものだった。

 姉は書斎へ足を運び。弟は台所で片付けを始める。いつもの七五三野家の風景だった。




 詩歌はやや酒量が過ぎたか。

 火を付けた煙草の半分ばかりを吸ったところで、おもむろに灰皿で揉み消す。すると自室に戻ることなく、古い書籍を広げたまま、机に伏して眠ってしまった。

 その寝顔は、起きているときと違い、僅かに笑みさえ浮かべているような、幸せそうなものだった。

 ――今日は、心配性の弟が、書斎に姿を見せることはなかった。


 深夜。

 詩歌のリュックサックから、微かな振動音が聞かれた。携帯電話の、メールの着信を告げるものだった。

 既に夢の中にある詩歌は気付かない。すやすやと、変わらず極上らしい夢の中にある。

 ここで不躾にも、詩歌の携帯電話を覗くものがあるなら。どういう感想を抱くだろう。無論、そんな人間がここに居合わせるわけはないのだが。


 果たしてその日、詩歌の携帯電話には、どんなメールが届いたのか。

 差出人は宏輝。件名は(無題)。

 なんだ。いつもの要件が一切解らぬメールであるか。

 ――否、今日ばかりは、本文になにやら記載があるようだ。

 その本文には、短く、こんな言葉が記されていた。


『うそつき』

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