手紙(3/3)

 話は変わりますが、うちのもうじき一歳になる琴美ことみは、テレビを点けておくとよく眠る、ちょっと変わった子です。何かしら音がするのが、かえって心地いいらしいのです。

 先日、琴美がお昼寝をしている間、私は点けっぱなしの教育番組を何気なく観ていました。そのとき、とても驚くことがありました。

 なんと、あの「えびす神社」が映っていたのです。

 その番組は、レポーターが日本各地を訪れ、その地にある神社やお寺などを巡って、歴史や言い伝えを探るというものでした。隠れた長寿番組らしく、私も何度か見た覚えがありますが、まさか自分の地元で撮影が行われていたとは思いませんでした。

 郷土研究家という肩書で登場したのは、私が小学生の頃に担任をされていた、荻野おぎの先生でした。ずいぶん髪が白くなっておられましたが、まだお元気そうでほっとしました。

『ここはえびす神社と言いまして、古くから村民の信仰を集めてきました』

 先生がそうおっしゃったとき、画面に「蛭子神社」というテロップが出ました。

 あれ? と思いました。「えびす」といえばてっきり、七福神の「恵比寿」のことだと思っていたからです。長年の思い込みが突然ひっくり返されたことに、私は衝撃を受けました。

 先生はレポーターを案内しながら、説明を続けました。それはこんな内容でした。


 いわく、この「蛭子神社えびすじんじゃ」は『古事記』に登場する「蛭子ひるこ」という神様を祀ったものである。蛭子はイザナギ、イザナミ両柱の最初の子であるが、不具であったために海に流されてしまった。その神様を祀ったのがあの「蛭子神社」である。

 神社の裏にある石の祠は「えな塚」といって、昔村で赤ちゃんが産まれると、ここに胎盤えなを埋めるのがならわしであった。胎盤を埋めたところには、目印として石を置いたという。


 私はテレビから目を離すことができませんでした。

 捨てられた赤ん坊の神様は、この地に来て福をもたらす存在となり、また村の赤ちゃんの健康や安全を祈る守り神にもなったというのです。

『今では絶対にそんなことはありませんが、昔は堕胎された胎児や、無事に産まれてくることができなかった赤ん坊なども、このえな塚のあたりに葬られたと言われています』

 荻野先生のお話に、レポーターが相槌を打ちます。

『そういうことは確かに、今の法律では難しいでしょうね』

『ええ、しかし、第二次世界大戦あたりまでは、その風習が残っていたという話もあります。以前は、そうすることで子供がここの神様とひとつになり、村を守るようになるという伝承がありました。しかし、胎盤を埋める風習が廃れるにしたがって、それも伝えられなくなったようです』

 荻野先生がそうおっしゃったとき、私は天啓を得たというか、頭にピシッと電気が走ったような気がしました。一度そのことを思いついてしまうと胸がドキドキして、いてもたってもいられなくなりました。

 あのとき、お守りを渡しながら「絶対に開けては駄目よ」と言ったおばあちゃんの顔。

 あの見たことがないような怖い顔が、脳裏に鮮やかに浮かびました。


 山内さんのお嫁さんが救急車で運ばれていったのは、確か私がお守りをもらった日のほんのひと月ほど前だったこと。

 亡くなった子供は神様とひとつになって、村を守るという伝承。

 戦時中は手に入れることができたのに、今ではめったに入手できなくなったお守り。


 もしかするとえびす神社のお守りとは、亡くなった赤ちゃんの遺体から作られるものではないだろうか。

 その考えが、突然私を捕らえたのです。

 そんな馬鹿な話が、と思いながらも、私は確かめずにはいられませんでした。そのとき初めて、私はおばあちゃんの言葉に逆らって、お守り袋を開けたのです。


 おばあちゃん、ごめんなさい。

 私はその中に、カラカラに干からびて黒ずんだ小さな小さな手が、真綿に包まれているのを見つけてしまいました。


 あれは山内さんのお嫁さんの、赤ちゃんのお手てではありませんか?

 村をほとんど出ないおばあちゃんがあんなものを手に入れるとするなら、タイミングを考えてもそれしかないと思います。

 おばあちゃんはお守りを作るために、山内さんから赤ちゃんの遺体の一部をもらったのではないでしょうか。


 すでに書いたとおり、おかしくなった後のお嫁さんは、度々「ごめんなさい」とか「痛かったでしょう」と言いながら、泣いていることがありました。

 あの言葉は、無事に出産できなかったことへの罪悪感(もっともそれは、お嫁さんが悪いわけではありませんが)から出たものではなく、赤ちゃんの遺体を傷つけてしまったことに対する嘆きではなかったでしょうか。そう考えると、手首の傷痕もただのためらい傷ではなく、手を失った我が子を想った結果であるように思えるのです。

 これは私の憶測ですが、おばあちゃんはもしかすると、遺体の一部を譲ってくれるよう、山内のおばさんにお金を渡して頼んだのではありませんか?

 そしてお嫁さんはお姑さんに逆らうことができず、赤ちゃんの手を譲ってしまった。

 でもそのことが後々、彼女を苦しめることになったのです。


 もしもそうだとすれば、このお守りが、お嫁さんの命を奪ったことにはならないでしょうか。


 おばあちゃん。

 あなたもきっと、そんなことはしたくなかったはずです。他人様の、それもいたいけな赤ちゃんの遺体を傷つけるなんて。

 それを悔いていたからこそ、山内家のお墓参りを続けていたのではありませんか?

 でも、えびす神社の神様を信じていたおばあちゃんは、その信仰心ゆえに、おじいちゃんに持たせたものと同じお守りを、どうしても私のために作らなければならなくなった。

 それが倫理に反することだとしても、そうすることで……いえ、そうしなければ私は助からない。それほど追い詰められていたのではないでしょうか。

 でもその代わり、ひとりのひとを死に追いやってしまった。

 それはどれほどの重い罪なのでしょうか。


 私は幸せものです。

 あの手術の後からは後遺症もなく、元々健康なひとと同じように生活できるようになりました。退院後は楽しい学生生活を送り、就職もできました。素敵な男性と結婚をして、琴美を授かりました。

 でも私には、山内のお嫁さんの気持ちがわかります。特に琴美の顔を見て、その小さな手に触れると、我が子の遺体をあえて傷つけなければならなかった彼女が、どれほど辛い思いをしたか、その苦しみが胸に迫ってきます。

 あの黒く萎びた小さな手を、どうにかして山内家のお墓に埋めてやりたいと思ったこともありました。

 でも、私は未だにお守りを持っています。

 あの村で生まれ育った私の心にも、やっぱりえびす神社を信じ、畏れる気持ちが根付いているのです。

 このお守りを失ったとたん、私の幸せはすべて奪われてしまうのではないかと思うと怖くて、どうしても手放すことができないのです。


 この手を遺体から引き離すのと同じように、あるべき場所に戻さないことも、また罪なのではないか。

 そう思ってみても、臆病な私には何もできません。


 もしもこの手紙に書いた私の考えが当たっているのなら、お願いがあります。

 おばあちゃんは昔、私に「死んだらお化けになって会いに来る」と約束してくれました。

 もしも死後、何者かが人間の罪を裁くのだとしたら、あなたにどんな罪状が言い渡されたのか教えてください。

 このお守りを作ったこと、そしてそれをこうして持っていることが、果たしてどれほど恐ろしいことなのか、知りたいのです。


 どうかお願いします。


 最後におばあちゃん、ありがとう。

 実里みのりはあなたのことが大好きです。

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えびす神社のお守り 尾八原ジュージ @zi-yon

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