残されたのは

 カラスはタバコを吸いながら今来た道を戻った。店の前に車を停めてある。黒のMS-8。結婚してすぐにローンを組んで買った車だ。

 カラスの妻はきれい好きで、中古の古汚い車は好まなかった。車内は妻を助手席に乗せなくなってから、すっかりタバコ臭くなった。前回洗車したのはいつだったか。カラスは、薄汚れた車に乗り込んだ。凹んだままのマフラーが目印だったが、今は運転席の前の紫のコルチカムになった。花を置くと見た目だけでもましになるという娘のアイディアだ。

 吸い殻をぐりぐりと灰皿に押し付けながら、ラジオをかけた。シティーポップの軽やかなリズムがカラスの思い出を揺り動かす。最近は八〇・九〇年代に流行ったような曲調がまた流行しているようだ。

「お聴きいただいたのは、Suchmosより「YMM」でした。オザケンこと、小沢健二に影響された少年たちが、今こうして時代の先陣をきって活躍しています。後藤さん、我々の世代はやっぱりこういう曲には馴染みがありますよね。」

 ラジオのMCが言った。

「そうだね。僕も若い頃はよくディスコなんかに行ってたんだけど、あの頃に聴いていたのと似てるよね。」

 後藤が言った。

「今の時代こういうアクティブな若い子がいるのは、おじさんとしては嬉しいものです。今の若い子は、自分にはできっこないとか言って、自分の可能性を無理に縮めちゃうような子が多いですよね。おじさん達から見たら全然そんなことないんですけどね。」

「これは深刻な問題でね、僕の周りの若い子たちもそうなんだよ。若いからって変に謙遜してるんだけど、違うんだよ! 若いからやれるってんだよ! って言いたくなっちゃうよ。ははは。」

 信号で止まっている間に、ナビをセットした。目的地は熱海の錦ヶ浦。熱海はカラスにとって思い出の場所だった。後にも先にも、たった一人の恋人との初デートも熱海だったし、プロポーズをしたのも熱海だ。熱海にいる時の彼女はいつもより眩しくて、素敵に見えた。熱海には必ず夏に行って、そして必ず熱海城に行った。


 二人で歩いた熱海城までの道は、彼らにとっては特別なものだった。それはカラスの五感に強く刻まれていて、何年経っても写真のように鮮明に思い出せた。

 ケーブルカーで近くまで行った後、少しだけ坂を上る。その坂道は、山の神社の赤い鳥居から海に浮かぶサーフボードまで、熱海中を見渡せた。夏の気だるい蒸し暑さが手をつないで歩く二人の歩みを重くさせ、坂の下から伸びて先のほうだけ見えている樫木は青々とした葉を揺らし、賑やかな潮風が二人の背中をぐいぐいと押した。

 カラスが話をすると彼女は感心したり、笑ったりと大きくリアクションをした。カラスは人と話すのが苦手だったが、彼女は自分の話を楽しそうに聞くので二人の時はだいたいカラスが多く話した。

「熱海城って字面は重厚だけど、実物はハリボテみたいだよね。」

「だから好きなんでしょ?」彼女はカラスの顔を覗き込んでクスクスと笑った。

「まあね。不思議な魅力を感じるんだよ」カラスは言った。「それがなんなのかは、何回来てもわからないけど。時々無性に来たくなるんだ。」

「私はかわいくて好きだけどな。包丁で切ったら実はケーキでした! って言われても信じる。」

「希子らしいね。」

 不思議と熱海城に言った記憶だけは時間によって廃ることはなかった。しかし、それも今ではシャボン玉のように弾けてしまった。跡形もなく、最初からなかったかのように。カラスは希子との記憶は自分のものではない気がしていた。それはあまりにも遠くて、本当は全く違う記憶のような感覚だったからだ。

 あの時のカラスたちは同じような場所を永遠とぐるぐる回っていて、そこで彼らは息を吸い、お互いを感じ取りあっていた。何度誕生日を祝いあっても、彼らにとってそれは何かをもたらすものではなかった。

「二二の次は何歳になるの? 二一かな。」希子はケーキを切り分けながら言った。

「もう一度二二歳なんじゃないかな。」

 カラスは真面目にそう思った。自分たちには二三歳なんて似合わないと思った。それくらい不確かで、満たされていた。しかし、カラスは確かに年をとっていて、隣に希子はいなくなっていた。成人した娘もいるし、出世もした。彼の中の時間だけが止まっていた。


 気づくと雨は止んでいた。カラスはしばらく車を走らせて、錦ヶ浦に着くと車を路肩に停めた。長く間運転していたので、休憩がてらそのままドラマを一本見た。


「あいつは俺たちを見捨てたんだ。証拠にあいつの食糧袋だけ無くなってるじゃねえか。いい加減見切りをつけろ。」

 クロは吐き捨てるように言った。

「そうだぞ、リュウ。いないものはいない。残ったやつらだけで手を取り合ってなんとか生きるしかないんだ。今はいなくなったやつのことなんて考える余裕はない。」

 二人が説得してもリュウはうずくまったままだった。

「俺たちが何度も住処を変えて生き抜いているように、俺たち自身も何度も変わらなければいけないんだ。お前も早く大きくなれ。」

 突然、ガサガサと目の前の雑草が音を立てて倒れた。

「まずい猫だ! 逃げろ!」

 クロが察知して周りに促した。

 ねずみの群れはワッと散らばって身を隠した。まわりより一回り小さいねずみが一匹逃げ遅れ、猫に捕まった。ねずみはバタバタと手足を動かし、背中に食い込んだ猫の歯を抜こうとした。

 しかし猫に前足で上半身を押さえつけられ、ねずみは涙を流しながら右の後ろ足から順に食われていった。


 カラスは途中でドラマを止めた。ため息を一つついてから、背もたれを戻してタバコに火をつけた。

「胸糞悪いもん見ちゃったな。」

 カラスは携帯を閉じた。ずっと前から毎日ドラマを見ていて少しは目利きが効くようになったが、久しぶりにハズレを引いたらしい。車を降りて崖から海を見下ろした。海は穏やかで、波がリズムよく崖を這い上った。

 カラスは一度車に戻って、運転席のコルチカムを崖まで持ってきた。手で土をほじくって穴を掘り、出来た穴にコルチカムを植えた。その後すぐに朝日が出て、雲の間から差した光が明るくコルチカムを照らした。

「俺がカラスってのは皮肉なもんだ。」

 昨日と同じようにゆっくりと日は昇り、波は静かに揺れ続けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

行方 ウーたん @nobikittamochi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ