こぶたは誰だ
気持ちのいい初夏の日だった。カラスはリビングで仕事をしながら、妻の帰りを待っていた。娘の理子はロフトの天窓から光が差すところで「三びきのこぶた」を読んでいた。
理子はまだ五歳でやっと年長クラスに上がろうかというところだ。土曜日は妻の希子だけ仕事があるので、毎週娘と二人きりでゆったりとした時間を過ごすことになる。理子はまだ小さいが、ロフトはリビングから見えるので安心して仕事に集中できる。カラスは娘と家で過ごす時間が何より好きだった。淹れるのが下手なコーヒーもいつもより美味しく感じる。
理子はロフトから階段を下る方向に背を向けながら降りてきて、すぐ下の本棚に「三びきのこぶた」をしまった。ガサガサと本棚を漁り始めたが、気に入った本が中々見つからないらしかった。
「レンガのおうちの豚さんはこの後どうするの?」理子は次の本を選びながら言った。
「どうするのって?」カラスは手を止め、理子の方に体を向き直した。
「一人になっちゃったんだよ?かわいそう。」
理子は感情移入する力が強く、物語を読み終わった後には度々こういった類の質問をした。
「なるほどな。レンガのおうちの豚さんは兄弟がいなくなってとても辛いだろうね。もしかしたら辛すぎて生きるのを諦めてしまうかもしれない。」カラスは腕組みをして渋い顔をした。
「でもこの豚さんはオオカミをやっつけて食べてるよ?」理子はカラスのそばまで来て言った。
「失った悲しみは復讐しても弱くならないんだよ。この豚さんは復讐をしてしまったけど、復讐自体はさほど重要じゃない。復讐を終えた後どう生きるかが重要なんだ。」
カラスは理子の頭をそっと撫でた。
「パパたち人間だって、大切なものを失ったとき人生は大きく変わる。失ったものに対してどう向き合うかでその人の行く先はずいぶん変わるだろうね。」
「うーん……。わかんない。」
「理子がもっと成長したらわかるさ。」カラスはニコリと笑って、もう一度理子の頭を撫でた。
アスファルトを蹴り出す度に浴衣に雨水がかかった。前から来た老婆にぶつかって転んだ拍子に出来た傷が雨に染みた。
「ダメだ……繋がらない。」
理子は息を荒くしながら走り続けた。明夫という男とのトーク画面は理子からの発信で埋まっていた。もう何回かけたのかもわからない。
「いい加減教えてくれよ。理子のお父さんがどうしたんだよ。」
一五分はずっとこんな状態で走り続けている。酔いはすっかり覚めてしまった。颯太はずぶ濡れになりながら、一人夢中で走る理子に傘を差し続けていた。
「お父さんが死んじゃうかもしれないの! じっとしてられる訳ないでしょ!」
どういうことだ。状況を呑み込めていない颯太を置いて、理子は向かいの人を押しのけながら強引に進んでいく。
「説明してくれ! 一回落ち着こう。」
嫌がる理子を無理やり抑えて、屋根のある路地裏に入った。店の壁に寄りかかって、ぐっしょりと濡れた髪をかきあげながら息を整えた。
「急に走り出してどうしたんだよ。あと、お父さんが死んじゃうかもしれないってどういうことなのか教えてくれ。何があったんだ。」
理子は座り込んで、乱れた息のまま話した。
「自傷癖があるの。私のお父さん。タバコ吸ってるんだけど、タバコの火を肌につけたり、壁を思いっきり殴ったり、頭ぶつけたりしてわざと怪我して帰ってくるの。しょっちゅうよ。」
理子は時々深く息を吸って、颯太に自分が混乱している理由を打ち明けた。
理子と彼女の母親は、明夫の自傷行為を止めようとしていたこと。死のうとは思っていない、と毎回退けられていたこと。たった今「ずっと元気でいてください。」と連絡がきたこと。
こちらを見上げた理子の目は充血していて、声も震えていた。颯太は隣に座って理子の肩を抱いた。
「私それでどうしたらいいのかわからなくなって……」
「うん。」
「お父さんの仕事場ここら辺だから、気づいたら走ってたの。もうどうせ近くにいないのに。」
理子は縮こまって、それ以上何も話さなくなった。
颯太は立ち上がって、理子の頭を撫でた。
「俺探してくるよ。理子のお父さんには一回しか会ったことないけど、顔わかるからさ。心配しなくてもちゃんと見つけてくるから。少しだけここで待ってて。」
一度しまった傘を開いて、返事も聞かずに走り出した。場所の目星なんてついているわけがない。そもそも土地勘もない。颯太はそんなことおかまいなしに、とにかく自分の持てる限りの速さで走った。闇雲に人をかき分けながら。しばらく走り続け、もうどこに理子を残してきたのかもわからなくなっていた。
薄暗い細道に入ったところで、黒のMS-8を見つけた。明夫の車だった。信号で止まっているようだ。少し遠いが走れば間に合うかもしれない。傘も手放して夢中で走った。
「いた……。やっと見つけた。見つけたぞ、理子。」
しかし、その瞬間、信号は青に変わり、車はぐんぐんと速度を上げて颯太を突き放していく。
「おい! 待ってくれ! おい!」
颯太の祈るような叫びは雨とエンジンの音に吸い込まれていった。倒れるように尻をついた。ただ茫然と車が消えた方を見つめているしかできなかった。
颯太は、自分の付近だけあまり濡れていないことに気づいた。地面が乾くほど長くここに停めていたらしい。この近くに用があったんだろう。しかし、そばにあるのはsaucerという名前の看板のバーだけだった。
とりあえずバーの入口の前で雨宿りをして、理子に電話をかけた。
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