幸せを呼ぶ鳥
カラスはいつものバーにいた。もう通い始めて二十年以上になる。いつもは仕事終わりの八時ごろから飲み始めるが、今日は日が落ちる前からのスタートだった。マスターに八つ当たりのように言葉のとがった不満をぶつける。
「いつだって世の中は自分じゃどうしようもない力に押し流されるしか道はない。自分じゃないんだ。自分は誰なんだって思うんだ。他人から認識されることでしか存在出来ないのに、その他人が俺を食らって空っぽにしちまうんだよ。」
カラスはカウンターの角を爪でカリカリと削りながら言った。
「面白いことを言うね。」マスターはニヒルな笑みを浮かべて言った。
「悲しいんだ。一人になると、時間がすぎる度に不安が増していく。最近しょっちゅう今死んだらどうなるのか考える。ぐるぐると考えを巡らしている時間が増えたよ。」
カラスは続けた。
「俺が死んだら、俺だったものの腐臭に隣の住人が気づいて、警察が来るだろ。一通り運び終わった後に部屋の契約は切れて、床の腐食を取り除く業者がやってくる。そうしたらもう元通りだ。あいつらは俺がいたことなんて覚えてないような顔をしてまた起きてきやがる。ただそれだけなんだ。」
カラスの手は震えていた。マスターは特別にハイボールをサービスした。
「君がどう生きようが私は構わないが、私はもっと楽しく生きようとしたいね。それが一番じゃないか。」マスターは氷を割りながら言った。
カラスはハイボールを一口飲んで、不満げな表情を浮かべた。
「いいかい?明夫君、君が理不尽な仕打ちを受けて心が廃れてしまったとしても、それは些末な問題だよ。滝が当然のように次々と水を送り出すように、人には常に理不尽が降り掛かってくる。それに意味は無いんだよ。例えば、君がカラスと呼ばれているのはなぜだい?」マスターは手を止め、カラスの方に顔を向けて言った。
「覚えてないな。気づいたらそう呼ばれていたんだ。」
俯くカラスに、マスターは出来る限り優しい口調で言った。
「そうだ。世の中のたいていのことには意味が伴っていない。だから楽しくするんだ。どうせ意味が無いなら楽しく生きた方が得した気持ちになるだろう? 私はいつもそうやって考えているんだ。」
カラスは涙を浮かべながら、自分がこれまで失ったものを考えた。大切な人達との時間、抱いた夢、愛する妻。カラスはいつも苦しんでいた。決められた道の中でどうしたら自分でいられるのか模索しては、その途方のなさに絶望していた。
ありがとう、とだけ言って店を後にした。錆びて歪んだ傘を無理やり開いた。店に入る時より弱くなった雨だが、カラスの不安を洗い落とすには十分だった。水滴が混じった、ヒヤリとした気持ちのいい風がカラスの頬を撫ぜていく。頬の怪我をしたところがヒリヒリと痛んだ。
少し歩いたところで、陰気な男とすれ違った。男は肩をすぼめて、何かに怯えるように歩いていた。男のタバコのツンとした匂いが鼻を刺す。
「おいあんた!」
カラスが驚いて振り返ると、三十代ほどの男が痩せた老婆に何かぶつぶつと小言を後ろから浴びせていた。
陰気なのは俺も同じだが、あそこまで腐っちゃたまらんな、とカラスは小さく呟いた。
前から来る雨を傘を斜めにして避けながらコンビニに入った。
「ウィンストンの青を一つ。」
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