行方
ウーたん
片割れの生き様
「やめておけ。『状況は改善された』なんて言う奴らのことは信じるな。貧困が見えないのは、ただ隠されているからだ。」
クリスはグラスをぎゅっと握りしめて、必死で訴えかけた。
「そんなことはない。お前の兄の会社だって倒産寸前まで追い詰められたのに、あのアベのなんちゃらとかいうやつで立て直したじゃないか。今は少し浮かれすぎだが。」
「お前の給料が上がって、業界の思惑通りにものを買わされて満たされた気持ちになった所で、それは相対的な幸福だよ。他人より少し金をもらっていい生活をしたところで何になる。兄貴は何もわかっちゃいない。」
「何が悪い。それが幸せだよ。それが正解だ。」
「わかったよ。だがな、気をつけろ。父親ヅラしてお前の肩を叩き『もう声を上げる必要は無いんだ。戦争は終わったんだよ。』なんて擦り寄ってくるやつがいたらすぐに逃げるんだ。」
クリスの言葉には諦念が混じっていて、それは彼の持つチェイサーにも淡く映し出されていた。
「お前の長ったら」チッ
イヤホンから嫌な音がした。携帯の充電をするのを忘れていたらしい。仕事終わりに好きなドラマを一話見てから帰るのが男の日課で、唯一の楽しみだ。大学の友人に勧められて見たのが始まりだったが、半年もしないうちに見ないと気がすまなくなった。なぜそうなってしまったのかは男にもわからない。入社から五年、初めての出勤で着たスーツは汚れ、タバコの匂いが深くしみ込んで使えなくなった。前を向いていた学生時代の男の面影は既にその姿から削ぎ落されていた。
男は充電の切れた携帯をしまい、アイスコーヒーを買うついでに、時計が見える自動販売機の前のベンチにゆっくりと腰を掛けた。男の席からは時計が見えないのだ。
「先輩、今日飲み行きませんか?」
「うん、いいよ。その代わり奢ってよ?」
「もちろんです。今日給料日ですから。」
デスクに座ったままの女に見えるように、若い男は自慢げにズボンのポケットに手を当ててみせた。二人が帰ると、オフィスには男一人になった。時計は既に二二時を回っている。
内ポケットから型の潰れたタバコを取り出したが、中身は空だった。周りを見渡してから、男は重い腰を上げて帰り支度を始めた。
外は小雨だった。途中で曲がった歪な形をしたビニール傘を苦労して開いた。錆びた匂いが指にこびりつく。くすんだビニールが雨を弾いては、男の周りにボタボタと重たい水滴を落としていく。
いつもの帰り道は、傘を持たずに慌てる人やビルの下で雨宿りをする人で溢れていた。 歩道の端を歩いていると、向かいから一組の男女が駆けてきた。二人は浴衣姿で、男は女に傘を差し、女は携帯に必死に何かを打ち込んでいた。何か調べ物をしているようだ。若いってのはいいなと思った。
雨はじっとりと男の服を濡らし、湿気が肌にぞわぞわと巻きついていった。路傍の植木は、雨をしのごうと肩を寄せ合っていた。
中学生くらいの三人の子供とすれ違った。子供はどうも苦手だ。どうやら模試の結果について罵り合っていて、三人を躱すようにわざわざ縁石に寄って彼らが過ぎるのを待った。男は中学生の一人を睨んでみたが、見向きもされなかった。
「三一番お願いします。……いや、ウィンストンの青ね。」
コンビニでタバコを買うと、店から出てすぐに火をつけ、男はまた歩き出した。きちんと吸うと渋いアメリカンな味わいが男を高揚させた。タバコの依存性は吸う度に男の気持ちを楽にさせたが、そうして押し殺したものは確実に男の底に溜まっていった。
総武線の高架下の手前まで来たところで、肩のあたりに強い衝撃を受け、男は一瞬バランスを崩した。誰に押されたのかはすぐにわかった。すぐ後ろを歩いていた女だった。タバコを吸いながら邪険な顔をして、男を追い抜いていく。
「おいあんた!」
女を呼び止めようとしたが、女は無視して足を引きずりながらずるりずるりと歩いて行った。そして高架下に雑然と敷かれたダンボールに寝そべり始めた。六〇歳くらいだろう。女は酷く痩せている。よく見ると服は男用のもので、かなり傷んでいるようだった。男は足を止め、女を避けるように脇の細い道へ進んだ。
いつもと違う帰り道には、新鮮なようで、言い知れぬ不安を孕んだような空気が漂っていた。こじんまりとした住宅街の間に今にも潰れそうな古いバーを見つけた。saucerという店だった。傘を再び苦労して畳むと、店の小さいドアをくぐった。
「いらっしゃいませ」
中には豊かな顎髭をたくわえた老爺がいた。店内はマイルス・デイヴィスの『So what』が流れていて、客は男の他にいなかった。幾度となく反芻したポップ性のあるメロディーに懐かしさを感じた。トイレの上には看板がかかっていて、男はそれを見て思わず笑ってしまった。
ルール1 マスターに嘘をついてはいけない。
ルール2 もし嘘をついてしまった場合、ルール1を参照する。
マスターも男に微笑みを向けた。
「変わった看板でしょう?」
「えぇ。スコッチでおすすめのものを頂けますか?」
「畏まりました。」
笑みを浮かべながらマスターは割った氷をグラスに入れていく。男はマスターに人の本性を見透かすような不気味さを感じていた。どこで感じたのかはわからないが、店に入った瞬間から感じた感覚的なものだった。
「マスターは不思議な人ですね。」
「よく言われますよ。」マスターは優しく言った。
初めての客は久しぶりだということで一杯目はサービスされた。立地と外観の渋さから常連ばかりが集まる店になっているそうだ。確かに何本もボトルがキープされていた。マスターは中々自分から話をしようとしない男から、職業柄突出した能力を使ってずいずいと話を引き出していった。
しばらくすると男は折れて素直に話すようになった。時間を忘れてマスターと他愛のない話をしていた。マスターは気さくな人でもあった。
「あなたは明夫君の生まれ変わりのようですね。」マスターは突然切り出した。
「はい?誰ですか?」男は言った。
「いえ、なんでもないです。ただあなたになにもかもそっくりな知り合いがいましてね。」
「はぁ。そうですか。」男は、そんな話なんの興味もないというような顔をしていた。
マスターはたまに明夫という名前を出して、そのたびに男の考え方などあらゆる部分を彼と比べた。よく聞いてみると明夫という人物の話は興味深かった。彼は男と非常に似通った生い立ちや境遇だった。マスターが話す明夫についての話は、男に自分のことの話題かのような錯覚を覚えさせた。
「明夫さんはいつ亡くなったんですか?」男は前のめりになって尋ねた。
「まだ生きてますよ。なんならさっきまで店でいつもみたいに愚痴を垂れてましたね。でも今日はいつもより愚痴は少なかったかな。」マスターは平然と答えた。
「なんだ生きてるんですか。どっちかって言うと年齢の違うドッペルゲンガーですね。」
男は笑った。
いつの間にかすっかり日をまたいでしまったようだった。男はあまり自分から話をしないが、この日は違った。楽しい時間だった。最後に仕事帰りにどつかれたホームレスの話もした。
「ホームレスってのはやっぱダメですね。僕はあんな奴らになりたくなくてなんとか仕事続けてますよ。みすぼらしいのなんのって感じで」
男は、一瞬マスターが何か言いたげな顔をしたのに気づいた。
「何か?」
マスターは少し考えるような素振りを見せ、なんとも歯切れの悪い口調で言った。
「いやぁ、あなたとそのホームレス。何が違うんです?」
男は驚いたが、同時にどきりともした。男は自分がどきりとした理由がわからなかった。しばらく黙り込み、深刻そうな顔をして、グラスの氷を回した。回る氷を見ながら、あれも違うこれも違うと適当な言葉を探していた。
「年かな。」
それが精一杯の答えだった。カウンターの上にタバコを置き、会計を済ませた。
「ルールは守るよ。」
そう言って男は店を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます