巣立ち

佐渡 寛臣

巣立ち

 入ってくる朝焼けがやけに眩しゅうて、俺は目を細めて、遠くに走る列車を眺めていた。白い病室で、乳白色のベッドに横たわる母ちゃんの細い手をただじっと握ってた。


 ――――――――――――


「田辺さん、今日この後みんなで飲みに行くんですけどどうですか?」


 隣のデスクの上宮さんが、軽く眉を寄せて訊ねてくる。声だけは明るく、だけどその表情から、来ないでほしいと言っているのが見て取れて、田辺はいつもの笑顔を作って答えた。


「すいません、僕、今日はちょっと用事があって……」

「あ、そうですか。それならいいんです」


 表情ががらりと明るく変わる。そんなに来てほしゅうないんやったら、誘うなや、と田辺は心で毒づいて、席を立った。

 すれ違う、もう自分よりも会社に馴染んでいる新入社員たちに軽い挨拶を交わしながら、袖をまくって古ぼけた腕時計に目を落とした。

 時間はもう九時を過ぎようとしていた。週末にしては早く仕事を終えることが出来て、ほっと安堵のため息をこぼして、会社を後にした。

 街頭がきらびやかに瞬くオフィス街。週末恒例の飲みに出かける社員達の声があちらこちらから聞こえてくる。

 その明るい喧騒から逃れるように、身を縮めて、一人駅へと向かって歩いていた。

 ――母ちゃん、今日は何ともなかったやろか。

 自宅方面とは反対方向の電車に乗って、田辺は車窓から見える街並みを眺めながら、ぼんやりと電車に合わせて体を揺らしていた。

 ――もう、一年になるんか。

 頭の中で呟いて、田辺は大きくため息を吐いた。


(もって半年でしょう)


 母が運び込まれた病院で、医師がそう田辺に告げた。

 小難しい言葉で、医師は淡々と、母がもう助からないという話を続けていたが、その時の田辺には何一つもう耳に入らなくなっていた。

 学生の頃から、ずっと迷惑ばっかりかけてきた。

 父が早くに亡くなったせいか、田辺は高校生の頃酷く荒れていた。喧嘩になれば真っ先に手を出し、何かある度に逃げるように家出を繰り返し、ずっと母に心配をかけてきた。

 ようやく落ち着いて、今の仕事に就いて、やっと恩返しをはじめたというのに。

 病院の前に立って、田辺はため息を噛み殺して頭を振った。

 ――あかんあかん。母ちゃんに会うねんからこんな顔しとったらあかんわ。

 口の端を上げてみる。曲がった笑みやな、と田辺は自分で少し笑ってしまう。ほんの少し表情が和らぎ、田辺はほっと一息ついて、母のいる病室へ向かった。


「あぁ、ヒロユキ。来てくれてんね」


 カーテンを開くと、すぐに母が言った。


「うん、仕事早ぅ終わったからな」


 丸椅子に腰掛けて、ニッと笑みを浮かべる。母もその笑顔を見て、たぶん真似してニッと笑みを返した。

 頬骨が浮いた痩せた母の顔を見る度に、田辺の胸に苦しいものが浮き上がってくるのを感じていた。


「――でもええのん? 明日休みやから、会社の人との付き合いとかあるんやろう?」


 ――あんま知らんけど。と母は心配そうに田辺を見つめる。田辺は目を細めて笑い、首を横に振った。


「今日は何かみんな用事があるねんて。いつもやったらみんなで飲みに行くねんけどなぁ」


 嘘をついて田辺は笑う。毎週、同僚たちは皆で飲みに行くが、田辺はほとんどそれに付き合ったことがなかった。

 自分でも、会社で浮いていることくらいわかっていた。仕事だって並程度しか出来ないし、これといって楽しい話を出来るわけでもない。流行にも疎く、顔立ちだって良いものではない。

 田辺は今の会社に入ったときから、人付き合いに関して諦めていた。

 自分はそういう歯車には上手くかみ合えないのだと理解しているからだ。


「母ちゃん、今日は痛いとことかなかったか?」


 細い、母の手を握って真っ直ぐ見つめて訊ねる。母は照れたように顔を逸らし、笑んで答えた。


「今日は何ともなかったで。ヒロユキは心配性やねんから。そんな気にせんでもええのに……」

「無茶言うなや。――でも何もないんやったらそれに越したことないわ」


 ――嘘やな。と田辺は俯く母を見つめながら思った。目を合わせないときは母は自分に後ろめたいことがあるときだと田辺は気付いていた。

 母はいつだって自分に心配かけまいとしている。その母の優しい心遣いが、田辺には辛く重たく圧し掛かってきていた。

 ずっと心配ばかりかけてきた自分に、心配かけまいと振舞う母。返そうとしても返せない恩ばかりが積もっていくようで、田辺の背にはいつもその重圧が圧し掛かってきていた。


「――なぁ、母ちゃん」

「何? ヒロユキ」


 締め切ったカーテンのおかげで、本当はか細い母の声がうんと身近に聞こえた。

 ヒロユキ、という母の優しい声は三十年の歳月を軽く飛び越えて、田辺の耳に届いた。

 ――よくこうやって夜、母ちゃんと話をしたっけ。

 立て付けの悪い扉がガタガタと鳴るたびに、田辺は母の手を握って布団に入った。怖さを紛らわすために、田辺はいつだって母に話しかけた。


(なぁ、母ちゃん……)

(何? ヒロユキ……)


 布団の中で近くに聞こえる母の声に耳を傾け、気付けば深い眠りについていた。父が死んだときも、そうやって二人で眠りについた。


「――ごめんな。今まで心配ばっかりかけて」

「何言うてんのいまさら」


 くすり、と母は笑って、田辺の頭を撫でる。弱々しく、震える手でゆっくりと柔らかな髪を撫でた。


「今はすっかり逆になってしもたな」


 母がそう短く言った。目を向けると、微笑みは優しく、そしてどこか儚い。


「――もうヒロユキは大きくなったし、立派に仕事してる。こうやってほとんど毎日、お見舞いにも来てくれる。ほんま親孝行な子やわ」


 満足そうに母が言った。田辺は胸のあたりに湧き上がってくる苦しみに耐えられず、思わず答えた。


「――ちゃうわ……」

「うん?」


 首を傾げる母に田辺は続けた。


「親孝行なんかちゃうわ。まだ俺、全然母ちゃんに返せてないやん。ずっとバカやって、心配かけて……そやのに、何で今こないなことなってんのや。――全然、全然足りてないわ」


 母が困った顔を浮かべて笑った。それは子どもの頃に見た母の表情と何一つ変わらない笑みだった。


「親が、子どもの心配するなんて当たり前やないの」

「――せやけど……俺、やっと仕事につけてんで? やっと母ちゃんに楽させてやれるっておもたのに……何で……」


 田辺の頬に涙が伝った。

 悔しくて出た涙だった。昔どうしょうもなかった自分と、今どうすることも出来ない自分が悔しくてしかたがなかった。


「アホやなぁ。ヒロユキは肝心なとこ抜けとるわ」


 ぽんぽん、と母は田辺の頭を撫でて、そっと身体に近付けた。軽く抱きしめるようにして、田辺の耳元にそっと囁くように言った。


「お母ちゃんは、ヒロユキが立派になってくれただけで、それだけで肩の荷が降りたんよ。お父ちゃんが亡くなって、ヒロユキを一人で育てるの、すごい不安やった。心配する事もたくさんあった。せやけど、今ヒロユキはこうして私のこと大切にしてくれてるやろ?」


 ぎゅっと、母が田辺の肩を強く抱いた。細い、骨だけになったような腕で強く息子の肩を抱きしめていた。


「こんなに優しく育ってくれて、それだけでお母ちゃんは幸せいっぱいやわ」


 身体を離して、母はにっこりと微笑み、そしてまた田辺の手を握った。冷たい母の手を田辺は握り返し、ぽろぽろとただ涙を流した。


「せやからなヒロユキ……」


 視線を上げると、母が今にも眠りそうにうつらうつらと目を細めていた。


「母ちゃん……眠いんか?」

「ヒロユキ……そこにおるんか?」


 ふと、母の息が荒くなっていることに気付いた。


「母ちゃん?」

「あのな、ヒロユキ……」


 視線は定まらず、母は天井を見つめていた。ぜぃぜぃと肩で息をし始め、田辺はベッド脇にあるボタンに手をかけた。


「母ちゃん、今、看護婦さん呼ぶからな!」

「ヒロユキ……」


 ボタンを押し込み、田辺は母の手を握り締め、ひたすら声をかけた。


「母ちゃん頑張ってや!」

「ヒロユキ、もうな……」


 ごくり、と母が息を飲み込んだ。


「もう、お母ちゃんの手、離していいんやで」


 その言葉と同時に医師と看護婦が病室に入ってきた。田辺は声をかけ続け、医師たちは処置を続けたが、母がそれ以上話すこともなく、そのまま息を引き取った。


 ――――――――――


「――なぁ、母ちゃん」

「何? ヒロユキ」


 乳白色のベッドに横たわる母ちゃんは何でか若い頃の姿をしてた。そういう俺も何でかガキの頃の姿で、丸椅子に座って母ちゃんの手を握ってた。


「最期、なんて言いたかったんや?」

「――やっぱようわからんかったよねぇ。あれじゃあ」

「うん、父ちゃんに似て俺、頭悪いもん」


 そやなぁ、と言って母ちゃんは笑った。ふっくらとした頬にえくぼが浮かんで、優しい微笑で俺の頭を撫でる。


「ヒロユキ、ずっとお母ちゃんの手、握ってくれてたやろ?」


 照れくさそうに、母ちゃんは言った。暖かい、柔らかな手で、俺の手を撫でて、母ちゃんは愛おしそうに俺を見つめる。


「大きなってから……病気なる前から、仕事場から遠いのにわざわざお母ちゃんと一緒に暮らしてくれてな。一人暮らしめんどくさい言うてたのも嘘やったやろ?」

「なんや。やっぱりバレとったんかいな」

「お母ちゃんは何でもお見通しやの」


 お互い、少しだけ笑う。笑い声が重なるだけで、胸の奥に暖かいものが流れ込んできて、どこか心地良い感覚がした。


「――せやけどな。もうお母ちゃんは十分やわ。お腹いっぱい幸せいっぱいやの。せやからヒロユキに、ムリして手繋いでもらわんくてもいいんやで」

「ムリなんかしてへんよ。してへんかったよ」


 母ちゃんは困ったみたいに眉を寄せて首を振った。それから軽く俺のおでこにでこぴんして、言った。


「しとるよ。しとったやないの。お母ちゃんを誤魔化せるやなんて思わんといてや」


 じっと見つめられて、俺は視線を思わず逸らした。


「ヒロユキは、これからもっと色んな人と手を繋がなあかんのよ。今までみたいに他の人の手振り払ってやってたらヒロユキ、一人になってまうよ」

「そんなん……いうたかて……」


 ――今更もうムリやん。もう俺四十過ぎるねんで。今更どうやってあの子ら間に入っていくんや。

 それよりもずっと、母ちゃんの方が大切やった。せやから俺はあの子らと過ごすよりも、母ちゃんと過ごす道を選んだんや。


「俺、お母ちゃんの手離したくない。おらんくなっても離したくなんかないわ」

「アホやなぁ。ヒロユキは、ほんまにアホやわ。いっつも肝心なこと何もわかってないねんから」


 呆れたように母ちゃんは言った。アホアホ言うた。


「あのな、心配せんでも、ヒロユキとはここでつながっとるから大丈夫やろ?」


 そう言って、母ちゃんは俺の胸をとんとんと突いた。


「ヒロユキがみんなと手繋いでくれたら、お母ちゃんは嬉しい。きっとその幸せ、お母ちゃんにも伝わる。せやからほら、早う起きな」


 俺は母ちゃんと手を繋いでいた。いつの間にかベッドは昔暮らしていたボロアパートの一室になっていた。

 バタバタと鳴る扉の音が頭に響いて、俺は布団の中で母ちゃんと手を繋いでいた。

 そして俺はいつものように母ちゃんに訊ねた。


(なぁ、母ちゃん)

(何? ヒロユキ)

(お母ちゃん、ずっと一緒にいてくれる?)


 父ちゃんが死んだ日、俺はそう訊ねた。そして母ちゃんはいつものようにこう答えた。


(――アホやなヒロユキ……)


 ――ずっと一緒に決まっとるやろ。


 ――――――――――――


 病室の窓から入り込む朝焼けに、田辺は目を細めて、遠くに走る列車に目をやった。白い病室で、乳白色のベッドに横たわる母の細い手を握っていた。

 安らかな母の顔はまるでまだ眠っているようにさえ見えた。

 不意に涙が、一筋だけ頬を伝った。


「母ちゃん……」


 答えない母に、田辺は静かに言った。


「頑張ってみるからな。ゆっくり見ててや」


 朝焼けの朱色が母の頬を赤く染めていた。記憶の隅にある母の笑顔がふと甦り、胸の奥を熱くさせた。

 秋の高い空には、うっすらと雲が広がっていた。田辺の耳元で、微かに母が答えてくれたような、そんな気がした。

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巣立ち 佐渡 寛臣 @wanco168

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