零れ話 その二 夫婦の逢瀬

 出会いはそう衝撃的ではない。

 久し振りに戻った実家で、久し振りに家の中を徘徊中、嫌な身内と鉢合わせしそうになり、慌てて入った先が、その女の部屋だった、というだけだ。

 自分がいた時は物置だった部屋で、妙に息のしやすい安らげる場になったそこは、深窓の姫の部屋だった。


 仕事を終え、再び江戸に入った男は、真っすぐある家に忍び込んだ。

 忍び込むのは二度目とあって、慎重さは少しだけ軽くなっている。

 大工の棟梁の住む表長屋の階段を上り、松吉の部屋にそっと滑り込む。

 薄暗い中、夜具に包まる姿を見つけ、男は詰めていた息を深く吐いた。

 一度目は仲間と合流する前、頭を待ち伏せする前に、顔を見ようと立ち寄った。

 その時は、寝顔を見つめ続け、短い時を惜しみながらその場を後にした。

 今夜も、そのつもりでいた。

 起きている顔も見たいが、どんな顔で会えばいいのか、分からなくなっているのだ。

 そっと夜具の塊に近づき顔を覗きこむが、頭まで夜具を被った相手は、寝顔すら見えない。

 恐る恐る手を伸ばし、頭を隠す夜具に手をかける男の背を、そっと指でなぞった者がいた。

「っっ」

 体を跳ね上げ、悲鳴を殺した男の背中に頭を押し付け、低い声が言った。

「……この、薄情者」

 その声に目を見開き、振り向こうとする男を、後ろの女は鋭く制した。

「振り返るなっ。この間は、よくも、私の情けない寝顔を、盗み見てくれたな」

 何で知っているんだと唖然としたが、訊くまでもない。

 この人がここにいると教えてくれたのは、叔父だ。

 ここまで近くに来ている愛しい人を、一度も拝まずに立ち去る男ではないと、叔父は知っているのだ。

 怒っているのかとびくつく男の背中に体を添わせ、女は後ろから首に腕を回した。

「……ロンの、背中だ。本物だ……」

 湿った声に、ロンは顔を歪めた。

 首に回された腕に触れ、静かに呼びかける。

「コハク様、どうか、顔を見せて下さい。眠っていない、あなたの顔を」

「嫌だよ。何で、数少ない顔合わせで、泣き顔なんか見せないといけないんだっ」

「泣き顔でも、一向に構いません。代わりに、私の顔を思う存分眺めて下さい」

 男の真面目な懇願に、女はゆっくりと名残惜し気に、腕を放した。

 すぐに振り返るロンを見上げるのは、この部屋の主とは似ても似つかない女だ。

 色白の肌に、甘い蜂蜜色の髪と眼。

 濃い金色の目が、愛しい男をしみじみと見上げた。

「相変わらず、いい男だ」

 こんなに下心のない誉め言葉を言ってくれるのは、今の頭とこの人くらいだ。

「有難うございます。コハク様も、相変わらず可愛らしい方です」

 本心で返したのに、コハクは目を細めた。

「本当に? 他にいい人が出来たから、私と話したくなくて、この間は起こさずに逃げたんじゃ、ないのか?」

「……どうして、そう言う根も葉もない疑いが、かけられるのですか」

「だって、変らなすぎるんだもの」

 頬を膨らませて顔を伏せる女に、ロンは眩暈を感じてつい、抱きしめた。

「話すのが、怖かったんです。今も後悔しています」

「え、どうして……」

 悲しそうに尋ねるコハクを、男は更に強く抱きしめながら、答えた。

「あなたに、同じ生き方は無理だと分かっていても、このまま連れて行きたくなってしまう」

 女の両手が背中に回り、しがみ付いた。

「連れて行って。どこで死んでもいい、あなたの傍で、生きたい。そう、前にも言ったじゃないかっ。何で、聞いてくれないんだっ」

 泣きながら言われ、ロンは顔を歪めて何度も首を振る。

 無理だ、そう思う。

 今こうして実家から出て来れているのは、カスミや叔父が女の体に合わせた空間を、身に纏わせているからで、それを作る術を、ロンは持っていない。

 このまま連れ去って、万が一その空間が破れる事となったら……女が、こちらの手立てがないまま、弱って死んでしまったら、ロンの方が耐えられない。

 コハクは、小さい頃から虚弱だった。

 子供を宿して産み落とした時、奇跡だと騒がれたほどだ。

「そんなに泣かないでください。泣いたら……」

「泣いたら、なんだよっ」

「起きている時が短くなって、あまり話せなくなります」

 少し歩くだけでも昏倒する女は、部屋に訪れる従兄で幼馴染のロンと話しては寝、寝ては話すと言った生活を続けるうち二度だけ、情を交わすと言う所まで体が持ったことがあった。

 子供を宿して産み落としたことも奇跡だが、たった二度で子供を孕むのも、あの一族の間では奇跡で、ロンはコハクの兄のヒスイに、胸倉を攫まれてどんな手を使ったと、意味不明な詰問を受けたが、一番驚いていたのはロンとコハクだ。

 そして、そのせいでこの長い年月を、離れ離れで過ごさなければならない羽目になるとも、思いもしなかった。

 永く離れていた二人には、互いに話すことが沢山ある。

 ついそんな思いで頼んだロンの胸を、コハクは小さな手でポカポカ叩く。

「馬鹿っ。あなたが、こんなに泣かせたくせにっっ」

 女を宥めつつもされるがままになっていると、コハクはすぐに息切れし、腕を落とした。

「……気が、すみましたか?」

「疲れた」

 答え、目だけは男を睨む。

 その目を見返し、ロンは微笑んだ。

 優しくコハクを抱きかかえながら、ぶつぶつ話す声に耳を傾け続ける。

 偶に相槌を打ちながら、久し振りに聞く声を、耳に焼き付けた。

 これで、また数百年は我慢できると、いつの間にか話疲れて眠りについた女を、そっと夜具に下ろした。

 風邪をひかないように夜具でその体を包み、しみじみと寝顔を見つめる。

 身を起こしてふと左手首を見、眉を寄せた。

 念のためとつけていた物の輪が、刃物で切られたように切れて、手首にぶら下がっていた。

 その薄い金色の組み紐を見つめ、ロンは溜息を吐いて誰ともなく声をかけた。

「……カスミちゃん? いつもいつも、勘弁してくれない?」

 というか、今夜は完全に油断している時を見計らったようで、カスミの仕掛けに気付きもしなかった。

 内心反省しながらの声掛けに答えたのは、廊下の方からの真面目な声だ。

「お前の方こそ、そろそろ真面目に考えてはどうだ? 姉上と、共にいる事を」

「お前もコハクも、何でこんな短い間で、我慢できるんだよ?」

「お前が思いきれないのなら、無理やりにでも姉上と閉じ込めてやろうと言う弟心なのだが、何故そう逃げる?」

 ヒスイとカスミの言葉を聞きながら、ロンはそっと眠る女を伺い、起きる様子がないのにほっとしつつ、廊下へと動いた。

「思いきれてないって、何をよ? あたしは、これでもう、満足してるのよ」

 襖を開くと、男三人が狭そうに廊下に詰まっていた。

「……コハクが、哀れだ」

 ヒスイに声を沈ませて言われ、男は少しだけ詰まった。

「また、寝てる間に消える気だろう? 朝、笑ってさよならするくらい、してやれよ」

 言われて決心が揺らぐロンに、カスミが頷いて駄目押しする。

「そうだぞ。何なら、松吉になるまで見守ってはどうだ?」

「……そっちの気絶狙いか。お前も、手段を択ばなくなったな」

 もう一人の男が呆れて言う。

 ヒスイとカスミの兄弟も、その兄弟とロンの叔父に当たるその男も、夜まで仮の姿をしているわけではないらしく、廊下で狭そうながらも伸び伸びと座っていた。

「コハクの事は、心配するな」

 軽く笑いながら、叔父はロンを見上げた。

「この家が、きちんと次代に継がれるまでは、オレも傍にいるから。近くにはこの二人もいるんだ。大抵の厄介ごとから、遠ざけることは出来る」

寿ことほぎも、近くにいるんだから、不安がる事はない」

「……その子の名を聞いたら、逆に不安になったんだけど」

 叔父に続けたカスミの言葉に、ロンはつい返してしまう。

「何でだ? 意外に気が合うらしくて、夜によく話し込んでるぞ」

「悪巧み、していそうで怖いんですが」

 女同士の楽しみを、黙って見守っていた叔父は、ロンの不安に頷いた。

「ある意味、悪巧みかも知れないが、理由はある悪巧みだから、気にする事はない」

 気になるが、叔父がそう言うのなら心配はいらないだろうと頷き、男は女を振り返った。

 完全に熟睡しているのを確かめ、廊下に出る。

 その時には立ち上がっていた、大きな男たちの間をぬって階段を降り、再び振り返った。

「では、私は、これで」

 叔父を見つめて挨拶し、従兄弟たちには笑顔だけ向けて、長屋を後にした。

「……精進はしているようだな。カスミのあの仕掛けが、効かなかった」

 感心する叔父に、真面目な顔を緩ませたカスミが答えた。

「ええ。まさか、あんなものだけで、防がれるとは思いませんでした」

 叔父はロンが防ぐ力を持ったと思ったようだが、違う。

 あの男が手首にしていたのは、数十年前に作られた組み紐だ。

 元の持ち主がいる今、それは形見とは言えないはずなのに、ロンは未だに持っていたようだ。

 ここまで年月が経てば、元の持ち主の力も消えているはずのその代物が、カスミが夜具に仕掛けたものを防いだ。

 それだけの思いを込めて贈ったからなのか、今近い所にいるからなのかは分からないが、姉を思うカスミからすると厄介な代物だった。


 朝方、野宿をしている男たちの前に現れたロンを、仲間たちはいつものように迎えた。

「早かったですね」

「お相手の子が、疲れて寝ちゃったのよ。頑張り過ぎちゃった」

 ゼツの意外そうな声に、人を食った後の様な笑顔で答えると、ジュラが首を竦めた。

「役者の卵を、揶揄い過ぎて、潰さないでやってくれよっ」

「ほほほほ」

 ただでさえ、娯楽が少ないこのご時世、役者が育たなければ、更に楽しみが減ると嘆く男に高笑いで返し、群れの奥で寛ぐ若者の方に向かう。

「ただいま」

「……帰れたんだ」

 見上げた若者の呟きで、挨拶をせずに江戸に向かった男の思いを、セイは察していたと知る。

 村から江戸に向かったロンは、慎重に気を張りながらも、覚悟はしていた。

 カスミは、あれでも兄弟想いの男だ。

 いつまでも姉を悲しませる幼馴染に、業を煮やしているのも知っていた。

 コハクが外に出ている今が、自分を捕まえる絶好の機会だと、何か仕掛けてくるだろうが、それから逃れる術も抗う術もなく、諦めるしかないと思っていた。

「ええ。あなたのこれが、守ってくれたわ」

 右手に握りしめたままだったそれを見せると、覗き込んだエンが目を丸くした。

「綺麗に切れていますね。もしや、親父さんの呪いですか?」

「あたしを、情けなくも昏倒させてでも、傍に置きたいのよ。本当に、カスミちゃんてば、焼き餅やきよね」

「……」

 おどけて見せてから、僅かに呆れを滲ませる黒い目を見下ろした。

「あなたにここを押し付けて、あたしをここに置いて行ったくせに、今更、あなたから引き離そうなんて、酷い話だわ」

 見返す若者の傍に膝をつき、その体を抱きしめる。

「絶対、あなたから離れないんだから」

 あまり強く抱きしめると、潰れてしまいそうな女の代わりに、ロンはよくこの若者をこうする。

 今日は、女を思い浮かべながら、さらに強く力を込めた。

「潰す気かっ?」

 オキが血相を変え、エンが呆れる中、セイは男の腕の中で顔を上げた。

「……本当に離れたくない人と、一緒にいられるように、なれればいいな」

 その呟きに、ロンは思わず腕を緩めた。

 抱きしめていた体を離し、若者を見下ろす。

 分かっていて言ったにしては、弱い言葉だった。

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語り継がれるお話 4 赤川ココ @akagawakoko

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