零れ話 その一 色恋話

 その報を聞いた時、国中が騒然とした。

 隣の国の殿が望んだ縁談の嫁入り行列が、途中の山中でそこに住まうと言われている鬼に、襲われたと言う信じられない報だった。

 いや、鬼の存在は、知っていた。

 だからこそ、この地に根を下ろした法力僧の札を持たせたはずなのに、その札が利かなかったのか、花嫁である娘と数名が餌食になってしまったのだ。

 それを知らせて来たのは、行列に同行した嫁入り先の臣下で、その報がこちらに伝わるのが二日遅れたのは、先に主君の方に知らせに走ったためだ。

 遅ればせながら、その報を耳にした城主は、青くなった。

 外様に当たる大名の治める小さなこの国は、隣の国に頭が上がらない。

 国の存続をかけたこの縁談が、国を潰す大失態に変わってしまい、城主は焦って事の解明に乗り出した。

 急使の話では、すでにその鬼は退治済みだと言う。

 後は札を書いたとされる、法力僧を問いただして、事のあらましを明らかにし、向こうの城主の機嫌を取るしかない。

 その命を受けた臣下が法力僧の元へと押しかけたが、住処となっていた古寺はもぬけの殻となっていた。

 逃げたのかと慌てたが、法力僧は逃げた訳ではなかった。

 自分の足で城に出向き、城主へと目通りを願ったのだ。

「……私は、その行列の人数の札を、書いてはおりませぬ」

 頼まれてもいないと、小さな男は静かに言った。

「この期に及んで、言い逃れをしようとは……」

 そう顔を歪める家老に目を向け、男は静かに言い切った。

「そちらの方の奥方からの頼みで、娘に木札を書き申したが、人数分は書いておりませぬ」

「その札が、効かなかったのだっ。どう言い逃れをしようと、それは変わらぬわっ」

「変わる変わらぬではなく、おかしゅうございましょう。私の書く札は、身に付けている物を挟んで、前後左右十人ほどは、鬼の目から隠せるものでございます。これは、百鬼夜行が頻繁であった時期に、夜出歩く貴族様方の為に考えたずぼらな札でありますが、あの頃より変わらぬ効き目であると評判であります。此度行列が襲われたのは、その札を誰も身に付けておらなんだからでありましょう」

「黙れっ。あのような物騒な山に入ると言うのに、札の一つも持たぬはずが、ないであろうがっ」

 家老が喚く傍で、上座に座る殿が考え込んだ。

「……望月」

「は」

 喚いていた家老に声をかけ、城主は慎重に尋ねた。

「お主、娘が屋敷を出る時に、札を渡したと申して居ったな?」

「はい。馬に乗る前に、娘に直に手渡しましてございます。妻の手縫いの巾着袋に入れて、娘は大事そうに懐に……」

「……おかしいの」

 城主は顔を上げ、頬を緩ませている法力僧を見た。

 城主は、知っていた。

 この僧が作る札は木札で、元々貴族の牛車の外につける物だ。

女の着物の懐に入る程、小さい物ではない。

「その札を見た事もある。効き目のほども、相当な物であったと思う。お主が他にも手ごろな札を作っているのならば、話は違うであろうが、そうではないのであろう?」

「はい。そういう手間をかけずとも、その一つの札を作り続ける事で、私の懐は潤い続けております」

 丁寧に頭を下げる僧に頷き、城主は青褪めた家老を見た。

「お主は、何を、娘に渡したのだ?」

「と、殿。そのような生臭坊主の弁を、疑いなく聞いてしまわれるのは、いかがなものでありましょうか」

 青褪めながらも物申す家老に、城主は深く溜息を吐いた。

「そう考えて、儂の代では重宝しなかったのだが、それがここまで仇になるとは」

「殿はよくやっておりました。ただ、あなたが治め始めた頃には、米以外の作物を作る目途が立たぬほど、土地が痩せてしまっていたと言うだけでございます」

「それが一番、国が傾いた理由であるが……此度の縁談は、かの国の農作物の栽培法の伝授を、視野に入れていたのだ」

「は、存じております」

 平伏する家老に、城主は疲れた目を向けた。

「ならばなぜ、実の娘の嫁入りを、このような形で無にしたのだ?」

 起こった事を嘆きながらも、城主は最後の仕事とばかりに真相を明らかにしていくと、百姓たちの中にも家老の疑いを裏付ける者が出て来た。

 鬼の犠牲になった者たちの家族が、家老の使いと名乗る者に、お守り袋を渡されていたのを、見ていたのだ。

「……望月は、傍から見ると真面目な、大人しい男であったが、娘に対する時だけは、妙に意固地な様子であったと、家の者から聞いた。数年前に男児が生まれてからは、少し変わったと思っていたのだが、上手く隠せるようになっただけ、であったのだな」

 家老が罪をおおむね認め、切腹して果てた後、城主はやってきた法力僧にそんな事を漏らした。

 望月家は散り散りになり、この国も、財政難と跡取りが望めぬ事を理由に、取り潰しが決まった。

 国主であったこの侍も、浪人として放浪する覚悟だったのだが、人柄とこの度の件の迅速な治め方を見た隣の国主が、仕官の道を作ってくれた。

「……私の方は、心配いらぬと、伝えてはくれぬか?」

「ご自分で伝えては、と申したいところではありますが、承知いたしました」

 小さく笑いながら答えた僧を振り返り、侍は尋ねる。

「もう、起き上がれるように、なったのか?」

「はい。未だ、自身の身の振り方を考えあぐねてはいるようですが、起きて身の回りの事が出来る程には、回復しております」

「そうか。それでよい。どのような体でも、生きていてくれたのであれば……」

 本来ならば、家老の娘は自分と縁組し、家同士の絆を固め、国を治めているはずだった。

 二三度顔を合わせただけにもかかわらず、互いに親しみを覚えていたが、何故か双方の親がいい顔をせず、縁談が進む事はなかった。

 今回の嫁入りも涙を呑んで見送ったと言うのに、家老の身勝手な理由で、その行列ごと不幸に見舞われてしまった。

 娘の死を知って悲しみながらも、解明に乗り出した城主に、法力僧は信じられない話をした。

「……どうやら、望月千里様に、天狗が乗り移ったようでございます」

 鬼を退治したのが、その天狗であったと告げ、僧は娘が今は隣の国で匿われていると告げた。

「使者が国に連れて行き、私も呼ばれておりました。事を治めてから、再び様子を見てまいりましょう」

 どうやら一度、命を失ったらしく、千里は混乱していたようだった。

「黄泉返り、と呼ばれる物でありましょう。天狗の気配が全く消え、代わりに千里様が生き返ったようです」

「それは、妖物になってしまったと、そう言う事か?」

「恐れながら、そういうことであろうかと」

 それを聞いた侍は、複雑な心持で黙り込んだ。

 隣の国についたと言う事で間違いはないだろうが、無事にではない。

 あちらの城主は、一度死に黄泉返った娘と、いくら妾とは言え縁を結ぼうとは、思わないだろう。

「あちらの方は、その事を承知で、国に連れ帰ったのか?」

「そのようでありますな。行列に加わった者にも、助かった者がおりますようで、恩人として迎え入れたものと思われます」

 が、長居はさせられぬだろうと、僧は言った。

「いくら恩があるとは申しても、異形となった者を長く構うは命とりでございますゆえ」

 どんな障りがあるか分からないと言い切る僧の言葉に、城主は唸ってしまった。

 自分を宥めている言葉に、聞こえてしまったのだ。

「此度の事も、お上に知れてしまうだろう。そうなると我が家は取り潰し必至。国が構うのではなく、儂自身が勝手に構う分には、誰にも障らぬであろう?」

「そのような醜聞で取り潰しになる家の長が、その責を負わされずに放逐されるとお思いか?」

 財を傾けた責が、城主には負わされる。

 その上のこの醜聞、どう考えても城主自身の命運が、尽きかけていた。

「……まずは、目の前の難題を治めてからだな。それから、後の事は考える。お主は、千里殿についていてやってくれ」

 法力僧を隣の国に送り出し、一月ほどで事を治めた。

 どこまで信じてもらえるか分からなかったが、包み隠さずお上に事の次第を知らせ、沙汰を待っていたのだが、先日沙汰が届いた。

「……取り潰し、というより、隣国に飲み込まれた形となったようだ」

 大げさではあるが、こちら側から見ると、隣国が妖物の塊に見える。

 こちらの城主に妹姫を嫁がせ、この寂れた土地を治めると、暴落した国を与えられた隣国の長は、お上に申し出た。

 江戸からも程遠いこの国の事情など、深く頓着していないのか、お上もあっさりと許したようだ。

 国の名が変わっただけの、寂れた土地を見つめながら、新たな姓でここを治める侍は、あの山を通って嫁いでくる、隣国の姫を待っている。

 あの嫁入り行列を見送って、まだ一月たったばかりだ。

 隣国の殿が、江戸に向かう前にと、事を急いだのがその理由だったが、慌ただしさが形だけの城主となった侍には、気休めとなっていた。

 心の中には、女にしては背の高い、姉の様な娘の姿がある。

 だが、どうあがいても手が届かない所に、連れて行かれてしまった。

 背丈も剣の腕も勝てたためしがないのに、死んだ後まで負けてくれぬとは、本当に容赦の欠片もない奴だと、ほろ苦い思いで考えている侍の後ろで、法力僧はゆったりと笑ってしまった。

「全く、人間と言う奴は、負けず嫌いな割に、諦めが早いのだな」

 御伽草子の様に、人で無くなった娘ですら追いかける男は、極まれだ。

 同じ物となろうとする奴も、いないに等しい。

 人間は、形だけでなく、人としての生きざまも、大事と考えているのだろう。

 これでは、獣と人間との恋も、悲恋に終わるはずだと、僧は得心したのだった。


 望月千里は、傘を少し上げて辺りを見回し、少し意外そうな顔をした。

 小さな村だ。

 武家屋敷がちらほら見えるが、百姓家ほど多くはない。

 田畑も小さく、今は時期ではないからか、稲ではなく別な何かが葉を広げて、晴れた空を仰いでいる。

「この辺り、水はけも悪そうなのに、工夫が施されてるね。森が多いのもあるけど、作物もよく育ちそう」

 隣に立つ、同じくらいの娘が、感心したように呟くのに生返事をし、そのまま辺りを見回している千里に、優しく首を傾げた娘が尋ねた。

「どうしたの? 妙に驚いてるけど」

「いや……」

 振り向いて同じ目線を見返し、千里は戸惑いながら答えた。

「まさか、まだあるとは、思っていなかった」

 あんなことがあった後だ、例え国の対処が適切でも、粗探しを好んでいたあの時期のお上なら、握り潰していると思っていた。

 関所を過ぎてからかなり歩いた場所に、その村はあった。

 深い山の間を抜けると同時に広がった田畑が、千里を驚かせた。

 あの頃は、稽古の合間に百姓の手伝いをし、一緒に痩せたこの地を嘆いて、頭を悩ませたものだ。

 その年の冬の心配もあったが、若くして後を継いだ城主が、手腕を発揮する前に国を取り上げられるのではないかと、千里は気がかりだった。

 幼い頃から知っている年下の城主を思い、藁にもすがる思いで隣の国の縁談に頷いたと言うのに、結局それが元で、国は取り潰された。

 隣国に取り込まれたとまでは聞いていたが、無碍な扱いはされず、百姓たちも昔よりは、いい暮らしをしているようだ。

「ゲン爺の住処が、空いてるはずだ。今日は、そこに泊まろう」

 白銀が言い、先に立って歩き出す。

 薄暗くなった周りを見回しながら、見とがめられないように静かに続き、古寺まで足を運んだ。

 随分、永い間放ったらかしにされているようで、本堂もボロボロになっていたが、夜露は防げそうだ。

「ようやく、野宿から逃れられた」

 黄金が溜息を吐くのは、山の中は油断が出来なかったせいだ。

 人里の傍ならば、滅多に襲われない。

「まあ、絶対にないとは言えないから、見張りを頼むよ」

「分かってる」

 真顔で頷くのは、大きな男だ。

 険しい目つきだが、それは元々のようだ。

 千里と共に旅をしている雅の、弟分であるからか、素直にいう事を聞いている。

「まあ、いざとなったら、私も動くから」

 今の所、何かに狙われている様子はない。

 ここで何かに襲われても、千里一人で撃退できるが、それは相手が人間ならの話だ。

 妖物の仲間入りしてしまったとは言え、未だその力のほどは本人にも分からない。

 それ故に、雅の申し出はとてもありがたかった。

 荒れてはいるが崩れそうな気配はない古寺に入り、黄金と白銀がきょろきょろと辺りを見回し、残念そうに溜息を吐いた。

「ゲン爺、本当にここから出て行ってたんだ……」

 千里が幼い頃からここに住み着いていた法力僧は、あの騒動の後、この地を後にした。

 この地の行く末を心配する千里を見舞い、成り行きを一部始終話してくれた。

 目覚めた時から傍でオロオロとしていた、二人の女の正体を教えてくれたのも、この僧だ。

 源五郎と改めて名乗った法力僧は、今は分かれているが、この二人は本当は一匹の、力弱い狸なのだと言い、自分の養い子の一人だと話した。

 天狗の娘が、使役していたはずの九十九の一人に襲われ、残された弱い獣は二人に別れて、娘を抱えて逃げた。

 その間に主の体からぬくもりが去り、息が止まったのも分かったが、狸は泣きながらも必死で逃げた。

 唯一、頼れる爺さんがいる土地に向かっていたその山の中で、花嫁行列と行き会ったのだ。

「そのお坊は、その天狗殿と私の心が、似通った色をしていたのだろうと言っていた」

 どういう意味かと、その時は思ったものだが、この地に戻りふと頭に浮かぶ影が意外な形をしていて、得心してしまった。

「天狗殿はあの時、大事な方を立て続けに亡くし、気を落としておられたそうだ」

 気を紛らすように旅をし、これではいけないと思いながらも、矢張り思いきれずにいた、そんな気弱な時だったと、二人に別れた狸は泣きながら法力僧に訴えていた。

「私も、大事な方と、別れたばかりだった」

 叶えられなかった恋心。

 それを胸に秘めたまま嫁ぐ娘は、少なくはあるまい。

 時を重ねればその気持ちは、淡い思い出と変わる。

 その思い人の守る国を、少しでも助けられると思っての別れならば、尚更、そうなるだろうと、言い聞かせた矢先、それがぶち壊された。

 天狗の娘と似通っていたとするならば、大事な人との別れ、という箇所だけだ。

 それを理由にするのは無理があると言う千里に、生臭なお坊様は苦笑交じりの笑みを浮かべただけだった。

 曖昧に笑い、答えをはぐらかされたと思ったのだが……。

「……その天狗殿は、大事な方の思いを、受け継ぎたいと思い始めていたんじゃないかな」

 ぽつぽつと当時の事を話した千里に、話が終わるまで優しく相槌を打っていた雅が、静かに言った。

「その矢先に、命が危うい所まで追いつめられて、さぞ無念に感じただろうと思う」

 もう少し早く、こういう気持ちになっていれば、そんな無念が死の間際にあったのだろうと言われ、千里も思い当たった。

「……そうか、その気持ちが、同じだったのだな」

「永く気落ちしていた分、気負っていたはずなのに、それが叶わなかったんだから、余計に無念だったろうね」

 胸に答えがすとんと落ち、すっきりしたこちらとは違い、雅は苦笑しながら呟いた。

 思わず見つめると、女はすぐに気づいて見返した。

「何?」

「いや……お前さんも、無念と思う事が、あったのかと思っただけだ」

 それを、無理に聞き出す気はないと慌てる千里に、雅は微笑んだ。

「無念と言えば無念、だけど……ああなったからには、望み通りにならなかったんじゃないかなと言うことは、あったよ」

「そうか、すまない。言いにくい事を言わせてしまった」

「謝られるほどの物じゃ、ないよ。気にしないで。それよりも、千ちゃん。ここが故郷って事は、その恋しい人も、まだここに住んでるのかな?」

 向かい合わせに座っていた雅に身を乗り出され、つい身を引きながらも聞いていた話をする。

「その件が収まってからすぐ、妻を迎えたと聞いた。無事に育っていれば、その跡取りに縁談が舞い込む年齢だ」

「そうなんだ。ままならないね。焼け木杭に火が付く、ってこともなさそうだ」

「武家とはそういうものだ。市井の者のように、色恋で物事を見れないのが、辛い立場なんだ」

「あなたは、会いたくないの?」

 優しく訊かれ、千里はすぐに頷いた。

「自分よりも年老いている年下の男を見て、どう思うか考えるのも怖い」

 江戸の幼馴染と母も、こっそりと見て来たが、年を重ねて幸せそうだった。

 昔の面影があるから尚更、こちらは空しくなった。

「そうか……」

 しんみりとした千里に、静かに相槌を打つ雅も、その気持ちに心当たりがあるのだろう。

 しんみりした空気を一蹴しようと、千里は咳払いし、彼女らしくない明るい声で切り出した。

「雅、お前はどうなんだ?」

「私? 私が、どうって?」

 急に明るい声を出した女に目を丸くした雅は、突然話を振られて珍しくきょとんとした。

「そろそろあの男の事が、恋しくなったんじゃないのか?」

 言った途端、外にいた男が音を立てて駆け寄った。

 雅の前に座り、真顔で見つめる。

「そうだ、ミヤっ。あいつに、良からぬ事は、されてないだろうなっ」

「いやいや、男女が二人っきりで一緒にいて、良からぬ事にならない方が、おかしいだろ」

 白銀があっけらかんと笑い、男戒に睨まれる。

「あいつは、度を越えた甲斐性なしの一人だと、オキから太鼓判を貰ったから、オレは渋々雅を預けたんだっ。それが嘘だったんなら、あいつらもろとも、只じゃ置かんっ」

「……」

 言い切る弟分を見つめ、雅は何とも言えない表情で黙っている。

 只じゃ置かんと言っても、戒の体たらくでは返り討ちが関の山だ。

 というか、そんな太鼓判を押されるほどに、エンという男は甲斐性なしなのかと、呆れてしまった。

 弟分の身の危険を守るため、雅は笑顔を浮かべた。

「良からぬ事は、全くされてない」

「はあ?」

 白銀と黄金が、揃って声を上げた。

 が、白銀が思い当たって頷く。

「ああ、雅にとっては、良からぬ事じゃないって事か?」

「うーん、そう言う意味でもなく……」

 目を剝く戒を宥めるように、雅は答えた。

「私、あの人の好みとは、違うみたいなんだ」

「な、何だとっ?」

 前に座る戒が、何故か叫んだ。

「確かに知れば知る程、中身は恐ろしい女だが、見目はそれなりにいい女だと言うのに、それが、好みの範疇にはならんだとっ? あいつの目は、節穴かっ?」

 信じられないと首を振りながら、男は勢いよく口走ったが、雅は目を細めた。

「……どういう意味だ、戒?」

 つい白い目を向けた姉貴分に、戒は慌てて首を振り、笑顔を向ける。

「そ、それは、残念だな。あの男、子供が好きだと言っていたから、もう少し小さい女の方が良かったのかもな」

「……いや、どちらかというと、大きい方が好みらしい」

 雅や千里よりも大きい女など、あまりお目にかかれないはずだと眉を寄せる戒と、話の流れが色恋云々以前の話になっているのに戸惑う千里の前で、雅は優しい笑顔で言った。

「一番最近お付き合いした人は、あの人より大きい、男の人だったんだって」

 古寺の中は、しんと静まり返った。

「……いや、それは、ないだろう」

 余りに意外な言葉に、頭がついて来ないのか、千里が首を振りながら呟く。

「見た限り、お前さんとあの男、長年連れ添った夫婦みたいだったぞ。それなのに……」

「中身がそうとは、限らないんだよ」

 優しい笑顔で言い切り、雅は数か月前の事を話し出した。


 修行をしたいと言う雅の望みで、エンは戸惑いながらも旅のお供になってくれた。

 体に合った力を身に付ける修行は、人間がするにしては短かったが、元々頑丈な雅は教えられたことをすぐに身に付け、京に入る頃には旅道中と変わりない、楽しい日々を過ごすことができるようになっていた。

「それまでに、質の悪い術師に絡まれたり、変な気配の何かに付きまとわれたりしたけど、あの人がいたから乗り切れたって言っても、過言じゃない」

 優しく微笑みながら、雅はその時の心の変化を、ほろ苦く思い出す。

 昔、男と言われてもしっくりこないセイに頼むつもりだった、強くなる術の教授がエンに押し付けられ、獲物を問われて答えた所、更に剣術使いの方に盥を回された。

 あの時は、戒が剣術を習うと言う話で収まったが、今度こそ雅自身がと勢い込んだ時、何故かセイではなくエンに頼んでしまった。

 女の修行なのなら、身の安全を考えてセイに頼むべきだったはずなのに。

 今考えると、あの時からセイに、踊らされたのではと疑っている。

 恐らく、エンに女を見繕って……と言う程、生々しい理由ではないだろうが、セイは少しでも早く、少しでも多く、自分が下に置いている群れを減らしたいと考えていたのだろう。

 そのダシに使われて、その気になってしまった雅は、苦い思いが湧き出てしまう。

 あの短い旅の中で、雅はエンに惚れてしまったのだ。

 京につくまでの道中で、女が男を見る目が変わっていたのを、エンは気づいていたはずだが、少なくても雅の前では、それをおくびにも出さず、気持ちに付け込むこともなく、浮いた動きは一切ないままだった。

「野宿続きだったから、気が抜けなかったと言うのもあるんだろうけど、こっちがどんなに弱っていても、どんなに油断していても、手を出してこなかった」

「……朴念仁って、本当にいたんだな」

 しみじみと、白銀が言い、黄金も無言で頷いた。

 この二人、元が一人のせいか、役割が分かれているらしく、黄金は滅多に声を出さない。

 黄金が分かれた形なのだと言うが、面倒な事は分身に押し付けているのだろうと、ジュリは見立てていた。

「京にできた知り合いを訪ねて、身元引受人になってもらってから、江戸までは宿も使おうって話になって、夫婦を装って宿入りした時に、私から誘ってみようって考えて……」

「……」

 言いたいことはあるが、どう言えばいいか分からない、そんな顔で戒は姉貴分の話を聞いている。

 そんな弟分に気付かぬ振りで、雅は続けた。

「でも、いざとなると誘いにくくて、話をしながら徐々に色よい話にしていこうと、訊いてしまったんだ」

 男の好みを。

 夕食を終え、酒が入った男は、雅の思惑に気付いたのか、あっさりと答えた。

「大きな人が、好きですね」

 ジュリのような小さな女より、まだ見込みはあるらしいとほっとした雅に、エンは更に言った。

「でも、今はまだ忘れられない人がいて、他の人の事は考えられません」

「そ……うか、そこまで好きな人、がいたのか」

 落胆してしまった。

 淡い期待をした後だっただけに落ち込みはひどく、顔に出さないのがやっとだったが、誤魔化すように明るい声で尋ねた。

「あなたに好かれる人ってだけで、羨ましい。その人、幸せ者だな」

 どうして別れたのか、とは訊けない。

 いくつか想像がつくし、何よりも失礼過ぎる。

 これ以上この話はしない方がいいと、話を逸らそうとした雅の前で、エンは苦笑した。

「どうでしょうかね。あの人からすると、永く放って置いた奥さまが亡くなった知らせを受けて、気を落として自棄になっていた所に、手ごろな奴がいたって感覚だったんじゃないでしょうか」

「……奥さま?」

 連れ合いをそう呼ぶ女は、今のところいない。

 いや、主人持ちならば、その細君をそう呼ぶだろうが、そんな言い方ではない。

「って、お相手は、殿方?」

「お相手と言っても、本当に手慰みの相手だったんですけど、オレからすると衝撃的で、忘れられない人なんです」

 自ら穏やかにそう話す男を、雅はつい奇異な目で見ていたようで、エンはその様子を首を傾げて見返した。

「手慰みって事は、無理やりだったって事じゃないのか?」

 何故そこで不思議がられるのかと、眉を寄せた女に、男は首を傾げたまま穏やかに答える。

「無理やりとは、少し違いましたよ。だから、忘れられないんです」

 無理やりと言うなら、子供の頃嫌という程の嫌な目に合ったと、エンはあっさりと言う。

「あの人の時は、少しも乱暴な事はされませんでした」

 ただ、逃げられなかった。

 どう逃げられなかったかというと……。

「その時のオレは、あの群れに混じったばかりで力が弱くて、あの大きな体に捕まったら、逃げられなかったんです。それこそ、頭を叩いたり髪を引っ張ったり、あらん限りの事をして、何とか抜け出そうとしたんですが、全然動かないんです」

 相手の男は、エンの抵抗など全く気にせず、自分のやりたい放題に動いた。

「力の差は、弱い者をここまで無力を味合わせるのかと思ったものなんですが……あの人、大きいくせに手先は器用で、最後は結局……」

 生々しい話なのに、エンは恥じらう様子なく、いつも通りの笑顔で話した。

 始終穏やかに語られた話は、聞いている雅には唖然とさせるしかないものだった。

「忘れられないって、その人自身の事? それとも、その人との……」

 雅は言いかけて躊躇い、あれ、私にも恥じらいってものがあったんだと、気づいた。

「はい、その人との、睦事の方、ですね」

 躊躇った言葉を、エンがあっさりと答えた。

「そ、そう」

「その人とは、お孫さんが見つかるまで、お付き合いしていました。その後は、まあ、お婆さんになった気分で、お孫さんの世話もさせてもらいました」

 また、違う衝撃の前触れがあった。

「孫?」

「はい。その人、セイのお祖父さんです」

「え、その人、あなたのお師匠様って……」

 混乱した雅に、エンは穏やかに頷く。

「はい、公私ともに、師事していました」

「……セイのお祖父さんって、随分前に亡くなったって……確か、六十過ぎてたって……」

 まさかそんな事はと、頭の中で否定する。

 だが、エンはそんな雅の心中に構わず言った。

「セイが見つかる二三年ほど前からだったんで、六十に手が届く頃でしたね」

「そ、その年齢で、若い人に手を出すって、随分血気盛んなご老体だったんだね」

 平静を保とうとして言った言葉に、男はすぐに頷いて続けた。

「もう、全身皺まみれの、いいお爺さんだったんですけど、胸板とか立派でしたよ」

 再び生々しい言葉を口にされ、雅は完全に衝撃を受けた。

 それは、直に落雷を食らった程の、強い衝撃だった。

「……まあ、つまり私は……」

 優しい笑顔のまま、雅は言った。

「六十過ぎの大きな、全身皺皺のお爺さんに、色気で負けたってことだ」

 あれは衝撃だったなと、しみじみ言う表情は、そんな気分を微塵も見せない笑顔のままだ。

 聞いていた面々の方が、衝撃で固まって動けない。

 女三人はこの間、夫婦役で一緒にいる二人を見て、妙にしっくり来ていると感じていた分その衝撃は大きく、何か言おうにも言葉が見つからない。

 戒の方は、戸惑いながらも、姉貴分に確かめる。

「つまりあいつは、女子に興味がない、と?」

「そう言う事じゃないかな。どちらかというと戒の方が、好みに近いってことだ」

 優しく言われ、戒が顔を引き攣らせる。

「んな馬鹿なっ。一度も色目を使われたことは、ないぞっ」

「……皺まみれの老人になったら、そうなるかも知れないと言う事か」

 ぽつりと、千里が呟くと男は頭を抱えた。

「そんなはずないっ、ならなぜ、ミヤと旅なんか……」

「だから、私が、戒の姉貴分だったから、なんじゃない?」

 将来を見越しての事ではと雅が言い、戒はとうとう悲鳴を上げた。

「無理だ、オレは、小さすぎる女は嫌だが、男はもっと嫌だっ」

 頭を抱える弟に、雅は優しく言った。

「今後、あの人たちに会う時は、注意していれば大丈夫だ。私もエンを戒には近づかせないように心掛けるから、自分から近づいちゃ、駄目だよ」

「た、頼まれても近づくかっっ」

 戒は鳥肌が立つ体を抱えながら、声高に言い切った。

 翌朝早く、古寺を出て旅立った一行は、元気がない戒を先頭に、再び山に分け入った。

 そんな弟分の背を見ながら、雅の方は身軽に歩く。

 その様子を交互に見ながら、千里が小声で話しかけた。

「……何故、お前とあの男から、戒を遠ざけるんだ?」

「昨夜言ったでしょう? あの人の好み。今ですら戒はあの人には勝てないのに、ご老体になったら、いいなりになるしかないじゃないか」

「……好み、という話だったか? あの男は、忘れられないと言ったんじゃないのか?」

 指摘すると、雅は目を見開いて千里を見た。

 見返した武士装束の女に、同じ背丈の女は微笑んだ。

「……邪魔は、少しでも遠ざけておきたいんだよ」

 戒の後姿を見ながら、雅はそっと言った。


 宿の座敷部屋で、雅は事実、衝撃で床に突っ伏した。

「え、雅さん?」 

 その勢いに、目を見張ったエンの声掛けも耳に入らず、頭を抱える。

「う、嘘だ……私、狐の血、入ってる筈なのに、色気がそんなにないのかっ? 六十の孫持ちの、皺の多いご老体に、色気で劣る程に……? 私、終わってるじゃないかっっ」

 本気で、泣きそうになっていた。

 だが、ここで涙を見せて、情を掛けられるのは嫌だと、雅は懸命に泣くのをこらえたまま、床に突っ伏し続けた。

「色気がないわけ、ないじゃないですか」

 静かに、男が声をかける。

 顔を上げて睨む女を、困った顔で見下ろしながら、エンは穏やかに続けた。

「ここまでの旅で、どれだけの男の目が、あなたに奪われていたと思ってるんですか。もう少し、自信を持って下さい」

「あなたに言われても、信じられないっ」

 言った勢いで、浮かんでいた涙がこぼれ、それを見たエンが珍しく狼狽えた。

 我に返って顔を背け、袖でごしごしと顔を拭う。

 それを困った顔で見ていた男が、意を決したように動いた。

 男が身を乗り出したと気づいた時には、雅はエンの胸の中にいた。

「いくら身近にいる男だからって、篭絡しなければいけないって訳じゃないんですよ。もっと自分にお似合いな男に、その機会は取って置いて下さい」

 言いながら、宥めるように女の背を叩く。

 抱き寄せられて心の臓が跳ね上がったが、されている事は小さな子供がされるようなことだ。

 年下の男にこの扱いは恥ずかしいのだが、ついついされるがままで、その胸板の厚さを体感していた。

 やっぱり、この人の傍は落ち着く。

 男の早い鼓動を聞きながら、雅は目を閉じていたが、ふと気づいた。

 そろそろと顔を上げると、エンは天井を仰いでいた。

 その目は、何かに耐えるように、細められている。

「エン?」

 囁くように呼び掛けると、男の鼓動が跳ね上がった。

「……もう、大丈夫ですか?」

 なのに、変らぬ笑顔で声をかける男を見上げ、もしや、という考えが浮かぶ。

「一つ、訊いてもいい?」

「何でしょう?」

 体を離そうとする男の襟元を攫んで、雅は優しく微笑んだ。

「結局、好みは、大きい人、ってだけで、合っているんだね?」

「え、ええ」

 何を言い出すかと身構えている男に、雅は優しく微笑んだまま頷く。

「つまり、セイのお祖父さんにされた事が忘れられなくて、女の私に強引に迫りたくないってことで、合っているんだね?」

「……」

「だから、今、我慢してるわけだ」

 珍しく顔を引き攣らせ、今度こそ強く体を離そうとするエンの襟を強く攫み、雅は見上げ続ける。

「あなた、優しすぎるんじゃないかな。女は、可愛がるのが一番いいけど、少しくらいなら強く出てくれても、いいんだよ」

 衆道をほのめかして、女に興味がないと思わせるまでは良かったが、抱き寄せた後の緊張は誤魔化せていない。

 危うく騙されかかった雅は、内心ほっとしつつも男に呼び掛けた。

「エン」

「……」

「違うと言うのなら、私の目を見て答えなさい」

 エンは大きな溜息を吐いたが、まだ天井を仰いでいる。

「その前に、雅さん」

 そのままの姿勢で、静かに言う。

「身づくろいをしてください。裾、はだけてます」

 言われて身を起こし、雅は慌てて裾の乱れを直し、ついでに襟も正す。

「って、あなたが急に、抱き寄せたからじゃないか」

「はい、そうなんです。若い子扱いしようとして、失態を犯しました」

 大袈裟にほっとして見せ、エンはようやく雅を見た。

「あなたは、どんな男でも選び放題の、魅力的な娘さんです。オレは、そんなあなたの相手には、ふさわしくない」

 雅の目を見返すのは、いつもより熱を帯びている男の目だ。

 言葉の本気を感じさせるその目を見つめ、雅も言葉を選んで返す。

「……私が選んでもいいのなら、別に、あなたを選んでもいいと言う話じゃないか」

「そんな事は……」

 首を振る男の頭を両手で捕らえ、間近に顔を寄せる。

「そんな事、あるんだよ。私にふさわしいかなんて、私以外の誰が決めると? 他の誰にも決められたくない。文句なんか、言わせるものか」

「ですが……」

「だから、あなたも、私があなたにふさわしいか、ここで確かめればいいだろう? ただ傍にいるだけじゃあ、そこまで分からない」

 声に詰まり、ただ首を振るエンを、女は床に押し倒した。

 慌てて身を起こす男の膝に乗り、囁く。

「あなたが強く出れないなら、私が出てやるよ。それなら、あなたが襲う事にはならない」

「ち、ちょっと、落ち着いて下さいっ」

「この状況で、落ち着けるはず、ないだろう? 覚悟を決めて、堪能しろっ」

 抗うのを躊躇ったエンを、ここぞとばかりに床に押し付け、唇を重ねようとした時、場違いな声が叫んだ。

「よっしゃあっっ、捕まえたあっ」

「きゃー、お客さん、強いっっ」

 突如廊下に響いた声が、男に乗っかっていた雅を、大きく飛びのけさせた。

 すかさず、エンも身を起こし、女と間合いを取る。

「もうお客さん、他のお客さまにご迷惑ですよ、廊下に出ちゃ」

「ごめんなさーい。私が廊下に出ちゃいました」

「すまんすまん、楽しくてつい」

 芸者と客が、騒ぎながら座敷の戻る足音が遠ざかっていく。

「……先に、注意しておけよっ。良い所で……っ」

 歯噛みする雅の前に、壁にへばりついて座り込む男がいた。

「そんなに、私の相手は、嫌なのか?」

「そうじゃなく、こちらにも、心の準備の時が欲しいんですっ」

 珍しく動揺して、エンが吐き捨てる。

「どの位で、その準備はできる?」

「少なくとも、今日は無理ですっ」

 雅は気が長い方だと思っているが、この時は八つ当たりで、この宿壊して逃げようかと本気で考えた。

 勿論、思うだけでやらなかったが、その後、どこの宿を取っても野宿でも、二人が良い感じになりかかった時に限って、邪魔が入る。

「……それが天災なら、仕方ないと諦めるけど、人の邪魔は本当に腹が立つんだよ」

 腹は立つが、今回の様に時が経ってから邪魔の正体が知れると、八つ当たりをしようと考えていた心は、消えてしまう。

「……それは、すまなかった」

 千里は、だからしつこく探されていたのかとぞっとしつつも、素直に謝った。

「私もエンも、情を交わすことに執着がないから、本当にそこまで興が乗ることはまれ、なんだけど、その興が乗った時に限って、邪魔が入る。だから、どう考えても邪魔になりそうな戒には、そろそろ独り立ちして欲しいんだよ」

 いつ興に乗るか分からないからという雅に、千里は意外そうに目を見開いた。

「もしかして雅、あの男の元に、戻る心算なのか?」

「あの人の元にというより、あの人のいる場所に、行こうと思ってる」

 雅は、初めて言い切った。

 下心がないとは言わない。

 だが、それよりも、エンが大事にしている者を、一緒に守っていきたいと、そんな想いが今はあったのだった。

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