まいどさま

三崎伸太郎

第1話

まいどさま

  三崎伸太郎

「第一話」

鮨屋「しぶ六」のノレンをわけて、客が入って来た。

「マイッサマ!」

スシバーにいた店主の栄一が、すかさず声をかけた。

「オイ、親父は何て言ったんだい?」キッチンにいた皿洗いの一人が、同僚に聞いた。

「さあね・・・・・・」

鍋を洗っていた相手は、関心なさそうに答えて、ニヤリと笑った。度の強そうなメガネの奥で、目がしょぼついている。

鮨屋のしぶ六は、スシバーの席とテーブルの席を合わせて三十六席程のこじんまりとした店だが店内にはいつも客が絶えない。栄一の握る鮨の旨さも格別ながら、それよりも女房の多美子の客受けする人柄が評判を呼んで繁盛している。

「マイッサマ!」

栄一が声を上げるたびに、和服に白い割烹着を着た多美子が微笑して客を迎える。

始めて来たアメリカ人の客などは先ず、この一声に驚いてカウンターの中にいる主の顔を見つめ、入口の一歩で足を止めるが多美子の笑顔がその止まった足に動きをかける。

「マイッサマ!」

栄一はニコリともせず、むしろ怒ったようにくり返す。

慣れた日本人の客は「イキがいいねェ。スシやの板さんは、こうでなくちゃ」などど、自分がアメリカに住んでいることを忘れて、鮨をつまんでいる。

皿洗いの仕事を得て三週間目の輝夫には、この鮨屋の親父の客にかける言葉が、まだ解せない。

言葉は「マーサマ!」に聞こえたり「マイサマ!」に聞こえたり、時には「サマ!」ぐらいにしか聞こえない。

(何て言ってるのだろう?)いつも気にしているが皿洗いの仕事に終われ、つい聞くことを忘れてしまう。

「――サマア!」

キッチンからスシバーを見ると、小柄でガッチリした、いかにも頑固そうな親父が、直立した姿勢で声をはり上げている。

「オイ、輝夫。このミル貝、やってくれ」

突然、若い板前が輝夫の前に、ミル貝の入った箱を置いた。殻を外せと言う。

「全部ですか?」十個程のミル貝が箱の中にあった。

「あたりまえだ。すぐやるんだぞ」

「はあ・・・・・・」輝夫は、気の抜けたような返事をして、洋ナイフを手にしたが、

「ところで、青山さん。親父さんは、客が来るたびに何と言ってるんですかね?」

思い出したように、板前の青山にたずねた。

シンク(流し台の水槽)に向かって何かを洗っていた青山は、輝夫を振り返ってニヤニヤすると「何と言っていると思う?」と、切り返して来た。

「さあ・・・・・・『サマ!』ぐらいにしか、聞こえませんけど――」

「ありゃ、な。親父は『まいどさま』って、言っているつもりらしいぜ」

「エッ? マイドサマ・・・・・・ですか。そうですか・・・なるほど・・・」

「『まいどさま』には、聞こえねぇよな。しかし、アレには年季が入っているぞ――」と青山は言い、親父が強盗を追っ払った話をした。――入口を入って来た黒人の強盗が、親父の声に驚いた。親父の手には刺身包丁。強盗の手にはピストル。日本の時代劇とアメリカの西部劇をごちゃ混ぜにしたようなシーンだったらしい。しばらく両者はにらみ合っていたが、強盗の方が根負けして逃げ去ったと言うことだ。

「へえ・・・・・・。まるで、嘘のような話ですねえ・・・・・・」さも感心したように、皿洗いの輝夫は言い「ドッコイショ」と、付け加えてミル貝の入った箱の前に腰をかがめた。

(チェッ・・・・・・まだ、頭が痛いや・・・・・・)二日酔いだ。日本の大学を中途にし、アメリカに来て、もう六ヶ月。皿洗いのアルバイトをしながら、何もしない毎日。ビールと映画ばかりの日々を送っている。

そもそも、このしぶ六だって、酔っ払って通りかけた店のノレンの間から、白い割烹着を来た日本女性の小粋な姿に、いや母性的な雰囲気に引かれて、いや、疲れていたから、何もせずにロス・アンゼルスという都会で無意味な毎日を送っている自分に、疲れていたから、その時、ノレンの間に見えた女性が、自分をひきつけたんだと思う。

翌日、輝夫は飛び込みでしぶ六に行き、皿洗いに雇ってもらった次第だ。

ヤレヤレと思いながら、ミル貝の箱に触った。ミル貝がぬたりと緩和に収縮し、やがて拡張する。洋ナイフの先で、ペニスに似たミル貝をトントンとたたいて、見つめていた。

「オイ、何やってんだ。早くしろ!」

青山に怒鳴られて、一ツを掴みあげた。洋ナイフを殻と身の間に入れると、ミル貝はキュと小さな音を上げて収縮し、少し色が黒っぽくなる。張っている皮が縮むからだ。見て余り気持ちの良いものではない。

軽いため息をつきながらも輝夫は、習ったとおりのやり方でミル貝を仕込んで行った。――と、白いものがやんわりと輝夫の背に触れて「あら、ごめんなさい」と女性の声。

多美子が通り抜けた拍子に触れたようだ。うずくまっている輝夫を振り返って。声をかけて来た。

「いえ・・・」輝夫は、多美子に軽く返事を返したが、耳たぶが赤くなっていくのを感じだ。丁度、ミル貝を仕込みながら多美子の肉体を想像していたから、突然その相手に声をかけられて、戸惑った。




「第二話」

女性には微かなニオイがある。化粧品の中に混じった、微かな男を刺激さすもの。まだ若い輝夫は。多美子の女性としての魅力に敏感だ。

あんなダサイおやじに、こんないい女がついているなんてと思いながら、多美子のニオイに胸を躍らせた。

「テル!」突然、若々しい女の声が背後に聞こえた。順子だ。

「皿がたまってるぞ」

まるで男のようなモノの言いぐさだ。

「うるさい。分ってるよ。おまえは、ウエイトレスしてろ」

ボーイッシュな順子に、この「しぶ六」のウエイトレスの職を紹介したのは輝夫だ。

ハリウッドの路上で、竹で作った中国製のカレンダーを売っている日本人らしい若い娘を見ていたら、その娘は、とことこと輝夫に近づいて来て、これを買えとその一ツを差し出した。

買え――だって? 何と言う口の聞き方だと思ったが目もとのすずしい、はつらつとした相手に圧倒された。

相手は、宗教団体の仕事をしていると言った。これは、その資金になる。そして、これを買ったらあなたは幸福になれると言った。

輝夫には、信仰心が少ない。大学で哲学を専攻しているせいか、いや、もともと性格上のものだろうが仏教に関しても、親鸞や一休などの本は一般的で、一応読むのだが仏教哲学として消化しているに過ぎないし、キリスト教でも、キリスト教哲学として記憶の一部にセットしてある。

でも、目の前に現れた娘は平凡な言葉で、まるで知識のない、輝夫の気だるくなるような言葉を使い、このカレンダーを買えと言った。それが順子だった。

輝夫は買ってしまった。

今、思い出しても悔しい気持ちが起こる。まるで倫理からかけ離れた、単純で、それがあまりにも単純なゆえに、卑猥とさえ感じられる言葉を平気で使い、微笑までしていた。

このカレンダーを買えば、あなたは幸福になれます、だってえ? チェッ、冗談じゃない。割竹を板状につないで、下手な印刷で木と鳥の絵、そして一年の月日が印刷してあった。それを買った。

輝夫は背後に、まだ去らないでいる順子の気配を感じながら、気持ちは漠然としていた。

「なんだよ?」耐え切れなくなって、背後の順子を振り向くと、相手はニッと笑い、踵を返して客席の方に向かった。

若さの残像を感じ取りながら、輝夫は妙に自分が腹立たしかった。

「マイッサマ!」

しぶ六のおやじの声が響いた。キッチンからノレンの隙間を通してスシバーのほうを見ると、四、五人の日本人が目に入った。背広を着ている。日本の会社のアメリカ駐在員かなんかだろう。男ばかりで明るさがない。

多美子の姿が現われて、男達を席に着かせた。おしぼりを持ってウロウロしているのは順子じゃないか。

――ばか。まったく、なにやってるんだろう。さっさと仕事しろってんだ。

「テルオ!」

青山だ。

「お前な。もう少し、テキパキと仕事しろ。ミル貝が駄目になるぞ」

「はあ、すんません」

「すんませんじゃ、ねえよ。早くしろ」

「はあ――」

輝夫は、順子に対して思っていたことを、突然青山から言われて気落ちした。不満な気持ちのまま、殻から外したミル貝をシンクに移すと、表面をたわしでゴシゴシ擦って水で洗った。

「テル――」

再び順子がキッチンにやって来た。片手にビールの小ビンを持っている。

「また、まちがっちゃった」

アメリカ人に一本多く出して、拒否されたらしい。

ばかやろう。だれもいないから、いいけど――。

輝夫は順子の差し出したビールの小ビンを手にすると、ニコニコしている相手を横目で見ながら、一息に飲みほした。

「ワッ! スゴイ」

「ばか。黙ってろ」早く行けと手で順子を追い払うと、ゲップが一ツ、大きく出た。熱い酔いが、背骨の方から頭に駆け上がって来る。

一足遅れて、もう一人の皿洗いが片付けた食器の入った箱を抱えて、のそりとキッチンに入って来た。度の強いメガネをしているので「ミルク・ビン」と、あだ名しているが、本人はまだ自分の異名をしらない。

店の仕事では彼の方が先輩だが、年齢は輝夫が二つ上だ。

「今日は、結構客が入っていますよ」ミルク・ビンが言った。

「土曜日だからねェ。『土曜の夜と日曜の朝』アラン・シリトー

だったかな。みな楽しい土曜の夜」

「その分、ぼく達は地獄ですね」

「多分ね。今夜は、特に混むだろうな」

「どうしてです?」

「シャバでは、昨日給料日だったから」

「あっ、そうか。道理で、彼女から電話が入ったわけだ」

ミルク・ビンは汚れた皿をシンクに入れながら、うれしそうに言った。

「彼女?」ミル貝を洗っていた手を休めて、輝夫が聞き返した。

「ええ」

「君、彼女さん、いるの?」

「当たり前ですよ。彼女の一人ぐらい。おたくは?」

「――」

「いない?」

「いや、いない訳じゃないが・・・・・・」

――まさか毎夜、多美子の肉体を想像してオナニーしてますとは言えないし、人妻を、片思いの相手を、彼女とも呼べないものな。

「――サマ!」

しぶ六の親父の声が、輝夫の身体に打ち入ってくるように聞こえた。




「第三話」

夜はながい。店が繁盛する分、汚れた皿が次から次へとキッチンに運び込まれてくる。湯でふやけた手は、直ぐに切り傷を作る。

「冗談じゃあないよな」

輝夫は、洗っていた皿から手を離してミルク・ビンに言った。

「なにがですか?」

「こんなに、次から次と皿がたまっちゃ、休む暇がないね」

「その分、チップの分け前にあずかりますけど」

「十ドル程度じゃ、ビールも飲めやしない」

「テルさんは、飲み屋に行くからですよ。ぼくなんか―――」

ミルク・ビンの言葉を、輝夫はさえぎって、

「ああ、そうだね。君は、いいよ。『彼女さん』いるものね」と言い、洗剤の泡を手ですくって前方に出し、プッと息を吹きかけた。

多数の小さなシャボン玉がサッと流れて、ミルク・ビンのしぶ六と書いてある紺の上着に貼り付いて、消えた。

「こら、遊ぶな」順子が入って来た。

「遊ぶ暇なんか、ないぜ」じろりと順子を見て輝夫が言った。

「奥さんが、少し休みなさいって」

順子は、手にするトレイの上から茶の入った湯飲みと、巻物の鮨の入った器を下ろした。

「こりゃ、すごい」ミルク・ビンが言った。

「なぁんだ。巻物だけかよ」輝夫が言った。

「贅沢言うんじゃないのよ。いつもだったら、サンマじゃない」順子が上目づかいに輝夫を見て言い「はい、どうぞ」湯飲みを手渡して来た。

「ありがとう・・・・・・」相手ペースで、とにかく茶を一口すすると、鉄火巻きの一ツを口にほうばった。

数度口を動かすと、ツーンと鼻にワサビがしみた。

「ジュン・・・これ、だれがつくった?」

「ア・オ・ヤ・マさん」

「青山? ひでぇスシだ」と輝夫は言い、湯飲みに口をつけたが、ふと一角にビールの入った小ビンが目にとまった。

「――なんだ、ジュン。またかよ」指差して言った。

「ちがうわよ。客の飲み残し。でも、口つけてないよ」

「―――」順子が言い終わらないうちに、輝夫の手が伸びてビールの小ビンを掴んだ。

「では、いただきます」

「テル、よしなよ。アル中になるよ」

「ばぁか。飲まずにいられるか」

順子の顔が少しゆがんで、キッチンと客席とを分けてあるノレンの外に消えた。

(なんだ、あいつ・・・)輝夫は少し気になったが巻物のスシを食べながら一気にビール・ビンを空にした。

あまり飲んで、シブ六の親父に見つかったらまずい。適当に、と。茶色の小ビンを手の指先でつまみブラブラと振った後、少し離れたゴミ箱に向かってポイと投げた。それは汚れたネズミ色のプラスチック容器の縁に辺り、跳ね上がって床に落ちたがカン高い音がしてバウンドすると再び床に落ち、コロコロ転がって冷蔵庫に下に見えなくなった。

ミルクビンが、呆れたように輝夫を見て軽く口笛を吹いた。

「ヤベエ…」小さく輝夫が声を出した時、

「どうかしたの?」

多美子が現れた。

「いえ」

輝夫は、ちょっと姿勢を正して言い、多美子を見た。

「――何でもありません」

「そう……」

「はい」

「疲れたでしょう?」

「いえ……」

多美子は粋な感じ、可愛い仕草。そんな風にノレンの端を上げて立っている。忙しいためか、白い顔が紅潮していて、形の良い鼻に小さな汗が光っている。口もとが優しい。

その背後に、

「おい」しぶ六の親父の呼ぶ声がした。

「はい」多美子は後を振り返って短く答え、顔を戻して微笑すると、キッチンから離れた。

幻覚を見た――輝夫は軽い酔いの中で、女の性を意識しながら、そう思った。

「しぶ六のオカミさんは、いつ見ても色っぽいですねぇ」ミルクビンが言った。

輝夫はキッと相手を見て、

「ぼくの夢を壊すようなことを言わないでくれる?」

「『ゆめ?』…なんですか? それ?」

「あああ、野暮ったい事を言うね。まったく」

「はあ…」

「君はだね。まったく女性を知っていない。多美子さんのような女性を……」

「女性を?」

「まあ―なんだな。『おんな』と言うのだ」

「もちろん彼女は処女じゃないでしょう?」

ミルクビンが分厚いメガネの縁を片手で持ち上げ、心もち輝夫の方に身をより出して言った。メガネの一部が湯で曇っている。

「ああ……君はイヤな奴だ。言葉が露骨だ。情緒がない」

「でも―」

「ぼくは……」輝夫は二、三大きく頭を左右に振ると、鮨桶の底にあった客の食べ残しのスシをつかみ、ゴミ箱に向かって投げた。

スポッとスシがゴミ箱に入った。

単純な結果だが気分は悪くない。

「さあ、皿を洗うぞ。メチャクチャ洗うぞ」こう叫ぶと輝夫は湯の中に手を入れ、忙しく手を動かして皿を洗い始めた。ミルクビンもそれにならった。

後一時間ほどで土曜日は、日曜日に変わろうとしていた。



「第四話」

朝の目覚めはかったるい。

輝夫は、目を閉じたまま、少し昨夜は飲みすぎたなと、頭のどこかで思った。自分の頭のどの辺で思考をしているのか、二日酔いの頭は、まるで自分のものではないような感じがした。

寝返りをうった時、ふと、何かに触った。なんだ? 声にならないうちに、

「何すんのよ―」

手を払いのけられた。

「な、なんだ?」目を開いてみると、順子だ。

「順子。なんで、おまえ、おれのベットにいるんだ?」

輝夫は、間の抜けたような声を出して相手を見た。二日酔いどころではなかった。

「『おれのベット?』テル、寝ぼけないでよ」

順子に言われて、輝夫は改めて部屋の中を見回した。女性の部屋だ。完全に男性の部屋ではない――と、すると、

「こ、これ、順子の部屋……」

「そうよ」

順子の顔は良かった。

「ワ・タ・シの部屋」

平然と言って、ああと軽く欠伸をし

「さて、おきよ」

ポンと飛び跳ねて、ベットから離れた。

うすいグリーンのパジャマを着た順子が、笑って輝夫を見た。

「おい……」

「何?」

「いや……何でもない」

「そう。コーヒーをつくるわね」

順子は、すたすたと、キッチンの方に向かった。何事もなかった感じだ。

輝夫は、そっと右手を伸ばして、自分のモノを下着の上から押さえてみた。

――オレ、何もしなかっただろうな……自信がなかった。

昨夜の記憶があちこち途切れていた。下着の中に手を入れてみる。順子とセックスした記憶はなかった。手を出してみる。

何もない――と言うことは、昨夜、順子とは何もなかったんだ……。

「テル!」

順子が呼んだ。

「―――」

「テル、何してんのよ。コーヒーできたよ」

順子が腰に手を当て、こちらを見ている。

まぶしい。輝夫は、女の子はまぶしいな、と思った。特に、朝、若い女性の部屋で目覚めたぶん、何となく行き場を失ったようでつらい。

「今、行く……」これだけ言うと、輝夫はもう一度、順子の部屋を眺めた。

そして、昨夜の記憶の途切れた分を呼び起こそうとしたが、二日酔いの気怠さだけを身に感じて、何もよみがえってこなかった。

「ま、いいか……」と、つぶやくと大きく欠伸した。ふと、うすく化粧品のニオイを感じた。やはり、女の子だ。輝夫は、自分の部屋の得体の知れないニオイとは違った、部屋の中の心地よいニオイや空間に男女の相違の原点を感じた。

「テルー。コーヒー」

順子が再び、輝夫を促した。

「ああ、サンキュ。今、行く」

シーツをはねのけて、と思うが自分のモノのボッキに気付いた。あああ、と思っているうちに、完全に硬直して大きく張った。これはいけないと、とどまって、起き上がるのをぐずぐずしていると、順子がすたすたと来て、

「テル、起きなよ」と、シーツをはがそうとした。

「ばか、よせ!」

少々赤面して輝夫が抵抗すると、勘違いしている順子は、無理にシーツをはがそうとする。

「順子、や、やめろよ!」

「何言ってるのよ、ほら……あっ!」

シーツがまくれて、下着の下で起立しているモノが、順子の目に止まった。彼女は、くるっと後ろを向くと、腕組をして黙って立った。

「止せって、言ったろ?」

「―――」

「オレのせいじゃ、ないぜ」

「――――――」

「ごめん…これは、自分の意思でこうなるんじゃないんだ。その、男の、その日の身体のバロメーターであって、つまり、この現象はすべての男性に毎朝、生じるのです。決して卑猥でも何でもない……とにかく、悪かった。このモノに代わってお詫びする。

何が何やらわからないまま、輝夫はともかく頭をペコリとさげた。

順子が再びくるっと後ろに回って輝夫を見た。笑っている。そして近づいてくると、

「ちょっと見せて?」

「エッ?」

輝夫は驚いて相手を見た。なんの疑いも持たない顔が、そこにあった。

「見せてよ」

「エッ、まあ、いいけど……」少し恥ずかしくなって来た。

「はやく―――」

「本当に?見たいの?」

「うん」順子は素直に返事をした。

順子が手を伸ばして来た。

「ばか、ばか、ちょっとまて…」と、言っているうちにサッと順子の手が伸びて、輝夫の下着がはがされた。今まで下着で押さえつけられていたモノがピョンと立った。

「キャッ」

順子が悲鳴を上げた。

「な、何よ!それ」

「『なによ』だって? なんだろう、ね?」

順子の言葉に、輝夫はとまどった。

自分のモノを指差され、いや、相手が見せてくれと言ったから、あれ? こんがらがって来た。要するに、輝夫のモノを順子が見たいと言ったから、見せた……。だから、このように、自分のモノを指差して「なによ、それ?」と言われても、困る。

一体、何だろう? これは……。棒状になっていて…。その型、いや形も、大して美しいものではない。だから、未だかって芸術のモティーフとして使われたことはない。あっても、噴水に立つ「小便小僧」のかわいいモノぐらいだ。このものの価値とか、使用目的とか、日ごろあまり考えたことがないので、こういった場面では説明の糸口が掴めない。

「そんなものが、私に……」

突然、順子がポツリと言った。

「エッ?」輝夫はビックリしてベットから身体を持ち上げた。

「オ、オレ、お前とやったの? 昨夜……」

「『やったの?』って?」

慌てて服を着ている輝夫の耳に、順子の言葉が聞こえた。

輝夫は順子に向き直って、少々赤面していたが、胸も少々高鳴って、何か言葉を口にしようとしたが、口が渇いた感じで、なかなか言葉にならない。

「セックス……」思い切って小さく言った。

「バカ! 何言ってるのよ」普通の順子の話し方だった。

「だって『私に――』とか、なにか言ったじゃないか」

「言ったわよ? でも、あなたと、セックスしてないよ」

「そう露骨にいうなよ。こちらは二日酔いだ。しかも、ガキ相手にセックスしても、面白くないぜ。それに、だな。あれは、心理学上の行いだ」

「私、ガキじゃないよ」順子が、少しキッとなって言った。

「そう・・・。わるい、わるい」輝夫は自分の妹に対するように言った。

そして「コーヒー、コーヒー」と言って、キッチンのテーブルの方に向かった。

清潔なテーブルだった。輝夫はふと、歯を磨きたいなと思った。

「ジュン、おれ、顔を洗って、歯を磨きたいけど」

順子は、コーヒー・メーカーに伸ばしていた手を止めて「そうね。じゃ、こっち」と、輝夫を促した。

バス(洗面所)に行くと、輝夫には、すべてが目新しく見えた。色々なバス用具は、すべてかわいいモノがそろっている。

ああ、やはり女の子の部屋だ。オレとは、ちがう。もの珍しそうに辺りを見回していると「はい、これ――」順子が歯ブラシを手渡して来た。

これには、見覚えがある。

「ねえ。これ、飛行機の?」

「そうよ。機内で出す歯ブラシ。便利でしょう?」

「うん……」

「テルう。フ・マ・ンなの、それじゃ?」

「と、とんでもない。これは便利だ。うん。なかなかのアイディア」

パックを手の平にのせ、もう一方の手の平で軽く叩いた。パンと小さく音がしてパックが壊れた。

「――オレ、ジュンのを使うのかと、思ってた」

「よしてよ。バカらしい。きたなぁい、考えるだけでも、いやよ」

輝夫は、ブラシを口に入れながら「そんなものかねえ?」と、順子を振り返って聞いた。

「あたりまえじゃない」

「怒るほど?」

「ぞっとする……」歯を磨きながら、ちょっとよそ見して鏡を見ると、順子の顔が映っていた。

「―――」

オレは、この娘と、いやいや、とんでもない。汚れを知らない、まだ子供じゃないか。こんなガキが、何で又、アメリカまで来て一人で生活しているのだろう。

「――どうだ。きれいか?」輝夫は、順子を振り返ってニッと洗った歯を見せた。

プッと順子は頬をふくらませると、スタスタとバス・ルームから離れて行った。青い感じ。しぶ六の多美子の場合は、おしりが肉感的にうごめく感じがある。

まだ女じゃないな…と、輝夫は思った。

歯を磨いたついでに、冷たい水で顔を洗った。何ども水で顔を洗うと、気分もよくなって来た。さて、タオルとおもったが、順子はタオルを輝夫のために用意していない。

タオル掛けには、順子の白地にピンクとグリーンで花の絵が描いてあるタオルがあるだけだ。ああ、これこれ。これでいいと、輝夫は顔を持って行って二、三回軽く拭いた。再び微かな甘い化粧品のニオイが鼻をかすめた。輝夫の身体に懐かしさがピクッと疼いた。母のニオイ…その余韻を残したまま、輝夫はキッチンのほうに行った。

「おはよう」

「おはよう。どうしたの?」

「えっ?」

「『おはよう』って」

「単なる朝の挨拶です」

「フムフム……」順子は微笑して、朝の光の中に立っていた。どことなく、品がある。こりゃ、育ちが良いようだ。

「コーヒー?」順子が聞いた。

「うん。たのむ」と輝夫は言い、窓側に行くと外の景色に目をやった。カリフォルニアの秋の空が、光を贅沢に満たしている。

「ああ…良い天気だね…」

「秋よ」順子が言った。

「うん。そうだ。秋。――『ああ!秋が、秋めが夏を滅ぼした』」

「あら? アポリネール?」

「?」輝夫は内心驚いた。この詩を知っているとは珍しい。日頃、軽く見ていた順子の口から、意外にも詩人の名前が出てきた。

「『灰色の…』忘れた」輝夫は自分の頭をポカリと叩いた。

「テル。ビールばかり飲んでいるからよ。はい、コーヒー」

「ああ…その通りだ」

輝夫は椅子に腰をおとすと、順子の注いでくれたコーヒーを口にした。

真向かいに座った順子は、軽く口をつけたコーヒー・カップに、もう

一方の手を軽くあてがい、ちょっとお茶目な眼差しで輝夫を見、

「『灰色の二つの影が霧の中を歩いて消える』」

「ウッ!」輝夫は思わずコーヒーにむせた。
















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