エピローグ

桜の道

「ゼンくん、おつかれさま」


 五北中の体育館の入口で、搬出作業を終えてほっと一息ついていると、サクラさんが静かに微笑みながら近づいてきてくれた。


 初公演から十日後の、初めての稽古日だった。

 左腕の痛みも消え、動きもまあ十日間のブランクのわりにはぼちぼちだったと思うのだが、相も変わらずカントクたちの要求は高い。ひさかたぶりのダメ出し三重奏に、僕の心はちょっとだけめげていた。


「この後は、オノディさんの家でミーティングだって。金子さん以外は、みんな来るってよ?」


「あやめもですか? 明日も学校だってのに、まったく元気なやつだなあ」


 時刻はすでに、午後の十時を回っている。新学期が始まったばかりだというのに、また午前様で帰るつもりなのだろうか。

 ちなみに本日集合しているのは、主催者四名と、僕と金子さん、それに後半から参加したあやめの七名だった。


「ゼンくんは、やっぱり帰っちゃう?」


「そうですね。ひさびさの稽古でクタクタです。申し訳ないけど、今日は帰らせてもらいます」


「そう。……あやめさんが、残念がるね」


 僕はいくぶんぎょっとしてサクラさんの顔を見返したが、そこには静かな微笑しか見出すことはできなかった。


「それじゃあ、私をオノディさんの家まで送ってくれない?」


「……え?」


「ゼンくんと、話がしたいの」


 僕の返事も待たずにサクラさんは身をひるがえし、みんなのもとへと戻っていってしまう。

 すると今度は、あやめが入れ替わりに小走りで近づいてきた。


「ゼンくん、帰っちゃうの? つまんないなぁ。今日は『カミキリゲノム』の動画用の脚本を、みんなで練り直すらしいよ!」


「だったら、なおさら僕の出番なんてないだろ。……帰り道は、ちゃんと誰かに送ってもらえよ?」


「うん! ……ゼンくんは、サクラさんを送ってあげるんだって? みんなは車で先に行っててくださいって言われちゃった」


 いたずらっぽい笑みを浮かべながら、ネコみたいな目が僕をじろじろと見る。


「あのさぁ、いいかげんに決着つけなよね! おくゆかしいのもけっこうだけど、見てるほうはヤキモキしちゃうよ。……そんなんだから、トモハルさんにつけいるスキを与えるんじゃない?」


「決着って何だよ。僕とサクラさんはそんなんじゃ……」


「ああ、はいはい。別に何をどうしようとゼンくんたちの勝手だけど。またややこしい事件が起きても知らないからね! ……今度はゼンくんに片思いの誰かさんが、面倒事を引き起こすかもよ?」


 そんなことを言いながら、にっとチェシャ猫のように笑う。


「それじゃあ、またね! 今日もかっこよかったよ!」


 どうやらカントクたちも出発するらしい。あやめがオノディ・カーに乗り込むのを確認してから、僕はそちらに近づいていった。


「ゼンくん、おつかれ。また明後日あたりにでも稽古するかい?」


「あ、はい。ありがとうございます。今日もおつかれさまでした」


 金子さんがゾウのように小さな目を細めて笑い、ひとり校門を出ていく。どうやら今日は、ジョギングで帰るらしい。底抜けの体力だ。


「おお、ゼンくん、おつかれさま!」

「来週からは、いよいよ第三話の稽古も始めるからね」

「……台本をしっかり読みこんでおくように」


 カントク、オノディさん、ヤギさんも、おのおの二台の車に乗りこんでいく。

 そうして長島工務店の軽トラと電器屋オノディのワゴン車が走り去ると、僕とサクラさんだけが体育館の前に取り残された。


「……行きましょうか?」


「うん」


 駐輪場から自転車をもってきて、サクラさんと二人、肩を並べて校門を出る。


「……初公演から、もう十日も経つんだね。なんだか、あっという間だったなぁ」


 と、サクラさんがゆっくりと足を進めながら、ひどくおだやかな口調でつぶやいた。


「てんやわんやの騒ぎだったけど、いま思えば、楽しかったね?」


「うーん……僕はまだそこまで客観的には振り返れないですけど。でも、いい思い出になってくれると信じてます」


 あの日の僕たちは、午後の部をあきらめなかったことによって、完全燃焼することができた。


 ただし、何もかもが丸くおさまったわけではない。トモハルはメンバー全員に頭を下げ、プロジェクトに残ることも許されたが、野々宮さんはいまだにプロジェクトを辞めると言い張っているのである。


 救急病院にて異常なしと診察された野々宮さんは、トモハルとともにきちんと初公演をやりとげてくれた。しかしその直後に、「これ以上は、甘えになります」と退団を表明してきたのだ。

 それどころか、彼は長島工務店をも辞めようと決意していたようで、それはカントクが必死に引き止めたらしい。


「プロジェクトが原因で退社だなんていったら、俺がカミさんに殺されちまうわ! お前は俺を殺す気か?」


 それで野々宮さんも、不承不承ながら会社に居残ると考えなおしたそうだ。

 プロジェクトに関しては、いまだに田代さんが説得を続けている。僕も個人的に話をしたいと願い出たが、それは田代さんに却下されてしまった。


「話をややこしくするんじゃねえよ。野々宮の気持ちを落ち着けたいんだったら、お前さんはどっちが本命なのかハッキリさせやがれ」


 田代さんにまでそんなことを言われてしまい、僕としては、汗顔の至りという他なかった。

 どっちが本命もへったくれもないんだけどなあ……と横目でサクラさんの表情をうかがうなり、「あのね」と話しかけられて、僕は自転車をひっくり返しそうになってしまう。


「トモハルくんのことなんだけど……私たち、二人とも彼に騙されてたみたいだね?」


 人通りのない春の夜道を歩きながら、サクラさんは静かにそうつぶやいた。


「私は、ゼンくんが怒ってるっていう風に聞いてたの」


「怒ってるって、何にですか?」


「たった一回ミスしただけで、あんな理不尽に責められるのは納得がいかない、これ以上ギスギスしたら、自分もこの先プロジェクトを続けていく気になれるかわからないから、できるだけ距離を取りたい、プロジェクトと関係のない部分では、できるだけ関わりたくないって……あれも全部、嘘だったんでしょ?」


「嘘ですね。僕のほうこそ、サクラさんは僕とぶつかるのが嫌だから、できるだけ交流を持ちたくないと思ってるって聞かされていたんです」


「嘘だねえ。何から何まで嘘だらけ。……でも、それでゼンくんに電話をしてみたら、『別に友達探しをするために始めたことじゃありませんから』って言われて……私は、すっかり信じちゃったの」


 何とも間の悪い発言をしてしまったものだ。それじゃあまるで、僕のほうから絶縁宣言してしまったようなものではないか。


「……あれ? だけど、僕がそんな風に答えちゃったとき、サクラさんは『嬉しい』とか言ってませんでしたっけ?」


「そんなの、強がりに決まってるじゃん。ゼンくんは、プロジェクトの成功を願ってるって言ってくれたのに……そんなのやだとか、言えないでしょ?」


 と、ちょっとすねた風に唇をとがらせる。

 強がりに強がりを重ねた僕の言葉に、サクラさんもまた強がりの言葉を返していたわけか。

 トモハルの稚拙な嘘を補強してしまっていたのは、他ならぬ僕たち自身だった、というわけだ。


「まあ、誤解は解けたんだから、もういいですけどね。……僕はもう、そこまで徹底的に苦手意識をもたれちゃったんだなって思いこんじゃってましたよ」


「そんなの、こっちのセリフだよ。ショックのあまり、がむしゃらに造形を頑張っちゃった」


「僕もですよ。あとは稽古にはげむしかないって、そればっかりの一ヶ月でした」


「私なんかのことより、プロジェクトのことで頭がいっぱいなんだなぁって。嬉しい反面、ものすごくさびしかったりね」


「それこそ、こっちのセリフです。サクラさんの場合は、まあもともと主催者だったんだから、プロジェクトが大事なのは当たり前ですけど」


「…………」


「…………」


「……本当に、面白いぐらいあっさりと騙されちゃってたんだね、私たちは」


 ふわりとワンピースをなびかせて、サクラさんが僕の前に立った。

 今日は、妖精のように白いワンピースだ。

 黒猫のエドガーは、小さなポーチから目もとだけをこっそりのぞかせている。


「私たち、単純なのかなぁ?」


「そりゃあまあ、否定しませんけど。……それ以上に、出会ってまだ一ヶ月ぐらいの仲だったから、きちんとした信頼関係が築けていなかったんでしょうね」


 だから、自分に自信をもつことも、相手を信用することもできず、トモハルの言葉を頭から信じてしまった。

 自分の存在が、相手にとってそこまで価値のあるものだとは、とうてい信じられなかったのだ。


(だけど……)


 あの頃のサクラさんは、ものすごくさびしそうな目つきをしていた。

 僕の目を見ようともしてくれなかった。

 ヤギさんに、「元気がない」とも言われていた。


 それらはすべて、僕とトモハルが対話をする前――つまりは、トモハルに騙される前のことだった。

 それぐらい、サクラさんは僕と衝突してしまったことを気に病んでくれていたのだ。


 嫌われてしまったのではなかろうか、と。

 相性が悪いのではなかろうか、と。

 この先、関係を修復していけるのだろうか、と。

 当時の僕と、おんなじ風に……


 そこでトモハルなどに相談してしまったのが大失敗だったわけだが、それでサクラさんを責める気になどはなれない。サクラさんにとっても、トモハルはたったひとりの特別な存在であったわけだし、トモハルも、心の底からサクラさんを心配していたのだろうから。


(僕なんかのことで、そんなに思い悩んでくれていたのなら……)


 今は、それだけで十分だった。

 街灯の青白い光の下、まるで本物の妖精みたいに首をかしげ、後ろに手を組んで微笑んでいるサクラさんの姿を見つめながら、僕は心の底からそう思うことができた。


 僕は、サクラさんが好きだ。

 その気持ちに、間違いはない。

 だけど、性急にその答えを求めて、ようやく取り戻せたばかりのこの満ち足りた空気を壊したくはなかった。


 あやめあたりは、またブツブツと文句を言いそうだが。

 僕は、大事にしたいのだ。

 サクラさんとの、関係を。


 そして――

 新しく得た、『イツカイザー・プロジェクト』という、居場所を。


 この先も、色んな騒動が巻き起こるにちがいない。僕の浅はかさや、考えの足りなさが原因で、サクラさんや他のメンバーと衝突することだってあるかもしれない。

 それでも僕は、この空間を大事にしたかった。

 いずれ気持ちが落ち着いたら、野々宮さんにも戻ってきてほしいな、と思う。


「あのさ……ゼンくんは、本当に大丈夫なの?」


「え?」


 サクラさんの面から微笑が消え、その代わりに、とても心配そうな表情が浮かんでいた。

 まだ何か懸念の種でも残っているのだろうか。


「トモハルくんのことだよ。……本当に、トモハルくんのやったことを許してあげられるの?」


「そんなの、とっくに許してますよ。サクラさんは、そうじゃないんですか?」


「だって、私は姉弟だから。……どんなに駄目な子でも、弟は弟だもん」


 そうか。それが心配で、サクラさんはわざわざこのような場をもうけたのか。

 だったら、その不安はきちんと解消してあげるべきだろう。


「大丈夫ですよ。やり方が間違っていたとはいえ、根っこにあったのは、サクラさんを大事にしたいっていう気持ちだったんでしょうからね。許すも許さないもありません」


「……愛情と独占欲は別物だと思うけど」


 と、サクラさんは口をへの字にする。

 そのサクラさんらしくない表情があまりに愛くるしかったので、僕はついつい余計なことを言ってしまった。


「サクラさんは、トモハルさんに厳しいですよね。……それがちょっと、僕には羨ましいです」


「え? 厳しくされるのが羨ましいの?」


「はい。だってそれは、遠慮する必要のない間柄ってことじゃないですか。やっぱり二人は特別な関係だなって思えるから、羨ましいです」


 だから、僕がまた何かしょうもない大ミスをやらかしてしまったら、遠慮なく怒ってくださいね――と、僕は続けようとした。

 が、思いも寄らぬことが生じてしまったので、そうすることができなかった。


 サクラさんは、これ以上ないぐらいに両目を大きく見開いて、それから何故か、その白い頬を真っ赤に染め始めてしまったのだ。


「ど、どうしたんですか? 僕は何か、おかしなことを言っちゃいましたかね?」


「そ、そんなことはないけど……でも、特別な関係って……」


「はい。特別な関係がどうかしましたか?」


 言ってから、僕もものすごい不安感に見舞われてしまう。


「あの……まさかとは思いますけど、二人は義理の姉弟で、トモハルさんが抱いているのは家族愛じゃなく恋愛感情だった、なんてオチはないですよね……?」


 その言葉を聞くなり、サクラさんはがっくりと両肩を落としてしまった。

 これまたサクラさんらしからぬリアクションだ。


「あのね……私たちは双子だって言ったでしょ? 義理の姉弟なら聞いたことあるけど、義理の双子なんてこの世にありうるの?」


「ああ、そういえばそうでしたね。それじゃあサクラさんは、いったい何を……?」


「何でもないよ! さっさと行こう! みんなオノディさん家で待ってるんだから!」


 ツンとそっぽを向いたサクラさんは、そのままの勢いでまた春の夜道を闊歩し始めた。

 そのほっそりとした後ろ姿を、僕も慌てて追いかける。


 そうして僕たちはしばらく無言で歩き続けたが、やがてサクラさんが何かを思い出したような表情を浮かべて、僕を振り返った。


「あのさ。この前、カントクの娘さんが録画しておいてくれた初公演のビデオを、みんなで観たよね?」


「ああ、はい。午前の部はもちろん、午後の部も完璧とは言い難い出来でしたね」


「うん。だけど、ゼンくんが野々宮さんを本気で蹴っ飛ばしちゃった、あの問題のシーン。気まずくて誰にも言えなかったけど……あのときが、一番かっこよかったよ」


 サクラさんの白い面に、いたずらっぽい笑いが浮かぶ。


「ふだんから、あれぐらいかっこよくアクション・シーンをこなせるようになったら、百点満点だね!」


「……精進します」


 僕は苦笑して、サクラさんにうなずき返した。

 その後は、とりとめのない話ばかりをしながら、春の夜道を二人で歩いた。

 かけがえのない仲間たちの待つ、オノディさん宅のアジトに向かって。


 並木道の歩道には、早くも散りはじめた桜の花びらが、まるで何かを祝福するように、ピンク色の美しい幾何学模様を描いている。


 桜の季節も、もう終わりが間近にせまっているようだった。

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戦え!イツカイザー! EDA @eda

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