3 結末

「ゼンくん?」というサクラさんの上ずった声を背中で聞きながら、僕は一息にフェンスをよじのぼった。


 フェンス自体の高さは、二メートルぐらいしかない。

 だけど、その向こう側は――地上七階、およそ二〇メートルぐらいだろうか。

 高所恐怖症のケはないつもりだったが。それでもやっぱり、五〇センチほどの幅しかない屋上のへりに降り立つと、背筋に冷たいものが走り抜けていった。


「あ、危ないよ、ゼンくん! やめて! 戻ってきて!」


「ご心配ありがとうございます。……だけど、大丈夫ですよ」


「……何が大丈夫なんだよ?」


 低い声でつぶやきながら、トモハルがゆらりと立ち上がる。


「オレがお前をどうしたいと思っているのか、それがわかった上で、こんなところまで来たんだろうな? ……言っておくけど、オレはもうこのていどの高さなんて、なれっこなんだぜ?」


「すごいですね。羨ましいとは思いませんけど」


 確かにトモハルは、こんな高さで、こんな不安定な場所だというのに、かたわらのフェンスをつかもうとすらしていなかった。

 だけどやっぱり、彼を羨ましいとは思えなかった。こんな殺伐とした場所がなれっこになってしまう人生だなんて……そんなの、羨ましいと思えるわけがない。


 だけど――

 物心がつく前に、父親を失い、

 小学校では、いじめられ、

 たったひとりの家族であった母親は、重度のアルコール依存症。

 そして、そんな母親すらも、とっとと他界してしまい、

 それでも彼は、世間を見返してやろうとばかりに、俳優を志しているのだ。


 羨ましいとは、思わなかったけれども、

 尊敬には、値するのではないだろうか。


「トモハルさん。きちんと話をしましょうよ。……僕と」


「お前と話すことなんてないよ! 突き落とされたくなかったら、とっとと出ていけ! ……それで、ヒーローショーでも何でも好きにやればいいだろ!」


「やりますよ。だけど、それにはあなたが必要なんです。……『五十嵐道』がいなかったら、構成が無茶苦茶になっちゃうじゃないですか?」


「知ったことかよ! お前、頭がおかしいんじゃないの? ……オレはな、もともとあんなプロジェクトはどうなったっていいと思ってたんだよ! そいつは最初に説明してやったろ?」


「はい。覚えてますよ。……それじゃあトモハルさんは、どうしてこのプロジェクトに参加したんですか?」


 さっきまでは意識もしていなかった三月の風が、ひゅうひゅうと髪をなぶっていく。

 フェンスをつかんでいる指先が、じっとりと汗ばんでいくのがわかる。

 自分はいったい何をやっているんだろうと心の中で呆れつつ、それでも僕は言葉を重ねた。


「サクラさんのために、始めたことなんでしょう?」

 トモハルの顔色が変わった。


「サクラさんが困っているから、それを助けてあげたいと思ったんでしょう?」

 その指先が、ぎゅっと拳の形をつくる。


「それが、こんな結末で終わってしまってもいいんですか?」


 ぎらぎらと燃えるトモハルの目は、獲物を見つけた肉食獣のようにも見えたし、窮地に追いこまれた草食獣のようにも見えた。


「サクラさんのことが大事で、大切で、それで始めたことなのに、サクラさんを怒らせて、悲しませて……二人の関係を無茶苦茶にしてしまうような大失敗をやらかして、それで終わりにしてしまってもいいんですか?」


「うるさい! 黙れ!」


 トモハルは、両手で僕につかみかかってきた。

 もちろん想定の範囲内ではあったけれども――やっぱり、怖い。僕は指先がちぎれそうになるぐらいしっかりと金網をつかみながら、その恐怖に耐えた。


「お前なんかに何がわかる! サクラは、オレの……オレにとって、たったひとりの……」


「わかりませんよ。サクラさんの弟は、この世であなたひとりだけなんですから。あなたの気持ちや考えなんて、あなただけにしかわからないんです」


 こんな言葉でいいのだろうかと危ぶみつつ、僕には僕の言葉でしか語るすべはない。

 だから僕は、頭に浮かぶ言葉をそのままトモハルに叩きつけた。


「『五十嵐道』や『イツカイザー』なんて、誰でも代役が果たせるんです。だから、このプロジェクトを辞めたいんなら、辞めればいい。……だけど、サクラさんのたったひとりの弟である、という役目は、あなたにしか果たせないんですよ? だから、それを無茶苦茶にするような真似はやめてください」


「な……」


「このプロジェクトを続けることが苦痛でしかないなら、辞めてしまえばいいんです。もし、僕みたいな人間をサクラさんのそばに残して辞めるのは心配でしかたがないって言うんなら……僕も一緒に、辞めますから」


「ゼンくん?」


 悲鳴のような、サクラさんの声。

 だけど僕は、そちらを振り返らなかった。


「それぐらいの覚悟は、僕だって決めています。その上で、お願いしているんですよ。……その代わりに、辞めるのは今日のステージを終えてからにしてください」


 胸ぐらをつかんでいるトモハルの、切迫しきった顔を見つめながら、僕は静かにそう言った。


「ステージ上の配役なんて、いくらでも代わりがきくって言いましたけど。今日その役割を果たせるのは、僕たちだけなんです。僕と、あなたと、サクラさんと……カントクと、オノディさんと、ヤギさんと……あやめと、金子さんと、田代さんと、野々宮さん。この十人の誰が欠けても、今日の舞台を成功で終わらすことは不可能でしょう?」


「…………」


「僕やあなたは、今日で終わるのかもしれない。だけど、サクラさんたちにとっては、今日が始まりなんです。たった一度しかない初舞台を、大失敗で終わらせたくはないじゃないですか? 本当にサクラさんが大切なんだったら……このプロジェクトや自分の役割に思い入れなんてなくてもいいですから、せめて今日だけは、自分の役割をまっとうしてください。……大事な、サクラさんのために」


「…………」


「……僕だって、最初はサクラさんのためだけに始めたことだったんです」


 サクラさんのほうを見ないように気をつけながら、僕はそんなことまで言ってしまった。

 やっぱり、生命の瀬戸際が見え隠れしているこのシチュエーションに、僕もそこそこ平常心を失ってしまっていたのかもしれない。


「不純な動機だったなあと、自分でも思いますよ。……だけど、不純でもいいじゃないですか? 大切な相手のために頑張って、それで喜んでもらえるなら、本望でしょう?」


「…………」


「僕たちのために頑張れとは言いません。だけど、サクラさんのために頑張ってください。……恥をしのんで、頭を下げて、今日だけでも頑張ってみてくださいよ。サクラさんが大切にしているプロジェクトが原因で、サクラさんとトモハルさんの関係が破綻するなんて……そんなどうしようもない絶望感を、サクラさんに味わわせないであげてください」


「……サクラ!」


 トモハルが、ふいに叫んだ。

 その目は、僕を見ておらず――僕の頭上を、見すえていた。


 まさか、と僕は振り返り、

 そこに、サクラさんの姿を見た。


 まるで天使か妖精みたいに両腕をひろげながら、

 サクラさんが、僕たちの上に、舞い降りてきた。


「うわあっ!」


 僕とトモハルはそれぞれわめき声をあげながら、サクラさんのほっそりとした身体を抱きとめた。

 何て無茶をするのだろう。僕がフェンスをつかんでいなかったら、おそらくは三人まとめて二〇メートルの高みから墜落していたに違いない。


 サクラさんは、僕とトモハルの首もとに両腕を回しながら、さきほどまでのトモハルのように泣きじゃくっていた。


「ごめんなさい! 二人ともやめないで! ……私はみんなで、頑張っていきたいの!」


 ようやくそれだけの言葉を聞き取ることができた。

 熱い涙が、ぽたぽたと僕の胸もとにしみこんでいく。

 その背中を右腕でしっかりと支えてやりながら、僕はトモハルの困惑しきった顔を見つめた。


「僕だって、やめたくはありません。このメンバーで、ずっと頑張っていきたいんです」


「……だけど……」


「事情を話せば、みんなわかってくれますよ。……同じ目的のために頑張ってきた仲間じゃないですか?」


 熱血の素養などひとかけらもない僕にここまで言わせたのだから、いいかげんに納得してほしい。

 そんなことを思っていると、やがてトモハルはほとんど聞きとれないぐらいの小さな声でつぶやいた。


「……バカなんじゃないの、お前?」


 僕は苦笑して、サクラさんごとトモハルの身体を抱きすくめた。


「馬鹿なのはお互い様じゃないですか。……みんなのところに、戻りましょう」

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