青と水色
ふじ
第1話
母さんが、死んだ。
寒気がするほどの蒼穹が空に広がっていた、八月の日だった。
周りの木々から、場違いなほど煩くセミが鳴いていた。
母さんは、よく笑う人だった。よく怒る人だった。
母さんとは、何回喧嘩をしただろう。
桜が吹く白昼も、
へばりつくような暑さの熱帯夜も、
松虫が鳴く夕暮れも、
白い息を手に吹きかけた朝も。
あの日。
些細なこと——理由はもう何か覚えていないけれど——で喧嘩をしていた。
学校から帰ったら、母さんは天に背を向けていた。
「奥さんは冠状動脈が——であるからにして——」淡々と医者は続ける。
彼の話は全く頭に入ってこなかった。側に座っていた父さんも同じだろう。
「お悔やみを申し上げます」
なんと答えたらいいのかわからなくて、心にもないことを、と心の中で毒突きながら、椅子をクルクル回転させていた。
あんなにうるさかった母さんは、小さな小さな白いカタマリになった。
紙のように軽くて、ふうっと息を吹きかければ飛んでいきそうだった。
「先帰るから」
触れたら壊れてしまいそうな笑顔を貼りつけて、参列者にペコペコしていた父さんに告げる。
気を付けろよ、と魂のこもっていない声が聞こえた。
制服のまま自分のベッドに沈み込む。微かに汗の匂いがした。
犬のぬいぐるみを持ち上げて、抱きしめてみる。
白い天井が、いつまでも僕の視線を吸い込んでいった。
頭を空っぽにするべく視界のシャッターを閉じる。
ふと、頭の片隅に小さな思い出が爆ぜた。全身の毛が逆立った。
勢いをつけてベッドから飛び起き、家の鍵を持って外に出る。思い立ったが吉日。
——無性に行きたくなった場所へ。
ズボンが汗でへばりついても気にせず、一心不乱に自転車のペダルを漕ぎ続けた。カシャカシャと自転車の音が僕を包んだ。
駅を抜けて、
住宅街を抜けて、
遠くから波の音が聞こえた。
母さんは無性の海好きな人だった。
去年の夏。
せっかくの家族旅行だってのに、母さんは車窓から海ばかり見つめていた。
「海の何が楽しいんよ」確か、こんなことを聞いたような気がする。
「吸い込まれそうで、宇宙みたい」母さんは答えた。これはしっかりと覚えていた。
イミワカンネ、と呟いて僕は手に持っていたスマホに目を移した。
サクサクと砂浜を進む。一定のリズムで、波が音を立てる。
「おひさ」ふと、後ろから声がした。
中学の頃の友人のマサだった。
「四年ぐらいやん」僕はおどけて答える。
「元気——じゃないよな」マサは砂を見ながら言った。
それよりさ、とマサは言って「なんか変わったことあった?」と聞いてきた。
「多々良にも遂に彼女できてな——」
僕らは四年分話し合った。
よくある青春小説みたいに、「お前と会えてよかった」などと涙を流すわけではなく、ただ手で扇いだら飛ぶような、軽い馬鹿らしい話ばかりだった。
それがなによりも楽しかった。
マサは最後に、前向いて生きろよ、と笑って僕の肩に手を置いた。
くさいわ、と僕も笑った。
ぽとり、と足元に鬼灯が一つ落ちた。
マサはもういなかった。
僕の足元に襲い掛かるように、白波がやってきて、そして後ろ髪を引かれるように帰って行く。
「尚ちゃん」後ろで、優しい声で僕を呼ぶ声がした。
ばあちゃん、と呟いて自然と笑みがこぼれる。
「大きくなったね」彼女は何度もその言葉を繰り返した。
「ばあちゃんは全然変わらんね」小さく笑みをこぼして、僕は言った。
「なあ、ばーちゃん」と問うと彼女はどーしたの?と首を傾げた。
「人はさ、なんで死ぬんやろうな」僕はずっと水平線を見つめていた。
「皆僕のそばから離れていく」
そーやな、と彼女は呟いた。
「まだ死んどらんのとちゃうか」
どーゆーことなん、と笑って僕は答える。
ばあちゃんは大きく欠伸をして、ゆっくりと口を開いた。
「死んだ人でも、誰かに覚えられとるなら、その人の中で生きとるようなもんや」
そのために生きとるようなもんやろ、と言って彼女は顔をしわくちゃにして笑って見せた。
強い風が吹いて木々が揺れたのは、ちょうど彼女が言葉を発した時だった。
おかげで、ほとんど聞き取れなかった。
「じゃあ、もう行くわな」
そう言って、彼女は僕の手を握った。
「死ぬんはゴールとちゃうで」優しくて暖かい声が、今度ははっきりと聞こえた。
須臾の後、鬼灯がまた一つ足元に落ちた。
波は一生懸命同じリズムを刻んでいる。
眩しいオレンジの光が、空を焦がしていた。
僕は足元にあった貝殻を徐に拾って、海に投げた。
ぽちゃん、と情けない音がした。
あちこちで何かが燃える匂いがした。
————————————————————
今日は、母さんの一周忌の日だ。
今でも鮮明に覚えている、去年の今日。
涙を必死に隠すように自転車を漕いで向かった海。
そしてまた、僕も海にいる。
いつきても変わらない波のリズム。
僕は砂浜に腰を下ろして、目の前に広がる青い絨毯を見ていた。
突然、海原に波紋がひろがった、気がした。
刹那、後ろから声がした。
十六年間、ずっと聞いていた声。
疎ましくて、腹立たしかった声。
どこか暖かくて、楽しそうな声。
母さん。
大丈夫だった?と、母さんは嬉しそうに言った。
「そっちこそ、寂しかったんとちゃうん」僕は弾むように言葉を紡いだ。
「おばあちゃんも、マサユキ君も居たし、あんたらと居るより楽しかったわ」
そよ風が吹いた。僕の背中を押すように。
今日は送り盆、空は快晴。
持ってきちゃった、と鬼灯を見せびらかして、母さんは笑った。
青と水色 ふじ @Jun18999345
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます