四辻町四丁目の朱雀庵 第8話 付喪神(下)
◆◇◆◇◆
3
つぐ美が目を覚ましたのは、カーテンから差し込む日差しが、まだ朝焼けの白さを残し、窓に張り付く霜が水滴となって、冬の匂いが充満している時間だった。
つぐ美が目覚ましより先に起きたのは、入社して間もない時期だったため、およそ一年と少しぐらい前まで遡る。当時は入社一年目なこともあり、わざと時計の針を三十分進めて遅刻しないようにしていたが、会社にも慣れ始めた二年目に針を戻して、スマホのアラームを遅刻防止対策としてセットした。週末の金曜日に宅飲みして、酔いつぶれた土曜日の早朝に起きる事はあるが、平日にすっきりと起きられたことにつぐ美自身が驚いて、ベッドの温もりを肌で感じながら何度か寝返りをした後に、ゆっくりとテーブルに置いている
初老の男は、物には魂が宿ると言う。
それから、憑かれやすい、と。
それを、つぐ美は、疲れやすと誤認した。
確かに、つぐ美は疲れていた。
高速バスに長時間揺られて、次の日は久しぶりの会社。機械のように働いて、機械のように食事を摂り、遅刻するなと言われる方に無理がある。
そう言えばと、つぐ美は思い出す。
朱雀庵から出て、遅い時間の各駅停車に乗って、手持ち無沙汰からスマホをいじった時に、スマホのアイコンの並びがおかしくなっていて、幾つかのアプリがアンインストールと、入れた覚えのないアプリが入っていたことに。
「まさかね」と、つぐ美は、三足香炉の粗雑な染付磁気を撫でて、テレビに反射する自分の姿を見て、慌てて部屋着を脱いで浴室でシャワーを浴びたのだった。
浴室から出ると、頭にバスタオルを巻いたつぐ美は、普段からまともな朝食を食べないせいで冷蔵庫の奥にある買い置きをしていた朝食ゼリーを口に咥えながら、テレビで朝のニュースを見る。ちょうど星座占いが終わったところで、つぐ美は化粧道具を手繰り寄せて乳液を顔に馴染ませた後にファンデーションを塗っていく。化粧を終えたつぐ美は、まるで祖母に挨拶をするみたいに染付磁器の三足香炉に「行ってきます」と声をかけて、玄関から出て行ったのだった。
つぐ美が三階の事務所に入出すると、ぽつぽつと社員の姿が見えるが、そこに主任の姿はなかった。パソコンの電源を点けて年末調整の書類を机に広げる頃に、入り口のドアが開閉すると、同じ部署の社員がつぐ美の顔を見てぎょっとする。
「……今日は早いじゃない、笹本さん」
「おはようございます、主任」
「雨とか降らなければいいけど」
つぐ美が出社して、少し時間を置いて出社した主任がつぐ美の顔を見ると、他の社員同様にぎょっとするが、それは一瞬の出来事で、主任は毅然とした物腰で自分の席について仕事の準備に取り掛かる。そうこうしているうちに始業の鐘が鳴り、有線から静かなクラシックが流れる。
つぐ美は始業前から、昨日処理をした年末調整書類の再確認作業を行い、保険料控除の計算にミスがないか確かめてから、通常業務の給与処理を行う。いつもは嫌で手を抜いてしまう仕事も、今日は気分が良くて身体が軽い。もしかしなくても、これは染付磁器の三足香炉のお陰なのかもしれないと、つぐ美が業務を進めるうちに主任に肩を叩かれた。
「
「え?」
「いま、何時だと思ってるの?」
「十四時……二十分、です」
「わかったなら早く行きなさい」
「す、すみません……」と、主任に謝ってから、つぐ美はカバンを肩に提げて会社から出ていく。お昼をだいぶ過ぎた時間、都会のため交通量は多いものの、行き交う人はまばらで、目的もなくつぐ美は駅に向かう。
———ぽつ。
雲間から、糸のように細い小雨が頬に触れて、つぐ美が空を見上げると、西の方から雨雲が流れて、ゆっくりとつぐ美が歩いている空を覆い尽くす。やがて、歩道の窪みに幾つもの水たまりを作って、つぐ美は屋内へと走り出した。
「いらっしゃいませ」
「……あ、あの、ここは?」
「お客様、このままだと風邪を引いてしまいます。すこしお待ちください」
「え? あ、……あの」つぐ美が戸惑っている間に、店員は店の奥からハンドタオルを取り出して、皺を作らないようにして雨で濡れたつぐ美の服を拭いていく。
「あぁ、これだと皺になりますね」
「あ、あの、もう結構ですから。助かりました」
「いえ」
「それで、こちらは……すみません、看板も見ずに入ってしまって」
「かまいませんよ。ここは、喫茶アリス。すこし珈琲とランチセットに力を入れている喫茶店です」
「よかったぁ……いかがわしいお店だとどうしようって」
「え? あ、あぁ。あはは、ですよね」
駅前に向かう路地を一つ間違えて、つぐ美は普段歩かない歓楽街を抜けた先の、黒を基調としたクラシックなデザインのお店に入店したのだった。
「うちは立地条件が悪くて、やっぱりそっち系のお客さんが多いですね。ここで待ち合わせして、そのままホテルに直行したりしますよ」
「あぁ、そうなんですね……」
「それで、何にします?」
「あ、えっと……、じゃぁ、ウィンナーコーヒーと、ハムサンドを一つ」
「セットの方が安いですよ」
「じゃぁ、セットで」
「ちょっと待ってくださいね」
つぐ美はカウンターに座ると、他に誰もいないのか女性店員が珈琲を作り始める。珈琲豆をコーヒーミルの中に入れて、ハンドルを回して珈琲粉にすると、店内に珈琲が持つ芳醇な匂いが広がり、つぐ美は思わず「いい匂い」と呟いた。
女性店員は
「おまちどおさま。ウィンナーコーヒーとハムサンドのセットになります」
「ありがとうございます」
つぐ美が冷えた身体で珈琲を一口飲むと、芳醇で、それでいて濃厚な苦みが口の中に広がり、唇に付いた生クリームを食べると、珈琲の苦みに調和して、二つの味が溶け合う。
「おいしい……」
「よかった。そのまま生クリームを全部溶かして味を変えてもおいしいですよ」
「私、スタバとかタリーズとかでしか珈琲飲んだことなかったけど、ここの珈琲も同じぐらいおいしいです」
「そう言ってもらえると嬉しいです」美沙は、にっと微笑む。
半分ぐらい飲んでから、つぐ美は生クリームをすべて溶かして味を変える。苦みと甘みが口の中に広がって、つぐ美は余韻に浸る。
「笹本さんは、よく珈琲を飲まれるんですか?」
「つぐ美でいいですよ」
「じゃぁ、わたしも美沙で。それで、つぐ美さんはよく珈琲を飲むの?」
「そうね」いつの間にか、つぐ美は学生時代から就職するまでの身の上話を話し始めると、ファミレスのドリンクバーで自分だけのフレーバーを作ったことに、美沙は共感して相槌を打つ。その相槌の取り方も、普段から接客業をしているせいか、間の取り方がとてもうまく、つぐ美は美沙のペースで話し続けた。まるで、昔からの友人のように二人は話に花を咲かせて夢中になる。
ふと、美沙がつぐ美から視線を逸らした。
「時間、大丈夫?」
「え?」
「さっき、仕事のお昼休憩だって言ってたから」
「あ、いけない。もうこんな時間」
慌ててつぐ美が窓の外を見つめると、糸のように細い小雨が、いつの間にか窓を叩いて、分厚い雨雲に覆われて、空が陽射しを隠して鉛色をしている。
「どうしよう……傘、持ってきてないのに」
「よかったら、これを使う?」
「でも」
「いいの、いいの。傘なんて何本もあるから。それに、次、来てくれた時に返してくれればいいから」
つぐ美は、美沙から置き傘を受け取る。
「あ、お会計」
「ウィンナーコーヒーとハムサンドのセットで六百八十円になるわ」
「千円札でもいい?」
「いいよ。はい、三百二十円のおつり」
「ありがとう。珈琲もハムサンドもおいしかったわ」
「よかったら、また来てね」
「うん。今度は、傘返しに来るわ」
4
染付磁器の三足香炉でお香を焚いて眠ると、つぐ美はぐっすりと眠ることができた。朝の目覚めを気持ちいいと感じたのは随分と久しぶりで、もしかすると学生時代の、部活に打ち込んでいた時以来なのではと、つぐ美は振り返る。朝起きて、朝食を食べて、化粧をして出勤をする。ただ、それだけのことなのに、つぐ美が見る世界が反転して、小さな幸せを呼び込む。街頭アンケートに答えて五百円の商品券をもらったり、限定スイーツのラスト一個を買うことができたり、仕事でのミスが減った。
「へぇ~、そんなことがあったんだ」
「そうなのよ。この前も仕事でミスがなくなって主任に褒めてもらったの」
「よかったじゃない」
「ありがと」つぐ美は、喫茶アリスのカウンターでウィンナーコーヒーを飲む。喫茶アリスにつぐ美は足繫く通い、女店長である美沙との交友を深め、まるで昔からの友達のように、美沙も年の近いつぐ美を受け入れる。
「つぐ美の笑顔を見ると、なんだかこっちまで幸せな気分になるわ」
「それは、美沙が煎れてくれる珈琲がおいしいからよ」
「そう言うとこなんだけどね」美沙はにっと微笑む。
「ところで美沙は、どうやってこんなにもおいしい珈琲を煎れることができるの?」
「え?」
「だって、気になるじゃない」
「やっぱり、お客様のことを思って煎れているからじゃない?」
「そう言う、目に見えない不確かなことじゃなくて、もっと、こう技術的な」
「そうね……おじいちゃんが作ってくれたコーヒーゼリーがおいしかった、かもしれないわね。子供の頃は、珈琲なんて苦くて飲めなかったけど、ミルクをたっぷり入れたコーヒーゼリーがとても美味しくて、なによりコーヒーミルで砕いた珈琲粉の深みのある香ばしい匂いが好きだったから」
「そうなんだ。てっきり、スタバとかでバイトしてたのかと思ってた」
「ないない」美沙は、にっと微笑む。「最初に言ったかと思うけど、私は絵本作家になりたかったから、それ以外のことは目に見えなかったのよ」
「いまは……」
「え?」
「ううん、なんでもない」
「もう、なに? 言ってよ。気になるじゃない」
「いまは、……絵本作家に,なりたいって、思わないの?」
ウィンナーコーヒーを一口飲んで、つぐ美は呟く。幾ら仲が良くなったからと言っても、他人には踏み込んで欲しくない、心の領域がある。学生時代、つぐ美はテニス部に所属していた。少年漫画の王子様に憧れて、ラケットを振ることに青春時代を捧げて、田舎ではそこそこ名のある選手になったけど、膝を故障したまま高校三年生の最後の大会に出場して、選手生命を絶った。仲の良かった同級生や後輩からは距離を置かれて、いまは、もうテニスをしていない。
「物を作るのってね、本当に難しいことなのよ」
「———え?」
「いまはインターネットが普及して、誰でも日記とかブログとかを書くことができるし、小説だってインターネット上で公開することができる。でも、どのジャンルにも年齢層があるの。絵本を読む年齢層って何歳ぐらいだと思う?」
「……五歳、ぐらい?」
「そう、まだ平仮名を書けるか書けないぐらいの子供を相手に、泣いたり笑ったりしてもらう作品を作らなくちゃいけないの。それを、私は作れなかった」
「ごめんなさい……」
「もう、そんなに落ち込まないでよ、せっかくの珈琲が冷めるでしょ? それに、……私には才能がなかっただけなんだから」
「そんなことないわよ」
「つぐ美?」
「だって、こんなに美味しい珈琲を煎れることができるじゃない?」
「あのね、つぐ美。確かに私は絵本作家にはなれなかったけど、絵本そのものを嫌ってはいないの。いつか、この喫茶店の名前を童話の森アリスに変えて、たくさんの絵本を読める喫茶店にするのが、いまの私の夢」
ウィンナーコーヒーの生クリームが、珈琲に溶けるのを眺めていたつぐ美は、視線を上げて美沙を見る。美沙は少し頬を染めて、にっと微笑みながら恥ずかしさを誤魔化していた。
マンションの部屋に戻ったつぐ美は、テレビを見ながら夕飯を食べ終えて、浴室でお風呂に浸かる。絵本作家になれなかった美沙は、はっきりと自分の夢を見通し、それも絵本に関わる、大きくて素晴らしい夢だった。つぐ美は膝を故障してラケットを握るのを止めたが、テニスに関わる仕事に就きたいとは思わなかった。大学に進学して、就職して、仕事のストレスを、お酒を飲んだり食べる事で発散する毎日を送るので、精一杯だった。
お風呂から出て、バスタオルを頭に巻いたつぐ美は、染付磁器の三足香炉で、桃の香りがするお香を焚いて、ベッドに横たわる。明かりを消して、瞳を閉じて深い眠りに誘われると意識を失い、祖母の夢を見た。つぐ美の両親が仕事で家を空けて、祖母は保育園から帰ってきたつぐ美の相手をする。絵本を読み聞かせ、お手玉やおはじきと言った古い遊びを教えて、商店街の駄菓子屋でお菓子を買い与え、まだ小さいつぐ美が喜ぶのが、何よりの幸せだった。
目覚ましが鳴るよりも早い、まだ朝露が草木から零れ落ちる時間に、つぐ美は目を覚まして、頬を伝う涙を拭い取ったのだ。
「そっか、お前、おばあちゃんに逢いたいんだね……」
粗雑な染付磁器の、コバルトの顔料を手の平で確かめて、つぐ美は染付磁器の三足香炉の気持ちが、指先から流れ込むのを感じ取る。染付磁器の三足香炉が、祖母の夢をつぐ美に見せたのだった。
その日も、つぐ美は早い時間に会社へ出社して、ぽつぽつと社員が集まる時間に年末調整書類の再確認を行う。
「あら、今日も早いのね笹本さん」
「おはようございます、主任」
つぐ美は、主任の側へと歩み寄る。
「どうしたの、笹本さん?」
「主任、……私、仕事を辞めようと思うんです」
「え? なに、ちょっと待って」
主任は慌ててつぐ美の手を取ると、観葉植物とセパレートで入り口を隠している来客ブースへと連れ込む。
「どうしたの、急に?」
「ずっと前から考えていたんです。私はこの会社に必要ないんじゃないかって」
「そんなことないわよっ! 誰かに言われたの? それに、最近のあなた、すごく頑張ってるじゃない?」
「主任……」
「笹本さんがいなくなると、在職している同期が誰もいなくなるじゃない」
「まだ橋本さんや川島さんがいますよ」
「それって営業職のでしょ?」つぐ美の告白に困惑して、主任は口を閉ざす。「……どうしても、辞めるの?」
「はい……」
「退職するなら一か月前に報告が義務なのは知っているわよね。せめて、給与支払報告書を各市区町村に提出してからにしなさい」
「……わかりました」
朝礼の鐘が鳴り終わり、主任と一緒に来客ブースを出たつぐ美を、他の同僚や後輩が、また仕事でミスをしたのだと勘違いして、クスクスと笑ったのだった。
給与処理と並行して、年末調整書類の再確認を進めていたつぐ美は、お昼休憩に喫茶アリスに立ち寄る。黒を基調としたクラシックな建物は閑散として、扉を開けると暖かな空気に交じって、芳醇で香ばしい珈琲粉の匂いが漂う。
「いらっしゃい。今日も寒いわね」
「えぇ……」カウンターの、いつもの席に座ったつぐ美は、ウィンナーコーヒーとハムサンドのセットを注文する。
「何かあったの?」
「……え?」
「つぐ美から、いつもの笑顔がなくなってるから」
「会社、辞めるって、上司に言ってきちゃった」
「そう……それで、これからどうするの?」
「わからない……田舎に帰って考えようと思う」
「……それって、昨日の私が原因?」
「違うわっ! ……違うのよ、ちょっと、疲れちゃって……」つぐ美の瞳から涙が溢れてくる。会社を退職することに未練なんてなく、嫌な思い出の方が先に頭に浮かび上がる。同僚や後輩から煙たがられているのをつぐ美は知っているし、自分がいなくても会社は回るのだと、何人もの社員の辞める背中を見届けてきた、つぐ美には理解できる。私の番が来ただけ、なのだと。
「そう、……寂しくなるわね」
「そうね」
「……せっかくできたお得意様なのにね」
「ごめんなさい」
「つぐ美が考えて決めたことなんだから、謝らなくてもいいわよ。はい、ウィンナーコーヒーとハムサンドのセットよ」
「美味しい……」珈琲の芳醇で濃厚な苦みと、生クリームの甘さが口の中に広がり、つぐ美は涙を拭ったのだった。
5
年末調整の再確認が終わり、給与支払報告書を各市区町村に提出して、つぐ美は退職届を主任に提出して退職した。同僚や後輩はお昼休憩に、厄介者が退職することを話題に話の花を咲かせ、主任だけがつぐ美を案じていた。
つぐ美が実家のマンションに帰省すると、つぐ美が退職したことに両親は驚きを隠せずにいたが、つぐ美はその足で、四辻町に向かった。西の空は夕闇に覆われて、ぽつぽつと等間隔に電灯が点いて、つぐ美は薄暗い商店街の中を歩く。蟹座のタイルを目印に横切ると、シャッター通りの中央に、ぽつりと二階建ての平屋。
切り株看板には大きく朱雀庵とある。
「いらっしゃい」
「お久しぶりです」
「お前さん、もう、ここには来るなと言ったはずだが」
「朱雀庵はなんでも願いを叶えてくれるんですよねっ! お願いしますっ! どうか、この子におばあちゃん、祖母に逢わせて下さい」
「……お前さん、そう言うことは、俺じゃなく
「たまお、さん?」
眉間に皺を寄せた初老の男は、首だけを振ってつぐ美をレジカウンターの奥へと案内すると、奥の間から廊下を歩いていたつぐ美は、真黒な空間に出た。
天井から吊るした幾つもの行灯が仄かにゆらぎ、散りばめられた橙の小さな炎が夜空に輝く星を連想させる。
つぐ美が見惚れていると、目の前に少女が二人。
一人は白い着物姿におかっぱ頭の女の子。
一人は黒いゴスロリドレスに身を包んだ金髪の女の子。
二人の少女は対照的な姿をして橙の炎に溶け込みながら、そのガラス細工のように無機質な瞳でつぐ美を捉える。
「お待ちしておりました」
「笹本つぐ美様」
「私の名前……」
「私は魂緒と申します」
「私はアセルスと申します」
二人の少女、ゆっくりとつぐ美に近づく。
「あなたが魂緒さん?」
「あなたは選ばれたのです」
「この朱雀庵に」
「私が選ばれた……」
「はい」すぅ、と魂緒が小さな手の平に息を吹きかけると、七色をした蝶々が幾重にも羽ばたく。蝶々は螺旋を描きながら、その羽につぐ美の過去を映し出す。
まだ生きていた祖母との記憶。テニスの県大会で膝を故障した記憶。都会の中小企業に内定を貰った記憶。染付磁器の三足香炉と再び出会った記憶。五年間勤めていた会社を退職した記憶。
「
「三足香炉に愛された娘」
「あなたは、どんな願いでも叶えてくれるのよね。だったら、この子を! この染付磁器の三足香炉をっ! もう一度、おばあちゃんに逢わせてあげてっ!」
「それがあなたの願い?」
「はい」と、つぐ美は答える。
「これは照魔鏡と言う真実を映し出す鏡です」
金色の淵に覆われた鏡を魂緒が両手に持つ。
鏡がつぐ美を捉えた瞬間、つぐ美の意識は遠のく。
「さぁ、真実を―――」
「改変するのです」
「え、なに……?」つぐ美が瞼を開けると、頭に針を刺したような痛みが広がり、その痛みがゆっくりと治まる頃に、ぼんやりとした意識の中で、つぐ美は辺りを見回すが、まるで見覚えのない場所につぐ美は座り込んでいた。
「ここは、四辻町の商店街……?」
息を整えて、商店街に吹き込む潮風をつぐ美は吸い込む。
見覚えのある切り株看板の建物を見つけて、つぐ美はガラス戸をスライドする。
『初音さんは、いつ隣町に行くんや?』
『どうしたの、急に?』
『隣町の庄屋の息子は評判がいい。きっと、初音さんを幸せにするわ』
『縁談の話……陽ちゃんは知ってたの?』
『親父とお袋が話しているのを、夜中に聞いたからな』
『そっか……寂しくなるね』
『阿保抜かせっ! めでたいことやないか』
『陽ちゃん……』
『ほうじゃ。わしはまだ子供でお金がないけん、たいそうな祝儀を送ることはできんけど、なんじゃ、この中で欲しいもんはないか?』
『そんな無理せんでええよ』
『無理なもんか! 親父に言って出世払いするから平気やっ!』
『ほうけ? やったら、……うち、この子がええなぁ』
『そんなんでええんか?』
『この模様が、星空みたいできれいやから』
そして、場面が変わる。
婚姻を済ませて、長屋で新婚生活を送る祖母。少しして母親が生まれるも、母親が小学校に入学してしばらくして、結核を患い祖父が他界する。河北市に移り住み慎ましい生活を送りながら、母親の成長を見届ける祖母。母親が父親と婚姻して、やがてつぐ美が生まれる。
つぐ美は、
そう、あの日、大みそかの前日に帰省して、大掃除を手伝っていたつぐ美に、母親が見せてくれた祖母のアルバム。指でアルバムの頁を捲る様に、つぐ美は写真の中の出来事を見ている。
『おばあちゃんただいまぁ~』
『おかえりなさい、つぐ美』
『今日ね、保育園でね、おばあちゃんの似顔絵描いたんじょ』
『まぁ、つぐ美は絵が上手ねぇ』
優しく頭を撫でてくれる祖母。
両親が共働きで家にはいないが、祖母が遊んでくれるため、つぐ美は寂しいと思ったことはなかった。祖母はつぐ美が知らない遊びを教えてくれるし、夜になると一緒に眠ってくれる。そんなある日、つぐ美は祖母の部屋の押し入れで、染付磁器の三足香炉を見つける。
『おばあちゃん、これなに?』
『これはね、おばあちゃんがとっても、とっても大事にしている宝物なの』
『たからもの?』
『そうよ』祖母は、まだ幼いつぐ美を膝に乗せて、桐箱の上蓋を開けて、丁寧に包装紙を剥がすと、染付磁器の三足香炉を取り出す。
『きれいなおほしさま』
『この鳥さんの蓋を開けて、香木を中に入れるんよ』
『いいなぁ、つぐ美もほしいなぁ』
『ほやね、つぐ美がおっきくなって、お嫁さんになったらあげるね』
『ほんとに?』
『えぇ、おばあちゃんが嘘吐いたことある?』
『おばあちゃんだいすき~』
つぐ美は忘れていた記憶を垣間見て、涙を流した。
どうして、こんなにも、大事なことを忘れていたのか。
「どうでしたか?」
「これが、あなたの望んだ記憶の改変です」
「私、……思い出したの」
朱雀庵で意識を失ったつぐ美が目覚めると、紙袋の中の桐箱を取り出して、染付磁器の三足香炉を膝に抱えながら、ゆっくりと手の平でコバルトの顔料を撫でる。
「てっきり、この子がおばあちゃんに逢いたいんだって思ってたけど、違ったのね。寂しかったんだよね、ごめんなさい……いままで忘れてしまって」
「物には魂が宿ります」
「蝶や虫、草に花」
「大切に使った物は特に」
「
「付喪神……?」
染付磁器の三足香炉を抱きかかえながら、つぐ美は二人の少女を見上げる。
「お帰りはあちらです」
「さようなら、笹本つぐ美様」
つぐ美の目の前で、二人の少女が歪に嗤った気がした。
すると、さっきまで行灯の橙の光が散りばめられた黒い空間ではなく、つぐ美は商店街のシャッター通りで立ち尽くしていた。
朱雀庵はどこにもない。
「夢……ううん、違う。確かに、ここにあったのね」
夕闇に覆われて、物音が何一つしない商店街で、つぐ美は立ち上がると染付磁器の三足香炉を胸に抱えたまま帰路に立つ。河北市に戻ると両親は心配していたが、もう大丈夫と、つぐ美は一言だけ言って両親を安心させた。しばらく河北市で生活してから、マンションの部屋を解約するために都会に戻ったつぐ美は、その足で久しぶりに喫茶アリスに立ち寄った。玄関ドアには求人応募のチラシが貼ってある。
「あら、久しぶりね」
「えぇ、久しぶり。ウィンナーコーヒーとハムサンドのセットを注文してもいい?」
「いま用意するわ」
美沙が袋から珈琲豆を取り出して、コーヒーミルで砕いて珈琲粉にすると、芳醇で深みのある、懐かしい匂いが店内に広がる。
「なんだか、吹っ切れた顔をしているわね。何かいいことがあったの?」
「美沙だって」
「つぐ美がいない間に、いろんな出版社に声をかけて、何度も断られたんだけど、一社だけ絵本を置いていいって、スポンサーになってくれたの」
「そう言うのって、自分で用意するのかと思ってた」
「もちろん、そうなんだけど、改装工事とかいろいろと経費が掛かって、この店の半分も、絵本が置けないのよ」
「美沙、なんだか楽しそう」
「私の夢だったから」美沙はにっと微笑む。「ねぇ、つぐ美」
「なに?」
「いま、手伝ってくれる人を探しているの」
「うん」
「女性で、人事ができる人がいいわ」
「うん」
「最初はアルバイトで週三日から」
「うん」
「落ち着いたら正社員に切り替えして」
「うん」
「ねぇ、つぐ美。私を手伝ってくれない?」
「いいわよ」つぐ美は返事をしたのだった。
四辻町四丁目の朱雀庵 くおん @kisaragi_kuon
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