四辻町四丁目の朱雀庵 第7話 付喪神(上)

               ◆◇◆◇◆


                 1


 大型ショッピングモールが立ち並ぶ那賀川市の、玄関口とも呼べる那賀川駅はL字型をした、河北市と四辻町を結ぶ中間区の駅である。普通列車の他、準急快速が一時間ごとに停車し、また他の駅と違うところは駅を降りて直ぐに高速バスの停留所を兼用していることだろう。

 乗客がほとんどいない車両の四人掛けの座席を占領して、笹本ささもとつぐ美はワイヤレスイヤフォンを耳に付けて流行りの音楽を聞く。反対側のドアに部活帰りの学生が雑談しているのが微かに聞こえて、冷え切った窓から田園地帯を眺めながら、隣の座席に置いた紙袋が落ちないように手繰り寄せる。

 しばらくして登り車両が駅に着く。乗客を入れ替えて登り車両が動き出すのを見送ると、つぐ美が乗っている車両もゆっくりと動き出した。



 都会の中小企業に勤めていた笹本つぐ美は冬期休暇を利用して、大みそかの前日に田舎である河北市に帰省することにした。特に理由はないと言うと嘘になるが、仕事ではケアレスミスが積み重なり上司に呆れられ、女性社員が給湯室で陰口を叩いているのを偶然聞いてしまって、落ち込んでいたつぐ美は数年ぶりに両親の顔を見るために帰省する事を決めた。高速バスで二時間弱の道のりで河北市に着くはずが、途中の渋滞でお昼をだいぶ過ぎていた。

バスの乗車口から降りたつぐ美はスマホの地図アプリを開いて、うろ覚えに歩く。頬を撫でる空気はひんやりと冷たく、森や川を切り開いて発展する都会とは違い、まるで時間が止まったみたいに河北市は何も変わっていない。

 ほとんど開いていない商店街を抜けて、踏切を渡って、裏通りを歩いて見覚えのあるマンションに向かう。マンションの外階段を上り、不用心にも鍵の掛かっていない玄関を開けると、段ボールの山に両親の背中が見えた。

「ただいま」

「きゃっ! びっくりした……つぐ美じゃない。お父さんっ! つぐ美、つぐ美が帰ってきたわよ」

「あ? あぁ。そんな大声を出さなくても聞こえている」

「どうしたの?」

「……ちょっとね」

「もう、帰って来るなら帰って来るって言ってよ。何もないわよ」

「いいよ」つぐ美は玄関で靴を脱ぐ。「何してるの?」

「何って、大掃除に決まってるじゃない」

「二人とも年なんだから、私も手伝うよ」狭い廊下を歩いて、拭き掃除をしている父親を横目に通り過ぎようとした時に「元気にやってるのか?」と、しわくちゃな声が聞こえて、つぐ美は返事をした。数年ぶりに帰ってきたつぐ美は窓の開け放たれた自分の部屋でコートを脱いで荷物を置くと、母親が掃除をしている仏間で祖母の位牌に両手を合わせた後、いるものを段ボールに詰めて、いらないものは可燃物に出すからとビニールテープで一まとめにする。

「お母ちゃん、これは?」

「それはいらないから可燃物に出して」

「は~い」

 夕方になる頃には大掃除もあらかた終わり、つぐ美が仏間の引き出しの奥で小さな桐の箱を見つける。片手で手繰り寄せて両手で持つとずっしりと重たく、中を開けて包装紙を一枚一枚丁寧に広げていくと、染付磁器そめつきじき三足香炉さんそくこうろが入っていた。

「あら、懐かしいわね。どこにあったの?」

「え? あ、引き出しの奥」

「そう」と、母親は畳の上に置いた染付磁器の三足香炉を優しく触りながら昔の記憶を追懐ついかいしているのだろう、優しい表情でつぐ美を見る。

「これはね、おばあちゃんの嫁入り道具なのよ。とても大切に使っていたのね、すこし埃が被ってるけど傷が全然ないわ」

「そうなの?」と、つぐ美は傾げる。

 嫁入り道具と言えば、普通は箪笥や三面鏡と言った化粧道具だと思うが、そんなつぐ美の表情を読み取ったのか、母親はせっかく片付けた段ボールの山から祖母の遺品が入っている段ボールの封を切って、中から一冊のアルバムを取り出した。縁が黒ずんで傷んでいるアルバムのページをめくると、モノクロ写真だったり、セピア色に色褪せた写真、他にも色彩の悪い写真が幾つも飾ってある。

「この女の子、お母ちゃん?」

「そうよ」

「じゃぁ、こっちがおばあちゃん?」

「えぇ」と、母親が頷く。

「いつだったかしらね、私が……そう、確か小学校に上がる前だったかしら、確か一月の三が日だったわね。裸の街路樹に、風が冷たくて、お母ちゃんとお父ちゃんに連れられてお正月の初詣で津野山に登ったのよ」

「お母ちゃん、結構可愛いじゃん」

「そんなことないわよ」と、母親は微笑む。アルバムのページを捲って、これは運動会の時の写真、これは学芸会の時の写真、成人式、父親との結婚式の時の写真を眺めて、また最初の頃のモノクロ写真でつぐ美は祖母の姿を見る。モンペにエプロン姿でまだ幼い母親を背中におんぶしてあやしてる祖母。他にも、祖父との婚礼の写真、長屋で生活している写真、そこに光の加減でぼやけてはいるが染付磁器の三足香炉も映っている。

「ねぇ、これ、私が貰ったらダメ?」

「ダメじゃないけど。どうしたの?」

「……なんとなく、おばあちゃんのこと知りたくなったって言うか」

「いいわよ」

「ほんと?」

「えぇ? 私が使うよりあんたが使う方がいいでしょ? それに、あんたが生まれた時にお母ちゃん言ってたのよ。あんたが大人になって結婚した時に、この香炉をあんたに譲るって。気の長い話やねって笑い合ってたのね」

「お母ちゃん……」

「それで、つぐ美。あんた、良い人はいないんけ?」

「………………」

 年甲斐もなく瞳を輝かせて母親はつぐ美を見つめる。

 この言葉が嫌で、つぐ美は数年もの間、帰省しなかったのだ。



 翌日の大晦日に、つぐ美は各駅停車に乗って四辻町へと向かった。南に下るほど乗り換えの乗客は少なく、またどちらかと言えば無人駅の方が多いど田舎だか、四辻町は海と山に囲まれている港町だと言うには珍しく有人改札口の駅だった。つぐ美は駅員に切符を渡して朱雀庵の場所を聞く。駅員は一度、目をぱちくりとした後に商店街の場所を指さしてなまりの強い口調で場所を教えてくれた。

 軽く会釈をしてつぐ美が駅を出ると、その脇にタクシーが止まっているが、駅員の話だと商店街まで数分とかからないらしい。大通りを出て総合病院を右に歩くと、商店街の入口が遠くに見える。商店街のアーケードを目指してつぐ美は歩く。都会の交通量には劣るが、お正月はどこもお店を締め切るためか頻繁に車が通り、薬局屋の前の歩道でお年寄りが手押し車を突いて歩いていた。

 つぐ美が商店街の中に入ると、冷たい風が頬を撫でる。

「確か蟹の絵を横切ったシャッター通りって言っていたわね」

 きょろきょろと辺りを見回すが蟹の絵なんてどこにも見当たらず、それに大みそかのためか、どこもシャッターが閉まっている。狸にでも化かされたのではと、つぐ美は落ち着かない足取りで歩いて行くと、羊をデフォルメした可愛らしいタイルを見つける。同じように牛をデフォルメしたタイル、子供用レトルトカレーのマスコットキャラクターみたいな双子のタイルの上を歩く。

「じゃぁ、次が蟹のタイルかな」

 生き物をデフォルメしたタイルが黄道十二星座を模しているのではと気付いたつぐ美は、少し楽しくなりながら蟹座のタイルを目印に横切る。

 ふと、前触れもなく鳥肌が立った。

 何かの足音が聞こえるような、ヒソヒソと話し声が聞こえるような、幾つもの視線を背中に感じる。商店街のシャッター通りを潮臭く嫌に生暖かい風が吹き抜けて、まるで何者かがつぐ美という部外者を拒んでいるにもかかわらず、そのくせ別の何者かにおいで、おいでと手招かれているみたいに奇妙な気持ちのまま、ぴたりとつぐ美は足を止める。目の前には、ぽつりと二階建ての平屋。切り株看板には大きく朱雀庵とある。

「ここが、朱雀庵……」

 ガラス戸をスライドさせてつぐ美が中に入ると、古物商を営んでいるのか所狭しと壺や掛け軸、大皿が飾られていた。

「今日は店じまいなんだがね」と、レジカウンターの奥で、新聞を読みながら白髪交じりの初老の男がパイプを蒸かしている。逆三白眼の鋭い眼光で、初老の男がつぐ美を睨むと、苦虫を嚙み潰したような表情をする。

「あんた、初音はつねさんか? ……いや、初音さんの孫か?」

「やっぱりおばあちゃんを知ってるんですね」

 初老の男がつぐ美を睨んだ後に、つぐ美の下げている紙袋に視線を下ろす。「そう言うことか……」と悪態を吐いた。

「お願いします……おばあちゃんのことを教えて下さい」

「そう言うことは、あんたのお袋さんにでも聞きゃぁいいだろ」

「母にも訊ねました」と、つぐ美は初老の男に説明する。つぐ美が幼い頃に祖母が他界したこと、母親から染付磁器の三足香炉を譲り受けたこと、祖母が幼い頃に四辻町に住んでいたこと、四辻町の商店街にはなんでも願いを叶えてくれる神様がいること、アルバムで見た若い頃の祖母を昨日の夜、夢の中で見たことを、やがて初老の男は一息パイプを蒸かす。

「……いいだろ」

「え?」

「お前さんがここに来たのも何かの縁だ」

「じゃぁ」

「あぁ」初老の男はまた一口パイプを蒸かして、来客用のイスにつぐ美を座らせる。

「初音さんは俺にとっちゃ年の離れた姉みたいなもんだった。奉公と言う言葉ぐらい知ってるだろ? 初音さんは住み込みで働いて家事やらなんやら、まだ幼かった俺の相手をしてくれていた」初老の男はつぐ美を一瞥する。「初音さんは働き者だったから俺の親にもたいそう気に入られていた。そんな初音さんにある日、縁談の話が来た。相手は隣町の庄屋の息子だ」

「……好きだったんですか? おばあちゃんのこと」

「どう、だったかな」初老の男はパイプを蒸かす。「初音さんも、俺の親も随分と喜んでいた。もちろん俺もだ。姉のように慕っていた初音さんが紅を塗ったみたいに頬を赤く染めて、俺が祝儀の代わりになにか欲しい物はないかと訊ねると、じゃぁこれがいいと、初音さんは染付磁器の三足香炉を手に取った」

「それって」

「あぁ、いま、お前さんが持っている、そいつさ。この古染付こそめつけは明朝末期に景徳鎮窯けいとくちんようで焼かれた粗雑な染付磁器でね、飄逸ひょういつ軽妙洒脱けいみょうしゃだつな絵模様が、当時の江戸時代の日本人に、特に茶人に大いに受けたものだ。茶道具、水指、他にも花生や香合を注文して取り寄せたりしていた」初老の男はつぐ美から受け取った桐の箱から染付磁器の三足香炉を取り出すと、ごつごつとした指で感触を確かめる。「これを注文した茶人は星を見るのが好きだったのだろうな。白磁の器に深いコバルトの顔料を散りばめて、まるで星を……いや宇宙を描いてやがる。そして、この漆喰の上蓋に彫ってある朱雀が今にも羽ばたきそうじゃないか」

 つぐ美も漆喰の上蓋を見つめる。

「中国では、朱雀は南を守護している四神として崇められている霊獣でもある」

「そう言えば、こちらも朱雀庵でしたね」

「あぁ」と、染付磁器の三足香炉を丁寧に桐の箱へと戻す。「初音さんは、こいつを大事に使ったのだろうな」

「私も、そう思います」

 つぐ美は祖母を知る人に出会い嬉しくなり、この初老の男が祖母の昔語りを聞かせてくれることに、心が穏やかになった気がして、時間が経つのも忘れていた。

 初老の男から桐の箱に入った染付磁器の三足香炉を受け取って、つぐ美は紙袋のずっしりとした重みを胸元に抱きしめたまま、ゆっくりと初老の男を見つめる。

「この香炉を、私が受け取ってもいいでしょうか?」

「それを決めるのはお前さんでも俺でもねぇ。ましてや初音さんでもなく、こいつ自身さ。こいつは埃の被った引き出しの奥で、成人したあんたに使って貰うために、いまになって姿を現したんだ」初老の男は逆三白眼を細めたまま紙袋を睨んで、パイプを蒸かした。

「物には魂が宿るという」

「………………」

「お前さん」と、初老の男が逆三白眼の鋭い目でつぐ美を見る。「大事に使いなさい。それから、もうここには来ない方がいい」

「どうして」

「お前さんは憑かれやすいからな」

「疲れ、やすい……」と、つぐ美は首をかしげたのだった。


                 2


 冬期休暇が終わり、都会に戻ったつぐ美が目覚めたのは八時を過ぎようとしている時間だった。目覚ましを聞き逃し、携帯のアラームも無意識に切ったつぐ美は、目覚ましの時間を見て、ベッドから慌てて起き上がるとパジャマを脱いだ。

 スーツ姿を義務付けていない会社のため、クリーム色のカジュアルな服装に着替えて、カバンの中にスマホやら、化粧品の入ったポーチやら、財布やらを詰め込んで玄関を飛び出す。オートロックの正面玄関を抜けて、パンプスを履いたまま膝を庇いながら走ると、コートのボタンを留めたつぐ美は、頭の中で遅刻の言い訳を考えていた。息を切らして電車に乗り込み、開閉したドアに背もたれて顔に化粧をする。乗客の視線が次々に刺さるが、気にする余裕もなく、目元にアイシャドウを塗り終えたつぐ美はドアが開くと同時に、人ごみの隙間を縫って駅のホームから改札口へと向かう。会社に着く頃には、九時を三分も過ぎていた。

「お、おはようございます……」

「笹本さん、いま何時だと思ってるの?」

「すみません、主任……」

 三階の事務所に入出したつぐ美は視線だけで辺りを見回した。他の社員が自分の席で仕事をしたり、外線の電話応対を行う中、つぐ美は上司である課長の姿を探すが見当たらず、今頃は社長と役員に連れられて、他の課の所属長と一緒に初詣に向かっているのだろうと気付いた。

 課長のいない事務所で、つぐ美は主任の側に駆け寄る。

「すみませんじゃないわよ。笹本さん、お正月明けなのはわかるけど、すこし気を緩めすぎなんじゃない?」

「は、はい……」

「年始明けは特に忙しいのわかってるわよね。年末調整の書類の見直しに、給与計算ソフトにデータ登録。月末には、各市区町村役場に給与支払報告書の提出もあるの。ただでさえ、先月の勤怠を固めて、そのあとの給与処理もあるのよ」

「は、はい……」

「わかったなら席に着いて仕事をして頂戴」主任は眉間に皺を寄せる。「遅刻申請と始末書も忘れないように」と、付け加えたのだった。

 同僚や後輩からクスクスと笑い声が漏れているのに気付いたつぐ美は、耳まで真っ赤になりながら、コートを脱いでイスに座った。パソコンの電源をつけて膨大な量のメールを確認する。そのあとに、勤怠管理システムから遅刻申請と始末書を起案して、初めて仕事に取り掛かることができた。

 つぐ美が勤めている会社は、都会では名の知れた製造業の中小企業で、有名自動車製造会社の下請けとして、主にシャーシ部分の製造を行っている。総勢三百人を超える従業員を抱え、工場は昼夜問わず稼働している。

 つぐ美が一般事務として入社したのが五年前の新卒採用だった。

 当時は学生気分が抜けてなく、また身に着けたスーツは馬子にも衣裳という言葉がお似合いのように上司からは可愛がられもしたが、一年が過ぎて後輩が入社する頃になると、髪をブラウンに染めて垢抜ける。全力で取り込んでいた仕事も、いつの間にか手加減を覚えるようになり、サボる癖が付いた二年目に上司からは呆れられ、根も葉もない噂が広がり始めたのもその頃だった。

 けれど、それ等をつぐ美は無視をした。噂が途切れることはなかったが、それでも直接的な被害もなく、噂の当事者達もつぐ美に関わろうとはしない。そんな生活が三年も続いていた。

「主任、遅刻申請を起案したので承認をお願いします」

「始末書も忘れてないでしょうね」

「はい」

「……わかったわ。さっさと席に戻って仕事をして頂戴」

「すみません……」

 つぐ美が席に戻る頃に、初詣を終えた課長が戻ってきたのだった。



 あっという間に午前が過ぎて、お昼休憩になると内勤の大半は社員食堂で食事をするが、休憩時間まで会社に干渉されたくないつぐ美は外食をする。その日の気分で、コンビニでイートインだったり、スターバックスやタリーズといった珈琲専門店で甘い珈琲を飲んだり、人の込まないなるべくゆっくりできる場所で、食事をしながら本を読むのが好きだった。

「いらっしゃいませ」

「この、トールバニラソイアドショットチョコレートソースノンホイップダークモカチップクリームフラペチーノを一つ」

「かしこまりました」

 今日は駅前のスタバで魔法の呪文のように長い商品名の、ホイップクリームがたっぷり乗っているフラペチーノを注文して、スマホでネットニュースを閲覧していた。会社を遅刻して、慌てて詰め込んだカバンの中に読みかけの本が見当たらず、ダークチョコレートパウダーを散らした生クリームをスプーンですくって食べると、ほろ苦いカカオとミルクの甘さが口の中いっぱいに広がる。

 田舎である河北市にも喫茶店やハンバーガーショップ、カラオケ店はある。つぐ美も学生時代の部活帰りにファミレスでドリンクバーを頼んだことがある。最初はお茶だけを飲んでいたが、慣れてくると部活仲間と一緒にいくつもの挿入口から自分だけのフレーバードリンクを作るのが、田舎ならではの遊びになっていた。

 ドリンクはどこまでいってもドリンクのままだと思っていたつぐ美も、大学を卒業して都会の中小企業で内定をもらい、都会に引っ越して一人暮らしにも慣れ始めたころに立ち寄ったスタバのフラペチーノの、あまりにも美味しさに舌鼓を打ち、感銘を受けたものだ。都会にはスタバがあり、他にもSHIBUYA109がある。

 お給料の大半を洋服や外食に使っているつぐ美は、生クリームの甘さが体中に染み渡っているのを感じて、フラペチーノの最後のひとくちを飲み干した。お店の雰囲気とフラペチーノのおいしさを堪能して、午前の嫌な気分をリフレッシュしたつぐ美は会社へと戻る。

「今度は遅刻しなかったんだぁ」

 三階の事務所の自分の席に戻ると、誰のものかわからない女性社員の、意識を集中しなければ聞き取れない声が聞こえたが、いつものことなので気にせずつぐ美は自分の席に座る。午前中に再確認をしていた年末調整の書類をデスクに広げて、保険料控除の再確認を行う。

「ちょっと笹本さん?」

「どうしました主任?」

「午前中に見てもらってた年末調整の保険料控除、全部間違ってるわよ」

「……すみません」

「この書類の下の方にも計算方法が書いてあるんだから、ちゃんと確認して頂戴」

「わかりました」

 眉間に皺を寄せた主任は怒っているような、呆れているような複雑な表情でつぐ美に書類を渡して、ため息を吐いたのだった。

 デスクに戻ったつぐ美は、裏面にホチキスで添付している新と旧の保険料証明書を見比べながら、主任から受け取った年末調整の保険料控除の書類を見直す。赤ペンで二重線を引いて、その上から控除の金額を余白に書き綴る。

 時計の針が十五時を過ぎる頃になると年末調整の保険料控除の書類の見直しも終わり、そこから毎月業務である給与処理を平行して行うと、窓から差し込む夕焼けが、次第に薄暗くなるに連れて、ぽつぽつと街の電灯が付き始める頃に、定時を過ぎたつぐ美は帰り支度を始める。

「お疲れ様です主任」

「お疲れ様」と、パソコンの画面と書類を見比べていた主任はつぐ美を見上げる。「社会人なんだから明日は遅刻しないようにしなさい」

「はい、すみません……」

 つぐ美は主任に挨拶をして、定時で帰宅する。

 仕事ができないレッテルを張られたつぐ美が定時に帰宅するのに、他の社員は動じることもなく、パソコンに向かったまま仕事を続ける。

 つぐ美は退社して会社の外に出ると、木枯らしが頬を吹き抜けて身震いした。こんな日は駅ビルで暖かい物を食べるのに限ると思い立ったつぐ美は、他にもお昼に見かけたバーゲンや福袋の広告が気になって、踵を返して駅ビルに向かう。

「きゃっ!?」

 つぐ美の身体がガタっと音を立てて、膝から崩れ落ちた。

 異変に気付いたつぐ美が後ろを振り向くと、パンプスのヒールが片方、マンホールの窪みに挟まって取れたのだった。

「もう、何なのよっ」

 さっきまでの気分が台無しになり、駅ビルで外食をする気分がなくなったつぐ美は、取れたヒールと一緒に駅ビルの靴修理屋へと向かったのだった。



 靴の修理に千五百円もかかり、予定のしていない出費に外食を諦めたつぐ美は、エスカレータから下る駅ビルで百円ショップを見つけ、ふと立ち寄る。衛生コーナー、文具コーナー、食品コーナーと棚を眺めて、レジ前に立て掛けてある幾つものお香スティックを見つけた。つぐ美は、桃の匂いがするピンク色のお香スティックとライターを手に取ってレジで会計を済ませる。レジ袋を断り、乱雑したカバンの中にお香スティックを入れて帰宅した。

 コンビニでおにぎりを二つ買って帰り、オートロックのマンションで部屋に戻ると十八時を過ぎていた。コートをハンガーに掛けて、台所の冷蔵庫から缶チューハイを二缶取り出して、田舎から母親が持たせたお惣菜をレンジでチンする。テーブルで夕飯を食べながら、つぐ美はテレビを点けて適当にチャンネルを回して、ニュース番組を見る。食事を終える頃には程よく酔いが回り、バラエティー番組を見ながら化粧を落として、百円ショップで買ったお香スティックを思い出した。

「あった、あった」

 お香スティックとライターをテーブルの上に置いて、クローゼットの隅に置いていた紙袋からつぐ美は染付磁器の三足香炉を取り出した。テーブルの上に染付磁器の三足香炉を置いて、ごつごつとした染付磁器の上から、コバルト色の釉を手の平で確かめる。

「――――――つ!?」

 ふと、染付磁器の三足香炉の感情が流れ込んできた気がした。

 つぐ美は、朱雀の上蓋を外して、染付磁器の三足香炉の受け皿の上でピンク色のお香スティックに火を点ける。ゆっくりと、ピンク色をした小さな煙が立ち上り、桃の甘い匂いが部屋を包み込む。

「凄いいい匂い……」

 桃の甘い匂いが鼻腔からつぐ美の身体の中に入り込み、お酒の力も手伝ってつぐ美の意識が朦朧もうろうとする。

「あれ、酔っちゃったのかな」

 凄く瞼が重くなり、千鳥足で何とかベッドに倒れこんだつぐ美は、とても深い眠りについたのだった。


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