四辻町四丁目の朱雀庵 第6話 猫又(下)
◆◇◆◇◆
1
「―――はっ」
小さな腕を伸ばしても手の平から炎は出ない。
「どうしたの加恋ちゃん?」
「え? あ、なんでもないよ」
「加恋ちゃん、アニメに登場する魔法少女の真似でしょ」
「私も日曜日に見たよ。面白いよね」
「ま、私も見てるけど」と、
「弥生ちゃん、この前のお誕生日もお洋服買って貰ってたよね」
「だって、私が可愛いとパパもママも喜ぶでしょ。そうだ、いまから家に来ない? もう着ないお洋服とかたくさんあるよ」
「う、うち……ひらひらしたスカートとか苦手だから」
自宅が目の前に見えてくると、「また明日ねぇ~」大きく手を振りながら小走りに坂を駆け上り、二人と別れた加恋は自宅に向かおうとして、ふと思い留まる。
権平太が言うような神通力をいままで使った覚えがないのだ。
加恋はランドセルを背負ったまま
加恋は畦道を歩きながら、稲を刈りつくした裸の田んぼを抜けて御崎神社へと向かう。石の鳥居の隅から、コンクリートを敷き詰めた坂道を歩いた先の境内で、本殿の賽銭箱の上で巨大な老描である権平太はあくびを噛み殺していた。
「権太郎!」
「権平太じゃ……」秋風に吹かれて気持ちよく午睡していたのであろう、権平太が瞳を細めながら加恋を見つめる。
「いったい、なんの用じゃ……ふわぁ」
「全っ然! 魔法が使えないっ!」
「は、……魔法とな?」
「アニメみたいに手から火も出ないし、この前言ってた敵もいない!」
頬を膨らませて怒る加恋をよそに、権平太は手を舐めて毛づくろいを始める。
「儂が与えたのは未来予知じゃが」
「だから、それはどうしたら使えるの?」
「……依り代は持っておるのか?」
「キーホルダーなら、ランドセルに着けてる」
「その依り代を手の中でぎゅっと握ってみなされ」
「ちょっと待って」
背負っていたランドセルを境内に下した加恋はキーホルダーを取りはずして、権平太が言うようにぎゅっと手に中で握る。
「そのまま目を閉じる。そうじゃな、今日の
「ゆうげ?」
「はて、……そうじゃ。晩ご飯じゃ。どうもお前たちが使う言葉は難しくていかん」
加恋は瞳を閉じる。
キーホルダーを握る手の平は汗ばみ、加恋は暗闇の中を覗き込む。それは一枚の鏡のように、台所で夕飯の支度をしている母親が映し出される。水の中を潜るみたいに加恋は息を止めて、一定の間隔で吐き出して集中する。母親は沸騰した鍋の中に、ざくぎりの野菜を放り込む。じゃがいも、にんじん、たまねぎ、どれも加恋が苦手とする野菜ばかりだが、鍋とまな板に隠れてよくは見えないが、りんごとはちみつを謳い文句とする黄色いパッケージを見つけたのだった。
「今日はカレーだ! ねぇ、本当に今日の晩ご飯はカレーなの!?」
「うむ。おそらくは」
「そうなんだ」あまりの嬉しさに、加恋は両腕を掲げる。
「それにしても、見事な集中ぶりじゃった。さすがは、静留の血統よな」
「権平太は、おばあちゃんのこと知ってるの? うち、小さすぎて覚えてないんよ」
「そうじゃな、お前さんよりかは知っとるつもりじゃ」
「だったら今度聞かせて」
「いまでも構わぬが」
「今日はカレーなのっ! じゃ~ね、権平太」
「儂の名前は権太郎じゃ……おっと、あっておったか」
ランドセルを背負った加恋は権平太のいる御崎神社から自宅へと向かう。
玄関を開けて、走りながらリビングのドアを開ける。
「こら加恋、走ったら危ないでしょ?」
「お母ちゃん! 今日カレーでしょ」
「今日はビーフシチューよ」
「……え?」
「そんなことより、走ったら危ないでしょ? お母ちゃんのお腹には赤ちゃんがおるんやから、加恋がぶつかったら死んでしまうかもしれんでしょ」
「うぅ……ごめんなさい」
「わかったら、うがい手洗いしなさい」
「は~い……」
加恋はビーフシチューが苦手だった。
カレーと同じ色をしているのに、食べてみると辛くもないシチューそのもので、それならホワイトシチューでもいいのにと、絶望の表情を浮かべながら加恋が洗面所に向かう姿を、三毛猫ミルクが目を細めて見つめるのであった。
翌日、
「なにしてるの加恋ちゃん」
「内緒」
「そんなに大切にしてくれるのは嬉しいけど、手に持ってると壊れるよ」
お昼休みが終わり、午後の授業に移るとハロウィンの準備になる。机の上に裁縫セットを取り出して仮縫い途中の衣装を縫う中、担任は教卓から一人一人の生徒が怪我をしないように見守る。
「センセー、加恋ちゃん衣装づくり終わってるよ」
「あら、本当ね」
「うち、お家にミシンあるから……」さすがに権平太の神通力でハロウィン衣装が完成したとは言えず、苦笑いを浮かべる。
「じゃぁ、加恋ちゃんは他のみんなを手伝ってあげて下さいね」
「は~い」
「それにしても、完成度高いね。おばちゃんに手伝ってもろたの?」
「う、ううん。お母ちゃんは忙しいから」
「いいなぁ。加恋ちゃんは将来デザイナーになるの?」
「デザイナー?」
「うん。きれいなお洋服を作ったりするお仕事よ」
「デザイナーかぁ」
「そうだ。私が将来アイドルになったら、加恋ちゃんが衣装作ってよ」
「弥生ちゃん、アイドルになるの?」
「うん」と笑顔を向ける弥生。「だって、私って可愛いでしょ」
「真冬ちゃんは将来どうするの?」
「わ、私は……家の農家のお手伝い」
「それはいまでしょ?」
「だ、だったら、私はお弁当屋さん始める。二人に私の作ったお弁当食べて元気になってもらう」
「うち、お米大好きっ!」
「素敵な夢だと思うよ」
「そうかなぁ」
三人は楽しみながらハロウィン衣装を作り、加恋はキーホルダーを握ったまま目を瞑る。暗闇の中を覗き込むと一枚の鏡が浮かび上がり、その鏡の向こうで弥生が手首を切って倒れている。教室中に悲鳴が感染して、担任が職員室に走る。
うずくまる弥生の近くに、子どもが持つには大きな裁縫ばさみが転がっていた。
「あぶない弥生ちゃんっ!」
「え?」
教室にいる誰もが加恋の叫び声に振り向くと、おしゃべりに夢中になっていた弥生の机に、剥き出しになっている裁縫ばさみの切っ先が転がっていたのだ。
「びっくりした……ありがとう加恋ちゃん」
「ううん……うちも、びっくりした」
「加恋ちゃんが助けてくれなかったら腕切ってたかと思う」
「ほんと凄いね加恋ちゃん」
「えへへ」教室中から沸く感嘆に加恋は照れ笑いを浮かべ、権平太から授かった未来予知の使い方を初めて知ったのだった。
2
加恋は未来予知の能力で弥生を助けてから、キーホルダーを握る事を欠かさずにはいられずにいた。結局のところ、権平太が言うようなアニメに登場する敵はどこにもいないが、それでも未来予知を使って他人に感謝されるのが嬉しかった。
何度も転びながら自転車に乗れるように、未来予知にもコツがあるらしい。目を瞑ってイメージする事が一番重要で、見たい場面をイメージすると暗闇の中に一枚の鏡が現れる。鏡に映る映像が未来予知である。
「最近、加恋ちゃん凄いね」
「そうかなぁ」
「確かに。私を助けてくれたり、一年生の男の子が平均台から落ちるのを助けたり」
「まるでアニメみたいだね」
稲刈りが終わった田んぼに夕焼けの赤みがかる十一月、秋の終わりを告げる季節に真冬と弥生、それに加恋の三人は学校の授業が終わり、いつも通り三人で下校する。制服の上からジャンパーを羽織り、加恋は頬が緩んで仕方がない。
「どうしたの加恋ちゃん」
「言っちゃおうかな~どうしようかな~」
「なんか変な物でも食べたの?」
「えっとねぇ~」と、言いたくて仕方のなかった加恋は、三毛猫ミルクが猫又であること、権平太という老描から神通力として未来予知を授かったこと。未来予知を通して、たくさんの他人を助けていたことを真冬と弥生に打ち明ける。
真冬は瞳を輝かせて、弥生は疑いの眼差しを向ける。
「ちょっとキーホルダー貸して」
「いいよ。これをね、ぎゅっと握って目を瞑るの」
「なんも見えんよ」
「もしかすると、うちだけが視えるのかもしれん」
「だったら算数の宿題も先生から花マル貰えるんちゃう」
「え?」
「宿題の答えは先生が持ってるんだから、その未来が視える能力で宿題の答えがわかるんと違う?」
「だ、だめだよ」
「真冬ちゃん、これはね加恋ちゃんの能力を確かめるために必要な行為なんだからズルじゃないんよ。そうだ、いまから三人で勉強しよ。場所は、そうね……」
「うちのお家でいいよ」
「じゃぁ、いまから加恋ちゃん家に行こう」
真冬の押していた自転車を弥生が押して三人は加恋の家へと向かう。
家に帰った加恋はリビングで洗濯物を干している母親と、その隣で香箱座りに尻尾を揺らしながら眠っている三毛猫ミルクを見つける。
「お母ちゃん、ただいまぁ」
「お邪魔しまーす」
「あら、真冬ちゃんに弥生ちゃんも」
「いまから部屋で勉強するの」
「そうなの? 戸棚におせんべいがあるから持って行きなさい」
「おばちゃんのお腹おっきくなったね」
「どっちが生まれるの?」
「まだ内緒よ」
「えぇ~」
「あの、おばちゃん、電話借りてもいい?」
「いいよ」
一人だけ自転車通学の真冬は家に電話する。
「ミーコもお部屋来る?」
「ぷいっ」と、三毛猫ミルクは加恋の顔を見て、興味がないのか眠りに就く。
「ミルクとケンカしたの?」
「ううん。最近、ずっとこうなの」
「そうなんだ。それよりさ、早く勉強しよ」
「その前にうがいと手洗いしないと」
「いまの加恋ちゃん、お姉ちゃんぽかったね」
「そうかな」
真冬の電話が終わるのを待って、三人は洗面所でうがいと手洗いを済ませて二階の部屋へと向かう。久しぶりに遊びに来た真冬と弥生は、アトレチックと化した部屋を見て驚きを隠せず、弥生は本題を忘れそうになって顔を左右に振る。
「ほら、加恋ちゃん座って」
三人は勉強机とは別のテーブルを囲みながら座って、ランドセルから算数の宿題を取り出して、加恋は弥生に促されて目を瞑る。意識を集中すると鏡が現れて、加恋は算数の宿題の答えを思い浮かべる。
「わかった」
「どうなの?」
「えっと、ここはこうで、そっちはこうで」鉛筆を持った加恋は、宿題の答えを写していく。「できた」と、加恋は額の汗を拭ったのだった。
「問一は正解ね。問二は……ふむふむ」
真冬と弥生も加恋が目を瞑っているうちに解いた問題を、加恋が解いた算数の宿題を答案と見立てて、回答した問題を自己採点していく。
「もしかして、全問正解なんじゃない?」
「そ、そうかな? ……なんかむっちゃ疲れた」
「加恋ちゃん、大丈夫?」
「うん。あ、そうだ。お菓子とジュース持ってくるね」
「いいなぁ、加恋ちゃん。これだったら次のテストも百点取れるね」
「百点!?」
「百点取れたらおばちゃんも喜ぶんと違う?」
「そ、そうかな」
「ご褒美になにか買って貰ったり」
加恋は頭の中でたくさんのお菓子を思い浮かべる。
「だ、だめだよ加恋ちゃん。魔法を悪いことに使ったら! ハサミから弥生ちゃんを助けたのも加恋ちゃんでしょ?」
「で、でも……」
「私、加恋ちゃんの友達やめるよ」
涙ぐむ真冬に加恋はごめんと謝って、一階のリビングにお菓子を取りに向かうと、三毛猫ミルクが加恋を待ち構えていた。
「あなた、私に隠し事してないかしら?」
すっかりと夕闇に飲まれた外の景色から、ぽつぽつと街灯の小さな灯りが差し込む頃、リビングの灯りに照らされた三毛猫ミルクの影から生える尻尾は二又に分かれていたのだった。
真冬と弥生と別れた加恋が夕飯を食べてお風呂に入っている間に、三毛猫ミルクは御崎神社へと向かう。定期的に御崎神社では猫集会が開かれており、三毛猫ミルクが石の鳥居を潜って境内に向かうと、本殿にある賽銭箱を陣取る権平太を
「ちょっと、通してもらえるかしら?」
「おや、珍しいな。お前さんがこんなに早くに来るとは」
「そうね。ちょっと、あなたと二人きりで話がしたかったのだけど」
辺りの猫たちに見向きもせずに三毛猫ミルクは権平太の元に向かう。
「なにをそんなにいきり立っておる?」
「あんた、あの子になにかしたでしょ?」
「はて……なんのことか、さっぱりじゃが」
「相変わらずとぼけるのがうまいわね」
「とぼけるもなにも」と、権平太はくっくっくと咽を鳴らす。
「あの子はね嘘を吐くとき、両手を背中に隠すのよ」
「ほぉ」
「そして、この前からあの子からあなたの臭いがするの」
権平太は何も答えない。
「権平太……あなた、なにを考えているの?」
「戦争じゃよ」
「なんですって!?」
賽銭箱から立ち上がる権平太の姿はまさに老描とも呼べる、その体躯は三毛猫ミルクの数倍にもなる。権平太は三毛猫ミルクに圧を掛ける。
「静留はもういない」
「静留は戦争を望んだわけじゃないわ」
「だが、静留がいてこその和平であり、不可侵条約でもある」
「あなた……」
「最初はお前さんを使うつもりじゃった。お前さんを
「静留のことを悪く言うんじゃないわよ」
「どんなに待ってもお前さんを傀儡にすることができない。そんな時にあの娘、静留の血統が現れた。あの娘は、いや人間と言う存在は実に素晴らしい。儂がちょっと背中を押すだけで、あの娘は利己的に神通力を使う。儂が千里眼で覗き見をしていることなど露知れずな」
「加恋に手を出したら私が許さないわよ」
「どう、許さないつもりじゃ?」
月の光を浴びた三毛猫ミルクは本来の能力を取り戻して尻尾が二股に分かれる。
「ほんに、美しい……毛並みから妖気が溢れておる」
「覚悟しなさいっ!」
「じゃが、いいのか? 儂が死ねば東国が黙っておらぬじゃろ。それに、あの娘になにかあるかもしれんの」
「この卑怯者っ!」
「なんとでも言うがいいっ! 戦略とは二手三手先を考えるもの。後手に回ったお前さんなど、なにも怖くないわっ!」
「―――ぐっ。覚えておくといいわ。加恋になにかあったら、私は誰も許さない」
解放した妖気を抑え込み三毛猫ミルクは帰路に着く。
その日、三毛猫ミルクは夢を見た。
母親が病死してなにもない世界に放り出された三毛猫ミルクが、人間の女の子に抱えられて安心して眠る夢。
3
次の日から三毛猫ミルクはできるだけ加恋の側から離れようとせず、また加恋が小学校に出かけている間は、リビングの日当たりのいい場所で眠りながら妖力を温存して、再び静留の夢を見る。
白いワンピース姿の静留は畦道を歩いている。
夏場のまだ暑い時間、田んぼでは若緑色の稲が風になびき、所々から蛙の鳴き声や虫たちの鳴き声が辺りを包み込む中、ふと、静留が立ち止って後ろを振り向く。
『あんた、まさか三毛猫のミルクかい?』
『にゃ~』
『はは、相変わらずだね。あたしはあんたの飼い主なんだから、そんな演技しなくてもいいよ』
『……静留なの?』
『えぇ、あたしは葉山静留』
『でも、あなたは死んだはず』
『そうね。これは夢の世界さね』
『でも、その姿は……』
『これは、あんたが思い浮かべたあたしの姿さね』と、まだ女子高生ぐらいの姿の静留は白いワンピースのスカートをひらひらと持ち上げる。『それで、あたしになにか話したい事でもあるんじゃないかい?』
『加恋をっ! あなたの孫の加恋を助けて欲しいの』
『あの子になにかあったの?』
三毛猫ミルクは事の顛末を静留に語り出す。権平太が東国との戦争を企てている事から、その戦争に加恋を利用しようとしている事を。
『あぁ、やっぱりね……』
『やっぱり?』
『あいつは昔からそうさね。腹の底で、どす黒い野心を隠し持っていたもの』
『それを知ってるなら、どうしてあんたは先に死んじゃったのよ』
『人間だからね』と、静留は苦笑いを浮かべて指先で頬を掻く。『結局のところ、あたしはあんたたちと共存しておきながら、人間として死んだのさ』
『昔のあんただったら、権平太を改心させたはず』
『それは、あなたの仕事よ』
『私には無理よっ! わたしはあなたに妖力のほとんどを封印されているのよ。権平太に勝てるわけがないわ……』
『だったら、
『魂緒様……それは、朱雀庵の魂緒様のこと?』
『えぇ。無事に朱雀庵に行けたなら、魂緒ちゃんは必ずあなたを助けてくれる』
『わかったわ。私の生命が絶えようとも、あの子だけは―――』
『ミルク』静留はしゃがみ込むと、三毛猫ミルクの額に触れる。『あたしは、あなたの中にいるの。このことだけは覚えておいて』
懐かしい声と匂いにミルクは涙を流す。
目が覚めると夕方前。
アスレチックと化した加恋の部屋から飛び起きて、一目散に三毛猫ミルクは駆け上がる。二階から階段を降りる際、洗濯物をたたみ終えた母親とぶつかりそうになり、玄関から飛び出したのだった。
放課後になるとランドセルを背負った加恋は、真冬と弥生と一緒に帰宅する。
「最近寒くなったね」
「もう少しでクリスマスだね」
「クリスマスが終わったらお正月」
「お年玉一杯貰えるかなぁ」
「それなら加恋ちゃん、魔法使ってみたら?」
「え?」と、加恋は弥生の顔を見た後に、真冬の顔を見る。
「もう、魔法はいいんよ」
「そうなの? もったいないなぁ」
「だって、魔法より友達の方が大事やもん」
一人自転車を押していた真冬が満面な笑みを浮かべる。
「弥生ちゃんはやっぱりお洋服買って貰うの?」
「えぇ、今年もパパにお願いしたの」
「クリスマスって、サンタさんにお願いするんじゃないの?」
「え?」
「え?」
すこしの沈黙の後、弥生は笑いをこらえきれずに噴き出したのだった。
「な、なに? 弥生ちゃん、それに真冬ちゃんも」
「加恋ちゃん、まだ―――」
「ちょっと、弥生ちゃん」
「あぁ、ごめんごめん。そうよね、私もサンタさんにお洋服をお願いしたの」
「え? でも、さっきお父ちゃんって」
「それは加恋ちゃんの聞き間違いと違う?」
「そうかな」
「そうだよ。ぷぷ」
加恋は首を傾げながら、目の前に自宅が見えてくる。「じゃぁ、うちここだから」
「うん。ばいば~い」
「加恋ちゃん、また明日ね~」
「またね~」と、加恋は坂道を駆け上がって玄関を開ける。
靴を脱いでリビングのドアを開ける。
「お母ちゃん、ただいまぁ~」
「うぅ……」
「お母ちゃんどうしたの!?」
「生まれる……」
「生まれるってなにが?」
「赤ちゃん……加恋、救急車呼んで」
「う、うん」と、母親の背中を擦っていた加恋は、電話機の受話器を持ち上げる。
「お母ちゃん、何番なの? 救急車何番?」
「百十九番よ……」
加恋が急いで百十九番のボタンを押すと、プッシュ音と一緒に電話が繋がる。
「お母ちゃんが! お母ちゃんの赤ちゃんが生まれる!」
加恋にとって、そこからの記憶はない。
あっという間のことで、サイレンと共に数名の救急隊員が家に上がり込むと、
「お母ちゃんの具合はどうや?」
「わかんない……」
「そうか、お父ちゃん中入るけど、加恋はどうする?」
「うち、ここにいる」
「わかった」
父親は看護師に挨拶をして、分娩室の中に入る。
放心した加恋は廊下の窓から夜の帳が下りた景色を見てか細く呟く。
「ミーコ、どこ? ミーコ、お母ちゃんを助けて……」
4
葉山家を飛び出した三毛猫ミルクは、国道で信号待ちをしている軽トラの荷台に飛び乗って四辻町の東国へと向かう。
町の中心部は相変わらず、幾つもの妖気の渦巻きながら妖怪達が跋扈していて、西国の統括者である三毛猫ミルクは気配を押し殺しながら商店街へと向かう。
だが、商店街は朱雀庵に住む魂緒のお膝元。
商店街の妖怪達を掻い潜りながら朱雀庵に目指すのは至難の業が必要で、三毛猫ミルクは牡羊座から始まり、蟹座のタイルから商店街のシャッター通りに辿り着いたものの、そこには東国の猫達が待ち構えていた。
「おい部外者じゃ」
「部外者が来たぞ」
「儂らを殺しに来たぞ」
「違うっ! 私は戦争がしたくて東国に来たわけではないの」
幾匹もの猫達が三毛猫ミルクに迫る中、それ等の猫達を交わしながら三毛猫ミルクは必死に訴えるが、五郎丸の息のかかった猫達に三毛猫ミルクの言葉は通じない。
「お願い、話を聞いて」
猫達の牙が三毛猫ミルクを襲い、きれいな白い毛並みが赤く染まる。
「誰も戦争なんか望んでないの……おねがい、魂緒様に会わせて」
「待ちな」
「兄ちゃんやばいよ」
見覚えのある二匹の猫が膝を崩した三毛猫ミルクの前に立ち塞がる。
いつかの港で三毛猫ミルクが下魚を与えた二匹の猫だ。
「若頭、そこをどいてもらえませんか」
「それはできない」
「そこの西国の猫は、儂らの怨敵ですぞ」
「お前たち、不可侵条約を忘れたわけじゃないだろうな?」
「そもそも、不可侵条約を破ったのは、西国の猫じゃないか」
「この猫又が本気を出せばお前たちを葬り去るぐらいの妖力を持っていやがる。それなのに、この猫又はお前たちの牙を受け続けたのは戦う意思がないからじゃないのか?」
「あんたは、いったい……?」
「西国の猫、
「つまりは、儂たち東国の猫を統括する若頭になるぞ」
「あんたが、五郎丸の?」
「ま、そういうことだ」五郎丸のせがれである兄猫が照れる。「いいかお前ら、俺の言葉は親父の言葉だと思って聞け。それともお前たちは攻撃の意思を持たない猫又を多勢で襲う卑怯者か? あぁ! 違うよな? 俺たちは弱者に牙を向けない」
「そ、そうだ」
兄猫に心を打たれた東国の猫達はやがて賛同して商店街の道を開ける。
「俺ができるのはこれぐらいだ。あとは魂緒様の計らいのみ」
「助かるわ……」
ぼぅ、とシャッター通りの先に橙色の灯りが灯る。
三毛猫ミルクは膝が崩れるのを耐えながら灯りを目指すと、灯りは二階建ての平屋が漏れており、切り株看板には大きく朱雀庵とある。三毛猫ミルクは、この朱雀庵に招かれたのであろう、ちょうど猫が一匹通れるぐらいの隙間が開いている。三毛猫ミルクがガラス戸を隔てて中に入ると、古物商を営んでいるのか所狭しと壺や掛け軸、それに大皿が飾られている。三毛猫ミルクがよたよたと歩くと、初老の男がパイプを蒸かしている。
「ほう。猫又とは珍しい」
「みゃ~」
「魂緒ならこの奥だ。さっさと行きな」
初老の男は首だけを振って、レジカウンターの奥の住居へと三毛猫ミルクを案内する。三毛猫ミルクが廊下を歩くと、真黒な空間へたどり着く。天井から吊るした幾つもの行灯が仄かにゆらぎ、散りばめられた橙の小さな炎が夜空に輝く星を連想させる。
真黒な空間の中央に少女が二人。
一人は白い着物姿におかっぱ頭の女の子。
一人は黒いゴスロリドレスに身を包んだ金髪の女の子。
二人の少女は対照的な姿をして橙の炎に溶け込みながら、そのガラス細工のように無機質な瞳で三毛猫ミルクを捉える。
「すぅ」と、おかっぱ頭の女の子が三毛猫ミルクに近付くと、その白い着物が血で汚れるのも顧みず抱き寄せる。
「ねこ、ねこ、かわいい。なでなで」
「ちょっ! 魂緒様、いまは仕事をしてください」
「ねこ、いっぱい傷ついてる。痛いの痛いの飛んでけ~」
魂緒と呼ばれた、おかっぱ頭の女の子が三毛猫ミルクの傷口を撫でると、まるで神様の能力とでも呼べばいいのか、見る見るうちに三毛猫ミルクの傷口が塞がる。
「魂緒様だけずるいです。私も抱かせてください」
「アセルスもねこがすき」
「お止め下さい神様方」
アセルスと呼ばれる金髪の女の子の腕から逃れた三毛猫ミルクは二又のしっぽを立てて全身の毛を逆立てる。
「ごほん。そうね……」
「お待ちしておりました」
「葉山ミルク様」
「あなたは選ばれたのです」
「この朱雀庵に」
さっきまでの幼い二人の女の子はどこにもいない。
「すぅ」と、と魂緒が小さな手の平に息を吹きかけると、七色をした蝶々が幾重にも羽ばたく。蝶々は螺旋を描きながら、その羽に三毛猫ミルクの過去を映し出す。母親と死別した記憶。葉山静留に拾われた記憶。初めて人間の家に住むこととなった記憶。葉山静留と死別した記憶。葉山加恋が生まれた記憶。
「葉山静留に愛された猫又」
「葉山加恋に愛された猫又」
「あなたの願いはなに?」
アセルスが三毛猫ミルクに問う。
「どうか、加恋を……私の大切な加恋を権平太から助けて欲しいの」
「それがあなたの願い?」
「これは照魔鏡と言う真実を映し出す鏡です」
金色の淵に覆われた鏡を魂緒が両手に持つ。
鏡が三毛猫ミルクを捉えた瞬間、三毛猫ミルクの意識は遠のく。
「さぁ、真実を―――」
「改変するのです」
アスレチックと化した加恋の部屋で、香箱座りに眠っていた三毛猫ミルクが起き上がると、辺りを見渡した。
「私は確か朱雀庵で……これが、魂緒様の能力?」
柱の中段にあるお気に入りの場所からベランダを眺めていると、見覚えのある女の子が三人、ランドセルを背負って小学校から帰宅している。勢いよく玄関が開かれると加恋の声が聞こえる。
「お母ちゃん、昨日の魚ある~? 真冬ちゃんと弥生ちゃんが来たよ~」
「お魚なら冷蔵庫のパーシャル室にあるわよ」
「は~い。真冬ちゃん、弥生ちゃんちょっと待ってね」
リビングに向かった加恋はアジの入ったレジ袋を二つ母親から貰うと、真冬と弥生に渡す。
「いっぱいあるね。加恋ちゃんも釣ったの?」
「ううん。全部、お父さんが釣ったの」
「そうなんだ」
「加恋ちゃん、今度なにか持ってくるね」
「うん!」加恋が二人を送り出して、「また明日ね~」と、加恋が家に戻ろうとした時、猫の泣き声を聞いたのだった。
「そう、この日だわ」
三毛猫ミルクは思い出す。
この日から、権平太の臭いを加恋から嗅いだのは。
三毛猫ミルクは思い立つと、階段を駆け下りて玄関の外へと趣き、加恋に気付かれないように後を付けると、案の定、加恋は御崎神社の境内へと向かっている。
「なるほど、あの子たちを使って権平太は加恋を誘導していたのね」
三毛猫ミルクが気配を消して境内に向かうと、二人の会話を盗み聞きする。
「そう、儂たちを助けてほしい。東国と不可侵条約を結んでおるとは言え、静留様はもうおらん。東国の奴等がいつ条約を破り、攻めてくるかもしれん」
「ミーコは戦争なんてしたくないって言ってた! 昨日だってお父ちゃんと夜釣りで港に行ったけど、ミーコは自分のイワシを野良猫にあげてた!」
「それは本当か……」
権平太が驚き、猫達がざわめく。
「港と言えば東国か」「いや、しかし」「なに、これは好都合……」
「どうしたの?」
「いや、なに……儂たちも三毛猫ミルクと同じく東国と戦争をしたいわけではない。じゃが、言葉が悪かったのも事実……加恋、そなたには西国を悪い猫から守って欲しいのじゃ」
「だから、さっきも言ったけど」
「その代わり、儂の力を分け与えよう―――」
本殿の賽銭箱の上に座っていた権平太が石段を下って加恋の元に歩み寄る。権平太が頭を差し出して、加恋が膝を崩して権平太の額に触れるその時、三毛猫ミルクは勢いよく飛び出したのだった。
「させないわよっ!」
「ミーコ?」
「なぜ、お前さんがここに?」
「私はなんでも知っているのよ。あんたが加恋を使って東国と戦争したいのも、あんたの腹の底にあるどす黒い野心を隠し持っていることも」
三毛猫ミルクの威嚇に、権平太は目を丸くする。
だが、それも束の間の事であり、くっくっくと権平太は咽を鳴らす。
「この昼と夜の境目の時間、妖力を封印されているお前さんになにができる?」
「静留はね、いまも私の中にいるのよ」すると、三毛猫ミルクの毛並みから妖気が溢れ出し、その妖気が二つ目の尻尾を作る。
「ばっ! ばかなっ! お前さんの能力は静留に封印されていたはず」
「静留はね、もちろん私の妖力のほとんど封印したわ。東国と和平を結んで不可侵条約を作ったいま、この妖力は必要ないもの。けれど、それとこれとは別よ。加恋に手を出してみなさい。ただでは済まないわよ!」
「くそっ! 皆の衆、撤退じゃ」
老描である権平太を筆頭に集まっていた猫達が一斉に姿を消す。
「ミーコ?」
「ばかね」加恋に抱き寄せられた三毛猫ミルクは、加恋の頬を舐めたのだった。
「どうでしたか?」
「これが、あなたの望んだ記憶の改変です」
「これが神様方の、どう感謝すればいいものなのかしら」
「あら、あなたは私も神様だと扱うのね」
「私みたいな妖怪からすれば、あなたも神様に違いありません」
「そう……お帰りはあちらです」
「さようなら、葉山ミルク」
三毛猫ミルクの目の前で、二人の少女が歪に嗤った気がした。
すると、さっきまで行灯の橙の光が散りばめられた黒い空間ではなく、三毛猫ミルクは商店街のシャッター通りで立ち尽くしていた。
朱雀庵はどこにもない。
シャッター通りを吹き抜ける潮風に、すこしだけど加恋の匂いが混じっている。
「あの子も、この近くのいるのかしら?」
三毛猫ミルクが加恋の匂いを追うと、そこは四辻町総合病院だった。
三毛猫ミルクは自動ドアを掻い潜り加恋の匂いを目指すと、分娩室の待合室で加恋は不安そうに身を屈めて震えていた。
「みゃ~」
「ミーコっ! ミーコっ! ミーコっ!」
「にゃ~」
「どこ行ってたのミーコ。お母ちゃん倒れてて、うち怖くなって」加恋に抱き寄せられた三毛猫ミルクは加恋の頬を舐める。
「うち、ミーコに黙ってたことがあるんよ」
「にゃ~」
「うち、魔法が使えるようになったんよ。でも、魔法を使うと真冬ちゃんが悲しむからもう使わんようにしてたの。けど、魔法使ってたら、お母ちゃん助けられたんかな?」
「加恋、魔法なんて必要ないのよ」
「ミーコ?」
「あなたは魔法より大切な物をもう持ってるじゃない。加恋、おでこを出してみて」
「こう?」
三毛猫ミルクは加恋のおでこに自分のおでこを引っ付ける。
「ミーコ、毛ふわふわっ」
三毛猫ミルクは瞳を閉じて意識を集中する。暗闇の中、大きな鏡を一枚隔てた先の老描権平太の妖力を、全身から妖力を絞り出して断ち切る。
三毛猫ミルクは猫又として蓄えていた妖力を全て使い果たしたその時、分娩室から赤ちゃんの泣き声が聞こえたのだった。
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