四辻町四丁目の朱雀庵 第5話 猫又(上)

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 山と海に囲まれた四辻町にも、小学校は二校ある。一校は町のスーパーや住宅街のある中心部、もう一校は山間部を切り開いた山や畑に囲まれた過疎地。

 葉山はやま加恋かれんは過疎地の小学校―――山河小学校に通う小学四年生。

 全校生徒は三十名を下回り、四年生の教室でも加恋を含め五名の生徒しかいない、いわゆる分校である。

 ホームルームを終えて加恋は仲のいいクラスメイト、西川にしかわ真冬まふゆ川崎かわさき弥生やよいと下校しながら、畦道に咲く彼岸花、田んぼを彩る黄金色の稲穂が風に揺れる頃に、目の前に広がる景色に見惚れていた。

「週末なにして遊ぶ?」

「私、家のお手伝いがあるの」と、一人だけ自転車を押しながら歩いていた真冬がばつが悪いように顔をしかめる。

「真冬ちゃんも稲刈り手伝ってるの?」

「うん、これでも朝早いんよ」

「そっか……弥生ちゃんは?」

「日曜はパパとママと一緒に河北市で映画見るから無理」

「え? なに見るの?」

「鬼切りの少年」

「いいなぁ、うち、映画館とか行ったことない」

「二人にお土産買ってこようか?」

「いいの?」

「いいよ」と、微笑む弥生。

「そう言えば、加恋ちゃんのお母さん、いつ赤ちゃん生まれるの?」

「う~ん、いつだろ。もう、お腹これぐらい大きくなってるけど」と、加恋は背中に背負っていたランドセルを胸に抱えながら妊婦の真似をして、加恋のランドセルを見ながら「加恋ちゃんがお姉ちゃんになるんかぁ」と弥生が呟く。

「男の子かな、女の子かな?」

「もう、これぐらい大きいならどっちか分かるんと違う?」

「……そうかなぁ。お母ちゃんは教えてくれないけど」

「私は弟が欲しいな。大きくなったら稲刈り手伝って貰う。弥生ちゃんは?」

「私は妹かな? 可愛いお洋服いっぱい着せてあげたい」

「うちは、……どっちでもいいや」と、自宅が目の前に見えてきた加恋は二人に手を振りながら、小走りに坂道を登り「また明日ねぇ~」と別れたのだった。

 玄関で靴を脱いで加恋がリビングに入ると、母親が洗濯物をたたみながら、その隣で三毛猫ミルクが日向ぼっこをして寝息を立てている。

「お母ちゃん、ただいまぁ」

「お帰り。洗面所でうがいと手洗いしなさい」

「は~い」と、椅子にランドセルを置いて、制服を脱いだ加恋は洗面所に向かう。

 洗面所でうがい、手洗いを済ませた加恋は、母親の側で寝転びながら三毛猫ミルクの下顎を撫でると、気持ちいいのか尻尾が左右に揺れる。

「お母ちゃん、お腹さわってもいい?」

「いいよ」

「どっちが生まれるん?」

「それは、生まれてくるまでの内緒よ」

「弥生ちゃん、日曜日に映画見に行くんだって」

「戸棚にクッキーあるわよ」

「ほんと?」

「牛乳もちゃんと飲むんよ」

「ミーコも起きて。じゃないと、わしゃわしゃするぞ~。わしゃわしゃ!」

「うにゃ~」

 気持ちよく午睡していた三毛猫ミルクは、加恋の全身マッサージで飛び起きると、しっぽを立てながら威嚇するも、加恋に気付くと足元にすり寄る。

「ミーコは、ドライフードね」と、台所の食器棚から取り出した猫皿にドライフードを入れ、加恋は冷蔵庫から牛乳とおやつのクッキーを戸棚から取り出す。

「今日は宿題ないの」

「ないよぉ~」

 加恋は猫皿からドライフードを一つまみして、三毛猫ミルクの口元に差し出しながら、小さな口で咀嚼する無防備な三毛猫ミルクの頭を撫でる。

 洗濯物をたたみ終えた母親は台所でエプロンを付けながら、冷蔵庫のパーシャル室から野菜や魚の切り身を取り出して夕飯の準備を始める。加恋は三毛猫ミルクを抱きかかえながらテレビを点けるも、まだ夕方の早い時間、ニュースやテレビドラマの再放送ばかりで加恋が見るようなアニメはまだ始まっていない。

「もう直ぐ赤ちゃん生まれるんよミーコ。ミーコは男の子がいい? それとも女の子がいい?」

「うにゃ~」

「うちはどっちでもいいよ。ミーコもお姉ちゃんになるね」

「うにゃにゃ」

「二階行こうか」

「二階行くなら、食べたもの片付けなさいよ」

「は~い」

「ランドセルも制服も持っていきなさい」

「は~い」

「制服は皺にならないように、ちゃんとハンガーに掛けときなさいよ」

「わかってるって」

「あんた、返事ばかりいいんだから」と、呆れる母親をよそに、加恋は牛乳を飲み干して、母親の隣で食器を洗う。

「今日のお夕飯なに?」

「いい白身魚が手に入ったから、アクアパッツァにしようかしら」

「カレーがよかったなぁ」

 冷蔵庫に貼ってある小学校の献立表を加恋は見るが、数日前にカレーを食べたばかりで、当分はカレーがないらしい。

「ミーコ、二階行くよ」

 加恋は荷物を持って、三毛猫ミルクと一緒に二階の自室へと向かったのだった。



 七時前には父親が帰宅して、加恋は夕飯を食べた後にすこしテレビを見ながら、母親に促されてお風呂に入る。風邪を引かないように洗面所で頭を乾かして二階の自室に上がるも、三毛猫ミルクの姿がどこにも見当たらない。勉強机の下や、ベッドの下はもちろんのこと、おもちゃの猫じゃらしで誘い出そうとするも気配がなく、加恋は階段を下りて一階に戻ったのだった。

「お母ちゃん、ミーコ知らない?」

「二階にいなかったんか?」

 台所で夕飯の片付けをしていた母親の代わりに、リビングでドラマの再放送を見ながらお茶を飲んでいる父親が返事をする。

「いない」

「もしかしたら、御崎みさきさんとこかもしれんね」

「御崎神社? こんな夜中に?」

「お父さんが子どもの頃はお母さん―――亡くなった加恋のおばあちゃんが教えてくれたんやけど、周辺に住んでる猫が夜中集まって、猫の集会を開くらしい」

「猫の集会? なにソレ!? うち、ちょっと行ってくる」

「ちょっと待ちなさい、こんな夜更けにどこ行くつもり?」

 流し台で食器を洗っていた母親が水道の水を止めて、タオルで手を拭きながら顔だけを加恋に向ける。

「だって~」

「お母さんが子どもの頃は天狗様に攫われた友達もおるんよ。あんたに何かあったらどうするの?」

「お父ちゃ~ん……」

「まぁまぁ、お母さん」と、娘に甘いのか父親は割って入り、日和見を貫きながら「天狗様もこの土地の守り神様だから、いまどき子どもを攫ったりしないよ」

「……お父さんは、ほんと加恋に甘いんだから」

「お父ちゃん大好きっ!」

「いや、あはは」

「行くんやったら、加恋せめて上着を羽織りなさい。十月になってから衣替えして洋服箪笥にジャンバー掛けてるやろ?」

「は~い」

 自室でジャンバーを羽織った加恋は、玄関口で靴に履き替える。

「懐中電灯持って行きなさいよ。外は真っ暗なんだから」

「わかってるって。あ、あった。行ってきます」

 十月の夜は肌寒く、田舎だけに民家の灯りがぽつぽつと点灯しているだけで、人口の灯りと言えば加恋が足元を照らしている懐中電灯ぐらいだ。人の気配はなく、その代わりに虫の泣き声、川の流れる音、これに加えて昼間だと猟銃の発砲音がどこかの山々から鳴り響く。

 加恋は田舎の夜が好きだった。雨上がりの夜が好きで、雲一つない夜空を見上げては、黄金色のお月様や星を見上げるのが好きだった。星が多すぎて夏の大三角形がどれなのか分からないが、冬になるとオリオン座の三ツ星や北斗七星を見つけるのが好きだった。だからなのか、母親が言う天狗のような不可思議な存在は信用してはいないが、その代わりにアニメに登場する女の子の姉妹がバス停で父親の帰りを待ちながら、隣で里芋の葉っぱを頭に載せている妖怪がいてもおかしくはないと思っている。

 加恋は畑や田んぼに囲まれた歩道を歩きながら御崎神社に辿り着く。石の鳥居が厳かに佇む先には、楠林を切り開いた坂道をコンクリートで敷き詰めて神聖な聖域を作り、加恋がいまより小さかった頃に「鳥居や参道の真ん中は神様の通る道やから歩いたらあかんよ」と、亡くなった祖母の言葉を思い出す。

加恋は隅の方を歩きながら坂道を上ると、なにやら境内が騒がしい。

「お前さんどしたんな、そのしっぽ」

「新田んとこの大きな犬おるやろ。散歩してたらいきなり噛みついてきよった」

「あそこのバカ犬には儂も耳を齧られたことがあるわ」

「それは難儀なことよ」

「まったく」

 加恋が境内まで登ると、本殿の賽銭箱の上に巨大な猫が一匹。十から二十匹ぐらいいそうな猫達が車座に、巨大な猫を中心に輪を作りながら各々の日常を語りだしているも、その中に三毛猫ミルクの姿が見当たらない。

「皆の衆……」と、巨大な猫が喋ると、さっきまで日常を語っていた猫達が一斉に黙り込んで巨大な猫を見上げる。

「儂がこの西国を管理して百年余り、そろそろ隠居をしようと思う」

「権平太さんが隠居やと?」

「いま権平太さんが隠居したら東国の奴等をどうするおつもりで」

「それより、権平太さんの後継人は見つかってるのか?」

「儂は無理じゃ」

「いや儂も」

 猫達がざわつくところを、強大な猫―――権平太が一喝する。

「儂の後継人はここに呼んどる。それよりも、さっきから妙な匂いが混じってるな」

「そうじゃ。これは人間の匂いや」

「人間や! 人間や!」と、猫達は次々にくんくんと小さな鼻で匂いを嗅ぎながら、境内で身を潜めていた加恋に猫達は一斉に視線を向ける。

「ネ、ネコが喋ってる!」

「儂たちの言葉までわかるとは……皆の衆、その人間の子どもを逃がしたらあかん! 噛み殺せ! 西国と言うてもここは四辻町。人間の子どもが一匹消えたところで、誰も神隠しとしか思わんやろ」

 権平太の指示の元、加恋に向かって猫達が襲い掛かる。

「ちょい、待ちなさいや」と、権平太の背後から透き通った声が聞こえると、一匹の三毛猫がひょいと本殿の石段を下りながら猫達の元に姿を現す。

「そうだな。儂の後継人となった初めての仕事をお前に与えよう。この人間の子どもを噛み殺せ」

「嫌よ」

「なんだと?」

「この子は、静留しずる様の血統よ」

「なに? あの、妖の頭目と恐れられた葉山家の静留様か?」

「そして、いまは私のご主人様なの」

 一匹の三毛猫が境内に降り立つと、加恋をいまにも襲い掛かろうとしていた猫達が道を開け、その中を三毛猫が加恋の元へと歩く。

「ミーコっ!」

「まったく、この子は……」三毛猫ミルクは加恋に呆れながら尻尾を左右に揺らす。

 ただ、その尻尾は、二又に分かれていたのだった。


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 三毛猫ミルクの朝は早い。

 葉山家が寝静まった深夜に加恋の部屋を捜索し、午前四時を回ったところで一度熟睡して、五時前には起き上がりながら加恋のベッドに乗って小窓から差し込む朝日を眺めて二度目の熟睡に入り、六時過ぎに目覚めると小さな肉球で加恋の頬を叩いて起こす。それでも起きない場合は小さな舌で加恋の頬を舐めながら、ところどころで甘噛みを入れると、まだ寝ぼけまなこの加恋に抱き寄せられて、頭や顎下を撫でられながら、布団の温かさも相まってまどろみの中に落ちる。

 しばらくして母親の声が一階から響いて加恋は起き上がり、制服に着替える足元を三毛猫ミルクはくるくる回る。

「もう、ミーコ邪魔」

「うにゃ~」

「昨日は喋ってたし、しっぽも二つあったのに、夢でも見てたのかな?」

「うにゃにゃ~」

 制服に着替えた加恋と一緒に、三毛猫ミルクは一階のリビングに降りると、テーブルには三人分の朝食が既に用意されていた。父親はテーブルの椅子に腰かけて新聞を読み、母親がドライフードを入れた猫皿を三毛猫ミルクに差し出す。三毛猫ミルクがドライフードに食いつくと、やはり親子なのだろう大きな手で母親は三毛猫ミルクの頭を撫でて「加恋もゆっくり食べなさい。お腹壊すよ」と言ってテーブルを囲んで朝食を食べる。

 八時前になると父親は会社勤務のため玄関で革靴に履き替えて出勤する。それを三毛猫ミルクが見送ると、後を追うようにランドセルを背負った加恋が勢いよく玄関を開けて、真冬と弥生の三人で小学校へ登校する。

 母親が掃除に洗濯をしている間、三毛猫ミルクは母親の邪魔にならないようにソファーに寝転んだり、掃除機の音に奇声を上げながらリビングの入口で母親を―――と言うより、騒音をまき散らす掃除機の行く末を監視して、恐る恐る近寄っては母親の後を追いながら、また波が引くように入口に隠れて頭だけを覗かせる。

 ワイドショーを母親と見ながら、三毛猫ミルクは一緒にお昼ご飯を食べる。

 お昼が過ぎると母親は夕飯の買い物に出かけて、一人お留守番をしている三毛猫ミルクはリビングのソファーで香箱座りになりながら瞼を閉じて寝息を立て、かと思うと二階の加恋の部屋にある、アトレチックと化したキャットタワーを登り、柱の中段にあるお気に入りの場所からベランダのドア越しに外の風景を眺めては加恋の帰りを待つ。

 母親より先に加恋が帰宅すると、待ち構えたかのように三毛猫ミルクが玄関まで駆け下りて、扉が開くと同時に加恋の足元をくるくる回りながら匂いを嗅いで、リビングまで加恋の後を追う。

「後で遊んであげるからちょっと待って」

 リビングの椅子にランドセルを置いて、制服を脱いだ加恋は買い物に出かけた母親の代わりに、外に干している洗濯物を取り込んで母親の真似をしながら皺を作らないように衣服をたたんでいく。洗濯物をたたみ終えると、台所の戸棚から加恋はお菓子と、三毛猫ミルクのドライフードを取り出して一緒に食べる。

 しばらくして母親が戻ってくると、加恋は得意げに折りたたまれた洗濯物を母親に見せながら、前のめりに頭を差し出す。

「えらい?」

「えらい、えらい」

母親が加恋の頭を優しく撫で終わると、買い物袋の中身を冷蔵庫の中に入れる。

 七時前に父親が仕事から帰宅して、加恋は父親と一緒にお風呂に入りながら、今日の楽しかったことや、学校での出来事を父親に話す。

 夕食を終えると、加恋は三毛猫ミルクと一緒に二階の自室で遊ぶ。

 ふと、玄関で気配を感じて階段を下りていくと父親が荷物を持って出て行くところだった。

「お父ちゃん、どこ行くの?」

「んん? あぁ、釣りよ。加恋も来るか?」

「行くっ!」

 洋服箪笥に掛けてあるジャンパーを羽織った加恋は、三毛猫ミルクに声をかける。

「ミーコ、お父ちゃん釣り行くって!」

「なに? 釣りですって!?」

「うわ、喋った! お父ちゃん、ミーコ喋った!」

「なに言うてるの加恋、猫は喋らんよ」

「えぇ~」

「無理もない。加恋は静留の血を強く受け継いだから私の声が聞こえるのよ」と、三毛猫ミルクは加恋に抱きかかえられる。「それより、マグロが食べたいわね」

「お父ちゃん、ミーコがマグロ食べたいって」

「マグロは漁船に乗らんと釣れんよ」

「カツオは?」

「カツオも同じよ」

「じゃぁ、鮭は?」

「鮭も同じよ」

「お父ちゃん、なに釣りに行くの?」

「なにって加恋、夜釣りと言えばアジ釣りやろ?」

「アジ?」

「御崎さんとこのお祭りが終わった夜に親戚みんな集まってお祝いしたの覚えてるか? 夕飯にお稲荷さんとアジのお寿司出て、加恋も食べてたやろ?」

「よく覚えてない」

「おばあちゃんが生きてて、加恋が保育園行くぐらいの頃だから無理もないか」と、父親は苦笑いをする。

「加恋、お母さんに行ってきますは?」

「お母ちゃん、行ってきます」

 リビングから母親の声が聞こえて、釣り竿にクーラーボックスを持った父親と加恋に抱きかかえられた三毛猫ミルクは夜釣りに向かう。



 十分ほど車を走らせて狐塚神社の近くにある港の堤防に辿り着いた父親は、加恋から見て親戚のおじさん達と数名で場所を取り、静かな波が打ち寄せる黒い海面に撒き餌を数回投げた後に釣り糸を垂らす。

 三毛猫ミルクを加恋のジャンパーから顔を出して、加恋は父親の隣で船を繋留めるボラードの上にちょこんと座りながら、不思議そうに父親を見ていた。

「お母ちゃんのお腹あんなに大きいのに、どうして釣りなの?」

「んん? あぁ、それはな……」と、竿を握る父親が灯台の光に照らされる海面を見ながら答える。「加恋がまだお母さんのお腹の中にいた時、お父さんも生まれてくる加恋やお母さんのためにお洗濯や夕飯を作ったりしたんよ」

「そうなの? それだったらお母さん手伝ってあげなよ」

「いや、お父さんが手伝うと、余計お母さんの仕事が増えるからね」

「……んん?」と、不思議そうに加恋は父親の顔を見る。

「そう言えば、この人は仕事ができるけど、家事一般はまるで駄目だったわね」

「お父ちゃん、家事苦手なの?」

「……あはは、よく知ってるね」

「ミーコが教えてくれた。洗濯物は皺だらけで、お夕飯は黒焦げで、大好きなサンマの見る影が無くなったって」

「お母さんがそう言ったの?」

「だからミーコが教えてくれた!」

「加恋、猫は喋らんよ」と、父親が言いかけて竿がしなると、父親の目の色が変わるのと同時に、間合いを図りながら竿を持ち上げると、サビキ仕掛けに二匹のアジが引っかかる。

「加恋、クーラーボックスの蓋開けて」

「わかった」と、加恋がクーラーボックスの蓋を開けると、父親が二匹のアジを中に入れて「これがサビキ釣りよ」自慢げに加恋を見る。一緒に夜釣りを楽しんでいた親戚のおじさん達も父親の後に続いてアジを釣り上げる。

「まぁ、だから……お母さんにとって、お父さんが何もしないのがお手伝いになるんよ」と、父親はどこか哀愁を漂わせる。「加恋もやってみるか?」

「やるっ!」と、加恋は父親の股の間に座り直す。

「先ずは撒き餌を海面にばら撒くのよ。次に仕掛けのサビキに餌を付けて、撒き餌カゴにもオキアミを入れるのよ」

「もう、ミーコ黙って」

「どうしたんな加恋?」

「なんでもない。もう投げていいの?」

「いいよ」

 餌を付けた釣り糸を黒い海面に投げると、加恋のジャンパーから頭だけを覗かせていた三毛猫ミルクが身を乗り出して釣り糸を凝視する。

「今日のおやつはマグロがいいわね」

「だからそんなのは釣れないって」

「みゃ~」

 数分が経過して釣り竿がしなると同時に加恋は一気に引き上げると、数個あるサビキの針に一匹だけ小魚が食い付いていた。

「お父ちゃん釣れたよ!」

「あぁ、これはイワシやね」

「イワシ?」

「下魚やな」

「えぇ~」と、加恋が残念がると、父親が竿を引き寄せながらイワシを外して海に返そうとするのを加恋が「海に返すの?」と父親を見上げる。

「うちに頂戴。ミーコが食べる」

「いいけど……ミルクはベッピンさんだから、そんなん食べんよ。それに、アニキサスっていう寄生虫がいるかもしれないから、お父ちゃんが血抜きしてあげる」と、父親はイワシのエラに指を突っ込んでアゴ部分を切断すると、さっきまで父親の手の中で大きく跳ねていたイワシが痙攣しておとなしくなり、その光景を凝視していた加恋は呆然しながらイワシを受け取ると、ジャンパーから頭だけを覗かしている三毛猫ミルクが飛び跳ねて加恋の手からイワシを奪う。

「あ、こら、ミーコっ!」

「生き物で遊んだらあかんよ」

 イワシを咥えて外に出た三毛猫ミルクを加恋が追いかけると、父親の声が背中から聞こえる。「海に落ちたらいかんよ」

「わかってるー」

 イワシを咥えた三毛猫ミルクは素早いもので、駐車している車の隙間に潜り込みながら、灯台の灯りだけが三毛猫ミルクの姿を照らし出す。

「もう、待ってよミーコ。海に落ちたらどうするの?」

「これでも私は西国を統括する猫又よ。海に落ちたりしないわよ」

「猫又って?」

「月の光を浴びると私は猫又としての妖力を取り戻すのよ。ほとんどの妖力は静留に、つまりはあなたのおばあちゃんに封印されているのだけれど」

「封印って、まるでアニメみたいやね」

「現にあなたは私の声が聞こえるでしょ?」

「うん」と、加恋が頷くと、背後から野良猫の気配を感じ取り、まるで加恋を守るように三毛猫ミルクが加恋の前に立ちはだかる。

「なんや、下魚の血の匂いに誘われて来てみたら先客がおったか」

「兄ちゃん! こいつ、この辺じゃ見たことないよ」

「あぁ、分かってる」と、二匹の野良猫のうち、兄猫が三毛猫ミルクを物色するようにゆっくりと近付いては、一定の距離を保ちながら円を描き、弟猫も兄猫に倣ってくるくる回る。

「お前さん、見かけない顔だな。西国の猫か?」

「それが、なにか?」

「掟を忘れたわけじゃないだろ?」

「ミーコ、掟って?」

「権平太を中心とした西国と、五郎太を中心とした東国で、私たちはずっと昔から縄張り戦争をしていたのよ。戦争は何十年も続いて、けれど、猫たちが傷つくだけで一向に終わらなかった。そこで、あなたのおばあちゃん―――静留が戦争を仲裁して私たちは和解することができたのよ」

「不可侵条約を忘れたわけじゃないだろ? どうして東国に来た?」

 三毛猫ミルクとの距離を保ちながら兄猫が睨む。

「一つ尻尾の分際で、分を弁えなさい」

「なんだと!?」

 月明りを浴びた三毛猫ミルクは封印された妖力を取り戻し、猫又と言う異名を持つように、妖力がもう一つの尻尾を作り上げる。

「兄ちゃんやばいよ!」

「わかってる! 貴様、俺たちを食うつもりか?」

「それもいいかもしれないわね」

「………………」

「嘘よ。私は、殺生をしに東国に来たわけではないのよ」

「だったら……」

「あなたが欲しいのは、この下魚でしょ?」

「俺たちは西国の施しを受けたりしない」

「私はあなたたちに危害を加えるつもりはないの。まさか、私の意図が分からないほど間抜けじゃないでしょ?」

「……いいだろ」

 三毛猫ミルクに差し出されたイワシを兄猫が口に咥えると、弟猫を連れて堤防から離れて行く。二匹の野良猫の臭いが港から消える頃に、三毛猫ミルクが身に纏っていた妖力で作っていた二又の尻尾が一つに戻る。

「ミーコ、イワシよかったの?」

「私はね加恋、なにも戦争をしたいわけじゃないし、誰の犠牲も出したくないのよ。あんな下魚で誰も傷つかないのならそれに越したことはないわ。それにね加恋、私は誰かを傷つけるより、あなたに抱かれて体中撫でられる方が好きなのよ」

「ミーコ……」

「その代わり、帰ったらチュールが食べたいわね」

「わかったけど、お母ちゃんには黙っといて」

「みゃ~」と、夜の堤防で三毛猫ミルクが鳴いたのだった。


                  3


 翌朝になると、いつもの日常に戻る。

 父親は会社に出勤して、加恋も仲のいい真冬と弥生と一緒に小学校に通い、午前の授業を受ける。分校で生徒の数が少ないせいか、四時限目の体育は一つ下のクラスである三年生と合同授業が決まりで、他に音楽の授業もそうだった。

 五時限目は自由時間になるが、各々が好きな事をしていい訳ではなく、教卓の前に担任が立つ。

「みなさんはハロウィンを知っていますか?」

「知ってる~いたずらしてお菓子貰うんでしょ?」

「ちょっと違いますね」

「トラックの上で裸になるやつ。去年テレビで見た」

「……みなさんは、あんな大人になってはいけませんよ」五人しかいない生徒が挙手して次から次に答えるが、小学生の珍答に担任が苦笑いを浮かべる。「以前注文した衣装の生地が届きましたので、順番に受け取りして下さい」

 担任が生徒に受け渡す一つ一つ包装された衣装生地は、十月三十一日のハロウィンで全校生徒が仮装パーティーをするため予め注文していた物で、ミシンを使えない一、二年生はビニール袋にマジックで模様を描くだけの衣装を作るが、三年生から高学年にかけては家庭科用の衣装を注文する事ができる。

 人数の少ない分校のため、男女合わせて五人の生徒が机を寄せ合うと、各々ビニール袋から生地を取り出す。加恋が取り出したのは、かぼちゃ色の生地に紺色の先割れスカートと言う、いわゆる魔女のドレスだ。

仲のいい真冬と弥生もお揃いの魔女衣装を注文したのだった。

「加恋ちゃん、手先器用だね」

「そんなことないよ」

「粘土は下手だけどね」

「……お母ちゃんが結婚するまでは裁縫の会社で働いてたからかな? 布切ってつなぎ目をミシンで縫うだけだし。粘土は作り方、載ってないから」

「そう言えば、折り紙を折るのもうまいよね」

 仲のいい真冬と弥生と一緒にお喋りをしながら、フェルト生地の布を加恋は裁縫ばさみで切り分けていく。

「加恋ちゃんはお母さんの才能を受け継いでるんかもしれんね」

 弥生は家族で昨日見に行ったアニメの映画に感銘を受けたのか、フェルト生地の布を切りながら加恋を見て微笑む。

「そう言えばミーコがね……」

「ミルクちゃんがどうしたん?」

「ん、あ、いや、……何でもない」

「変な加恋ちゃん」

「そう言えば、お母ちゃんが弥生ちゃんと真冬ちゃんに渡したいものがあるから、今日の放課後、家に寄ってくれる?」

「私はいいよ」

「私もいいけど、どうしたん?」

「昨日、お父ちゃんと釣りに行ったんよ。いっぱいお魚釣ったから、ご近所に配ってもまだ余ってるから、真冬ちゃんと弥生ちゃんにあげなさいって」

「貰っていいの?」

「いいよ」

「加恋ちゃん、釣りとかするんやね」

「うん、楽しかったっ!」



 放課後になると、ランドセルに教科書と、まだ仮縫い途中のハロウィン衣装を詰め込みながら、加恋は仲のいい真冬と弥生と一緒に下校する。

 学校までの距離が二キロ以上ある弥生は自転車を突きながら、授業が始まる前に弥生から貰った映画館のキーホルダーを指先で遊んでいる加恋は二人との下校を楽しむ。家に着いた加恋はランドセルをリビングの椅子に置いて、血抜きしたアジを真冬と弥生に渡したのだった。

「また明日ね~」と、加恋が家に戻ろうとした時、猫の泣き声が聞こえる。加恋が耳を澄ませて猫の気配を探ると、家の手前の坂道から逸れた草むらの近くで、三毛猫ミルクよりもまだ小さい二匹の子猫が泣いていたのだ。

「小さい! 可愛い!」

 加恋が近づこうとすると、二匹の猫はじゃれ合いながら離れては加恋の様子を伺い、それを数度繰り返しながら、加恋は二匹の子猫に誘われると気付けば御崎神社の鳥居まで辿り着いていたのだった。

 御崎神社の鳥居の前で、加恋はようやく二匹の猫の頭を撫でる事が出来て、三毛猫ミルクで培ったマッサージを披露する。特に顎下が気持ちいいのか、二匹の猫は加恋に抱きかかえながら放心するも、気力で加恋の腕から飛び降りてよたよたとコンクリートの坂道を登る。

 好奇心から加恋も二匹の猫の後を付いて行き、境内に向かうと本殿の賽銭箱の上に化け猫の風貌で権平太がドスンと佇、あの夜の集会程ではないが数匹の猫が権平太を守るように石段や社務所の陰に隠れている。

「二人ともご苦労」

「にゃ~」と、二匹の子猫はよたよたと加恋の足元に擦り寄り、まだ高揚しているのか加恋に甘えては胸元に抱き寄せられる。

「う~ん、権太郎?」

「……権平太じゃ。我らが猫の王」

「猫の王? うちが」

「左様」と、賽銭箱の上から権平太は短く言葉を切る。

「そなたは」

「加恋」

「加恋、そなたは静留様の血統であろう?」

「……難しいことはわからんけど、うちのおばあちゃんよ」

「よい。加恋、どうか儂たちに力を貸してくれんか?」

「……んん?」

「昔々、西国と東国が争っていたのは知っておるな?」

「……なんとなく」

「それを平和的に解決したのが静留様じゃ」

「おばあちゃんが」

「静留様は強い神通力の持ち主だった。多くの妖を払うこともできたし、その力のゆえんか、いつもさびしそうに人間どもとは交わらず、儂のような妖たちと一緒にいる方が落ち着くと言っておった」

 権平太は目を細めて静留と共にいた時間を思い出す。

「加恋、そなたは静留様に似ておる」

「うちが……?」

「ほんに、静留様の血を色濃く継いだのであろう。儂たちの声は静留様にしか聞こえんかった。どうか、助けてほしいのじゃ」

「助ける?」

「そう、儂たちを助けてほしい。東国と不可侵条約を結んでおるとは言え、静留様はもうおらん。東国の奴等がいつ条約を破り、攻めてくるかもしれん」

「ミーコは戦争なんてしたくないって言ってた! 昨日だってお父ちゃんと夜釣りで港に行ったけど、ミーコは自分のイワシを野良猫にあげてた!」

「それは本当か……」

 権平太が驚き、猫達がざわめく。

「港と言えば東国か」「いや、しかし」「なに、これは好都合……」

「どうしたの?」

「いや、なに……儂たちも三毛猫ミルクと同じく東国と戦争をしたいわけではない。じゃが、言葉が悪かったのも事実……加恋、そなたには西国を悪い猫から守って欲しいのじゃ」

「だから、さっきも言ったけど」

「その代わり、儂の力を分け与えよう。そなたには魔法と言う言葉の方がわかりやすいじゃろ」

「魔法!? ステッキから炎を出したり、空を飛んだりできるの?」

「儂の神通力さえあればなんでも叶うじゃろ」

「ほんとに?」

「あぁ」と権平太が頷く。

「その代わり、儂の神通力はいつでも使用することができるわけではない。何かの媒体を依り代にして、それを身に着けている時に限るが」

「それなら、このキーホルダーがいい。弥生ちゃんから貰った」

「ほう。いいじゃろ」

「あと、魔法で変身とかできないの?」

「変身……つまり、変化のことか? 儂たちのような姿に化けるつもりか?」

「そうじゃなくて……えっと、猫にもなってみたいけど」

「まぁ、よい。なら、加恋、儂の額を触って思い浮かべるのじゃ」

 いままで賽銭箱の上に座っていた権平太が石段を下って加恋の元に歩み寄る。権平太が頭を差し出して、加恋が膝を崩して権平太の額に触れると瞳を閉じる。

 リビングの椅子に置いたままのランドセルを思い浮かべる。

「目を開いてよいぞ」

「―――え?」

加恋が見る日曜早朝のアニメみたいな煙が加恋と権平太を包み込み、まだ仮縫い途中だったはずのハロウィンドレスが完成して、加恋の身を包んだのだった。

「―――ほう」

「なにこれ!? 可愛い!!」

「これが儂の神通力よ」

「魔法のステッキとかないの? これで空飛べるの? ねぇ! ねぇ!」

「ぐ、ぐるしい……」

「あぁ、ごめん」

「ごほごほ……そもそも神通力と言っておるじゃろ。そんなに空が飛びたいなら天狗の下駄でも履くことじゃ。それなら千里の山もひとっ飛びじゃろ」

「えぇ……。それで、結局なにができるの?」

「神通力と言えば未来予知が定番じゃな」

「未来予知?」

「簡単に言えば未来が視えるようになることじゃ」

「そんなん見てどうするの?」

「じゃから、未来が視えれば災害を未然に防げるじゃろ?」

「ふ~ん」

 あまり興味がないのか、加恋は曖昧に返事をする。

「儂は加恋しかおらんと思ったのじゃがな」

「え?」

「ほれ、加恋が毎週見ているアニメの女の子みたいに、悪者から世界を救えるヒロインは」

「権太郎、知ってるの!?」

「……権平太じゃ」

「そっか、うちも魔法の力で悪い奴からみんなを助けることができるんや」

 加恋はハロウィンドレスに身を包んだまま瞳を輝かせて、その足元で権平太は目を細めて加恋を見つめながら、にやりと嗤ったのだった。


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