四辻町四丁目の朱雀庵 第4話 紫苑の花

                 ◆◇◆◇◆


                   1


 金縛りみたいに意識はしっかりとしているというのに身体の自由が利かずに、いつもこういう時に限り女性の歔欷きょきの声が辺りに満ちて、あぁ、これは夢なのだと白石しらいし哲也てつやは思う。

 八畳間の畳の隅で、藤色の着物に身を包んだ女性が袖で顔隠しながら見せる紅涙こうるいは、春の青葉から滴る雫よりも美しく、それなのにどうして悲しそうなのだろうと哲也は思うも声が出ない。腕を伸ばしたら抱き締めてあげられるのだろうか、結局のところ藤色の着物を着た女性はただ泣くばかりで、ゆっくりと哲也は目覚める。



 九月に入って暦の上では秋だというのに、夏の残暑はいまだ衰える事を知らずに

日差しの強い屋外を通り過ぎる若者は、一月前にテレビや雑誌で紹介した夏色コーデ姿のまま暑さを耐え忍び、それは河北大学でも変わらない。

 授業中のほとんど誰もいない食堂で、ぬるくなったタピオカミルクティーを傍らに哲也は課題のレポートに手を付ける。大学二年生の哲也は少し前に二十歳になったばかりだが、将来何になりたいのか明確な目的がまだあやふやで、市内の大学を選んだのも海と山に囲まれた田舎町の四辻町から出て行きたかったからだ。

 大学に進学すれば自ずと将来何がしたいのかわかるのではないのかと、淡い期待をよそに一年と半年が過ぎようとしている。

「講義いないと思ったらこんなとこにいたのかよ」

「……隆太?」と、哲也が見上げると大学に入学して知り合った池峰いけみね隆太りゅうたが見知らぬ女生徒を二人はべらしていた。

「なにやってんの?」

「課題だよ。週明け提出だろ?」

「あぁ、森下ちゃんの」

「で、そっちの二人は?」

「俺の彼女の宮園みやぞの明美あけみと、その友達の佐倉さくらハナちゃん」

「こんにちは」と、ハナが会釈して「きれいな字ですね」と哲也のまとめたノートを見下ろした。

「そうでもないよ」書きかけのノートを閉じながら哲也は否定する。

哲也はハナを見上げて「花が好きなの?」と聞いた。

「え? うん。実家花屋さんだから。駅前のフラワーショップSAKURA」

「そうなんだ」

「二人、初対面だろ? 妙に気が合ってんじゃん」

「うるさい隆太」

「なんなら、久しぶりにコンパ開いちゃう?」

「ボクが騒がしいの苦手だって知ってるだろ?」

「いいんだよ。お前、俺ほどじゃないけど顔良いから他の女が寄ってくる」

「まさか私がいながら浮気なんてしないわよね?」

「し、しないしない。ハナちゃんも来るだろ?」

「え? ……う、うん」と、ハナは曖昧な返事をして哲也に助けを求めようとするも、隆太の中では既に確定事項なのだろう、ポケットからスマホを取り出して片っ端から知り合いにLINEメッセージを送っている。

「無理に付き合わなくていいよ。あいつ見た目あんなだから誤解されやすいけど、中身は単純で女性のことしか考えてない、ただのバカだから」

「そう、なんだ……」と、ハナが曖昧な返事をするも、隆太の彼女である明美が睨んでいるのを哲也は見逃さなかった。

「いいじゃん、行こうよハナぁ」

「ちょ、明美?」

「ハナは未成年だからウーロン茶しか飲めないけど、ねぇ隆太もちろん割り勘なんて言わないわよね」

「……あ? あぁ、もちろん男持ちに決まってるだろ?」

「やった~」と喜ぶ明美をよそに、哲也は心の内で「合コンかよ」と呟いて、取り敢えず隅の方でおとなしくしておこうと決め込む。

「それで、人数集まった?」

「文学部の沢下に、教育学部の松屋、あと国際学部の平沢だろ?」

「イケメンいないじゃない」

「いや、ここにいるだろ?」

「は?」と、隆太の顔を見た明美の顔が引きつる。

「佐倉さんも大変だね」

「……うん。明美も悪い子じゃないんだけど」

「二人は幼馴染か何か?」

「うん。家が隣同士で、子どもの頃から一緒にいるの」

「そうなんだ」

「お楽しみのところ悪いけど、LINEグループ作ったからメンバーに参加してくれ」

 哲也がカバンの奥からスマホを取り出してLINEを開いてメンバーに参加する。

「なによ、このグループ名」

「いや、かっこいいだろ?」

「可愛くないわよ。しかもなによ、このアイコン。ちょっと貸して」

 明美が隆太のスマホを取り上げると、親指だけで操作しながら「ハナぁ、ちょっとこっち来てぇ」と、二人肩を寄せ合いながらアイコン用の写真を撮っている。

「できたわよ。ほら」

「……どうして、アイコンが明美とハナちゃんなんだよ」

「だって、可愛いでしょ?」

「否定はしないが」

「さっきよりマシになったからいいじゃないか」

「へぇ~、あんたいい目してんじゃん。まさかハナ狙い?」

「出会って直ぐにそういう感情はないよ」

「ハナも気を付けな。あんな優男でも、しょせん男は狼なのよ」

「う、うん……」

「もう、こんな時間か」と、哲也のスマホが振動した。哲也がスマホのアラームを解除して荷物をカバンに詰め込み、飲みかけのタピオカミルクティーを手に持つ。

「これから何かあるのか?」

「バイトだよ、十三時から。飯食って支度したら直ぐだ」

「おいおい学食だろ、ここは?」

「さっきも言ったけど、騒がしいのは苦手なんだボクは」

「なにアレ、感じ悪ぅ」と、背中から明美の声が聞こえるが哲也は無視をして食堂からから出て行くとこで、カバンの中でスマホのアラームが鳴り響き、間違ってスムーズにしていたのかと哲也がスマホを取ると母親からの着信だった。

「……もしもし、母さん? え? あ、いま大学。うん、ちゃんとしてる。え? ばあちゃんが……あ、わかった」

「どうした?」

「……ばあちゃんが入院した」



 四辻町は河北駅から普通電車で一時間二十分かかるが、準急快速電車で南下松駅まで乗って、折り返しの普通電車に乗り換えると四十分弱で到達する。これは地元民しか知らない方法で、急いでいた哲也は四辻町駅の有人改札口で駅員に切符を渡して駅から出ると、アスファルトの熱気で空気が淀み、タクシーがU字に数台停車して交通手段の少ない四辻町で乗客を待ち構える。

 哲也は横断信号を渡って、四辻町総合病院に向かった。

 消毒液の匂いが広がる病院のエレベーターで五階に上ると、哲也は部屋を確認しながら、『白石しらいし菊乃きくの』のネームプレートを見つけて、個室の扉を開ける。

「ばあちゃん」

「あら、一範かずのりさん」

「いや、孫の哲也だよ」

「まぁ、哲也ちゃん、どうしたんね?」

「お見舞いだよ。ばあちゃんが入院したって母さんから連絡があって」

「まぁ、ほうけぇ?」と、テーブルに置いてある老眼鏡を菊乃が手に取りながら「ただの熱中症なんじょ、心配せんでもええのに」哲也を見て微笑む。

「安静にしなよ。熱中症だってバカにできないんだからさ。俺みたいな若い奴でも毎年死んでるってニュースになってるんだから」

「ほうけぇ?」

 体を起こそうとする菊乃を、哲也は無理やり寝かしつかせてパイプ椅子に座る。

「熱くない? 看護師さんに言ってこようか?」

「平気よ」

「母さんは?」

「屋上で洗濯物干しに行っとんじょ」

「そっか……あ、お見舞いなのに手土産持ってくるの忘れた」

「そんなんええのに。哲也ちゃんが来てくれたんやけん、もう何年振りやろね」

「大学行く前だったから一年と少しだと思う」

「ほうけぇ? ずいぶん見んうちに背おっきくなったねぇ」

「んん? どうだろ? 百八十手前だと思うけど」

「ほんま、おっきくなったね」と、菊乃は微笑む。

「お花にも熱中症はあるんやろかね」

「どうしたん?」

「おばあちゃん家の庭先に柿の木があるやろ?」

「うん」

「納屋があって、その側で紫苑の花がこの季節になると紫色の花咲かすんやけど、今年は咲いてないんよ」

「……うん」

「ここ何十年と咲いとったのに、お花にも熱中症あるんやろかね」

 菊乃は哲也の顔を見上げながら、庭先に植えている紫苑の花を思い浮かべているのだろう、その表情からは哀感が漂いながら、哲也は菊乃の手を握った。皺皺の手の甲に欠陥が浮かび上がってとても熱く、菊乃も哲也の手を握り返す。

 菊乃の手の甲から延びるチューブが点滴に繋がっていた。

「さびしいねぇ、大事なお花やのにねぇ」と、菊乃は寝息を立てる。

「ばあちゃん……」

 握っていた菊乃の手が弱まり、哲也はふとんを掛け直した。

「あら、あんた来てたん?」

「母さん……」

「おばあちゃん、いま寝たら夜眠れんようなるよ。はよ起きなさい、もう五時やけん看護師さんがお夕飯持ってくるよ」

 洗濯籠を置いた母親が菊乃に呼びかける。

「あんた今日どうする? おばあちゃん家に泊まるけ?」

「いや、ばあちゃんの顔も見たしもう帰るよ」

「あんたね……ちょっと、こっち来て」と、乱暴に腕を掴まれた哲也は廊下に出て、辺りを気にしているのか母親は左右に目を動かした後に哲也を見つめる。

「おばあちゃん、大腸癌なんじょ」

「癌? え? 熱中症やないん?」

「ちゃうぇ。おばあちゃんには熱中症って嘘の病気教えてるけど、じゃ、なかったら個室なはずないやろ?」菊乃に聞かれていないか気にしながら母親は「今日は泊まりなさい。九月の大型連休シルバーウィークあるやろ? 敬老の日なんやから、またお見舞いに来なさい」

「わかった」

「それで大学の方はどうなん? ちゃんとご飯食べてるん?」

 母親の愚痴を聞きながら哲也は四辻町の菊乃の家に泊まる事にしたのだった。


                  2


 休日を四辻町で過ごした週明けの月曜日、哲也は大学をさぼった。菊乃の家の客間で眠っていた哲也は夢の中で藤色の着物を着た女性は普段と変わらず、袖で隠した顔から歔欷の声が辺りに満ちると、予想していない突然の金縛りに哲也は息をする事ができなかった。

 久しぶりの畳に首を寝違えて、菊乃の大腸癌の事に加えて、一人暮らしで蓄積した疲労のせいなのか、哲也は昼過ぎまで眠っていたのだ。大学に行く事を気乗りしない哲也は、軽くシャワーを浴びた後に遅い朝食を取りながらバイト先へと向かう。

 喫茶『千夜一夜せんやいちや』は大学から離れた駅前の河北中央広場を横切り、商店街から外れた閑寂とした場所に佇んでいる。

「おはようございます店長」

「やぁ白石くん、休日は大変だったみたいだね」

「え? あ、はい。すみませんでした。それとこれ母親からです」

「おや、こんなにいっぱい。ゴーヤにさつまいもにしいたけ秋野菜がこんなに。それに浅漬けも、貰ってもいいの?」

「ボク一人じゃ腐らせるだけなので」

「うん、大切に頂くとするよ。いまは、ちょうど昼間の客が帰ったとこだから、奥で着替えてきなさい」

「はい」と、返事をして哲也はスタッフルームの更衣室で制服に着替える。

 喫茶『千夜一夜』は、定年を迎えた店長―――やなぎ総一郎そういちろうが娯楽で開いた喫茶店で、客のほとんどが顔なじみだったり、近くの工場で働いている従業員が多く、昼間を過ぎたこの時間、哲也は倉庫から珈琲豆の入った麻袋を運んだり、納品のチェックを行ったり、主に力仕事を引き受けている。

「そういえば白石くんはお昼食べた?」

「あ、はい。コンビニの菓子パンをすこし」

「それだとお腹空くでしょ? 何か作ろうか?」

「大丈夫ですよ。それにまだバイト時間なので」

「そう言えば、なんでうちで働こうと思ったの?」

 力仕事を終えて、テーブル席を拭いていた哲也が総一郎を見る。「ボク、騒がしいの苦手なんです。店長の喫茶店は趣もあって落ち着いていて、商店街から外れて一通りもすくなくて、玄関先で求人募集してたから」

「あぁ、確かぎっくり腰で動けなくなったときに、家内が勝手に募集したんだったか。まさか、君みたいな若い子が応募してくるなんて思わなかったよ」

「ご迷惑でしたか?」

「いや、その逆だよ。凄く助かっている。ただ、バイト代が安くて申し訳なくてね」

「特に気にしてませんよ、最低賃金は貰ってるし、残業代も出るので」

「今日はもうお客さん来ないかなぁ」

「どうでしょう」

「最近はお嬢さん方のお客さんも増えたんだけどね」

「そうなんですか?」

「……白石くん、ちょっとこっち来て」と、総一郎はカウンターにカレーライスとアイスコーヒーを置く。

「店長? 頼んでませんけど」

「店長オリジナルカレーとアイスコーヒー。どうせ夕方までお客さん来ないから」

「いただきます」

 タオルで手を拭きながら哲也はカウンターに座る。

 香ばしい匂いが千夜一夜の中に広がって、哲也がスプーンを持つと同時に、入口のドアが開く。

「お、白石やっぱここにいたか」

「隆太?」

「お前、今度は学校さぼりかよ。グループLINEも既読スルーだし、……ばあちゃんどうだったんだ?」

「大腸癌だった」

「そっか……、あ、俺も同じのお願いします」

 哲也の隣に座った隆太が注文すると、総一郎は訝しげに隆太を見ながら、目をぱちくりとして今度は哲也を見る。「ボクの友達なんです」

「そうなの?」と、店長はカレーライスとアイスコーヒーを用意する。

「それでコンパの日程が決まったんだけど」

「悪いけど、ボクはそれどころじゃない」

「まぁ、いいじゃん。お前来ないと、ハナちゃん誰かに取られるぞ」

「……佐倉さんは関係ないだろ? それに俺には関係ない」

「あ、怒った?」

「悪い……」

「KAWAKITAモール十階の黒木屋、金曜日の夕方十八時。ハナちゃんも楽しみにしてるんだから絶対来いよ。じゃぁ、俺はこれで、カレーおいしかったっす」

「合計で千二十三円ね」

「じゃぁ、千三十円で」

「はい、おつり」と、隆太は店長からお釣りを受け取って千夜一夜から出て行く。

「白石くんにもあんな友達がいたんだね」

「……なんかすみません」

「いいよ、気にしていない。それにしても、嵐が過ぎ去った後みたいだね」と、総一郎は隆太が出て行った玄関を見ながら、くすりと笑ったのだった。



 大学で講義を受けながら課題を提出して、シフトに合わせてバイトをこなしていると時間が経つのが早く、哲也は母親を通じて菊乃の容態を確認していると、いつの間にか金曜日になり、大学の講義が終わり帰り支度をしている哲也の元に隆太と、隆太の彼女である明美、それにハナが現れた。四人はKAWAKITAモールでコンパまでの時間を潰して、黒木屋の入口で他のメンバーと合流する。

 幹事役の隆太がお酒と食べ物を注文して、自己紹介がてらにアイスブレイクを披露しながら、いくつかの出し物の後に定番の王様ゲームが始まり、ようやく食器やグラスが空になる頃に、哲也もあまり飲まないお酒に場の雰囲気で微酔を帯びる。

「じゃぁ、次は白石な」

「んん? なんだっけ?」

「怖い話だよ」

「あぁ、……怖い話か」と、ハイボールの入ったグラスをテーブルにおいて「最近夢を見るんだよね」と、哲也は食器の隅に転がっている軟骨のから揚げを突く。

「それも同じ夢……藤色の着物を着た女の人が、毎夜泣いている夢」

「なにそれぇ~、気持ち悪いぃ」

「ばあちゃんが癌になって入院してるんだけど、そのお見舞いで田舎に帰って、ばあちゃん家の客間で寝てたら、いままで以上にはっきりと着物の女性を見たんだ。そしたら、全身金縛りに遭った」

「それだけ?」

「目が覚めたら首を寝違えてた」

「いや、それだけ?」

「それだけだよ。現にボクは生きてるだろ?」

「オチは?」

「オチがないのがオチ」

「何だよそれ」と、周りから笑い声に聞こえる。

「じゃぁ、大取りは俺ってことで」と、隆太が意気揚々に発泡酒を煽る。

「お前等、四辻町って知ってるか?」

「四辻……なに?」「知らない」「そこがどうしたんだ?」

 隆太が周囲を見渡して、口元を拭く。

「河北市からずっと南に行ったど田舎だよ。それぐらい知っとけ。それで、そこの商店街には神様がいるんだよ」

「ここは日本なんだから、神様ぐらいどこにでもいるだろ?」「私、この前キレイな羽の生えた天使様見た」「それは、ただのペテン師だろ?」

「落ち着け、酔っ払いども。それで四辻町の商店街で神様に会うと何でも願いが叶うって噂だ」

「うっそっ!? じゃぁ、社長令嬢になりたい。ハナはぁ?」

「明美……お酒臭い……」

「酔ってませ~ん」と、明美はハナに絡む。

「で、その神様に会うには幾つかの条件が必要なんだ」

「四時四十四分だろ?」

「哲也?」

「そう言えば、子どもの頃ばあちゃんが言ってたっけ? 四時四十四分に商店街のシャッター通りにある、朱雀庵すざくあんの中に入ると神様に会えるって」

「おいおい、俺でもネットで調べた都市伝説だぞ。お前、どうやって?」

「言ってなかったっけ? ボクの田舎、四辻町」

「マジかよ。今度連れてってくれよ」

「構わないけど、神様も邪なお願いは叶えてくれないよ」と、ハイボールがわずかに入っているグラスを、哲也は斜めに傾けながら返答したのだった。


                  3


 哲也は自室のベッドで目が覚める。

「……ボク、どうやって」と、哲也がベッドから体を起こしてコンパを思い出そうとすると、いつの間にか酩酊していたのだろう、どのように帰宅したのか思い出せず、遮光カーテンの掛かっているベランダの窓、絨毯の敷いたフローリングを見渡して、廊下の台所からいい匂いが漂ってくる。

「誰かいる……」

「あ、おはようございます。白石さん」

「佐倉、さん……?」

「もう直ぐ起きると思って、お台所お借りしていました」と、私服姿のハナがお鍋を持ってリビングに入ってくる。

「ちょこっと雑炊」

「お父さんもよく二日酔いするんですけど、そんな時はよく雑炊を作ってたんです」

「そうなんだ。うちも、風邪ひいたときは雑炊だったっけ。でも、雑炊の素なんてこの部屋に置いてなかったでしょ?」

「近くのコンビニで買ってきました。冷蔵庫に入っていた秋野菜使っちゃいました」

「ごめん……」

「いえ、冷めないうちにどうぞ」

 レンゲで一口掬って、哲也は雑炊を食べる。

「あふっ」

「大丈夫ですか? なにか飲み物持ってきますね」

「いや、平気」と、哲也は雑炊を一口食べて、向かい合うハナを見つめながら「んん? どうして佐倉さんがここにいるの?」

「ハナでいいですよ」

「だったらボクのことも哲也でいいし、同い年なんだからため口でいい……じゃなくて、どうしてハナちゃんがここにいるの?」

「あ、それはですね」と、ハナは昨日のコンパの事を口にして、哲也が酩酊めいていしていた事を口実に、悪知恵を働かせてホテル街に向かった隆太と明美、いつの間にか二人きりになったハナは隆太から哲也の自宅住所を教えて貰ってタクシーを拾ったのだった。

「なんか、ほんとごめん……」

「いえ、気にしてないから」

「いや、俺、酔うと抱きつき癖あるから」

「哲也君、いま俺って」

「あ……家族とか気を許した人の前だと、たまに一人称が変わるんだ……じゃなくて、俺、ハナちゃんになんか変なことしなかった?」

「大丈夫です。哲也君、部屋に戻るなりベッドで熟睡してましたから」

「……そう」と、哲也は雑炊を平らげる。「送っていくよ。親御さんも心配してるでしょ?」

「それなら大丈夫です。お母さんには明美の家に泊まるってLINE送ったので」

 食べ終わった食器をハナが受け取って台所に、その間に哲也はクローゼットから私服を取り出して着替える。ワックスで寝癖を軽く整えて、ハナとアパートの玄関を出ると、既にお昼を過ぎているのか太陽が東に傾いていた。

 哲也は大きなあくびを一つして、手の平で口元を隠す。

「送って貰わなくても大丈夫でしたのに」

「ハナちゃんの家って駅前でしょ?」と、歩道を歩いていた哲也はハナの顔を見下ろす。「ボクもちょうど、四辻町に向かうとこだったから」

「おばあちゃんは大丈夫ですか?」

「どうだろ……母さんからのLINEだと、もう直ぐ手術があるらしい」

「きっと大丈夫ですよ」

「ありがと」

 二人で商店街の中を歩いて、河北中央広場に隣接した歩道を抜けると、小走りにハナが駆け出す。

「私の家、直ぐそこなので」

 駆け出したハナの先には『フラワーショップSAKURA』と看板を掲げる花屋があり、赤や青の小花を植えたプランターや鉢植えが玄関先を彩る。

「ちょっと待って」と、哲也はハナを呼び止める。

「どうしました?」

「あ、いや、ばあちゃん家で毎年咲いている花があるんだけど、今年は咲いていないんだ。原因とかわからないかな」

「う~ん」と、ハナは首を傾げて哲也を見る。「なんの花か分かりますか?」

「いや、ちょっと忘れた。紫色をした花だったかと思う」

「……何とも言えませんけど、日当たりが悪いのかもしれません」

「そっか。あ、あと、お見舞い用の花束欲しいんだけど」

「今の季節だと、ガーベラがちょうどいいかな。お見舞い用だと根付草はダメだし、三千円ぐらいになるけど大丈夫?」

「あぁ、大丈夫」

 哲也が言い終えると、温室の裏から小さなバスケットを取り出して給水スポンジを水に浸しながら、ハナは幾本のガーベラを取り出して茎を斜めに切る。十分水の浸った給水スポンジをバスケットの中に入れて、白色や黄色のガーベラを中心に手際よく、ワイヤーやホッチキスで形作ったドラセナの葉で縁側を埋めていく。

「できました」

「すごいうまいね」

「あは、ありがとうございます」

「哲也君はガーベラの花ことば知っていますか?」

「いや、知らないけど」

「白いガーベラは希望、黄色のガーベラはやさしさです。おばあさんの症状が良くなるといいですね」

「あぁ、ありがと。ばあちゃんも喜ぶよ」



 ハナから受け取ったガーベラのフラワーアレンジメントを、哲也は手に持ったまま四辻町に向かう。横断歩道を渡って四辻町総合病院の五階、哲也は菊乃が入院している個室の中に入った。

「おばあちゃん、ゆっくりでいいからご飯食べなさい。野菜は? かぼちゃも甘くておいしいんじょ」

「ばあちゃん?」

「哲也、やっと来たんけ?」

「う、うん……」

「おばあちゃん、ゆっくり食べなさいよ」と、母親が菊乃の口元をティッシュで拭いた後に、哲也の手を引く。

「やっぱり匂うけ?」

「なにこの匂い」

「おばあちゃん、おしめしとるんよ。他にもお見舞いに来る人がおるから消臭剤使とんやけど」

「ばあちゃんは大丈夫なん?」

「あんたは気にせんでええ」と、母親はにっこりと微笑み、「それより、おばあちゃんに挨拶しなさい。手に持ってるそれ、どうしたんじぇ?」

「お見舞いの花だよ」

「まぁ、あんたにもそんな気遣いあったんやね」と、母親は哲也から受け取ったフラワーアレンジメントを菊乃に見せて、「おばあちゃん見て、きれいなお花やね。哲也が持ってきたんじょ」

「まぁ、きれいなガーベラやねぇ。哲也ちゃんありがとう」

「大学に花屋の友達がいるんだよ」

「まぁ、哲也ちゃんの彼女け?」

「そんなんじゃないよ」

「ほうけぇ?」と、菊乃は微笑みながら「哲也ちゃんも何か食べるけ?」自分の小鉢を差し出そうとして、それを母親が制する。「これはおばあちゃんのやろ? 哲也はお家に帰ってから食べるからええんよ」

 母親のほう助により菊乃は食事を終える。

「おばあちゃん、いっぱい食べたねぇ。便出るけ?」

「まだ平気よ」

「ちょっと哲也を家まで送っていくから、何かあったらボタン押して看護師さん呼ぶんじょ」

「ばあちゃん、また明日来るから」

「楽しみにしとるわ」と、菊乃は温顔の表情で哲也を見つめる。



 哲也は母親の車で菊乃の家まで帰る。

 スーパーで夕飯の買い物をして、田舎の町はどこか寂しい。

哲也は最初、都会と違って単純に交通量が少ないのかと思ったが、それよりも灯りの数が少ないのだ。駅から離れると民家が少なく林道に覆われ、道路は舗装しているものの街灯の数が少なく、懐中電灯がないと夜外出できない事を思い出す。

 哲也は母親と一緒に夕飯を食べて、くだらないテレビを見る。

 寝具の準備が終わると、母親は再び病院へ向かう。

 八畳間の客間で哲也はふとんに入ると、縁側から青白い月の光が足元を照らして、裏を流れる支川しせんの音やコオロギの鈴の音に包まれながら、藤色の着物を着た女性の事を考える。藤色の着物を着た女性は、菊乃の死の暗示なのではと考えて止めた。


                   4


 藤色の着物を着た女性の歔欷の声が辺りに満ちて、あぁ、また夢の中だと身体の動かない哲也は、目だけを動かして藤色の着物を着た女性を見る。

「しくしくしく……」

 相変わらず、藤色の着物を着た女性は何に悲しんでいるのか、袖で顔を隠して零れる紅涙が畳に染みを作り、哲也は腕を伸ばそうとして力が入らない。

「しくしくしく……」

 藤色の着物を着た女性は、ただ泣くだけで姿を消す。

 哲也の目が覚めると、まだ朝の七時前だった。

 ゆっくりと縁側のドアを開けて庭先を見ると、菊乃が言うように朝露に濡れた紫苑はきれいな紫色の花を咲かす事はなく、ふと、哲也は子供の頃を思い出す。庭先でふざけて遊んでいた哲也は、いつもは優しい菊乃に「ここで遊んだらあかん」と怒鳴られて、わんわん泣いた遠い記憶。

「あれ、どうして泣いて……」

 藤色の着物を着た女性のもらい泣きだろうか、縁側に立つ哲也は抑えきれない感情に涙が零れて、パジャマの袖で拭う。

 家は静かで、母親は泊りがけで菊乃の看病をしているのだろう、哲也は台所で昨日母親が準備した朝食の小鉢を冷蔵庫から取り出し、お味噌汁とごはんを温める。

 朝食を終えた哲也は、そのまま病院へと向かう。



 病院に着くと、哲也は菊乃の個室へと向かう。

 ちょうど診察が終わったばかりなのか、白衣を着た医師に続いて看護師が個室から出て行き、入れ替わりに哲也は個室の中へと入る。

「ばあちゃん、来たよ」

「あら、哲也ちゃん。今日も来てくれたんけ?」

「あんた、ここまで歩いて来たんけ?」

「あぁ」と、哲也は返事をする。

「お昼過ぎにお母さん帰るのに、ちゃんと戸締りしたんけ?」

「した」

「ほんならええけど。おばあちゃん、哲也も来たしちょっと帰ってくるわ。洗濯物も溜まってるし、おばあちゃんのパジャマもきれいに洗わんと」

「ほうけぇ」

「テレビ見ていいけど、あんたもおばあちゃんと喋りなさいよ。何もせんかったらおばあちゃん眠って、また夜眠れんようなるから」と、母親は荷物を抱えて個室から出て行く。

「哲也ちゃん、毎日ここに来て勉強は大丈夫なんけ?」

「ちゃんとしてるよ」

「何事も怠けたらあかんえ」

「うん。それより、庭の花、今日も咲いてなかった」

「ほうけぇ……大事な花やのにねぇ」

「大事な?」

「あれは、一範さんが―――哲也ちゃんのおじいちゃんが始めてくれたプレゼントなんよ」

「じいちゃんが……」

「私も一範さんも、いまの哲也ちゃんよりずっと若い時に戦争があってね、一範さんも召集兵として満州に行く事が決まってね」

「うん……」

「四辻町の駅で別れるときに、紫苑の鉢植えをくれたんよ。季節はまだ夏前で、まだ花も咲いてなくて、あの人は不器用やったから何も言わずに行ってしもうてね」と、菊乃は哲也の顔を見上げながら物思いに耽る。

「私もあの人の帰りを待ちながら鉢植えに毎日お水を上げてね、そしたら秋になって紫の花を咲いたんじょ。とってもきれいで小さな花でね、それでもあの人は戻って来んかった。今頃は、お空の上におるんやろかね」

「じいちゃんが帰ってきたら、ばあちゃんはどうする?」

「ほやね。お勤めご苦労様でしたって、言ってあげたいね」

「だったら、ばあちゃんも熱中症治さんと」

「大丈夫よ。哲也ちゃんの顔見て元気になったけん」

「それなら、いいんだ」と、哲也は微笑む。



 四辻町で大型連休を過ごした哲也は、河北市に戻って大学の講義を受けて進学する単位を調整しながら、余った時間はバイトに励み九月も終わろうとしていた。

 相変わらず、喫茶『千夜一夜』の客足は変わらず、逆に増えると法人税や確定申告が大変になるからと総一郎が笑っていた事を哲也は思い出す。

「白石くん、ちょっといいかい?」

「どうしました店長?」

「そろそろ珈琲の淹れ方を教えようと思ってね」

「え?」

「嫌かい?」

「あ、いえ、てっきり珈琲とカレーは店長のこだわりだと思っていたので」

「そうでもないよ。これしか取り柄がないんだ。それに、十月になるとハロウィンがあるでしょ? そこで何か新作を出したいと思ってね」

「新作ですか?」

「そう。ここだと、若い子が来ないから、公安委員会―――つまりは警察署だね。警察の許可を得て、河北広場で出店を開くんだけど、白石くんは河北広場に行ったことはないかい?」

「あまり、騒がしいのは苦手なので」

「じゃなかったら、こんなとこでバイトをしていないか」

「あ、いや……」

「いいよ、いいよ」と、総一郎は笑いながら、カウンターに珈琲機材を揃える。「ボクはいつもペーパードリップでコーヒーを淹れているんだ」

「ペーパードリップ?」

「もっとも基本的なコーヒーの淹れ方だね。先ずはミルで珈琲豆を挽いてみようか。ボク個人としては粗挽あらびきが好きなんだけど、ペーパードリップだと中細挽ちゅうぼそびきが適しているね」と、総一郎はミルの中に珈琲豆を入れていく。

「豆の分量は一杯だと十グラムぐらい、二杯だと二十グラム前後がちょうどいい」

「そうなんですね」

「ハンドルを握ってごらん」

「けっこう固いですね」

「すこし強く、がっと挽いてごらん」

「こんな感じですか?」

「うん。慣れるまではゆっくりでいいよ」

「はい」と、哲也は総一郎の助言を受け止めて、コーヒーミルのハンドルを回していくと、楕円形だった珈琲豆が見る見るうちに粉々になり、珈琲豆の香ばしい匂いが哲也の鼻孔を燻る。

「いい匂いでしょ?」

「はい」

「次はドリッパーに珈琲粉を入れるんだけど、その前にすこし粉を触ってみようか。ざらつきがあるでしょ? よく、グラニュー糖と同じぐらいの粒だと言われているね」と、総一郎はドリッパーの中にペーパーフィルターをセットしながら、哲也が砕いた珈琲粉を中に入れて、とんとんと軽くドリッパーを叩く。「ポットのお湯は九十度だから火傷しないように気を付けて」

「わかりました」

「フィルターの内から外にかけて円を描くように。そうそう。それで、珈琲粉が膨らんできたら、すこし時間を置こうか。風船みたいに珈琲粉が萎んだら同じようにこれを繰り返す。そうすると、ドリッパーを通してサーバーにコーヒーが落ちてくるでしょ?」と、総一郎はにっこりと微笑む。

 円を描くようにポットからお湯を注ぎながら、ぽたぽたとサーバーに落ちていくコーヒーを哲也も見ながら、病院の個室でぽたぽたと落ちて菊乃の中に流れる点滴に重ねて、哲也は無自覚に「店長は戦争を経験したことはありますか?」と聞いた。

「んん? どうしたの?」

「あ、いえ……すみません、忘れて下さい」

「そうだね、ボクは終戦後に生まれたんだけど、それは酷い時代に生まれたなと思うよ。当時は何もかもが足りなかった。食べ物も、男手も、生きる希望も」

「………………」

「それでも生きなければいけなかった。配給で水団すいとんや乾パンを食べて、麦やあわに数粒の米を混ぜた雑炊を食べて、サツマイモを畑から盗んで青タンができるぐらい殴られたりしたね。病気や飢餓で人は簡単に死んで、ボクは早く大人になりたかった。大人になって、家族を養ってあげたかった」

「辛かったですか?」

「辛かったさ。でも、いまは、こうして笑い話ができる。六十過ぎて自分のお店を持って、自分の好きな珈琲を飲んだお客さんがおいしかったよ、また来るよ、って言ってくれる。それは何よりの幸せなんだよ。それに、辛い時代を生きてきたから、いま、こうして、自分の孫と同じぐらいの男の子と一緒に珈琲を淹れることができる」と、総一郎はサーバーを手に持って、カップに珈琲を二人分注いでいく。

「飲んでごらん」

 湯気が立ち昇るコーヒーを哲也が一口飲むと、芳醇な薫りが口の中に広がり、それは総一郎がいつも淹れているコーヒーと同じ味がした。

「おいしいです」と、哲也が呟くと、総一郎はにっこりと目元に皺を寄せながら微笑んだ。


                  5


 十月に入って少し肌寒くなった頃に、哲也が大学で講義を受けていると母親からLINEメッセージで菊乃の手術が成功したと報告に、哲也はそっと胸をなでおろしてお見舞いに行く事を決める。フラワーショップSAKURAでお見舞い用のフラワーアレンジメントを買って、哲也は菊乃の手術の事をハナに伝えると、まるで自分の事のように喜んだ。

 哲也は四辻町の有人改札口で駅員に切符を渡して駅から出ると、目の前の横断歩道を渡って四辻町総合病院に向かうはずだったが、まるで何かに誘われているかのように踵を返すと、目の前に古びた商店街の入口がある。

 哲也は悪寒で身震いした。

「なんで……」

 商店街は四辻町総合病院とは反対側にある。

 それなのに、哲也は何者かに招かれるかのように商店街の中に足を踏み入れ、黄銅十二星座をかたどったタイルの上を歩いて、牡羊座、牡牛座、双子座、そして蟹座の裏通りにあるシャッター通りの、潮風が吹き抜ける中央に小さな灯りが一つ、ぽつりと二階建ての平屋から洩れているそこは、切り株看板に大きく朱雀庵とある。

「ここが、朱雀庵……」

 恐る恐る哲也は玄関を開けて中に入ると、古物商を営んでいるのか所狭しと壺や縦軸、それに大皿が飾られている。辺りを見回しても店員の姿は見当たらず、奥の廊下からぽつりと灯りが零れているのに哲也は気付いて、まるで吸い寄せられるかのように哲也の意思と反して、カウンター裏の住居へと足を踏み入れた。

 哲也が廊下を歩くと真黒な空間へたどり着く。天井から吊るした幾つもの行灯が仄かにゆらぎ、散りばめられた橙の小さな炎が夜空に輝く星を連想させる。

 真黒な空間の中央に少女が二人。

 一人は白い着物姿におかっぱ頭の女の子。

 一人は黒いゴスロリドレスに身を包んだ金髪の女の子。

 二人の少女は対照的な姿をして橙の炎に溶け込みながら、そのガラス細工のように無機質な瞳で哲也を捉える。

「お待ちしておりました」

「白石哲也様」

「キミは……どうして、ボクの名前を」

「私は魂緒たまおと申します」

「私はアセルスと申します」

 哲也の質問を遮って、二人の少女は無表情のままお辞儀をする。

「あなたは選ばれたのです」

「この朱雀庵に」

「ボクが、選ばれた……そっか、てっきり都市伝説かと思っていた」

「朱雀庵は」

「確かに存在します」

「それだと、キミ達が都市伝説の神様?」

「私は魂緒と申します」

「私はアセルスと申します」

 もう一度、二人の少女は名前を名乗り、この問答は同じ事の繰り返しになると哲也は、二人の少女に別の質問をする。

「それで、ボクが朱雀庵に選ばれたってどういう意味?」

「―――言葉通りでございます」すぅ、と魂緒が小さな手の平に息を吹きかけると、七色をした蝶々が幾重にも羽ばたく。蝶々は螺旋を描きながら、その羽に哲也を映し出す。


 ―――否、哲也の過去を映し出す。


 幼少の頃の記憶。菊乃に愛してもらった記憶。大学に進学した頃の記憶。隆太を介してハナと知り合った記憶。そして、菊乃が大腸癌を患い入院した記憶。

「私達はずっと哲也様を見てきました」

「この町が嫌いで、市内の大学に進学した時も」

「菊乃のお見舞いと称して、この町に戻ってきた時も」

「私たちは―――」と、魂緒は息を吸い込み「ずっと、見てきたのです」

「さぁ、あなたの願いは何?」

「ボクの願い……お金持ちになるとか?」

「それが、本当の願い?」

 哲也は金髪の少女アセルスと目が合い、そのガラス細工の瞳は無機質にもかかわらず、まるで哲也の在り方、いや心の中を見透かしているかのように踏み込んで、その小さな手の平で心臓を撫でられているみたいに不快感を覚えながらも、哲也はこの朱雀庵に招かれた理由を、なんとなく理解する。

「ボク……いや、俺はさ、何の目的もないんだ。将来何になりたいのかもわからないから大学に進学した。大学に進学したら何かしらの未来が視えてくるんじゃないかと思ったけど、そうでもなかった。だから隆太と知り合った。隆太はさ、俺と真逆の性格で、いつも俺をトラブルに巻き込んで、正直うざい時もあるけど、同じぐらい助けて貰った事もあるんだ。店長は温厚でいつも優しく俺を迎え入れてくれて、あの珈琲の匂いに満たされた空間が好きで……」

哲也は自分でも何を言っているのかわからず苦笑いを二人の少女に見せて「たとえ神様でも、人の命を救ったり、寿命を延ばしたりはできないんだろ?」

「はい」と、魂緒は答える。

「生とは平等に与えられたもの」

「死とは平等に与えられたもの」

「人間も動物も、虫や蝶にも、平等に与えられたもの」

「だったらさ、せめて、夢の中でいいからさ、ばあちゃんにじいちゃんを逢わせてやってくれないかな」

「それが、あなたの本当の願い」

「あぁ」と、哲也は答える。

「これは照魔鏡と言う真実を映し出す鏡です」

 金色の淵に覆われた鏡を魂緒が両手に持つ。

 鏡が哲也を捉えた瞬間、哲也の意識は遠のく。

「さぁ、真実を―――」

「改変するのです」



「……う、ここは」と、額に触れながら哲也は辺りを見渡して、どうやら朱雀庵の外にいる事だけは確かのようで、さっきまで張り詰めていた空気は跡形もなく、馴染みのある潮風が吹き抜けるが、何かがおかしい。

 商店街も見当たらず、土手が広がるも地面は舗装されていない。

 哲也は潮風の匂いを頼りに海岸を目指すと、そこは確かに見覚えのある海岸ではあるが、やはりどこか曖昧模糊とした記憶の中を彷徨っているみたいで、堤防を打つ波の音、沖で停泊している漁船も、何かが違う。

 まるで、誰かの夢の中に入り込んだみたいに。

「これが、神様の能力……」

 波の音に紛れて、どこかで蝉の鳴き声が聞こえる。

「そう言えば、ばあちゃんがじいちゃんと別れたのも確か夏だっけ」

 哲也は曖昧模糊とした記憶を辿りながら、海沿いの道を歩いて四辻町駅まで向かうとそこには、和服に割烹着姿の女性に軍服を着た男性が敬礼している。

「本当にアメリカと戦争になるんやろか」

「わかりません。ただ、山本先生はアメリカとの戦争を回避しようとしています」

「これからの日本は大丈夫なんやろかね」

「わかりません。ほやけん、ボクは満州に行きます。関東軍が満州国を建設して日本と中国が対立しています。中国の後ろには欧州各国やアメリカがいます。彼等がもし日本との貿易を避けようものならば、遠からず日本は戦争になることでしょう」

「ほんと、どうなるんやろかね……」

「ここだけの話、山本先生が言うには、日本は超弩級戦艦を建造しようと考えています。けれど、山本先生はいまの時代、艦載機を収納する航空母艦を押しています。もう大きすぎる戦艦は負の遺産でしかないのです」

「一範さんの話は難しいなぁ」

「これは失敬……」と、軍服を着た男性は再び敬礼する。

「それで菊乃さん」

「どうしたんね?」

「中国との戦争が終わって、また戻ってきた時に、その……」

「一範さん?」

「この鉢植えは昨日買ったもので、土の中に紫苑って言う、とてもきれいな花を咲かせる花の種があります。今度帰って来るまでに、花を咲かせて貰いませんか?」

「それは構いませんけど」と、女性は鉢植えを受け取る。

「それはよかった」

「無事に帰って来て下さいね」

「わかっています、必ず……」

 そのまま、軍服を着た男性は和服の女性に敬礼して、別れを惜しみながらも三両編成の汽車に乗り、やがて汽笛を鳴らして出発する。


                  6


「どうでしたか?」

「これが、あなたの望んだ記憶の改変です」

 朱雀庵で意識を失った哲也が目覚めると、二人の少女―――魂緒とアセルスが無表情のまま哲也を見下ろしている。

「……これは、ばあちゃんの夢の記憶」

「はい」

「これは、白石菊乃の夢の記憶」

「そっか……やっぱ、じいちゃんは戦争で死んだのか?」

「それに答えることはできません」

「……ばあちゃん、夢の中でじいちゃんに逢えたかな」

「それは、あなた次第でございます」

「お帰りはあちらです」

「さようなら、白石哲也様」

哲也の目の前で、二人の少女が歪に嗤った気がした。

 すると、さっきまで行灯の橙の光が散りばめられた黒い空間ではなく、哲也は商店街のシャッター通りで立ち尽くしていた。

 朱雀庵はどこにもない。

「……こんどは、夢の中じゃないよな」

 哲也が辺りを見渡すと、馴染みのある潮風が商店街の中を吹き抜けて、いまはもう存在しない朱雀庵を見つめながら、まるで狸に化かされたのではないかと思いながら首を振る。

「ありがとう、小さな神様たち」

 哲也は商店街を抜けて、四辻町総合病院へと向かう。

 エレベーターで五階まで上り、菊乃が入院している個室の中に入ると、窓の外の夕闇を菊乃は見つめている。

「ばあちゃん?」

「さっきね、一範さんの夢を見たんじょ」

「うん」

「懐かしい夢やったわ」

「うん」

「ほんと、若い頃の一範さんと、哲也ちゃんがそっくりでね」

「そうかな」

「そうよ」と、菊乃は物思いに耽る。

「ばあちゃん、手術成功したんだって?」

「みんな、熱中症やのに大げさなんじょ」

「うん。きっと、じいちゃんも心配してたんだよ」

「一範さんが?」

「ばあちゃんのこと心配して、夢に出てきたんじゃない?」

「ほうかもしれんね」と、菊乃は優しく微笑む。



 その後、母親に連れられて哲也は菊乃の家に泊まり、いつもの夢を見た。

 夢の中で、藤色の着物を着た女性が哲也に向かって首を垂れて消える。

 哲也が目覚めると、庭先で紫苑の花が咲き乱れていた。

 紫の小さな花びらは、どこか藤色の着物を着た女性を思わせる。

 不意に、スマホが鳴り響いた。

 母親からの着信だった。

『よく聞いて哲也……おばあちゃんが亡くなったんじょ』

『……うん』

 母親の泣き声の混じった甲高い声が朝の静寂を破り、その後、母親が落ち着くまで哲也は電話の相手をして、庭先の紫苑の花を眺めていた。

「もしかしたら、ばあちゃんが死ぬのわかってたのか」縁側のドアを開けて、哲也は庭先にでる。「お前達も悲しいよな。ごめんな、気付いてあげられなくて」

 哲也は感情を抑えきれずに大粒の涙を流した。

 菊乃の葬式は簡単に執り行われた。

 難しい話は大人に任せて、哲也は母親に相談して紫苑の花を一株貰って河北市へと戻り、アパートに戻ろうとした哲也は、ふと、フラワーショップSAKURAに立ち寄ると、休日に家の手伝いをしているのだろう、ハナの姿を見かけた。

「こんにちは哲也君」

「こんにちは、ハナちゃん」

「おばあちゃんのことは大変でしたね」

「うん……」と、哲也は口を噤みながら「今日はハナちゃんに見せたい花があるんだけど」

「きれいな紫苑ですね。もしかして、哲也君が言っていた紫のお花って」

「あぁ、この紫苑のことだよ」

「やさしい色をしています。とても大切に育てられたのがわかります」

「俺もそう思う。それで、その……よかったら花の育て方を教えてくれないか?」

「もちろんです」と、ハナはにっこりと微笑む。「そう言えば、哲也君は紫苑の花ことばを知っていますか?」

「え? あ、いや、知らない」

「それはですね」と、ハナはにっこりと微笑みながら呟いたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る